綏寇紀略穀房の変(穀房變)

崇禎十年から十二年まで、楊嗣昌の推挙で総理となった熊文燦が招撫策を進め、劉国能・張献忠・羅汝才ら十三家の賊を次々に降しながら、ついに穀城で張献忠が、房県で羅汝才が再び叛くまでを記す。同じころ洪承疇・孫伝庭は洮河・潼関原で李自成を潰走させたが、京師の急で北へ召され、その空白を突かれて郝景春父子が房県に死に、左良玉は羅猴山で大敗した。熊文燦は逮捕されて処刑される。

年表(26件)

熊文燦の起用(崇禎十年・1637年)

  • 熊文燦は貴州瀘州の人。五溪で獠丁や峒戸を使役した経験から兵事に通じると自負し、貴顕となってからは楚の蘄水に移り住んだ。両広総督としては、福建で海賊を招撫した手法をそのまま広東に持ち込み、海賊劉香を扱ったが、恵州の三人の道員が欺かれて捕らえられ、策は失敗した。
  • ほどなく劉香が死んだため褒賞を受けて重んじられ、嶺南は富み栄えたと称された。熊は南方に長く在任して真珠・葛布・孔雀・犀角・象牙などを日々権貴に贈り、交州・広州の支配を長く保とうとして、中央からの徴召を望まなかった。四川湖広総督として西南に十年腰を据えた朱燮元にならうのだ、と称していた。
  • 帝は劉香が本当に死んだのか疑い、また熊文燦がどのような人物か知らなかったので、広西へ薬材を買い付けに行くという名目で宦官を派遣し、内実を観察させた。
  • 熊は宦官を手厚くもてなし、十日も引き留めて酒宴を開いた。宦官が話のついでに中原の賊乱と朝廷のために尽力する者がいないことを嘆くと、酔った熊は机を叩いて「兵事に当たる諸臣が国を誤っているだけだ。自分が行っていれば賊をここまでのさばらせはしなかった」と罵った。
  • 宦官は立ち上がり、自分は薬材採辦の使いではなく上意を帯びて公を観察に来たのだと明かし、この事は公でなければ収まらない、復命すれば召命はすぐに下るから討賊の支度をせよ、と告げた。
  • 熊は失言を悔い、五つの困難と四つの不可を並べて逃れようとしたが、宦官は笑って、それらは自分が帝に願い出れば必ず許されるから、公はもはや辞退できないと言った。熊は言葉に窮して承諾した。
  • 後に督餉侍郎が特設され、奏事が急を要する場合に銀臺司を経由しなくてよくなったのは、いずれもこの宦官の発案である。
  • 熊は蘄水移住によって礼部侍郎姚明恭と姻戚関係にあった。大司馬楊嗣昌は帝の信任を得たばかりで討賊の責を負うのを恐れ、身代わりになる人物を推そうとしていた。姚は嗣昌に取り入っており、帝が兵事を重んじると知って、熊を頼って功名を得ようと熊を推した。嗣昌は「内に後ろ盾がある」として上奏し、熊が起用された。
  • 熊は詔を受けるとまず左良玉配下の六千人を自軍に組み込むことを願い、さらに広東人と火器に習熟した烏蠻の兵一、二千を募って自衛の親兵とし、弓刀甲冑を整えた。

廬山での空隠和尚との対話(十年九月)

  • 九月、支度を整えて嶺を越え、廬山を通ったとき、親しい空隠和尚を訪ねた。和尚は開口一番「公は誤られた」と言った。
  • 和尚は、手勢だけで賊を死に至らしめられるか、大事を任せて一方面を独力で平定できる将がいるか、と問うた。熊はいずれも否と答えた。和尚は、その二つがないのに帝は名声だけで公を用い、厚い期待と厳しい期限を課しているから、一度でも成果が出なければ身に禍が及ぶと告げた。
  • 熊はしばらく黙り、招撫でいくのはどうかと尋ねた。和尚は、公の策が招撫に出るのは分かっていた、招撫自体は善いが流賊は劉香とは違うから慎重にせよ、と答えた。熊は仏前にひざまずき、無事であれば余生を仏門に入れたいと誓い、山中に十日留まることを願ったが、諸将が承知せず出発した。

出師と軍の不和

  • 鄱陽湖の西で火のような流星が現れ、赤い光が水面を照らし、風が起こって船の帆柱が折れ、軍資と兵が多く水没した。占いは不利と出た。
  • 左良玉は宿将で進退を独断し、名目だけの節制を受けるにすぎず、その配下は広東兵と折り合わず「制府には親軍があるのだから我らが賊を殺す必要はない」と悪態をついた。熊はやむなく、南方の人間は水土に合わないという理由で広東兵を帰し、手元に五十余人を残しただけであったが、左良玉軍は実際には熊の用をなさなかった。
  • 嗣昌がこれを帝に奏したので、帝は馮挙・苗有才の辺兵五千を熊に付け、熊はやや意気を取り戻した。

