唐李問對卷上

  • 要旨: 太宗と李靖の問答形式で、奇兵・正兵の本質は固定的な区分ではなく状況に応じて相互に転化するものであることを軸に、古の陣法・兵制の由来、教閲(訓練)の重要性、蕃漢混成軍の統御法などを論じる。

高句麗討伐と「正兵」による遠征

  • 太宗が高句麗(蓋蘇文)討伐の方策を問うと、李靖は三万の兵による討伐を提案し、太宗が兵の寡少と距離の遠さを懸念すると、李靖は「正兵」を用いると答える。
  • かつて突厥討伐では奇兵を用いたのに、なぜ今回は正兵かと問われ、李靖は諸葛亮の七度の孟獲捕縛や、晋の馬隆の涼州遠征(八陣図・偏箱車・鹿角車営を用いた計略)を例に、遠征には正兵こそ要となると説く。

霍邑の戦いにみる奇正の実例

  • 太宗が自らの霍邑での戦い(右軍が一時後退したところを鉄騎で横撃し宋老生を捕らえた戦い)が正兵か奇兵かを問う。
  • 李靖は、義兵として挙兵したのが「正」、建成の落馬で右軍が退いたのが図らずも「奇」として働いたと分析する。前進を正、後退を奇とする定義を示し、宋老生が兵法を知らず勇に任せて追撃し、退路を断たれて捕らえられたことを、敵の「正」を誘い出して自らの「奇」に転じさせた例とする。
  • さらに、隊列が乱れずに退くのは真の敗走ではなく奇の一種であり、隊列が乱れて退くのが真の敗北であると区別する。奇正は天ではなく人の運用次第であり、それを神妙に変化させる点にこそ天に通じるものがあると結論づける。

奇正はあらかじめ分けるものか、その場で定めるものか

  • 太宗が奇正はあらかじめ決めておくものかその場で決めるものかを問う。李靖は曹操『新書』の兵力比による奇正の割り振りは大まかな目安に過ぎないとし、孫武の言う「奇正の変化は窮まりなく循環する」という考えこそが本質だと述べる。
  • 訓練が未熟な段階では旗鼓によって隊を分合させる教習法として奇正を分けるが、訓練が完成すれば衆を羊の群れのように将の意のままに動かせるようになり、もはや奇正の区別を意識しない境地に至るとする。これが孫武の言う「形人而我無形(敵に形を悟らせず、我は無形を保つ)」の極致であるとする。

曹操の「奇兵旁撃」説への批判

  • 太宗が曹操の「奇兵は側面から撃つ」という説を問うと、李靖は曹操の孫子注(先に出て合戦するのが正、後に出るのが奇)とも異なる独自の見解として、「大衆が合するのが正、将が自ら出るのが奇」であり、先後や側面かどうかにこだわるべきではないとする。
  • 太宗はこれを受け、自軍の正を敵に奇と見せ、奇を正と見せることこそ「形人」であり、奇正を入れ替えて変幻自在にすることこそ「無形」であると自らまとめ、李靖はその聖慮に感服する。

分合の変化と歴代の名将

  • 太宗が分合の変化における奇正の所在を問うと、李靖は真に用兵に長けた者は正も奇もなく敵に測らせない境地に至り、その分合の妙は孫武にしか到達し得ず、呉起以下は及ばないとする。呉起の戦術(弱兵をあえて先鋒に出し、敗走を装って敵の出方を見る)を紹介し、これは孫武の言う「正をもって合わせる」戦い方とは異なる小手先の術に過ぎないと評する。

謝玄・苻堅の淝水の戦いの評価

  • 太宗の舅・韓擒虎が李靖を孫呉を語れる人物と評したことに触れつつ、李靖は韓擒虎も奇正の相変の理を極めてはいなかったと述べる。
  • 謝玄が苻堅を破ったのは謝玄が優れていたからではなく、苻堅が兵法を知らなかったためだと分析する。『苻堅載記』を引き、秦軍が総崩れの中で慕容垂の軍だけが無傷だったことから、苻堅が慕容垂に陥れられたと見て、「無術」の典型例だとする。太宗は『孫子』の「算多きは勝つ」を引いて同意する。

黄帝兵法『握奇文(握機文)』の由来

  • 太宗が『握奇文』(『握機文』とも)の由来を問う。李靖は「奇」と「機」は音が通じるための異表記であり、本来は「四正四奇、余った奇が握機」という意味だと説明する。
  • 正兵は君主から授かるもの、奇兵は将が自ら生み出すものと位置づけ、正のみで奇のない将は守将、奇のみで正のない将は闘将、両方を備えてこそ国の柱石となるとする。

