唐史演義第六十一回 秘謀を定め元舅凶を除く/主柄を窃み強藩命に抗す (定秘謀元舅除凶  竊主柄強藩抗命)

魚朝恩の専横と誅殺

宦官の魚朝恩は禁兵を掌握して権勢を振るい、意見が容れられないと不機嫌をあらわにするほど傲慢であった。養子の令徽が官職の低さに不満を言うと、朝恩は帝の許可も待たずに紫衣を勝手に取り、令徽に着せてしまう。代宗はこれを内心で忌み嫌うようになり、その意を察した元載が朝恩排除を進言、代宗は密かに事を運ぶよう命じた。元載は衛士の周皓や陝州節度使皇甫温を賄賂で味方に引き入れ、寒食の宴の後、朝恩を捕らえて絞殺させた。表向きは自縊とし、多額の葬儀費を賜って体裁を整えた。朝恩の腹心だった劉希暹・王駕鶴も一時は懐柔されたが、のちに希暹は不遜の言により自害を命じられた。

元載の専権と粛清

朝恩誅殺後、元載はますます驕り、賄賂と権謀で私腹を肥やした。吏部侍郎の楊綰は不正に与せず、元載により国子祭酒へ左遷された。代宗が重んじた李泌も、元載の妬みにより江西へ出された(代宗は密かに「元載を除いたら呼び戻す」と約束した)。元載と結んだ王縉も権勢を振るい、両者の家族・取り巻き(主書の卓英倩ら)は賄賂で富を築いた。成都司録の李少良が元載を弾劾すると、元載は台官を操って少良を杖殺させ、関係者も次々処刑した。代宗は御史大夫に李棲筠を起用し、棲筠は元載の党羽である徐浩・薛邕・杜済虚・於劭を摘発して左遷させたが、元載の妨害と代宗の優柔不断に憂憤し、まもなく病没した。

元載・王縉の失脚

独孤氏貴妃の死などもあり、代宗はしばらく手をこまねいていたが、生母の弟である吳湊を頼りに謀を定め、大暦十二年、元載・王縉が夜に祈祷して不軌を図ったとの密告を口実に、禁兵で二人を捕縛させた。取り調べの末、二人は罪を認め、内応していた董秀も杖殺された。元載は自尽を命じられ、刑官はわざと汚れた靴下を口に押し込んでから絞め殺した。妻子も皆処刑され、家産は没収、胡椒だけでも八百石という莫大な蓄財が明らかになった。王縉は劉晏の取りなしで括州刺史への左遷にとどまった。楊炎・韓洄・包佶・韓会ら元載派も連座して左遷され、卓英倩は杖殺、その弟英璘の反乱も鎮圧された。代宗はなお恨みを解かず、元載の祖墳を暴いて棺を壊し屍を捨てさせるという行き過ぎた報復も行った。

楊綰の善政と早世

楊綰は常袞と共に同平章事となったが、拝命後まもなく病に倒れ、志半ばで没した。代宗は深く悼み、生前廉潔だった楊綰の人柄を慕う声は朝野に満ち、御史中丞崔寛の豪邸破却や京兆尹黎幹の随行削減、郭子儀の宴席縮小など、清廉を範とする気風が広がった。一方、常袞は才識で楊綰に及ばず、李泌の登用を阻んで澧州刺史に追いやったが、楊綰と共に顔真卿の復官を推挙した点は評価された。

