帝王略論卷一 周文王

略歴

  • 周の文王は名を昌、姓は姫。その先祖は帝嚳から出て、帝嚳の子・棄が后稷となった。父は王季。
  • 文王が狩りに出て占うと賢人を得るとの卦が出て、渭水のほとりで呂望(太公望)に出会い、宰相とした。
  • 紂は崇侯の讒言を用いて文王を羑里に幽閉した。文王は幽閉の七年の間に『周易』の彖伝・象伝を作った。諸侯が文王に従って共に幽閉されるほどであったため、紂は恐れて文王を釈放した。
  • 外出中に打ち捨てられた枯骨を見つけ、役人に葬らせようとしたところ、役人が「これは持ち主が分かりません」と言うと、文王は「私がその持ち主である」と答えたという。
  • 天下の三分の二を有しながらも、なお殷に叛いた国々を率いて紂に仕え続けた。
  • 五星が房宿に集まり、赤い雀が書をくわえて王の宮殿に留まるなどの瑞兆があった。
  • 虞・芮の二国が田の境を争い周の領内に入ってきたが、周人が耕作地の境を譲り合い道を譲り合う様子を見て恥じ入り、争っていた土地は結局手つかずの田として残された。この話を聞いた百姓のうち、一時に周に帰服した国は三十余国に及んだ。
  • 文王は九十七歳で崩じ、子の武王が立った。

史論(公子との問答)

  • 公子は、文王が殷に叛いた国々を率いて紂に仕えたことは、紂を助けて暴虐を働かせ天下に害毒を流させたことになり、これは甚だしい不仁ではないか、むしろ直言して正しく諫めその悪を正すべきではなかったかと尋ねた。
  • 先生は、機(機微・時勢の兆し)は動きの微かなものであり聖人でなければ見抜けないとし、当時は天命の数はすでに改まりつつあったものの殷の勢力はなお強く、紂は剛猛で暴虐、非を飾り諫めを拒む性質であったから、文王がどうにか動かせる相手ではなかったとする。
  • 文王の没後、武王が主となり周公が補佐し太公が将となった時でさえ、なお孟津まで兵を進めながら「紂はまだ討つべきではない」と兵を返したという。聖人は機を見て動き、動く時は必ず万全を期し、目先の事にとらわれて機を失うことはない。
  • 当時はまだ紂の悪が極まっておらず、(文王・周公・太公の)三人がなお存命であったため、文王が道を屈して紂に仕えたのは時宜にかなったものであり、龍や蛇が冬に身を潜めるのと同じ道理であるとする。『左伝』に「文王は殷に叛いた国々を率いて紂に仕えた、聖人が時を知っていたのだ」とあるのはこのことだと結ぶ。