綏寇紀略汴渠の水没(汴渠墊)

洪武三年(1370年)の諸王分封に始まる明の藩屏三十王の配置を述べ、崇禎年間に流賊が中原を席巻するなかで諸藩が次々に滅んでいく過程を追う。唐王の廃黜、福王常洵の奢侈と洛陽陥落、襄王の死、周王の汴梁死守と黄河決壊による水没、崇王・楚王・秦王・晋王・代王の捕殺を経て、崇禎十七年(1644年)の成都陥落と蜀王・瑞王の死に至るまで、二百七十年の藩屏がおよそ四年で崩壊した顛末を記す。

年表(28件)

洪武三年(1370年)以降 諸王の分封

  • 太祖は洪武三年に諸子を大封し、歴代の皇帝もその家法を受け継いで各地に藩屏を置いた。明末までの二百八十余年間に廃絶されたものもあり、残る藩は三十王であった。
  • 分布はおよそ次のとおり。太行以西に晋・瀋、雁門以東に代、覃懐以北に趙・鄭・潞、河と済の間に魯・徳、海岱に衡、洞庭以南に岷・栄・吉・桂、豫章以西に益・淮、蒼梧の蛮境に靖江。この十六王は山河に隔てられた辺地にあったため、かろうじて兵禍を免れるか、あるいは前後して兵を被り、十余年のうちに休息を得た者もあった。君子はその事跡を、始めも終わりも書き記すべきものと考える。
  • 大梁から洛に遡り汝に入る一帯には四王がいた。周は太祖第五子の定王橚が開封に封ぜられ、十代を経て端王の子恭枵が紹封して周王となった。唐は太祖第二十三子の定王桱が南陽に封ぜられ、九代を経て裕王の子聿鍵が紹封して唐王となった。崇は英宗第五子の簡王見澤が汝寧に封ぜられ、七代を経て昭王の子由樻が紹封して崇王となった。福は神宗第二子の常洵が洛陽に封ぜられて福王となり、その次子由崧が徳昌王に封ぜられた。
  • 関中から隴道を扼する地には五王。秦は太祖第二子の愍王樉が西安に封ぜられ、十四代を経て某王[欠字]の子存枢が紹封して秦王となった。粛は太祖第十四子の荘王楧が甘州、のち蘭州に封ぜられ、九代を経て憲王の子識鋐が紹封して粛王となった。慶は太祖第十六子の靖王㮵が慶陽、のち寧州、さらに寧夏に封ぜられ、九代を経て憲王の子帥鋅が紹封して慶王となった。韓は太祖第二十子の憲王松が開原、のち平涼に封ぜられ、十一代を経て敬王の子亶塉が紹封して韓王となった。瑞は神宗第五子の常浩が漢中に封ぜられて瑞王となった。
  • 鄂・達・郢から蘄春にかけては四王。楚は太祖第六子の昭王楨が武昌に封ぜられ、八代を経て恭王の子華奎が紹封して楚王となった。襄は仁宗第五子の憲王瞻墡が長沙、のち襄陽に封ぜられ、八代を経て靖王の子翊銘が紹封して襄王となった。荆は宣宗第七子の憲王瞻堈が建昌、のち蘄州に封ぜられ、九代を経て定王の子慈□が紹封して荆王となった。恵は神宗第六子の常潤が荆州に封ぜられて恵王となった。
  • 梁山から剣閣に跨がる地には一王のみ。蜀は太祖第十一子の献王椿が成都に封ぜられ、十三代を経て恭王の子至澍が紹封して蜀王となった。

崇禎六・七年(1633-1634年)賊の再入関と諸藩の情勢

  • 賊が最初に西で蜂起したとき、関中の鎮は挙げて反乱し、慶・粛の両国は辺境に接して唇歯の関係にあったが、臨洮・寧夏の兵が急ぎ討伐したため、両藩は乱に巻き込まれずに済んだ。韓は固原を防壁とし、秦は金城の堅固さに拠り、瑞は雲桟の険に守られていた。秦の将吏が賊を破ったので、桐封の諸藩は草賊など憂うるに足らずと考えていた。
  • 崇禎六・七年、賊は黄河を渡って再び関中に入り、豫と楚のあいだを往来して蜀を窺った。兵禍を受けた諸侯王は、宗廟の神霊が震え騒いで祭祀が絶え、田畑は荒れて耕作が放棄され、民は困窮して安住できず、朝廷への聘問も水路の閉塞で期日に遅れた。ついには枝葉が枯れ根本が抜かれるように滅亡し、救う者もなかった。
  • 地勢を見れば、楚は大江を隔てて遠く、周・秦・蜀は大都会で重鎮を置くゆえ危急は緩やかであり、荆は蘄春にあって上流ではなく、粛は洮河の北、慶は賀蘭山下で遠隔ゆえこれも緩やかだった。だが唐と福は秦嶺を背に関を扼して淮泗に接し、韓は涇渭に拠って西は隴を制し、瑞は梁益を繋いで襃中に出、襄と恵は庸濮に通じて長江を扼する。この七王は不幸にも天下の要衝に当たり、戦場が日ごとに近づいて社稷の崩壊が王室の恥となることを大いに恐れ、しばしば賊の情勢を朝廷に上聞した。

瑞王の上言(崇禎七年)

  • 瑞王は言う。先帝の余徳により西藩を奉じたが、就藩一年も経たぬうちに賊が至った。晋の賊が再び黄河を渡って漢中に闖入し、七年正月十五日に洵陽・紫陽・平利・白河を破って次々と陥れた。督臣洪承疇が救援に来て、単騎甲を着け荊棘を分けて険阻に入り山中を捜索した。自分は軍を犒い飢民を賑わすため銀七千余両を出し、賊はようやく逃げ去って近境は安んじた。
  • しかしその後、鳳県が再び陥ち、蜀の賊は秦州に入り、楚の賊は興安に上った。六月には興安・西郷から郡境を犯し、遊撃唐通が漢江に拠って力戦し渡らせなかった。賊は東の澤を掠め、北は鳳に拠り、西は沔県・寧羌を騒がせた。南鄭は万山絶谷の中の孤城で四面から賊が迫り、滅亡は目前である。自分は皇室の至親でありながら最も僻陋の藩に居り、賊寇の危迫は極まる。陛下の哀憐を乞う、と。

韓王の上言(崇禎七年)

  • 韓王は言う。賊は七年九月五日に平涼の東西両門を攻め、すでに東関の北から城壁をよじ登った。都司の李応孝・劉添禄が自ら賊を撃って七人を殺し、その首を城下に投げ落としたので、賊は東へ転じ、辰の刻から日暮れまでかかって通り過ぎた。
  • その後、崇信・霊台・涇州が相次いで陥ち、賊はまた平涼の外郭に入ったが李応孝に撃退された。鎮原・華亭はいずれも包囲され、平涼の属城は十のうち五つが破られた。邠・乾・汧・隴など隣接する封域もほぼ掠奪され、賊は四境を薙ぎ払い平涼も掌中にあると豪語していて逃げ場がない。
  • 建国当初、平涼衛には屯田が碁石のように置かれ、三百の寨に二百人の官と三千余の軍がいたが、今はやせ衰えた老兵百十人が残るのみで守りようがない。前年、皇上は潞王が賊に苦しむのを憐れんで参将一名と兵三千を増設し、潞州衛の屯糧を餉に充てた。韓も潞の例に准じ、親親の恩を賜りたい、と。