四正六隅の議と鄖撫の帰属

  • 嗣昌は四正六隅の説を唱えて討賊にあたり、鄖陽・襄陽が要害を握るとして鄖陽巡撫を廃し総理に兼務させるよう請うた。勅書が下った後、安徽方面の賊が急となり、情勢上総理を安徽に駐屯させることになったため、鄖撫についても留任を上奏し、前後の主張が食い違った。
  • 兵科都給事中凌義渠がこれを論駁し、鄖撫を文燦に兼ねさせるのは不可、陳良訓を罷免しないのは不可であり、総理の勅書を改めて賢能の者を選び速やかに鎮撫させるべきだと述べた。帝はこれを容れ、戴東旻を鄖陽巡撫とした。こうして総理は安徽駐屯と定まり、劉元斌・盧九徳が禁軍を率いて到着した。

熊文燦の失態と戴罪(十年)

  • 文燦は任にあたって精神が乱れ落ち着かず、兵事は敵味方を知るべきだとして馮挙・苗有才の五千では力不足だと述べ、重ねて辺兵を請うた。
  • さらに清野によって賊を困らせるという策を述べたが、その言葉はきわめて卑俗であった。曰く、蘄州・黄州に来てみると賊が一年近く暴れているのに野には鶏や鴨がおり倉には米があり、長江沿いは豊かで、これが盗賊を招いている。民も穀物もすべて城中に移して閉じ込め、賊に略奪させなければ自ずと退くだろう、と。
  • 朝廷でこれを見た者は嘲笑しない者がなく、嗣昌さえも異議を建てた。帝はその奏を読んで怒り、文燦は特別に抜擢されて任に就きながら出師の期限が過ぎても何一つ策を出せず、辺兵の派遣を待ってから行くというのは賊をなめているのだと責め、戴罪を命じた。
  • 嗣昌は力を尽くして救い、すでに調発済みの真定・保定・山西の兵各三千を与えることで、辺兵をこれ以上動かさずに済ませ、帝の意にも沿う両得の策とした。

舞陽の勝報(十年十二月〜十一年正月・1638年)

  • 劉元斌・盧九徳の率いる禁軍がしばしば戦功を挙げ、十年十二月の戦いで千七百級を斬った。
  • 十一年正月二十九日、舞陽で賊を大破した。総兵黄得功が果敢に戦い、光州・固始の間で四日のうちに三度賊を破り、二千九百余級を得た。恩賞の詔が下るたびに文燦は必ずその中に名を連ね、自分の功績にしようとしたが、帝はこれを許さなかった。

三制府と洪承疇・蜀の危機

  • 当時、天下に三つの制府を置いて討賊にあたらせていた。朱大典と熊文燦にはいずれも宦官が同僚として付き、帝の意向をうかがって上奏し、大司馬と声勢を頼み合っていた。ただ洪承疇だけは京師から遠く後ろ盾がなかったが、長年の労苦を積み、忠信によって帝の信頼を得、また陝西の士大夫の心をつかんでいたので、朝議は多く彼を支持した。
  • 陝西の賊が四川を蹂躙し、四川巡撫王維章は防げず、三十六州県が陥落、成都は二十日包囲され、蜀王の墓の柏も伐られた。輔臣劉宇亮の一族は綿竹で殺され、家難を訴えた。帝は王維章を逮捕して裁き、雲南から傅宗龍を後任に充てた。
  • 宗龍は道が遠く、四川の総兵羅尚文も着任したばかりで、万里の彼方にある四川の士大夫は家を憂えて口々に洪承疇が賊を放置したと怨んだ。詞臣馬之驊と南道御史劉希伯が強くこれを論じた。楚と蜀は隣接しており、嗣昌はちょうど文燦を重用して任に堪えると考えていたので、四川の士大夫が承疇を抑えることは、そのまま熊を助け嗣昌を支持することになった。
  • 陝西巡撫孫伝庭は自ら雄略を任じ、制府が百姓をいたわるのを小さな仁で兵糧の大計を定められないと嫌い、上奏の中でその端を仄めかした。だが陝西の士大夫は最後まで洪承疇に帰した。伝庭が争ったのは国事であり、公忠一体で二人はもともと反目していたわけではないが、嗣昌は伝庭を得て西の賊を支えさせれば承疇を排除できると考えた。
  • 嗣昌は帝に、台諫は朱大典を替えないことを責め文燦を任に堪えぬと疑うが、大典は五県を失ったとはいえ陵墓を守った功があり、代えるにしても内外の諸臣で誰が適任か、文燦は着任三か月なのに厳しく責められ、七年成果のない承疇は賊を放置しても誰も弾劾しない、孫伝庭は近ごろその欠点を摘発する疏を上げ、しばしば自分にも語っていると述べ、裁断を仰いだ。
  • そのとき四川の賊が徽州・階州を経て陝西に戻ったので、嗣昌は帝が必ず承疇を譴責し、文燦は着任早々ゆえ無罪で軍期も緩められると見込んだ。だが帝は、承疇の長年の労苦を知り、粗略な文燦とは比べものにならないこと、また熊が嗣昌の推薦であることを見抜き、他人を陥れて味方をひそかに助ける意図を察して顔色を変え、督臣・理臣の二人ともに時を逃さず賊を討つ責任があるのに、なぜ在任の長短を口実にするのかと言った。人々はこれによって帝の明察は測り知れないと敬服した。