八陣図(丘井の法)の由来と黄帝・太公・管仲への継承

  • 太宗が陣数が九つで中心を大将が握る配置(八方に四頭八尾で対応する陣)について問うと、李靖は諸葛亮の八陣(石を並べた図)がこの図に基づくとし、自らも教習でまずこの陣を教えると答える。
  • 「天地風雲龍虎鳥蛇」という八陣の名称は後世の誤伝であり、本来は旗号・幡名・隊伍の区別に過ぎないと説く。
  • 黄帝が始めた丘井の法(井字形に八家を配し、中央を大将が占める制度)が陣法の起源であるとし、周の太公望がこれを整備し、岐都で兵制を立て、牧野の戦いで四万五千の兵をもって紂の七十万を破ったことを述べる。周の『司馬法』も太公に由来し、太公没後は斉に伝わり、桓公・管仲がこれを「節制の師」として復興したとする。

『司馬法』の由来と兵家四種三門

  • 太宗が『司馬法』は司馬穰苴の著作かと問うと、李靖は斉の景公に仕えた穰苴の功績にちなみ、後に威王の代に古の司馬法と穰苴の学とをまとめて数十篇の『司馬穰苴書』が編まれたと説明する。兵家は権謀・形勢・陰陽・技巧の四種に分かれるが、いずれも司馬法に由来するとする。
  • 漢の張良・韓信が整理した百八十二家の兵法を三十五家に絞ったが、それも今は伝わっていないとし、李靖は張良は太公の『六韜』『三略』を、韓信は穰苴・孫武を学んだとする。太公の著作は「謀」「言」「兵」の三門に分かれ、四種は漢の任宏の分類によるものだと説明する。

蒐狩(狩猟による軍事訓練)の意義

  • 『司馬法』が冒頭で蒐狩を語る理由を問われ、李靖は農閑期に時節に従って行う狩猟が、天子・諸侯の重要な政(周の岐陽の蒐、康王の酆宮の朝、穆王の塗山の会、斉桓公の昭陵の師、晋文公の践土の盟など)として武備を忘れぬための実践であったと説明する。

楚の二広の制と車の編成

  • 『春秋』にある楚の二広の制度について問われ、李靖は左氏の記述を引きつつ、楚では一乗百五十人と周制よりやや多いが、山沢の国で車が少なく人が多いため三隊に分けた結果、実質は周制と同じになると解説する。

荀吳の毀車為行と車・徒・騎の編成の変遷

  • 荀吳が戦車を捨てて歩兵の隊列に改めたことが正兵か奇兵かを問われ、李靖はこれも従来の車法の応用に過ぎないと答え、曹操『新書』にある攻車・守車の人員配置、漢魏の車制、そして現在の跳盪(騎兵)・戦鋒隊(歩騎混成)・駐隊(車騎混成)という制度を紹介し、自らの西域遠征でもこの制度を変えなかったと述べる。

蕃漢混成軍の統御策

  • 太宗が薛延陀討伐後の蕃漢雑居地域の統治法を問うと、李靖は漢の戍兵と蕃族の部隊とをそれぞれ別の訓練体系で統御し、敵襲時には秘かに号令と服装を入れ替えて奇襲するという「多方以誤之」(多様な手段で敵を欺く)の術を提案する。太宗はこれを深く賛同し、辺境の将に密かに教えるよう命じる。

「有制の兵」の重要性

  • 太宗が諸葛亮の「統制のある兵は無能な将でも敗れない、統制のない兵は有能な将でも勝てない」という言葉に疑問を呈すると、李靖は『孫子』の「教令が不明瞭で吏卒の職掌が定まらないのを乱と呼ぶ」を引き、自軍の乱れによる敗北は敵の勝利によるものではないと説明し、教閲(訓練)の徹底こそが要諦であると強調する。

蕃漢の長所を活かした戦術

  • 蕃兵の騎馬突撃は奇兵か、漢兵の強弩による支援は正兵かと問われ、李靖は各々の長所を生かすのは自然なことだが、それ自体が奇正の区別ではないとし、号令・服装を入れ替える工夫こそが奇正相生の術であると答える。太宗は『孫子』の「形兵の極みは無形に至る」を引いて理解を示す。

蕃族出身の将の評価

  • 太宗が契丹・奚を統べる薛萬徹の起用を問うと、李靖は薛萬徹より阿史那社尒・執失思力・契苾何力の方が蕃情に通じ兵法にも長けており、薛萬徹は勇に優れるが謀に欠けると評する。太宗は「夷をもって夷を攻める」という古人の言葉を引いて同意する。