崇禎七年(1634年)荆州の陥落と南陽の唐王

  • 賊が河を渡って豫・楚に入った当初、洛はやや外れ、宛・汝・荆襄がそれぞれ警報を受けたが、荆州・当陽が先に陥ちたので、恵王は奔走して急を告げた。
  • 南陽は城が低く薄かったため、唐王は千金を投じて修築を図った。だが太守の陳振豪は功を認めず、他の件でも王と衝突した。王が上言すると帝は激怒し、振豪を逮捕して法司に下した。王はさらに陳永福を専任の将とすることを請い、潞王の先例を援用したが、帝は許さなかった。

崇禎八年(1635年)冬 唐王の再上奏

  • 八年冬、賊が再び南陽を犯すと、王はまた奏上した。自分には数百頃の荘田があり、朝廷の恩賜と祖父の代からの経営によるものだが、十月十一日に賊が集落を焼き、貯えはほぼ尽きた。守舎の輔国将軍顧煜は殺され、その母梅夫人も重傷を負って死んだ。賊が瓦屋・石橋を往来し、そこは自分の祖墳から目と鼻の先で、心は片時も安まらない。
  • 南陽は辺境の守りを頼んで自ら備えなかったので、自分は私財で火薬を蓄え防具を配った。おかげで賊は城を犯さず郊外を焼くにとどまった。だが今年は七月に雨が降らず二麦も播けず、郷里の沈家冲では飢民が竹竿を掲げて蜂起の気配を見せており、平林・下杜の乱を思わせて寒心に堪えない。
  • また言う。王府の護衛は千二百人だが、近年の制度でその半数を汴梁の班軍として交替勤務させ、撫臣以下の使役に供している。まったく無意味である。困窮を憐れみ、全軍を返還されたい。そうすれば国恩に頼って宿衛を固め斥候を遠くまで出し、恐れることがなくなる、と。
  • 帝は答えて言った。南陽の班軍交替は祖宗の代からの定制で久しく、朕は勝手に変えられない。ただ王の防御に役立つことなら惜しみはしない、と。

宗室の登用をめぐる議論

  • 帝は信邸から入って即位すると、宗廟を篤くし同姓を厚遇し、諸侯の礼を重んじた。郡県の吏は王に対して礼を屈さぬ場合、王が自ら訴え出ることができ、その主張が正しくなくとも帝はしばしば天下の法を曲げて王の側に立った。
  • 帝はまた何度も宗室を召見し、才ある者を選んで官に就け、宗室俸禄の行き詰まりを打開しようと制度の変更を図った。その後、上書して意見を述べる者が駅伝で京師に上ることが許され、日ごとに増えたが、言うべきでないことを言う者もあり、帝も次第に嫌気がさしたものの、止めることはできなかった。
  • 帝は金匱の書を開いて太祖の制を得た。宗室の子孫で中央の官となる者は、その爵階を官品に換えてよい、というものである。有司に議させると、議者は言った。将軍・中尉はみな一品であり、この通りにすれば三公九卿が一朝にして数百人も朝廷に満ちることになり、法とすべきでない、と。帝は不快げに、親を親しみ賢を任ずるのは古の道である、なぜいけないのか、と言ってその奏を却け、再検討させた。
  • ある朝士が儀制郎の呉之屏に言った。なぜ唐の故事を上奏しないのか。中央に入っては卿士、外に出ては牧伯となるのは三代の制であり、唐の諸侯王は官を兼ね職を借り、必ずしも爵階通りではなかった。曹成王のように参軍・刺史を務めた例は史書に見える。今、宗室は無為に国の蓄えを食い潰しているのに、なぜ当世に施行しうる変通を講じず、頑迷に上意に逆らうのか、と。呉は驚いて答えられなかった。
  • 宰相以下の大官には書を読んで国体を解する者が一人もいなかった。礼部侍郎の陳子壮が部の事務を代行して覆奏を主管し、官職を守って堅く反対することで名を高めようとした。諸藩は帝の意向を知り、朝議に不満を抱きながら争おうとしなかったが、唐王だけは子壮に書を送って反駁した。
  • 王はもともと弁舌博識で文詞を好み、その書は典訓を引き経伝に拠って典拠が確かだった。廷臣はそれを知らず、ただ諸侯が鋭気を張って異を唱えることを恐れただけであった。やがて帝は子壮の上疏の言葉が強く争うものであるのを憎み、獄に下した。人々は子壮を惜しみ、その責を王に帰した。王もまた次第に驕り、公卿を軽んずるようになった。

唐王の廃黜

  • 太祖の時代には諸王は所領を巡行できたが、靖難後は次第に規制が細かくなり、京師の置いた官吏が事を握った。私的な車馬は禁じられ、従者は軽々しく振る舞えず、外出して喪を諸墳園まで送ることさえ、詔命がなければ許されなかった。
  • 南陽はすでに賊の要衝であり、崇禎八年以降その度合いはいっそう甚だしくなった。王はかつて烽火が天に連なるのを望み見て、天下は今にも大乱になると思い、終日空しい宮を守って僕隷を相手に腿を叩いて嘆息し、鬱々として龐涓のようにここで死んでよいものか、と言った。
  • 中原の督撫大臣が諸藩を見るに、それぞれ賊の害を軽重の差はあれ受けていた。周王は徳を施すのを好み、福王は日々門を閉ざして美酒を飲み、崇王は仏道を奉じ、戦守はすべて将吏に任せていた。ところが南陽は日々兵を並べて自衛し、勇武の評判を得ていた。ただ王は血気盛んで恣意的に事を運び、宗室をいたわることもできず、その過失が次第に朝廷の耳に入った。淮南王・済北王のような叛意や、伍被・開章のような謀があったわけではない。
  • 帝は群臣の議を退けて骨肉を重んじてきたが、諸王が恩徳を恃んで驕り、自ら慎まぬと聞くようになった。南陽は要害の地であり、王の建言は範囲を広げ、辞は不遜で藩臣の礼を失していた。動乱の際、赤眉の樊崇や平陵の方望のような者が王を担いで狂謀を成すのではないかとの疑いが、わずかながら消えなかった。折しも京師の城門に急があり、王が兵を率いて援護に入ることを請うたが、事は行われず、廷臣はこれを罪に仕立てた。帝はついに詔を下して庶人に落とし、幽閉した。これ以来、諸藩は息をひそめて二度と兵事を口にしなくなった。