豫楚の賊「十三家」

  • このころ河南・湖広の賊は十五家あり、後に劉国能と張献忠が降ったので十三家と称した。馬進忠・馬光玉・李万慶・羅汝才・恵登相・賀一龍・藺養成・左金王・順天王・順義王の九家がとくに著名であった。順天王は死に、順義王は劉喜才に殺され、残党は許可変を推して主とした。また胡可受は万慶・可変とともに降った。
  • 羅汝才は九営に分かれ、汝才自身と一丈青・小秦王・一条竜が鄖県の四営、恵登相と王国寧・常国安・楊友賢・王光恩が均州の五営であった。馬士秀・杜応金は出自不明だが、いずれも十三家から出た者である。
  • 文燦は招撫の令を刻んで大都市に掲げ、心を明かして諸家の賊に告げ、死罪にしないと約束した。

諸賊の降伏と張献忠(十一年正月〜二月)

  • 十一年正月四日、劉国能が随州で降った。二月十二日、馬士秀・杜応金が夜半に信陽城下で降った。
  • 張献忠は若いころ従軍して総兵王威の部下となり、法を犯して処刑されるところであった。陳洪範が別将として王威を訪ねたとき、献忠ら十八人はすでに衣を脱いで斧鑕に伏していた。献忠は陳を見上げて助命を乞い、洪範が取りなしたが、王威は淫掠の罪は赦せぬと拒んだ。献忠は最後に縛られており、年若く体格が立派だったので、洪範は目をつけて、どうしても赦せぬのならこの若者だけは特に許してほしいと請い、王威は笑って承知した。十七人は処刑され、献忠は鞭百打で放免され、関中に逃げ帰って群盗となった。
  • 献忠は生来凶悪で狡猾だったが、旧恩は忘れず、食事のたびに祝って「陳総兵が自分を生かした」と部下に語った。洪範はそれを知らなかった。洪範は宿将で遵化・永平・登州・莱州で功名があり、一度失脚したが宦官の縁で復帰し、はじめ左良玉とともに討賊にあたった。すでに年老いていた。
  • ちょうど献忠は敗れたばかりで、河南の将羅岱に額を射られ、部下は飢えて多く離散していた。官軍に陳将軍がいると聞き、旧知の人ではないかと喜んで探らせ、その通りだと分かると、美女を飾り立て真珠や絹を携えて差し出し、かつて一言で助けられた大恩に報いていない、いま巡り合ったのは天意であり、部下を率いて降り、馬前で働きたいと申し出た。
  • 洪範はもともと大功を立てたかったので大いに喜び、文燦に伝えた。文燦は制を承けて監軍道張大経に降を受けさせた。巡按御史林銘球と分巡道王瑞旃は左良玉と謀り、献忠が来たところを捕らえようとしたが、文燦は断固として不可とした。
  • 献忠はすでに穀城に入って県城を占拠し、分屯を請い、群賊は四方の郊外にいた。文燦は精兵二万を選んで糧を給し、残りは解散せよと命じたが、献忠は部下はみな壮士で全軍を挙げて従いたいとして十万人分の糧を求め、文燦はためらって決断できなかった。

御史張任学の総兵起用(十一年三月)

  • 三月、帝は御史張任学を河南総兵とした。任学は四川人で粗略かつ学識に乏しく、官職を笠に着て傲慢だったので、朝士の多くは交際を恥じた。御史として江北を巡按したときも軍中で献策はほとんどなく、河南に移って賊が崇王の墓園を焼いたことで厳しく責められると、上書して諸総兵は頼りにならず、文吏の中に兵を知る者がいるから使うべきだと極言した。その言葉はおおむね誇大で、これによって帝の意を試し節鉞を望んだのである。帝はそのまま彼を総兵に任じ、任学は大いに落胆し後悔した。
  • 祖宗の朝では文武両様に人を用いた。帝は公卿が軍事に堪えないことを嫌い、あえて任学を用いて制度と風俗を改めようとしたが、任学はその器ではなかった。御史としても不適格な者が、どうして大将の材たり得よう。ただ武人の体面を崩し、賊に笑われただけであった。楊嗣昌は劉光祚の兵を付けるよう請うたが、帝は改めて羅岱を任学の親軍とした。

天変と諸賊の暴虐(十一年三月)

  • この月、火星が月を犯し、安民廠で火災があった。陝西巡撫は西安の大風と土煙を奏し、黒気が天に連なり、刀剣の刃が火焔を発して音がしたと報じた。
  • 羅山・光山では数十の砦に十万を超える民が避難していたが、馬進忠・恵登相・羅汝才ら五家の賊がこれを撃ち破って残らず、息県・長陵・光州に盤踞し、人を切り裂いて汝水に投げ入れたので水は赤く染まった。馬光玉らは黄安の大霧山で多くの旗を立て、その喚声は原野を震わせた。麻城・蘄州・随州・信陽の一帯は全域が荒廃し、死体が連なった。
  • 兵部侍郎李若星は入朝したとき初めてこれを帝に伝えた。理臣(総理熊文燦)と巡撫はなれ合い、宦官と結んで巧みに法網を避け、口をつぐんで上聞しなかったのである。

