生涯
- 漢高祖は名を邦、字を季といい、沛の豊の人である。父は太公、名を執嘉といい、母の媼はかつて大沢のほとりで休んだとき、雷電が暗く鳴る中で神と交わる夢を見て身ごもった。
- 高祖は鼻筋高く竜顔で度量が大きく、寛仁で人を愛し、心が広かった。人相見の呂公は高祖を大貴の相と見て娘を娶らせた。これが呂后である。
- 泗水の亭長であったとき、酔って夜沢の中を通ると大蛇が道をふさいでいた。高祖は剣を抜いてこれを斬った。後から来た者が一人の老婆が「わが子は白帝の子で蛇に化けていたが、いま赤帝の子に斬られた」と泣くのを見た。
- 始皇はかねて「東南に天子の気がある」と言い、東方を巡幸してこれを鎮めようとした。高祖は芒・碭の山沢に隠れていたが、その上には常に雲気が立っていた。
- 二世元年、沛で挙兵し自ら沛公と称し、秦軍を破って咸陽に入り、秦王子嬰を捕らえた。秦に入るとまず秦の苛法を除き、法を三章に約した(人を殺した者は死、人を傷つけ盗みを働いた者は罪に問う)。秦の民は大いに喜んだ。
- 項羽が鴻門に至り、沛公は羽と会見した。羽は沛公と酒を飲み、范増は項荘に剣舞をさせて沛公を撃たせようとしたが、羽の叔父の項伯も舞に加わり自ら身を挺して沛公を庇ったため難を免れた。
- 五星が東井に集まった。項羽は沛公を漢王に立てた。漢王は東に軍を進めて三秦を平定し、項羽と戦ったが彭城で敗れ、太公と呂后は羽に捕らえられた。
- 羽が滎陽を包囲し、「早く降らねば太公を煮る」と沛公に告げると、沛公は「羽と兄弟の約を結んだ、わが父は汝の父でもある、汝が煮るというなら我にも一杯の羹を分けよ」と答えた。
- また広武で羽と戦い、羽の伏兵の弩によって漢王は胸を射られ傷を負った。
- 五年、彭城に至って項羽を誅し、皇帝に即位した。
- 帝が洛陽の南宮で諸将を見ると、しばしば二人で私語していた。張良に問うと「謀反です」と答えた。帝が「どうすればよいか」と問うと、良は「帝が快く思わず、群臣も皆それを知っている者は誰か」と問い返し、帝は「雍歯がしばしば私を辱めた」と答えた。そこでまず雍歯を先に侯に封じると、群臣は喜び「雍歯すら侯になるなら我らも心配ない」と言った。
- 帝は酒宴を開き群臣に「通侯・諸将よ、朕に隠さず答えよ。朕が天下を得た理由は何か、項氏が天下を失った理由は何か」と問うた。高起・王陵は「陛下は城を攻め地を略せば、それを人に分け与え、天下と利を共にされた。これが天下を得た理由です。項羽は戦に勝っても人に功を分けず、地を得ても人に利を分けなかった。これが天下を失った理由です」と答えた。
- 帝は「あなた方は一を知って二を知らない。帷幄の中で策を巡らせ千里の外で勝敗を決することは、わたしは子房に及ばない。国家を鎮め百姓を撫で兵糧の道を絶やさぬことは、わたしは蕭何に及ばない。百万の軍を率いて戦えば必ず勝ち攻めれば必ず取ることは、わたしは韓信に及ばない。この三人はいずれも人傑であり、わたしはこれを用いることができた。これがわたしが天下を取った理由である。項羽には范増一人がいながらそれを用いることができなかった。これが彼がわたしに捕らえられた理由である」と述べた。
- 当初、洛陽に都したが、婁敬の計を用いて西の長安に都を移した。北方の匈奴を討とうとしたとき、婁敬は諫めたが聞き入れられず、匈奴に包囲された。陳平の秘策によって脱出できたため、帝は婁敬を赦し「あなたの言葉を用いなかったためにこうなった」と謝した。
- 即位十二年で崩じた。年六十二。
- 当初、黥布が反した際、帝は自ら布を撃ち、流れ矢に当たった。病が重くなったとき、呂后が後事を問うと「蕭相国が死んだら誰が代われるか」との問いに「曹参がよい」と答えた。その次を問われ「周勃がよい。劉氏を安んじる者は必ず彼である」と答えた。
- 子の恵帝が立った。