軍餉の徴募と武清侯家の事

  • 帝は討賊の軍費として年に百万を要し、民力は大いに窮した。有司には俸給の一部を献じさせて記録に留め、銭を出して軍を助けた民には清要の官の位を仮に授けて優遇し、詔を下して褒め、天下に範を示した。
  • 武清侯の李誠銘は慈聖皇太后の甥である。先朝は外戚を礼をもって遇し、太后は天下の母として金銭を私しなかったが、熹宗の代に累朝の蓄えが失われ、その所在は分からなくなった。李氏の宮中での事は秘され、人は知らなかった。
  • 侯には妾腹の子がいて、母の家柄が低いため一族から兄弟として扱われなかった。侯の死後、財産を争って兄と仲違いし、兄が禁制品や精錬した金・宝玉を巨万と蓄えていると訴え出た。帝は侯の長子を召見して国に献納し自ら名を上げよと諭したが、長子は無いと言い張った。帝は怒って少し催促を強めたところ、まもなく長子は病死した。帝は先の太后を追想し、田宅を返して残りは不問に付した。

諸王への献金要請

  • ある者が上書して言った。諸王は土地を跨ぎ城を連ね、租税で衣食しているが、これはみな朝廷の力による。今、天子は日が傾くまで憂労し、軍備の費が足りぬのに苦しんでいるのに、王は高枕して一郡に君臨している。天下に急があるとき王だけ安泰でいられようか。明詔を下し近臣を遣わして各藩に趣旨を諭し、国庫金を上納させて軍用に充てるべきだ、と。
  • 帝は言った。朕は国内が静まらぬことを諸王のために憂えている。王は骨肉の兄弟でわが一体である。詩にも「瓶の空しきは罍の恥」とあるではないか。有司に詔してもう言わせるな、と。結局、久しく誰も応じなかった。

諸藩の禄と楚王の獄

  • 建国当初、親王の禄は五万石だったが、後に一万石に改められた。秦・晋・楚・蜀は封地がほぼ等しく、周は後に移封されて天下の膏腴の地に落ち着いた。商賈百貨の集まるところで、その富は京師に比した。
  • 万暦年間、楚王が他人の子を自分の子として後嗣にしたという噂が立った。王の姉の張郡主が財貨を要求して満たされず、宗人と共に訴え出た。帝が官を遣わして訊問させたが、王は億万の金を使い事は落着した。楚はこれで多少消耗したが、他の三国は無傷であった。
  • 他の王は太祖の子であっても及ばなかった。文皇帝は靖難の後、自分の子は先帝の子と同等であってはならぬと言い、禄は十分の五にも及ばなかった。歴代の封建では親族関係が次第に疎くなり、恩賞も薄れていった。ただ神宗の四子は帝の叔父にあたり最も親しかったが、瑞・恵・桂は熹宗朝になってようやく就藩し、開邸の日が浅く土地も瘠せて多難で、天下の同情を集めた。福王だけは兄弟の中で比べようもなかった。

福王の寵愛と洛陽の富

  • 福王は神宗の愛子で、母の鄭貴妃が最も寵を得ていた。王皇后には子がなく、光宗が兄弟中の長子として内外の人心を繋いでいた。帝の意も本来定まっていたが、貴妃が早くから貴んぜられ、天下に鄭氏より上に立つ者がないのを見て、望みを抱いたため、至尊といえども板挟みとなった。廷臣が力を尽くして諫争したので帝はやや自ら強くなり、やがて日々離間が図られたが、諸大臣が万端に調護した。皇太子の冊立が済むと四子が同日に出閣し、恩寵は等しかった。すべては鄭氏のためであった。
  • 福王の婚礼には三十万、洛陽の王府造営には二十八万を費やした。帝は貴妃なしには寝食もできず、妃は一子が成人しても抱擁を離さなかった。遠く去ると聞いて日夜泣いて訴え、就藩の期日を請う奏は数十百に上ったが、帝は取り合わなかった。最後に妃の甥の鄭養性が言った。誠意からではないにせよ、太子の名号が定まって久しく、帝も高齢で長く病んでいる今のうちに早く就藩して王としての富貴を計るべきで、これ以上待つ必要はない、と。妃も心を動かして言い、帝は母子の情に未練を残しつつ、せめて就藩の装備を厚くせよと言って、嘆息しながら従った。
  • 当時、海内は全盛で、帝が遣わした税使・鉱使は数十人、月ごとに献上があった。広南の真珠、滇黔の丹砂・空青・宝石、豫章の磁器、陝西の異織の毛織物、蜀の重錦、斉楚の鉱金鉱銀、その他の搾取による余剰は億万と数えられ、名目は君主の私財だが実は貴妃の掌握するところで、その十分の九を割いて王に与えようとした。宮人や中使はひそかに、王はもともと天下を共にする身だからこれくらい何でもない、と言い合った。
  • 特に詔を下して荘田四万頃を賜った。担当官が力を尽くして争い半分に減らせたが、中州の肥沃な土地では足りず、山東・湖広の境まで割いて充てた。王はさらに、江陵の故相(張居正)の没収された財産、江都から太平に至る沿江の荻洲雑税、四川の塩井と榷茶の銀を請い、自ら利を増した。
  • 旧制では王府の田は民に耕作させて租を取るだけだったが、王の側近は肥沃な地を多く囲い込んで永業とするよう勧めた。さらに伴読・承奉らの諸官が土地測量を名目に、駅伝に乗り旌旗を並べ笳を吹き、行く先々で車夫や食糧を無数に要求した。田の良否も租の多寡も彼らの口ひとつで決まった。汝州を通ったときには擅に人を殺した。山東・江楚の富家は略奪を憂え、農夫は供給に疲れ、天下は騒動した。
  • 福府の食塩を請うと、洛中に邸閣を設け、中使が淮揚に至って王の塩一千三百引を支給させ、着服と要求は倍に及んだ。中州はもともと河東塩を食していたが、王の店から出たものでなければ売れぬとの令旨が出た。淮商の開中は行き詰まり、晋の塩引も滞り、九辺の軍餉は財源を失った。帝は事情を知って長蘆塩への切替を命じたが、洛陽から遠く河東ほど便利でないとして王は改めようとしなかった。
  • 慈聖皇太后の崩御から二か月と経たぬうちに愛子が膝下を去り、帝は鬱々として楽しまなかった。瑞王は二十四歳でまだ婚礼を挙げず、恵・桂も年齢が近く、まだ妃の選定もなかった。群臣が代わる代わる上疏して閣に訴えたが、おおむね握り潰された。一方、福邸の使者は中左門に籍を通し、月に数度朝廷に伺いを立て、朝に上れば夕に許可が下りた。四方の奸人・亡命の徒がその風向きを探り、利に群がって走った。張差・龐保・劉成の変(梃撃の案)はこれによって生じた。
  • とはいえ両宮は慈孝に隔たりなく、王も自ら身を慎んで窺うところはなく、三代の継承を通じて骨肉は平穏であった。もとより祖宗の家法が良く、光宗が心から篤く愛したのが卓絶していたのである。
  • 崇禎年間に至り、王は神宗を失って久しく、貴妃も先に世を去り、王のために京師の情報を伝えていた内官や宮媼も多くが失勢し老病で死んだ。河南は大乱となった。王は国家にとって尊属で帝の近親であり、宮中にいた頃は宗嗣を奪いかねぬ勢いさえあったが、性として賓客を好まず、智謀奇計の士は前に進めなかった。好むのは婦女と娼楽ばかりで、内外はこれを警戒するに足らずと見ていたが、結局それで身を滅ぼした。