嗣昌による諸臣の功罪奏(十一年四月)

  • 四月、嗣昌は剿賊の期限が過ぎたため、職責を果たせなかったと上書し、帝が門地によらぬ人材登用を望んでいると見て取り、職方郎中趙光忭を自分の後任に推した。帝は慰労し、軍中諸臣の功罪を査察させた。
  • 嗣昌は区分して奏した。総督洪承疇は陝西の賊専任だが、賊は陝西から四川に数十万入り、四川を出るとき数万に減っていた。左光先・曹変蛟が捕斬したのはわずか五百余で、賊の損耗は四川の人々の功であって陝西の将士の力ではない。承疇は賊が陝西兵を恐れて逃げ四川を出たというが、もし本当に恐れるなら陝西兵が涪州・万県・松潘・雅州に入ったときに東西へ逃散できたはずで、なぜ江油・竜安に向かい陝西軍に逆らって共に出てきたのか。これを恐れたと言えるか。ゆえに功なく罪ある者は承疇である、と。
  • 総理熊文燦は河南・湖広・江淮の賊を兼任するが、安慶を出て一か月功を奏さず軍報も遅れたので自分が督責を請うた。その後、舞陽・光山の二度の勝利で数千を斬り、最も強大な劉国能・張献忠を国威によって帰順させ、次第にその他を招納しつつあり、河南・湖広の事はほぼ成りそうである。ゆえに功あって罪なき者は文燦である、と。
  • 嗣昌の毀誉は恣意的で公平を欠き、しかも通常の措置を第一の功とし、朱大典を承疇と同じ過ちの者としながら特に大典を寛大に扱い、承疇より上だと言うなど、白黒の区別がなかった。帝もそれを承知していたが、陝西・四川の事には責任の所在が必要だったので、やむなくその上奏を用い、承疇の尚書・宮保を削り、曹変蛟・左光先の二将からそれぞれ五官を奪って、なお討賊にあたらせた。
  • 工科給事中呉宇英はこれに乗じて激しく承疇を誹謗し、陛下が張任学一人を用いれば天下は励みを知り、洪承疇一人を処分すれば天下は懲戒を知る、と述べた。その付会はこのようであった。

洪承疇の追撃と洮河の戦い(十一年四〜五月)

  • 陝西・四川の境にいる賊では李自成が最も強く、次いで一斗粟・一座城・一連鶯および八隊・六隊などがあった。洪承疇は階州・文県から引き返して追い、前駆が礼県に至ったとき、賊は松潘から臨洮・鞏昌へ向かったとの報告を得て、西に転じて馬を疲れさせるほど追ったが、賊はすでに長城を出て西羌の地に入っていた。
  • 曹変蛟が張天禄・賈呈芳を率いて羌中で大戦し、左右に撃ち合って二十七昼夜甲を脱がなかった。賊が塞内に戻ると、変蛟は再び洮河で大戦した。騎馬の使者を立てて奏聞したところ、孫伝庭は賊の小部隊が東進して慶陽を犯し宝鶏を襲ったのに商洛の兵が到着しないとして急報を送っていた。
  • 兵科都給事中姚思孝は承疇をよく知る者であったが、西安が根本であるのに洪が洮河で戦ったのは誤りで策ではあるまいと述べた。
  • 五月、祖大弼が斬首と降伏を合わせて数千と報告し、陝西総督の捷報が相次いだ。帝は、承疇が洮河へ行ったのは賊を避けたためではないと自分は分かっていた、いま果たして晩年の収穫があったのだから、さらに励むべきだと述べた。

人事と戦況(十一年六月)

  • 六月、楊嗣昌は東閣大学士に昇進し、なお兵部を掌った。呉甡を兵部侍郎に召し、御史徐一范を河南巡按とした。
  • 太監劉元斌・盧九徳が遂平の包囲を解き三千余を斬獲したと報じた。
  • 陝西の賊が陽平・白水から再び四川に入り、四川巡撫傅宗龍は雲南兵二千を率いて四川総兵羅尚文と戦守を謀った。陝西と四川が互いに責任を押し付けなかったのは嗣昌の中傷が通じなかったためである。

楚撫余応桂の失脚

  • 湖広巡撫余応桂は剛直な人物で、顕陵を守った功を自負し、節を屈して文燦に従うことを潔しとしなかった。劉国能・張献忠の降伏はいずれも彼の管轄地で起きた。
  • 嗣昌は内心合わないながら表向き厚く交わっていたが、応桂が文燦と議論を異にすると、既成の局面を乱すことを恐れた。折しも茶山で賊の逃げ出した部隊を挟撃する作戦が湖広の分担であったため、文燦は応桂を期限遅れで軍を誤ったとして弾劾した。帝は応桂を知ってはいたが承疇ほどには信頼せず、嗣昌が中から罪を裏付けたので、ついに応桂は吏に下され、南京尚宝卿方孔炤が後任となった。

