唐史演義第六十回 番営に入り単騎虜と盟う/帝の意に忤らう女子朝に入る (入番營單騎盟虜  忤帝女子入朝)

独孤及の上疏と青苗銭

王縉が鎮を出た後、江淮は無事だったが、僕固懐恩はなお一角に潜んでいた。代宗は年号を永泰元年と改め、裴冕・郭英乂らを集賢殿に侍らせ、貞観の遺風を気取った。左拾遺の独孤及は上疏し、形だけ諮問して意見を用いない君主の姿勢を戒め、十年に及ぶ戦乱で民が疲弊し、駐兵の将は贅沢に暮らす一方で貧民は飢えていると訴え、無用な軍を整理して民の負担を減らすよう説いた。当時、元載・第五琦らは青苗銭など苛斂誅求の税制を推し進めていたが、劉晏だけは塩鉄・漕運の運営で公私を益していた。代宗は優柔不断でこの提言を実行できなかった。

仏教への傾倒と僕固懐恩の死

代宗は仏教に深く傾倒し、百官に浮屠の像を光順門で迎えさせるなど大掛かりな儀式を行わせた。魚朝恩・元載・王縉、さらに新任の同平章事杜鴻漸までも仏教に篤く帰依していた。講経の最中に、僕固懐恩が回紇・吐蕃らを誘って再び入寇したとの急報が入る。郭子儀も奏章で、吐蕃・党項・吐谷渾・奴刺らが数道に分かれて攻め込み、回紇と懐恩の朔方兵が後詰めにつく大軍だと報告し、諸鎮に守備を固めるよう求めた。折しも懐恩が鳴沙で病死したとの報が届き、朝廷は歓喜したが、間もなく叛軍は范志誠に率いられてなお進撃を続け、吐蕃は奉天に迫った。代宗は各節度使に配置を命じ、自ら親征の体裁を取った。魚朝恩はこの混乱に乗じて民間の馬を徴発し、市中を戒厳状態に置いた。

郭子儀、単騎で回紇を説く

参内した百官の前で魚朝恩が禁軍を率いて脅すように遷都を示唆したが、劉給事に反駁されて退いた。奉天では朔方の渾瑊が虜営を襲って勝利し、長雨もあって吐蕃はいったん略奪の末に退いた。しかし吐蕃は邠州で回紇と合流し、再び涇陽を包囲する。郭子儀は籠城して守りを固めた末、牙将の李光瓚を回紇陣営に遣わし、盟約違反を責めつつ和睦を持ちかけた。回紇の都督・薬葛羅は子儀本人の来訪を求め、子儀は少数の供のみを連れて単身回紇の陣へ赴いた。子儀は薬葛羅に、懐恩の甘言に惑わされたことを説き、唐と回紇の旧誼を思い出させて共に吐蕃を討つよう説得した。薬葛羅は感服して和睦に応じ、両者は酒を酌み交わして誓約を交わし、回紇軍は吐蕃討伐に転じることとなった。

吐蕃の敗走と辺境の安定

薬葛羅は使者を代宗のもとへ送るとともに、奉天守将の白元光と合流して吐蕃を追撃し、靈台西原で大勝、多数の捕虜と財物を奪還した。吐谷渾・党項・奴刺らも退散し、懐恩の甥は靈州を挙げて降伏した。子儀は路嗣恭を朔方節度使留後に推挙し、辺境の統治は落ち着きを取り戻した。だが京師では魚朝恩・元載が内で権勢を振るい、河北の李宝臣・田承嗣・薛嵩・李懐仙らの節度使は外で命に従わなかった。平盧の李懐玉は節度使李希逸を追放して自ら留後となり正己と改名、また崔旰は劍南節度使厳武の死後、後継の王崇俊を退けて西川節度使の郭英乂を撃退・敗死させたが、代宗は討伐せず、逆に杜鴻漸の口添えで崔旰を西川節度使に任じてしまった。元載は宰相として権勢を強め、百官の上奏を先に宰相へ通すよう求め、これに反対した顔真卿を峡州別駕へ左遷した。魚朝恩は国子監で講経までして時の宰相たちを暗に嘲笑し、王縉は怒りを見せたが元載は平然としていた。