崇禎十三年(1640年)河南大旱と呂維祺の諫

  • 十三年、河南は大旱と蝗害で人が人を食う有様となったが、王は蔵の鍵を厳重にするばかりで宗族や百姓を思いやらなかった。洛陽を通過する援兵の口さがない噂が広まり、道中で罵る者もあった。王府には金銭が百万もあり、粱肉に飽きていながら、我らを腹をすかせたまま賊の手にかかって死なせるのか、と。
  • 南京兵部尚書の呂維祺が城中にいてこれを聞き、大局を説いて王を動かそうとしたが、王は用いなかった。

崇禎十三年(1640年)李自成の再起

  • これより先、秦の軍は潼関原で李自成を大破し、残兵はほぼ散った。自成は漢南に逃れ、秦兵が北から迫り、左良玉の軍が南を扼したので、窮して打つ手なく、一年余り潜伏して出られなかった。食糧も尽きて首を吊ろうとしたが、養子の李双喜に止められた。
  • この年の秋、自成は軍中に命じて掠奪してきた婦女をことごとく殺させ、五十騎で囲みを突破して逃れ、鄖・均から伊洛へ向かった。河南の飢民が相次いで帰服し、勢いは再び大いに振るった。
  • 十二月、李自成は永寧を陥れて万安王采𨱅を殺した。熊耳以西で山沢に立てこもっていた民の四十八寨を次々と抜き、宜陽を陥れた。

崇禎十四年(1641年)正月 洛陽陥落と福王の死

  • 十四年正月壬寅、黄色い霧が四方を塞ぎ、日は光を失った。河南分守道の王胤昌が地元の紳士を率いて警備し、総兵の王紹禹が劉・羅の二副将とともに兵を率いて洛陽に至った。福王は三将を召し入れて宴を賜い礼を加え、乾飯と酒を出して軍を犒った。
  • 十七日、紹禹が兵を城内に入れることを請うた。王は三度も書状で阻んだが止められなかった。劉・羅の二軍は東南関を背にして宿営した。夕暮れに叫び声が起こり、松明で土門を焼き、賊を追うと偽って七里河に至り、賊と合流した。
  • 十九日、賊が到着すると、羅は火軍を用いて逆に東城を攻めた。城壁を守る者に堅い意志があるのを見て、賊は護保に問い質し、実情を報告させた。城の守りは厳重で、太守の馮一俊が南、兵備道の王胤昌が西、知県の張正学が東を守り、王総兵と衛推官の靖忠が檄の発令を主管しており、西北の隅は衛の担当区であると。賊は配下に西北を攻めさせた。
  • 二十日、王は事態の急を見て千金を出して兵を募り、縄で城外に下ろして矛で賊営に突入させた。日暮れに賊は次第に退いた。ところが夜半、王紹禹の親兵が城上から賊を呼び、笑って応じ合い、王胤昌を捕らえて頸に刃を当て、歯を食いしばって軍餉を要求した。紹禹は傍らから仲裁するふりをして手で押しやり、これが老総兵の言うべき時かと言うと、刀を振るって城壁の守兵を殺し、城楼を焼き、北門を開いた。
  • 賊が入城し、王は民家に逃げ隠れたが、翌日、跡をたどられて捕らえられた。道中、呂維祺に出会った。維祺はすでに高齢で、賊に後ろ手に縛られていたが、首を振り上げて王を見て言った。王の死生は天命です。名義こそ至重ですから、自ら辱めなさいますな、と。王は目を見開いたまま何も言わず、まもなく殺された。賊は王宮に居座って酒宴を開き、王を俎に載せ、その血を鹿肉の醢に混ぜて味わい、これが福禄酒だと言った。維祺は大いに罵って死んだ。
  • 二人の承奉が王の遺体に伏して哭したが、賊に引き離された。承奉は叫んだ。王が死んだ上は生きる気はない。棺一つを乞うて王の骨を収めさせてくれれば、粉々にされても恨まない、と。賊はその義に感じて許した。厚さ一寸の桐の棺に納めて荷車で運び、二人はその傍らで自ら縊れた。東関の迎恩寺の僧道済は、鄭貴妃が王の身代わりに出家させた者であったが、賊の隙を見て棺を担ぎ出し、廡下に安置して祀り哭した。
  • 審理の李春茂、典膳の張守賢、典楽の劉文魁は城壁を伝って逃げた。世子もまた逃れたが、官兵に出会って腰に宝物を隠していると疑われ、衣を裂かれて路傍に裸で放置された。一人の護衛軍に助けられて黄河を渡り、孟県に仮住まいした。福王妃がなお生きていると聞いて訪ね、対面したが互いに見分けもつかず、抱き合って泣いた。
  • 賊が王府に入ったとき、珠玉財貨は山と積まれていた。絹の袋に詰めて背負い、盧氏の山中へ運び込んだ。王府の金と倉の粟を出して飢民に大々的に施した。
  • 当時、杞県の李巌なる者と術者の宋献策が賊に従い、自成に建言して、うまい言葉で民を欺かせた。王侯貴人は貧民を搾り取って凍え飢えるのを見過ごしてきた。だからお前たちのために殺したのだ、と。飢えた者には遠近に応じて食を配り、二十歳以上で従軍を望む男には月に四十金、勇敢で将となれる者にはその倍を給し、我に従えば富貴になれる、手をこまねいて死ぬな、と告げた。民は百万も駆けつけた。王宮は焼かれ、火は三日消えなかった。
  • 自成は洛陽の掾吏の邵時昌を偽の総理として城を守らせたが、実は棄てて去るためであった。河南巡撫の李仙風は二月十日に河南府に至り、時昌と反逆に加わった張旋吉ら十数人を捕らえて梟首し、恢復の功と称した。道・府・推知等の官はみな健在で、ただ白尚文だけが死んで屍も見つからず、すでに飢民に食われたという。叛将の羅泰・劉見義もどうしてか捕らえられ処刑された。王紹禹は当初兵に殺されたと伝えられたが、後に捕縛されて京師に送られ市中で磔にされた。
  • 報が届くと帝は震え嘆き、三日朝を廃した。泣いて群臣に言った。王は皇祖の愛子であるのに、家の不幸に遭い凶事に遭遇した。特牛一頭をもって定陵に告げて慰め、特羊一頭をもって皇貴妃の園寝に告げよ、と。河南の有司に王を改葬させ、弔問と副葬品を整えさせた。世子は懐慶にあり、館を与えて食を給し、凶荒の礼をもって遇した。