裕州の招撫会議と献忠の要求

  • 馬進忠・羅汝才ら十三家の賊が南陽に集まると、文燦は監軍・巡撫と裕州で会議し、もっぱら招撫に意を注いだ。賊を殺した民は死をもって償えと命じ、帰順しない賊には牲・酒・金帛を贈って追随した。その招撫は「賊にへつらって求める」と呼ばれた。賊が河南の地を蹂躙したのは湖広以上であったが、効き目はなかった。
  • 姚思孝は面と向かって咎めるのを好み、嗣昌らについて帝に、賊が湖広に入れば湖広巡撫を弾劾して罪を逃れ、賊が河南に入れば河南巡撫に任せて功績とするなど許されるのか、と述べた。
  • 張献忠は劉国能と仲が悪かった。国能は降るとき頭を下げ、愚民として不義に陥ったが明府に洗い清めていただき生き直せる、部下をすべて幕府の軍籍に上げ、自身は麾下に入って死力を尽くしたいと述べた。
  • 献忠は強大を頼み県城を占拠して兵を手放さず、自分に十万人分の糧を与えれば鄖陽・襄陽・荊州の三郡を防衛し長く無事に保てると言った。献忠は険悪で狡猾であり、制府の檄が届くと手を捧げて再拝し、使者に会えばむせび泣いて身を粉にすると誓ったので、文燦も林銘球もこれを信じ、官職と糧の支給を請うた。許可の返報を得ると、文燦はただちに六月分の糧を与えた。献忠は軍の状況を報告して調発に備えると称したが、その後、推官程九万らに兵を動員させ三度檄を発しても応じなかった。
  • 余応桂は率直だが粗雑で、これより先、文燦に、献忠の悪はすでに兆しがあるから発覚前に捕らえられると進言していた。それを漏らす者があって献忠に知れ、献忠は鄖陽巡撫戴東旻に公文を送って猛り立ち、公らは余応桂の書状を証拠に自分を疑っているのだと、きわめて不遜な言辞を用いた。
  • 文燦はこれを理由に重ねて応桂を弾劾し、南方では献忠が反したという噂が広まっているが、応桂らが流言を唱えて事を構えては国事はどうなるのかと述べた。帝はその書状を刑部に下し併せて調べさせた。文燦は、帝が新たに帰順した者を安んじる立場から応桂を必ず重く論じると知り、また献忠は狡猾で変心の恐れがあるから、この書状を罪の帰着先にできる、事が成れば自分の功、成らなければ応桂が釁を開いたことにできると計算した。朝士は次第に応桂を冤罪とし、文燦のやり方はひど過ぎると考えた。ああ、人を陥れて自ら免れようとするのは、かえって禍に向かう道である。

豫撫常道立の虚報(十一年七月)

  • 七月、河南巡撫常道立が功を実状どおりに報告しなかったため、帝は巡按御史徐一范に調査を命じた。
  • 道立は軍の統率が乱れ、贈答や宿泊の接待を県に求めて千金を取り立て、長く襄城に駐屯して、表向きは睢州・許州を防ぐと称しながら、実際は賊のいない土地を貪っていた。
  • 裕州の会議のとき、ひそかに唐県・泌陽の間に兵を出し、賊が桐柏山に入ってから動こうとした。まだ完全には引き上げていない賊の殿軍があり、賊が来たとの報せに道立は恐れて倒れ、左右に助けられてようやく起き上がり、民家に逃げ込んで歯を鳴らした。陳永福が恐れることはないと言い、厳しく陣を布いて待たせたところ、果たして賊は襲わず、事は収まった。
  • 道立はもともと総理に依存して禄を保つつもりであったが、招撫が必ず破綻すると心配し、後で連座するのを恐れて、事前にわずかに異論を見せ、偽の勝報を張り立てて帝を欺き、自分は賊を殺す意志があり理臣の策には賛同していないと表明した。大司馬(嗣昌)はこれを憎み、劉・盧の宦官に弾劾させ、台諫も彼が報告した首功と月日の食い違いを暴いた。
  • 礼科給事中解学尹は推薦の裏事情を突き、道立は初め賊を恐れる心が罪を恐れる心に転じ、次いで財を貪る心から功を貪るに至ったと述べ、また、理臣は一つの手落ちの責を楚撫に押し付け、豫撫は全局の崩壊を理臣のせいにしている、これは臣として不忠の計であり、後の責任を免れ余罪を逃れようとするもので、心を合わせ力を併せて国のために働く意志がないと論じた。
  • 帝は、これほど無能な道立をどうして用いたのかと推薦者を追及した。嗣昌は二か月前に道立の功を特に奏していて、その上奏が御前にあったため、答えられなかった。

帝の譴責詔(十一年)

  • これより先、帝は文燦の人となりが軽々しく大言して実がないと見て、密偵を遣わして実情を得ていたので、詔書を下して叱責した。三軍で重んじられるのは威と決断であるのに、文燦は権を握りながら諸将の多くは進まず賊を養い、賊の害を受けた郡県は互いに隠して報告せず、賞罰を厳しくし摘発を行うこともできない。軍中でただ気負って罵り、勝手気ままで浅薄では人を統御できない。進退の機宜について軽々しく口にして決断が少ないのは軍の大禁である。改めなければ身をもって法を試すつもりか、と。
  • 帝は陝西総督には璽書に四川人の上奏を封じて示し、併せて曹変蛟・左光先の二将にも諭した。廷臣は陝西の将吏に失亡が多くみな証拠があると言うが、朕は戦場での苦労を思ってしばらく罪を許してきた。いま洪承疇は五か月で賊を平らげられず一年の延期を求めるが、一年とは今冬のことか、それともいつなのか。恩赦の詔は何度も得られるものではないから、速やかに時を逃さず進兵せよ、と。二人は譴責を受けて恐れ入った。

