臺灣外紀海澄を献じ黄梧が帰誠す/護国嶺で格商が斬らる(卷九 獻海澄黃梧歸誠 護國嶺格商被斬)
揭陽での敗戦
- 順治十三年正月、清の徐有功・劉伯祿軍が揭陽方面に進出。左先鋒蘇茂は郭遂第の慎重論を退けて独断で出撃し大敗、黄勝・林文燦の二鎮が全滅した。黄廷らも救援に失敗し、成功は兵官張光啓に敗戦の経緯を調べさせた。
諸方面の攻防と将領の交代
- 二月以降、清軍の圍頭封鎖により黄廷らは苦戦、成功は諸将を入れ替えて対応。
- 三月、北伐を率いた定西侯張名振が病没、その部隊は陳六御が引き継いだ。
圍頭の海戦と貝勒軍の壊滅的敗退
- 四月、貝勒の水軍が圍頭で成功軍と衝突。緒戦は互角だったが、その夜暴風が襲い、清側の船団は大混乱に陥り多くが損壊、貝勒はやむなく撤退した。成功は捕らえた清兵の耳鼻や手を切って送り返す苛烈な処置をとった。
- その後清側は金門白沙寨(鴻逵の拠点)を奇襲しようとするが、洪旭・成功軍の反撃で撃退された。
蘇茂の処刑と黄梧の離反
- 六月、成功は揭陽敗戦の責任を問い蘇茂を処刑(かねて施郎逃亡を見逃した件も含意していたとされる)。将士の間には不満もあったが、成功は手厚く祭ることで軍中を鎮めた。
- 処罰を受けた黄梧はこれに危機感を抱き、蘇茂の族弟蘇明を脅すようにして巻き込み、密かに総督李率泰に投降を申し出て海澄を献城した。清軍が入城し、黄梧は「海澄公」に封じられ、施郎(琅と改名)も清軍に登用された。
海澄奪還の試みと撤退
- 異変を察知した成功は甘煇・洪旭らを急派するが、既に海澄は失われており、土城の兵糧を運び出して厦門へ撤退するにとどまった。関与した官吏は処罰された。
福州侵攻と閩安・烏楼の攻略
- 七月、成功は清軍主力が漳州にいる隙を突いて福州を衝く策を立て、甘煇・万礼を主将に十五鎮を率いさせ閩安を陥落させた。続いて成功自ら福州を包囲し、烏楼(城の要害)を激戦の末に奪取した。
福州城内の反撃策と成功軍の敗退
- 城内では巡撫宜永貴が布政司周亮工・副将王進を獄から起用し、奇兵策(東市方面の手薄を突く夜襲)を献じさせる。
- 八月十六日夜、清軍は水部門から兵を出して成功軍の背後を突き、大混乱に陥った成功軍は多くの死傷者と物資を残して敗走、福州の包囲を解いた。成功は閩安に留まって拠点を固めた。
銅山への牽制攻撃の失敗
- 九月、清の馬得功が銅山を突こうとするが、張進・郭華棟らの防備により渡河できず撤退した。
永曆帝への使者と陳永華の登用
- 十月、成功は永曆帝へ使者を送り会師恢復を請う。また王忠孝の推挙により陳永華(殉節した陳鼎の子)を参軍に登用した。
招降工作の再燃と成功の一喝
- 十二月、父芝龍は再び使者を送って投降を勧め、佟巡撫も長文の書簡で招撫を説く。成功は使者を「保身のみを図り国を誤る小人」と一喝して退けた。
護国嶺の戦い
- 成功軍が撤退する隙に清の阿格商が追撃を試みるが、殿を務めた甘煇は巧みな伏兵策(誘い込みと挟撃)で阿格商を討ち取り、清軍を大破した。
成功の返書
- 度重なる招撫要求に対し、成功は改めて長文の返書を送り、清が信義でなく威力で人を服させようとしていること、髪を剃ることは服従の証にならないこと、自らの志は既に固く変わらないことを述べ、招撫を最終的に拒絶した。