洛陽陥落をめぐる論評と楊嗣昌の襄陽経営

  • 春秋の義では、統帥の責は重く、上は宰相が征伐を専断する重責を負う。親王が正しい死に方をできなかった以上、督師(楊嗣昌)の罪は逃れようがない、と君子は言う。
  • 洛陽は周の王城で、漢以来ここに都が置かれ、三川は天下の中央、四方に通ずる地で、戦を解する者が必ず争う要地である。ところが嗣昌は鄖・襄に力を注いで京洛の備えを緩め、賊はその隙を突き、王紹禹・羅泰の軍が悪事を働く余地を得た。
  • 巷では、二王が相次いで陥ち、福王が死んで襄王もそれに続く、と噂されたが、帝と群臣は信じなかった。
  • 嗣昌は出発に際して帝に、襄陽を根本の地としたいと申し上げていた。襄陽城を整備するにあたっては、深い堀を三重に巡らせ、跳ね橋を架け、横木の柵を設け、精兵を配して誰何させ、符節の合わぬ者は渡らせなかった。嗣昌が夔峡に移駐した後も、軍需物資と武具はそこに置かれ、左良玉以下の諸将の軍資金も城中にまとめられていた。江漢の間の数十の城は襄陽を天険として頼りにしていた。

崇禎十四年(1641年)汴梁の第一次包囲

  • 賊は洛陽で目的を達すると汴梁に転じ、百方から七昼夜攻め立てた。周王は庫金五十万を出して城壁を守る者を援助し、特に賞を懸けて賊一人を斃せば五十金を与えた。兵士は勇み立ち、大声を上げて賊を撃ったが、賊は退かなかった。
  • 同じ頃、南陽と汝寧も交通の要衝として疲弊し、唐藩は新たに立ったばかり、崇藩は宮垣に狭間を設けて守るのが精一杯であった。帝は指を折って藩屏の諸宗室を数えて言った。秦と蜀は遠く、楚は豫と接壤し、荆は江のほとりに僻遠している。一州が心配だ。襄陽には重兵が駐屯しているから、恵王が郢中にいても案ずるに及ばぬ、まして襄王においてをや、と。

崇禎十四年(1641年)二月 襄陽陥落と襄王の死

  • ある日、帝が武英殿にあって膳を進めているとき、舌打ちしながら左右を顧みて汴梁の情勢を尋ねた。折しも宗人府の丞が、襄府の福清王から表が届いたと伝えた。帝は机を押しやって立ち上がり、そうであれば襄王はまことに免れまい、と言った。
  • 福清王の奏はこうである。自分は常澄、襄王の次子である。当藩は国恩を厚く受け、代々封土を守ってきた。ところが二月四日夜半、南門から出火し、城中は騒然となり、監軍道の家丁が反乱したと伝えられた。父の殿舎からも火が出て、風に煽られて万戸に燃え広がった。自分は睡眠中に人馬の音を聞き、飛んできた矢が頭に当たった。城中の兵も乱闘しているのが見えた。
  • 夜が明けると賊が大挙して至り、太守の王承曾が自分と弟の進賢王常淦を守って囲みを破り脱出した。人を遣って父の消息を探らせ、五日に賊に捕らえられて西城楼で殺され、火を放たれて城が焼かれ、遺体は灰燼と化し、頭骨数寸を拾って帰ったと知った。自分は慟哭して気を失った。
  • 宗弟の貴陽王常法は西城門外で殺された。すでに亡くなっていた兄の世子の宮も柩もことごとく焼かれ、蘭陽王の母夫人徐氏、太和王妃郎氏、宮人李氏ら四十三人が殺された。父の国宝と内官の張進喜は井戸に身を投じて生き延びた。兄の襄世子常添は先に崇禎十三年十一月二十五日に薨じ、妃の聶氏も続いて亡くなった。父はかつて訃を告げようとしたが道が塞がり、まだ勅を賜っていない。
  • 父は王家に身を託しながら賊の手にかかって果て、自分は殉ずることもできず、天地に対して恥じ入るばかりである。皇上が早くこの賊を滅ぼし、父兄の骨をさらされた恨みを雪がせてくださるよう願う、と。
  • 帝はこれを読んで心を動かされ、担当官に命じて葬儀を福王邸と同じ礼で行わせた。机に寄りかかって嘆いて言った。襄と洛は天下の形勝の地で、襄は東南に対して屋根から水を流すような地勢にある。憲王は仁宗の愛子でありながら襄に移封されたが、そこには深い意図があった。襄が亡べば陪都(南京)は必ず動揺する、と。さらに言った。朕は天下のために賊を討っているのに、十日ほどの間に二王が国とともに斃れた。これは天が我が家を厭って子孫を断つのだ。そうでなければ賊がここまで至るはずがない、と。
  • 帝は楊嗣昌からだけ奏がないのを訝しんだ。しばらくして、張献忠が閣部の解餉官を途中で待ち伏せて殺し、その文書を奪って矢文を回して入城したのだと分かった。嗣昌が蓄えた五省の軍餉と弓刀・火薬数十万、守兵数千人はすべて賊のものとなった。洛陽の国庫と襄陽の軍資が失われ、二藩が陥ちたことで、闖(李自成)と献(張献忠)はもはや抑えられなくなった。
  • 嗣昌は重慶で乱を聞いて荆州に戻り、恵王邸を訪ねようとした。王は門番に断らせて言った。先生が寡人に会いたいと言うなら、まず襄王に朝謁されるがよい、と。嗣昌は恥じ入って首を吊った。