潼関での孫伝庭の迎撃(十一年八月)

  • 八月、承疇と伝庭は兵を合わせて賊を追い、申州・宜陽で終日大戦した。まもなく邠州・寧州の間で賊に遭遇し、自ら陣に突入して首領を捕らえ、みな俘虜としたが、残党はなお盛んであった。
  • 河南の賊馬進忠・馬光玉は南陽・洛陽一帯の衆を駆り立て、輜重を広げて西へ向かい、関に迫って入関しようとした。関の役人が賊の来襲は大軍だと伝え、将士に顔色を失う者もあった。伝庭は剣を按じて怒り、逆徒が自ら死にに来たのに撃たずにおれるかと言い、承疇に別れを告げて東へ関を出、厳しく陣を布いて待った。
  • 賊は好機に慣れきっていたので、突然大軍を見て驚いたが、数を頼んで前進して戦った。伝庭が兵を指揮して撃つと、賊は営を引き払って逃げ帰った。
  • 伝庭は、豫撫が軍を移して犄角の勢をなし、理臣が鄖陽・湖広の二巡撫と共に前に営を張り後ろを断てば、「混」「回」の賊を取ることは万全だと考えた。だが長く待っても来ず、陝西の将士も疲れたので、兵を収め、商洛・朱陽・蘭草の諸隘に触れを出して賊を入れないようにするにとどまった。
  • 給事中李清・李希伉、御史羅起鳳はいずれも文燦と道立が失態の罪に当たると咎め、河南の士人劉之鳳らも招撫は策でないと強く論じた。帝もまた関中の二臣には剿と撫に成算があり、文燦は到底比べものにならないと見た。

雙溝の大勝(十一年九月)

  • 九月、熊文燦は襄陽に駐屯した。賊は鄖陽・襄陽の要害に分かれて拠っていた。諸将は朝、数か月来招撫が決着せず、いま将吏は奮い立って命を捧げようとしているのに、陝西の人間だけに功を独占させてよいのかと請うた。
  • 文燦は兵を分けて機に乗じ襲撃しようとしたが、盧九徳は、兵を分ければ力が薄くなり一か所が敗れれば全軍が動揺する、一路に厚く集めて力を併せて撃ち、勝てば残りは瓦解すると説き、皆が賛同した。
  • そこで道臣張大経に左良玉・陳洪範の軍を監させ、通判孔貞会に雲南兵を率いる副将龍在田の軍を監させて、雙溝営で賊を撃ち大破し、二千余級を斬った。
  • もともと盧象昇が九年九月に龍在田の兵を調発して討賊にあて、襄陽に至ったとき象昇は入援に向かったので、鄖陽巡撫陳良訓が引き取るよう請い、まもなく詔によって文燦に属した。しばしば功があったが、禁軍が襄陽に着いたのを機に、親の病を理由に帰郷を懇願した。帝は許さなかった。
  • 賊の羅汝才は九営を率いて均州へ去り、李万慶は仲間三人を率いて光州・固始に逃れた。文燦の出師以来、雙溝の勝利が第一であった。後に汝才・万慶が降り、献忠がすぐには叛かなかったのも、いずれもこの勝利が抑えとなったからである。

潼関原の伏兵と李自成の潰走(十一年十月)

  • 十月、洪承疇は伝庭に、羌中・洮河での戦いに続き馬科・賀人竜を陽平・白水に遣わして追わせたので、李自成は窮して必ず潼関へ逃げる、貴殿がその地に三重の伏兵を設けて待ち、自分が追い立てて送り込めば一戦で捕らえられる、と謀った。
  • 伝庭は潼関原の丘陵に沿い林木に隠れて五十里ごとに一営を置いた。曹変蛟が自ら長刀をとって賊を駆り立てると、賊は伏兵の中に走り込んで乱れ、踏み合った。官軍は勇猛で一人が百人に当たり、逃げ道は絶たれて逃れる術がなかった。
  • 辛うじて免れた者は刀や馬を捨てて漢水南岸の山中に逃げたが、村塢の山民もあらかじめ督撫の命を受け、白い棒を持って険所を塞ぎ、出会うたびに打ち殺した。こうして陝西の賊は尽き、降った者はなお数十万、捨てられた武器は丘のように積まれた。降人は鎮将に分属させるか農地に帰らせた。李自成は妻子を失い、七人を従えて逃げ去った。
  • このころ曹変蛟の兵が最も強く、各鎮の兵はみなこれを頼りに固めとした。賊は曹将軍が来たと聞けば肝をつぶして進めなかった。変蛟は戦うたびに数日食事をとらず、部下と苦楽を共にし、降人を収めてよく用いた。かつて李自成の中軍周山を得て厚遇し、腹心として頼った。山は陣に臨むと必ず身を挺して賊に当たり、自分がいるのにどうして手出しできるかと言い、賊は驚いて散った。
  • 帝の手勅を受けたとき、副将張天禄・賈呈芳は変蛟に、上は我らを厳しく督励しておられる、いま陝西の賊は八股あり、我らが三股、諸帥が五股を担えば功罪の区分がつく、督師に申し上げてはどうかと言った。変蛟は、賊は三か月と経たずに尽きるのだから告げるまでもないと答えた。潼関原の一戦で平定を奏したのは、期限までなお二か月あるときで、諸将はみな敬服した。
  • この月、総督剿餉の傅淑訓が辞職し、在野の張伯鯨を戸部侍郎として代えた。

