唐史演義第五十四回 三軍を統べ広平王績を奏す/両京を復し李泌辞して帰る (統三軍廣平奏績  復兩京李泌辭歸)

建寧王の非業の死

張良娣は自らの子・佋(興王)を将来の太子にと画策し、宦官李輔国と結んで広平王・建寧王の排斥を図った。建寧王李倓は李泌に張良娣の排除を訴えたが諫められ、代わりに肅宗へ皇太子早期擁立を進言する。だが良娣と輔国の讒言により、肅宗は建寧王が広平王を害そうとしていると誤信し、激怒して建寧王に死を賜った。李泌はこれを知り悔やんだが間に合わなかった。

太原・睢陽の防衛戦

安禄山死後もなお賊軍は勢いを緩めず、史思明らが太原に侵攻したが李光弼が計略でこれを撃退。睢陽では張巡・許遠が寡兵で尹子奇の大軍を退け、防衛に成功した。

永王の乱の終息と鳳翔への進駐

永王李璘の反乱は李成式らの調略で瓦解し、璘は捕らえられ処刑された。江淮からの物資輸送路も回復し、肅宗は鳳翔に進駐して西京奪回の準備を進めた。

香積寺の戦いと長安奪回

李泌は北伐(范陽攻略)を先にすべきと説いたが、肅宗は上皇を早く迎えたい一心で西京奪回を優先させた。郭子儀は広平王の親征と回紇援軍の要請という二条件で出陣を承知し、回紇の葉護太子とも同盟。香積寺の戦いで李嗣業の奮戦もあり賊軍を大破し、長安を奪回した。

洛陽奪回と回紇の略奪

広平王は回紇との「土地は唐、財貨は回紇」の約束を洛陽まで先延ばしにして長安の民心をつなぎとめた。その後、新店の戦いで郭子儀・回紇連合軍が安慶緒の援軍を撃破し、洛陽も陥落。安慶緒は河北へ敗走した。だが洛陽入城後、回紇兵は激しい略奪を行い、郭子儀が羅錦を集めて贖うことでようやく収まった。

李泌の辞去

両京回復後、肅宗は上皇(玄宗)の東帰を願う上表を送ったが、性急な表現がかえって上皇の疑念を招きかねないと李泌が見抜き、群臣連署の情理を尽くした上表に書き改めさせた。李泌はその後、自らの功名が高すぎることを理由に五つの「留まれぬ理由」を挙げて辞任を願い出、建寧王の冤罪についても肅宗に反省を促した上で、衡山への隠棲を許された。

評語

本回は広平王の東征と李泌の帰隠を軸に構成されている。両京回復は広平王の武功によるところが大きいが、その裏で李泌が上皇の帰還や広平王の身の安全を陰から支え続けたことが、唐室中興の要であったとする。郭子儀の武と李泌の文、両者が支えて肅宗の中興が成ったと結ぶ。