崇禎十四年(1641年)田貴妃の薨去と宮中の追憶

  • この年、東宮の田貴妃が薨じた。妃は帝の寵愛を受け二男を生んだが、皇五子は早世し、永王は幼かった。帝は天下の乱に心を痛め、骨肉のことに悲しみを覚えていた。
  • 定陵(神宗)に仕えたことのある老宮人がいて、帝が宮中の昔話を尋ねた。答えて言うには、神宗の晩年、王皇后はめったに拝謁せず、福王が就藩の暇乞いをして宮門を出たとき、四度も呼び戻し、三年ごとに参朝することを約束した。臨終の際にも貴妃を見つめて洛陽のことを気にかけていた、と。
  • また言う。孝恪皇太后(光宗の生母)が重病のとき、光宗が許しを得て見舞った。孝恪はすでに失明しており、両手で太子を探って何か告げようとした。光宗はとっさに、父皇と鄭娘娘は子をよく待遇してくださっています、今も鄭娘娘の側近が付き添って来ています、と言った。孝恪はその意を悟り、指を噛んで言った。私は天下の苦しみを味わい尽くした。お前が知っていてくれればそれで十分だ、もう何も言うまい、と。そのまま今生の別れとなった。光宗は即位の三日目に母の画像を掲げ、それに向かって拝しながら泣いた。
  • 老宮人は続けて言った。崩御の後は貴妃の当時のことを口にする者もいない。母子が寵を独占して天下を思うままにしたところで、今から見れば何の益があったでしょうか、と。帝はすすり泣いて座を立った。
  • 周皇后は坤寧宮に住んだ。宮禁の礼は厳重で、太子と定王は出閣した後、帝の命がなければ拝謁できなかった。ある日、帝が便殿に座り、太子が前に進んで拝謁を請うた。机上には河南の賊が某月某日に某城を破ったという急報があった。帝は嘆いて言った。お前は母に何度会えるか分からぬのに、いちいち朕に伺いを立てるのか。今後はもう慣例にこだわるな、と。
  • 宮中で奉じられていた宣懿康昭劉太妃は、神宗の妃嬪の中でも慎み深く篤実で諸王を慈しんだ人である。帝は慈寧宮を主宰させ、祖母の礼をもって遇した。朝賀や年節の儀式が済むと、帝は気楽な席に着いた。あるとき帝があくびをして別の榻に横になると、太妃は驚かせぬよう戒め、尚衣に丁寧に覆いをかけさせ、左右は立ったまま待った。しばらくして帝は目を覚まし、起きて衣冠を整えて詫びた。神祖の御代には天下に事が少なかったのに、この身に至って多難を支えるのに苦しんでいます。二晩も文書を見て一睡もせず、心が乱れて食事も抜きました。まだ壮年を過ぎたばかりなのに国事に磨り減らされて早くも衰え、太妃の御前でぼんやりして自制もできぬ有様です、と。太妃は涙を流し、帝も久しく涙にくれ、宮人たちは顔を上げることもできなかった。

崇禎十四年(1641年)汴梁の囲み解け、諸藩の動揺

  • 帝は汴梁の危急を憂えていたが、まもなく包囲が解け、それが周王のおかげで全うされたと聞いて大いに喜んだ。詔を下して王を褒め、ねぎらって言った。これは高皇帝の神霊が、宗室の子孫が藩屏として固まらぬのを憐れみ、王の心を開いて福を降されたのだ、と。またその意を秦・蜀・楚の諸藩に諭して言った。王たちは洛陽の先例に鑑みぬのか。周王城のようにできれば、城が完からぬ心配も賊が滅びぬ心配もない、と。
  • これより先、粛王の親廟が火の不始末で焼け、位牌も犠牲の器もすべて失われた。賊は皋蘭山に登り乾塩池を渡って慶藩の領域に入った。荆王は革・左の軍(革里眼・左金王)が偽って降ったのを本気にし、よしみを結ぼうとして招き入れ、盛大に帷帳を張り女楽を並べ百人分の膳を用意して兵をもてなした。見た者は皆、賊心を誘発するのではないかと憂えた。
  • その他の王は、当初は遠方で賊が及ばなかったので、書状で見舞いを寄越すだけだった。李青山が済北で暴れ、呂痩子が湖南で跳梁し、益王もまた建昌の妖人の密教に信徒が多いと称された。江湖から海岱にかけて亡命の徒が蜂起し、臨藍や平涼では宗室が賊と通じたとまで言われた。
  • 帝はこれを同姓の深い恥とし、すべては諸王が平素、徳をもって民を導き教化を施さなかったためだと考えた。だから窮奇・饕餮のような者が肉親を棄てて異心に走り、禍心を生じたのだ、と。

周藩の文物と河決の予言

  • 皇族の支族を論ずれば周藩だけが睦まじく、帝は懇ろに周王を宗室の模範とした。周は定王の開藩以来、憲王がその徳を守り、さらに文をもって彩りを添えた。東書堂には古の法書を集め、自ら臨模して石に刻ませ、暇には楽府を作って新曲を付けた。梁園の士女がそれを弦歌し、盛世の響きを奏でた。
  • 太祖の諸子では蜀献王が学を好み、帝は「蜀の秀才」と呼んだ。名儒を選んで講筵に侍らせ、図書を書写・購入して蔵書は甚だ富んだ。一方、周には中原の文物の盛んさがあり、両者は肩を並べて美を競い、周がやや上を行こうとした。
  • 万暦初年、周の鎮国中尉の睦㮮が宗正となり、通儒を招いて経義を講説し、同姓の諸生を教え、『五経稽疑』『帝系世表』を著した。四十年の力を尽くして遺書を訪ね求め、牙籤で分類した蔵書は一万二千五百余巻に上った。内府の秘本にもないものは、西亭と竹居がことごとく校勘した。西亭は中尉その人、竹居はその子である。
  • 王は趙宋の故宮をそのまま寝殿とし、城南には繁台の遺址があった。四方の賢士大夫が裾を曳いて遊びに来る様は、司馬相如や厳助の頃を思わせた。他の王の子弟は闘鶏や犬・馬の遊びにふけり、豪放な若者の遊びが多かったが、汴梁の宗室だけは文詞に富み、身なりも雅やかで、左右には敦・卣・樽・壺の礼器や書画・書物を並べていた。
  • かつて太祖が符を割いて封建した日、器物と典冊を備え、訓詞を添え、彝器を分け与えた。百年にわたる有道の教化が長く続いて子孫に謀を残し、多くが三代の風を備えて彬彬たるものであった。詩に「世々顕らかならずや、その謀は翼翼たり」とあるのは、周宗のことを言うのであろう。
  • 国が天地の間に立てば山川を祀る。黄河と嵩高は周の祭るべき山川である。周は最初の封建のとき黄河の決壊を憂えて洛に遷り、まもなく旧都に戻り、毎年黄河を祀った。端王の晩年、秘記を開いて読むと「王室将に衰えんとし、河決して害を為す」とあった。王は世子に告げて大いに嘆き、二十年後には必ず的中すると言った。
  • 今の王の代になって賊の乱が起こり、黄河はさらに南へ移った。工人が標を立てて水位を測ると、河床は王殿の梁より一尺二寸高かった。春の増水のたびに堤が削られ、官民は犠牲を捧げ玉を沈め、早馬で籌を伝えて水がどこまで来たかを報せ、その速さは烽火のようであった。

崇禎十四年(1641年)秋冬 南陽陥落と唐王の死

  • 汴梁が包囲されて以来、帝は中原を急務とし、丁啓睿を督師に用い、傅宗龍を赦して秦の総督とし、巡按の高名衡を抜擢して李仙風に代えて河南巡撫とした。
  • 九月、傅宗龍は敗れて項城で死んだ。陝西巡撫の汪喬年は誓師して関を出たが、襄城で殺された。
  • 自成は勝ちに乗じて南陽を包囲し、総兵の猛如虎は戦死した。十一月四日、南陽は陥落し、唐王は麒麟閣で殺害された。