羅汝才の降伏と穀城の擾乱(十一年十一月)

  • 十一月、京師に急があり、帝は孫伝庭・洪承疇を召して入援させた。羅汝才は雙溝の敗戦を恐れ、九営の賊を率いて鄖陽の浅瀬を乱れ渡り、太和山提督太監李継政に降伏を求めた。継政が総理に照会し、文燦は許した。
  • 文燦は上奏して、射塌天・革里眼・順義王・老回回の四股は討伐、その他の九股は招撫を主とする方針を述べ、いま汝才の誠意は本物であるから罪を赦し遊撃将軍を授けて従軍させたいと請い、勅許を得た。
  • 汝才はなお躊躇していたが、房県知県郝景春が単騎でその陣営に赴き、汝才および部下の白貴・黒雲祥と血をすすって盟った。翌日、汝才は部下を率いて軍門に出頭して降った。文燦は諸将に命じて牲畜と酒食を盛大に用意して饗応した。汝才は房県・竹山・上津・保康の四邑に分かれて駐屯した。
  • 文燦は檄を発して従軍し功を立てよと命じたが、汝才は官になりたくないし糧も要らない、百姓となって山の田を受けて耕したいと言った。
  • 穀城の張献忠は汝才と遠く呼応した。献忠の配下の賊はしばしば野外に出て略奪し、知県が捕らえてその営将に告げると、初めはわずかに処罰したが、やがて略奪は激しくなった。知県阮之鈿が告げても聞き入れず、上司が糧を出さないから食を借りているだけで、糧を得れば自ずとやむと言い放った。こうして村民は逃げ尽くし、略奪は市街にまで及び、少しでも拒めば刃を向け、数十人を殺したので城中は騒然となった。
  • 鄖陽巡撫戴東旻は上奏した。羅汝才は屯田と偽って部下を占有し、兵を解いて農作させたことはない、これは刀を帯びて耕すもので、少しでも追及すれば立ち上がるだけだ。張献忠は県城を占拠して兵を弄び、豺狼のごとき人物で長く同居できない、住民を分割し春の耕作で腹を満たし甲を休めて我らの隙をうかがうだけである。両部が同時に動けば荊州・襄陽の禍は際限がない。愚考するに、賊は散れば追いにくく集まれば滅ぼしやすい。いま檻の羊、落とし穴の獣のように二、三百里の中に囲まれているのだから、理臣に鄢・郢の兵を、督臣に関中・隴西の兵を率いさせ、不意を突いて枚を含ませ急行させ、黒山に張燕を討ち赤壁に曹操を焼くようにすれば痛快ではないか、と。
  • そのころ孫伝庭はすでに兵部添設侍郎に昇っており、真定に着いたと聞くと張其平の後任として駐屯させ、まもなく副都御史を加え尚方剣を賜って援兵を提督させた。洪承疇は陝西総兵左光先・臨洮総兵曹変蛟を率いて強行軍で入援した。劉元斌・盧九徳の禁軍は北に帰った。朝廷は文燦が独力では賊を平定できないと知り、その策を退けて用いなかった。

許州の兵変(十一年十二月)

  • 十二月、帝は陝西左布政丁啓睿を右僉都御史・陝西巡撫とした。
  • 河南巡撫常道立が左良玉を陝州に転じさせたため、賊は盧氏の手薄に乗じて内郷・淅川に逃げ込んだ。熊文燦がこれを弾劾し、帝は御史徐一范に事実を調べて罪を定めさせた。
  • この月、賊の馬進忠らは信陽の竜井店、蘄水の六廟・柴家河・松山に営し、馬光玉らは蘄州・黄州・羅田の境の三里坂口に営して、偽って降伏を乞い、その隙に滴水巌・楊家寨を破った。
  • 二十四日、河南許州で兵変が起きた。もともと馬士秀・杜応金が降ったとき、左良玉はその衆八千を許州知州董夢蘭に郊外で処置させていた。許州は大きな州で、左良玉は妻子を預け、諸将から贈られた財物も多くそこにあった。左が長く遠征して帰らないうちに、士秀と応金は軍中で急を装って休暇を請い、その日に左軍の合言葉を伝えて入城し、夜半に兵が屋敷から出て南城楼を焼き、蔵を掠め、官吏数人を殺し、財貨を携えて李万慶のもとへ走った。董夢蘭は逃れて助かった。
  • 三十日、李万慶が麻城の東義河に営した。

諸賊の転戦と人事(崇禎十二年己卯正月・1639年)

