帝王略論卷二 惠帝

生涯

  • 恵帝は名を盈といい、呂太后の子である。即位七年で崩じた。
  • 呂太后が立ち、後宮の子を恵帝の子として立てたが、実は呂氏の子であった。また呂台・呂産・呂禄をいずれも王に立てた。そこで朱虚侯劉章と大臣たちが共に諸呂を誅し、少帝が立てられるに至った。
  • また恵帝の初め、高帝は戚夫人を寵愛し、趙王如意を生ませてこれを愛し、太子に代えようとした。呂后は深くこれを怨んだ。
  • 高帝は自分の没後、如意の身が全うされないことを憂えたが、恵帝が立つと、呂后は戚夫人の手足を切り、目をえぐり取って「人彘」と名付け、趙王如意を殺した。

史論

公子は「漢高祖は乱を治めて世を正し、一代の英主と言えるが、完全無欠と呼べるだろうか」と問うた。先生は次のように答えた。漢高祖は卑賎の身から起こり三尺の剣を提げて天下を取った、実に英雄の度量を備えた人物である。班固の『王命論』には、漢高の興隆には五つの理由があるという。一に帝堯の末裔であること、二に容貌に奇異なところが多いこと、三に神武の兆しがあったこと、四に寛容で仁恕であったこと、五に人を知り善く用いたこと。これに誠実で謀を好み、礼と仁愛に通じ、善を見れば及ばぬかのごとく求め、人を用いるにはわが身のように、諫めに従うことは流れに順うがごとく、時に応じることは響きが応ずるがごとくであった。これが天下を得た理由である。しかし呂后の邪僻を知りながら正すことができず、趙王如意を愛しながら守り通すことができず、身没した後にはあやうく社稷を失いかけた。もし劉章・周勃がいなければ、呂氏が漢に代わっていたかもしれない。この過ちは日食・月食よりも甚だしい。これで完全無欠と言えようか。とはいえ秦・項羽を平定して漢の基業を開き、前後数百年にわたり衣冠礼楽を後世に伝えた功は、王道には至らずとも、覇者としての盛徳と言うべきである。