河北諸鎮の跋扈

代宗晩年、河北の安史旧将の系譜を引く諸鎮はますます勢いを増した。盧龍節度使李懐仙は部下の朱希彩に殺され、希彩もまた部下に殺され朱泚が継いだ。相衛節度使薛嵩の死後は幼い子・平に代わり叔父の薛萼が留後を称した。特に魏博節度使の田承嗣は安史父子を祀る廟を建てて「四聖」と号し、宰相の地位まで求める増長ぶりで、娘の永楽公主を承嗣の子・華に嫁がせるなど朝廷は懐柔に努めたが、承嗣は裴志清を誘って相衛を奪い、朝命に抗して洺・衛二州を陥した。李宝臣・李正己らが討伐を上表し、朱滔も加わって四方から攻めたてると、承嗣配下は次々叛き離れた。窮した承嗣は反間の計を用い、李正己には「自分はもう老いて子姪は凡庸、実質は貴殿のために守っているだけ」と説いて兵を止めさせ、また范陽に予言めいた石碑を埋めて李宝臣を范陽攻めに誘い出したうえで、直前に「あれは戯れだった」と裏切って恥をかかせた。李宝臣は憤慨しつつ兵を退き、承嗣は謝罪して赦免された。

汴宋の乱と田承嗣の死

汴宋軍都虞侯の李霊曜が田承嗣と通じて反乱を起こし、境内の官吏を私党で固めたため、代宗は李忠臣・李勉・馬燧・陳少游・李正己らに討伐を命じた。緒戦は苦戦したが、李忠臣とマ燧が態勢を立て直し、田悦(承嗣の従子)の援軍も撃退して汴州を陥落させ、李霊曜は捕らえられ処刑された。田承嗣はなお朝命に服さず討伐対象となったが、再度謝罪の表を上げると代宗は既往を問わずまたも赦し、官爵まで返した。李正己・李忠臣・李宝臣らは霊曜の旧領を分割して勢力を広げ、李宝臣は旧姓の張に復することも許された。大暦十四年正月、田承嗣は病死し、末子ではなく才の勝る田悦が留後の地位を継いだ。

李忠臣の暴虐と李希烈の台頭

霊曜討伐で名をあげた李忠臣は、以後傲慢を極め、部下の妻女を凌辱するなど乱行に走り、義弟の張惠光父子も暴虐を働いて士心を失った。族子の李希烈は戦功と小さな恩恵の積み重ねで士卒の信を得ており、牙将の丁暠・賈子華らが張惠光父子を殺す政変を起こした際、希烈は忠臣の助命だけを条件に黙認、忠臣は単騎で逃れて長安に入り、代宗はなお彼を厚遇して検校司空・同平章事とし、留後には李希烈を任じた。

代宗の崩御

代宗の時代、藩鎮の禍根は肃宗・代宗父子の姑息な追認策に発していた。馬璘・李抱玉・令狐彰・李承昭ら忠実な節度使も存在し、李勉・段秀実・李抱真・馬燧らも国事に尽くしたが、なかでも郭子儀は都統河南道節度行営として、功業と恭順を兼ね備えた唐一の名臣であった。大暦十四年五月、代宗は病篤くなり、太子・适(かつ)に監国を命じてその夜崩御した。在位十七年、改元三度。遺詔で郭子儀に冢宰の職務を摂らせ、太子适が太極殿で即位、これが徳宗である。

評語

李輔国・程元振・魚朝恩は宦官として寵を恃み横暴に振る舞ったが、それは小人の常態であり、さほど責めるにあたらない。しかし言官から宰相に上った元載までもが専権を欲しいままにしたのは、「地位は驕りを求めずとも驕りを生み、禄は奢りを求めずとも奢りを生む」の通りである。捕縛の際、元載はわずか一人の吳湊の力であっさり刑に服し、抵抗する力量すらなかった。それほど脆い相手を、代宗はなぜ長年放置し続けたのか。元載一人すら早々に除けなかった代宗に、河北の諸将を制する力などあろうはずもない。田承嗣は叛いては服し、代宗を子供扱いするかのごとく振る舞ったが、代宗は結局これを許し続けた。李宝臣・李忠臣・李正己らの跋扈もこれに乗じて生まれ、藩鎮の禍はここに根を張り、盛衰を繰り返しながら唐の滅亡へとつながっていく。本回は事実を順に述べたに過ぎないが、代宗の優柔不断な弊が紙上に躍如としている。