崇禎十四年(1641年)十二月 汴梁の第二次包囲

  • 十二月、自成は禹州を陥れた。禹州はもと徽王の封地で、王はすでに廃されて城のみが残っていた。太康王以下、七人の郡王の多くが死んだ。
  • 二十四日、李自成は羅汝才の軍を率いて再び汴梁を包囲した。高名衡が巡按御史の任濬、総兵の陳永福とともに城を守った。丁啓睿は許州にあって戦えず、汴梁に入って賊を避けた。周王は庫金をすべて出して軍を犒い、負傷者にも賊を殺した者と同じ賞を与えた。
  • 賊は衝車で城を突き、扉を背負って穴を掘り、城壁は二十七か所も崩れて、どこも跳び上がれば登れる大通りのような有様となった。永福は吏士を率いて力戦した。賊が飛び火の仕掛けを放って胸から脇腹まで貫かれ、愛する弟や親しい将が背後で砕け散っても、動じなかった。矢を射て自成の目に当て、自ら大砲に火を点じてその大将の上天龍らを殺した。四十昼夜甲を着たまま、鬚眉は焦げ、指からは血が滲み、生け捕り三十三人、斬首一千七百十八級を挙げ、城はついに全うされた。
  • 賊は十五年正月十四日に退いて朱仙鎮に駐屯した。

崇禎十五年(1642年)汴梁の水没

  • 三月癸亥、賊は再び進んだが、攻城で兵を損じたので、長囲を築いて必ず抜くと期した。
  • 帝は先に孫伝庭を秦の総督に起用しており、ここに至って侯恂を用い、援剿の官兵を率いて汴を救わせた。左良玉は近くに陣を構えたが、賊を恐れて撃とうとしなかった。汴梁は食が尽き、人が人を食う有様となった。
  • 九月十五日、黄河の流れが突然決壊した。その音は雷のようで、水は数十丈も沸き立った。周王は七日間、城門のあたりで野宿した。督師の侯恂が総兵の卜従善を率い、舟師で王を迎えた。王は二妃・世子・後宮・貴戚三十余人とともに夜陰に乗じて堤口に達し、河北の柳圏坊、太康伯張皇親の邸に落ち着いた。
  • 民は折り重なって死に、その数は巨万に及んだ。高みに登り筏を縛り縄をくわえて渡ろうとした者もいたが、水勢が激しく、筏がなければ屋根の角に引っかかるか木のてっぺんで干からびるかで、渦を逃れられた者は十に一もなかった。城中は泥に埋まり、二晩で土に返って満ちてしまった。

汴梁水没への論評

  • 易に「地上に水あるは比、先王もって万国を建て諸侯を親しむ」とある。禹が九河を導いたとき玄冥は職を尽くし、魚鼈も順い、玉帛を携えて諸侯が来朝した。三后の末には汾洮が疏通されず、穀水と洛水がぶつかり、龍蛇が陸に上がり百川が沸き立ったと古来記されている。
  • 周藩は皇室の分家として天下の中央に居を占め、封建の後は麟趾の祥、騶虞の瑞に恵まれた。古に魯・衛と称し、今に周京がある。それが猰貐や蚩尤のごとき者が中国で暴れ、巫支祈が猛威を振るい河伯が禍を助け、たちまち士女を沙虫と化し、宗廟社稷を水底に沈めた。十王の典章文物、旧家の礼楽詩書はことごとく水に浸かって沈み、息壤も及ばぬ有様となった。痛ましいことである。

崇禎十五年(1642年)十一月 汝寧陥落と崇王

  • そもそも李自成は、水で人の国を滅ぼすことを心得て王賁の大梁灌漑を真似たわけではない。彼は連勝を恃んで睢・陳を下し宛・洛を巻き込み、一つの都会を得れば得意げに王を称そうとしていた。だが汴が大水に没するのを見て、配下を集めて襄陽に戻って拠る計画を立てた。
  • ある者が言った。楊文岳が真定・保定の兵で汝寧を守り、崇王がなお健在である。もし秦の将吏が関を出て、汝・蔡が背後を挟めば、中原の情勢はまだ決していない、と。
  • 十一月某日、自成はそこで汝寧を下し、文岳を殺し、崇王と世子を捕らえて連れ去った。

崇禎十五年(1642年)襄陽再陥と恵王

  • 賊は兵を襄陽に向けた。福清王は社稷の守り手であったが、公子の兵が至ったため逃れて免れた。これが賊の再度の攻略で、襄が再び亡んだのである。襄について「陥」と言わず「易(たやすく取られた)」と言うのはそのためである。
  • 恵王はとりわけ時運に恵まれなかった。郢一帯の重鎮でありながら、鄖と沅の二巡撫が左右を固めていても賊に矢一本も加えられず、王を奉じて湘潭に移った。天子は上流の地の利からして有司の過失であり、王が守りきれなかったのはやむを得ぬこととして、璽書を下して慰労した。

崇禎十六年(1643年)蘄州・武昌の陥落

  • 十六年正月[欠字]日、張献忠が蘄州を陥れた。荆王はすでに薨じていた。賊は王宮を包囲するよう令し、目についた妓楽をことごとく掠奪した。蘄の人々は当初、王が盗賊を招くのではと憂えていたが、果たしてその通りになった。
  • 左良玉は自成の圧迫を恐れ、武昌を通る際に軍事を楚王に相談した。王は良玉の圧迫も恐れ、しかも彼が動かぬのを恐れて、黙って答えなかった。良玉は辞去して下流へ去った。王はそこで承天・徳安の敗残兵を自ら募って餉を与え、長史の徐学顔に率いさせ、これを楚の新兵と呼んだ。
  • 献忠は漢陽を破り、五月二十九日に煤炭洲で二十艘の軽装の軍をひそかに渡らせた。楚の新兵が門を開いて賊に降った。参将の崔文栄、長史の徐学顔は戦死し、元宰相の賀逢聖は衣冠を正して入水した。王は献忠に捕らえられた。残された財貨はなお百万あった。賊は王を縛って乗輿に載せ、担いで長江に沈めた。

崇禎十六年(1643年)湖南の諸王の流亡

  • 恵王が湘潭へ逃れたとき、舟が陵陽磯で風に遭い、王に従った楚の士大夫とその家族の多くが溺れ、王はかろうじて免れた。
  • 張献忠が長沙を陥れると、吉王と恵王は衡州へ逃れた。献忠が衡州を陥れると、吉・恵・桂の三王は永州へ逃れた。献忠が三王を永州まで追うと、湖南巡按の劉熙祚は人を遣って三王を西粤(広西)へ護送させ、自らは賊に当たって永州に入り、死守した。城が陥ちても屈せず、そのまま殉難した。
  • 当時、湖南の諸邸では、岷王が他の事件で乱に遭い、栄王は先に薨じていた。武岡・常徳の諸王は塵を望んで逃げ去った。豫・楚の十二王はみな没した。

