臺灣外紀国軒、謀を合わせ鄭藩に帰す/甘輝、火計で仙遊を破る(卷八 國軒合謀歸鄭藩 甘煇用火破仙遊)

魯王を広西へ送る

  • 順治十一年正月、成功は父芝龍が「魯王をまだ献上していないこと」を投降の障害としていると聞き、魯王を広西の永曆帝のもとへ送ろうとする。魯王は渋るが、風に阻まれて結局南澳に留まった。

清の招撫工作と成功の対応

  • 二月、父芝龍は「海澄公」の印綬を携えた使者李徳らを送って招撫を働きかけ、総督劉清泰も懐柔の長文を送るが、成功は安插地の未定を理由に印敕を受け取らず追い返す。その間に福建・興化・泉州・漳州で兵糧を徴発し戦備を整えた。
  • 三月、張名振・陳煇が長江に進入し天津まで進撃、崇禎帝を祭って引き揚げた。

軍紀の粛正

  • 四月、海壇の黄大振が投降を企てたとして誅殺。
  • 五月、督餉官黄愷の不正搾取が発覚し処刑された。

招撫交渉の決裂

  • 六月、清朝は芝龍を同安侯、鴻逵を奉化伯、芝豹を左都督に封じ、使者葉成格・阿山と芝龍の子(鄭渡)を派遣して四府への安插を約す招撫を進める。
  • 九月、両使は安平で成功と対面するが、「先に薙髪せよ」と「先に詔書を開読せよ」で双方譲らず決裂。成功は父への書簡で、忠と孝は両立し難いこと、清が父を人質に子を挟もうとする意図を見抜いていること、髪を剃ることは信の証にならないことを縷々説き、招撫を拒む決意を伝えた。

劉国軒の内応と漳州奪取

  • 十月、漳州の楼総劉国軒が参軍馮澄世を介して成功に内応を約す。十一月、成功軍は夜襲で漳州に呼応した国軒の火箭を合図に入城し、守将張世耀を降した。国軒は護衛後鎮に取り立てられた。

仙遊攻略と甘煇の火攻め

  • 漳州陥落後、周辺諸県が次々帰順するが、泉州の韓尚亮は施郎と結んで抵抗を続けたため成功はしばらく放置。仙遊は甘煇が攻めるが堅守に苦しみ、神器鎮洪善の献策で城下に地下道を掘り火薬を仕掛ける「滾地龍」戦術を用いて城壁を爆破、順治十二年正月に陥落させた。

永曆使者と六官の設置

  • 二月、永曆帝の使者劉玉が訪れ、朝廷情勢(孫可望と李定国の不和など)を報告。成功は「内に賢相なく外に驕将あっては中興は望めない」と憂慮しつつ、吏官・戸官・礼官・兵官・刑官・工官の六官制を整え、儲賢・育材の二館を設けて人材登用を進めた。

諸提督の任命と北伐の準備

  • 四月、郝文興・王秀奇・林勝・黄昌・黄梧らを諸提督・鎮将に任命し浯州の新城を築く。
  • 五月、南征軍は永曆帝の敗報を受け撤退。成功は北伐軍を編成し、張名振・陳煇に二十四鎮を、甘煇・王秀奇に二十鎮を率いさせて舟山方面へ進出させ、鎮将巴臣功を降して舟山を確保した。

清の招撫最終通告と成功の拒否

  • 六月、総督李率泰が長文の書で招撫を迫るが、成功は「彼らが精鋭で挟もうとするだけだ」と一笑に付し、返答を保留した。一方、黄廷は潮州方面で劉伯禄軍を破り揭陽・普寧を陥落させた。

一族への処罰と成功の防衛転換

  • 招撫使が帰京すると、朝廷は成功を「反覆常なし」として父芝龍を幽閉、叔父芝豹を寧古塔へ流した。さらに貝勒の軍を福建へ差し向けた。
  • 成功は諸将と対応を協議。郝文興・陳堯策は野戦での迎撃を主張したが、馮澄世は「陸戦は不利、水戦こそ我が長所」として全軍を厦門・金門に退き守りを固める策を提言、成功はこれを採用した。安平の邸宅・城郭を自ら破却し、住民を金門・厦門へ移した。

郝文興の死と諸方面の防備

  • 九月、左提督郝文興が病没し、成功は深く悲しんでこれを厚く弔った。
  • 十月、張名振が定海関を攻略し守将張鴻徳を降す。
  • 十二月、貝勒が泉州に入り、堅守した韓尚亮を賞して海壇総兵に任じる一方、成功へ再度招撫の使者を送るが、成功は前回同様これを拒んだ。