周智光の専横と誅殺

永泰二年、代宗の誕生日に諸道節度使が多額の金帛を献上したが、常袞の諫言も聞き入れられず、まもなく年号は大暦元年と改められた。折しも同華節度使の周智光が無辜の人々を殺すなど専横を極めているとの郭子儀の奏があったが、代宗はかえって周智光を尚書左僕射に任じてしまう。周智光は党項・奴刺の賊を破った勢いで私怨により鄜州刺史張麟を殺し、杜冕の一族を皆殺しにして民家三千戸を焼き、さらに陝州刺史皇甫温の監軍張志斌を惨殺して食らうなど暴虐を極めた。代宗はなお懐柔しようとしたが、周智光は詔を侮り、天子を挟んで諸侯に号令する野心を露わにした。大暦二年、代宗はついに郭子儀に密詔して討伐させ、周智光配下は動揺、同州守将の李漢惠は降伏した。周智光は澧州刺史へ左遷されたのち、部下の姚懷・李延俊に討たれ、首は皇城南街に晒された。

昇平公主と郭曖の諍い

同華平定後、入朝した郭子儀のもとに、息子の郭曖と嫁の昇平公主が不和になり、公主が実家に駆け込む事件が起きた。郭曖は太常主簿として代宗の四女・昇平公主を娶っていたが、公主が身分をかさに驕るのに耐えかね、「お前の父が天子だからといって、私の父はなろうと思えばなれるが、あえてならぬだけだ」と言い放ち、手を上げかけた。公主は泣いて宮中に訴えたが、代宗は「彼が本当に天子になりたければ天下はもうお前の家のものではないぞ」と娘を諭した。郭子儀は息子を囚車に乗せて自ら参内し謝罪したが、代宗は「聾でも痴でもないふりをせねば舅姑は務まらぬ」と笑って許し、夫婦を仲直りさせた。郭子儀は帰邸後、家法として郭曖に杖罰を加えた。この一件を機に、代宗は公主が舅姑に対して行う礼を見直そうとしたが実現せず、徳宗の代になってようやく礼制が改められた。

魚朝恩の失脚への布石

再び入朝した郭子儀を、魚朝恩は自らが改築した章敬寺(もと自邸を吳太后の冥福を祈るための寺とした豪奢な建物)に招いた。高郢の諫言にも代宗は耳を貸さず、寺は完成し、胡僧の不空を重用した。不空は朝恩にへつらい、朝恩はますます驕った。元載は朝恩と結びついていたが、からかわれることが増えて次第に不仲となり、朝恩が子儀を寺に招いた際、密かに人をやって「朝恩がお前に害を加えようとしている」と告げさせた。子儀はこれを意に介さず、従者をほとんど連れずに単身赴いたところ、朝恩はかえって感激して涙し、以後子儀への嫉視をやめた。元載は策が外れたため、次に「馬璘では吐蕃を防ぎきれない」と称して子儀を邠州へ転出させることを進言、代宗はこれを許した。子儀は異論なく赴任した。

評語

郭令公(郭子儀)の生涯は「忠恕」の二字に尽きる。忠恕であればこそ単騎で虜陣に赴いても害されず、杯酒の約で軍を収めることができた。忠恕であればこそ周智光討伐の詔が下るや叛軍はたちまち帰順した。忠恕であればこそ息子と公主の不和も罪に問われず、かえって君主に慰められた。忠恕であればこそ魚朝恩・元載のような奸佞の間にあっても害されなかった。世人はこれを単に「福が厚い」というが、その福はまさに徳と共に備わったものであり、魚朝恩・元載・周智光の輩などは令公の足元にも及ばない。