崇禎十六年(1643年)西安陥落と秦・韓・晋・代の諸王

  • 孫伝庭は十万の兵を率いて河南で敗れ、李自成は西へ関中に入った。西安は夜のうちに崩れ、秦王は軹道の恥辱(降伏)を受けた。ただ劉妃だけが慟哭し、国破れ家亡ぶくらいなら死んだ方がましだと言った。長史の章世炯は縊死した。自成は秦王府に入って占拠し、偽の号を僭称した。
  • 楡林の諸将はなお苦戦したが力及ばず、三辺は覆没した。慶・粛の両藩もともに焼け、平涼は四日包囲された後、韓王は捕らえられて殺された。
  • 賊は黄河を渡り、汾州と懐慶を陥れた。福邸の徳昌王は再び逃れて免れたが、太妃とはぐれた。河北・山東の諸王は賊を避けて南下した。賊は太原を攻めて晋王を捕らえ、大同に入って代王を捕らえた。
  • 自成は三月十七日に京師に至り、彰義門に向かって座った。その左右の二人を見知った者がいて、あれが晋王と代王だ、と言った。

諸王の滅亡への論評

  • 紀侯が国を去ったことを春秋は是とし、蜀の盟で蔡侯・許男が楚の車に乗ったことを記さなかったのは、その失位を咎めつつ、滅んだ国を存し旧封を重んずるためであった。
  • 明朝は空名で骨肉を奉じながら、実際にはその権を奪った。だから天王の伯叔という尊い地位にありながら、その勢いは庶民に制せられた。詩に「瑣たり尾たり、流離の子」とある。諸王を責めても始まらない。
  • 礼に「国君は社稷に死す」とある。君子は襄王・福王についてはこれを明記し、秦王・晋王については筆を隠す。城郭が壊れ宗廟が崩れて、なお王が生き残る例は稀なのである。

崇禎十七年(1644年)成都陥落と蜀王の死

  • 自成が京師を犯して国が亡んだ後、献忠は岳陽で長江を渡り、荆門から蜀へ向かった。
  • 蜀の錦綺や百貨は天下一で、蜀王は黄金を作れると世に広く伝えられていた。献王が内府で鴻宝の書を得て以来、子孫は錬金術に長けたが、いずれも蓄えるばかりで用いなかった。王は都城が堅固なのを恃み、蜀の士大夫も蚕叢以来この地は中国と通じていないと考え、もはやさほど憂えなかった。
  • 成都県令の呉継善は江南の人で、才弁があり度量が広く謀があった。賊が秦を占拠し楚を蹂躙して北都からの音信も絶えたのを見て、蜀王の朝廷で痛哭し、書をもって諫めた。
  • 高皇帝は多くの藩屏を建て、碁石のように配置された。ここ数年、命を落とし家名を失い国を喪った数王は、真に道を誤り徳を失って天に見捨てられたのではない。ただ富貴の資産を抱えて安逸を貪り、賊に利用されながら自ら全うすることを考えなかったのだ。これこそ殿下の前車の鑑ではないか。
  • 今、楚の情勢は日に日に悪化し、秦関は失われ、曹(羅汝才)・闖・徭・黄が殿下の左右で跳梁している。それを漫然と放置して顧みない。全蜀の険は辺境にあって腹地にはない。夔関・剣閣に重い守備を置けば十分自ら固められるが、そうでなければ黄牛・白帝も夷の手に落ち、黒水・陽平にはさらに多くの間道がある。それなのに門先を守るだけで険を設けたつもりでいる。これが解せぬ第一である。
  • かつて藺の首領が討滅され献賊が逃げたのは、藺の兵力に欠けがあり、献賊が地の利に不慣れだったからにすぎない。今は荆襄という藩籬が撤され、秦隴という唇歯が寒くなった。賊の情勢を測れば以前にも増して憚りがない。それなのに昔の例を引いて将来を僥倖するのが、解せぬ第二である。
  • 錦城の堅固さは秦関に及ばず、白水の険は湘漢を越えない。これで安心だというなら、彼らはなぜ守りを失ったのか。しかも城は孤注のようなもので、救援は先に尽きる。厳冬になれば長駆はさらに容易で、累卵も厝火もその危急を喩えるに足りない。それでもなお漫然として苟且の免れを願うのが、解せぬ第三である。
  • 殿下のために計るなら、領内の各官を召して議を諮り、国庫金を出して戍卒を養い、古びた粟を放出して飢民を慰め、明確な禁令を出して下男・雑役の悪弊を絶ち、滞納を免じて流民や餓死を防ぎ、民兵を募って要害を守らせ、夷の首長と結んで援けとすべきである。政教を内に修め声勢を周囲に轟かせれば、危を安に、禍を福に転じられる。さもなくば蜀の事は結末が分からない。ひそかに殿下のために危ぶむ、と。
  • 蜀は代々徳を共にし、王も賢明であったので、その書があまりに切実なのを見て動かされないではなかった。しかし祖宗の法では兵を掌らず民事に関与できない。しかも蜀巡撫の陳士奇は迂遠で時務に通ぜず、巡按御史の劉之渤はやや強情で人心を失っており、いずれも力をもって諫争できなかった。継善は繰り返し、高皇帝の制では諸王に討賊を託し保邦を委ねている、万一警戒を怠って守りを失えば、王は身を惜しまずとも、国家を顧みず祖宗を思わぬことになる、と説いたが、ついに従われなかった。
  • 五月に国の音信を確かに知り、七月には夔門から賊が急に迫ると伝えられ、成都は一日に何度も驚いた。[欠字]夜には闖が来たと叫び、翌日には献が来たと叫ぶ有様であった。王はどうしてよいか分からず、宮人とともに荒地へ逃れようと謀り、富家も家族を連れて出ようとしたが、之渤が反対して取りやめになった。
  • 八月四日、献忠が城下に迫った。王はようやく金を出して市に懸け、戦い守る者を募ったが、応じる者はなかった。賊は三日三晩攻め囲み、巨砲で城の東北隅に穴をあけて震わせ、城が崩れたのに乗じて入城した。王は殺害された。劉之渤は賊を罵って死に、呉継善は一門三十六人が死んだ。同時に成都府推官の劉士斗、華陽知県の沈雲祚もともに死んだ。ああ、蜀もついに亡んだ。

瑞王の死

  • 献忠が蜀に入った当初、瑞王は先に漢中が瓦解して重慶へ逃げ込み、賊に捕らえられて殺された。そのとき雲もないのに三度雷鳴があった。
  • 瑞王は宮中で衣服も礼秩も格下げされ、兄弟の王が良い封地を得たのに対し、自分は劣悪な封地で日々兵禍に苦しんだ。秦の将吏は救えず、蜀の帥に頼って援助を求めた。だから危急のときには蜀へ身を寄せ、結局は蜀で死んだのである。悲しいことだ。