  • 正月一日、李万慶が信陽の游河で官軍と決戦した。六日、監軍武昌道袁継咸が辰州営の兵を率いて白雲寨で馬光玉らを撃退した。
  • 十日、李万慶が応山の四望山・黒山寺に営し、翌日は徳安の千石畋に移った。馬光玉は黄陂の木蘭山・柏木港に営した。湖広巡撫方孔炤が官軍を率いて道を分けて賊を追った。
  • 十七日、馬光玉らは信陽州の北欄杆店に営し、さらに西の平昌関・瓦営に移ったが、官軍が戦ってこれに勝った。
  • 十九日、帝は洪承疇を薊遼総督、孫伝庭を保定・山東・河北総督とし、いずれも元の官位のままとした。
  • 編修張縉彦を兵科都給事中に改めた。
  • 二十五日、河南巡撫常道立が罷免された。
  • 二十九日、寧夏巡撫鄭崇倹を兵部右侍郎・陝西三辺総督とし、山西参政李仙風を河南巡撫とした。

入援と督撫の不興(十二年二月)

  • 二月、湖広巡撫方孔炤が兵を率いて木蘭山で賊を追い大破した。陝西按察使樊一蘅を寧夏巡撫とした。
  • 総兵左良玉が新たに帰順した劉国能を率いて入援し真定に至ると、詔で左良玉に銀三十両を賜り、河南に還って討賊にあたらせた。
  • 御史王倓を陝西巡按、高名衡を河南巡按とした。
  • 保定総督孫伝庭は入援して一人先に到着したが、京師に参内できず、軍事について公の譴責を受け、さらに宦官の怒りに触れて詔で厳しく責められた。洪承疇は途上で兵の逃亡が多く、この月二十九日にようやく三河に着いたが、詔で迎え労い、左光先以下の三軍の者に恩賞があり、承疇には参内が命じられた。伝庭は不満を募らせた。
  • 左良玉の援兵が壩頭・呉橋を通過する際に大掠奪を行い、太監盧九徳がその罪を上奏した。帝は軍紀を犯したことに激怒し、戴罪のうえ首謀者を捕らえて処刑せよと命じた。

招撫の推進と人事(十二年三月)

  • 三月、帝は劉国能が従軍して功を立てたことを思い、手詔で兵部に官を与えるよう諭し、その配下で功ある者も区別して昇進させ、張献忠も衆を率いて功を図れるならこれに準じるとした。
  • 督餉侍郎張伯鯨が、賊が次第に平らぎ軍糧の負担が重いとして兵の削減を請うたが、詔で許されなかった。
  • 張任学は中軍羅岱以下とともに八戦八勝と報告した。任学は兵を知らず、小さな勝ちを借りて責めを塞いだのであり、まもなく羅岱の失態によって位を貶された。
  • 帝は嗣昌を召し、陝西巡撫丁啓睿はどのような人物かと尋ねた。嗣昌は、陝西の督撫である承疇・伝庭が長く共に仕事をして皆その才を称しているから必ず用いられると答え、帝はうなずいた。嗣昌はさらに、人を知るのは難しい、鄖陽巡撫戴東旻は以前河南で左良玉の軍を監したときは功労が著しかったが、いま鄖陽を撫して成果が進まないと述べた。帝は、不可と分かっているなら調査すべきだと言い、続いて誰が保定総督に適任かと諭した。
  • そのころ孫伝庭が病を理由に辞任を請うて帝の意に逆らい、帝は交代を考えていた。嗣昌は、伝庭の才は惜しい、罪があっても励まして自ら償わせるべきで、いま伝庭を代える適任者がいないと述べた。洪承疇も二十九日の召見で伝庭のために請うたが、帝は黙っていた。
  • 史可法が父の喪に服し、戴東旻は解任された。淮陽道鄭二陽を安徽巡撫、監軍道王鰲永を鄖陽巡撫とした。
  • 戸部侍郎許世藎は供給不足のため属官ともども吏に下され拘禁された。
  • 河南盧氏の挙人牛金星が不法の件で辺地流刑に処された。金星には賊と通じた形跡があったが、担当者が獄を売ったので減刑されたのである。
  • この月、雲南営の副将龍在田が固始で賊を大破し三千五百級を得た。信陽道宋一鶴は毒を仕掛けて賊を誘い、中毒死した賊は千人に及んだ。

馬進忠・李万慶の降伏(十二年三月)

  • 総兵左良玉が鎮平関で賊の馬進忠を破り、進忠は降った。良玉は副将劉国能とともに張家林・七里河で再び賊の李万慶を破り、万慶も降った。賊の順義王は部下に殺された。
  • これより先、汝南道が射塌天李万慶の西行を報じたので、熊文燦は左良玉に檄して新野に軍を移し、郭灘から南陽へ向かわせた。賊は唐県の姚梁に拠って抗した。
  • 官軍は三隊に分かれ、金声桓・白我志・傅定邦が左、李佑・何日徳・何大傑・陳光裕が右、王修政・許謙亨・寧崇節が中央に配された。左翼が正面から迎え撃って賊を破り、三山まで突入して五十里追撃した。
  • 王修政は武勇が並外れており、中軍を率いて勝ちに乗じ、二本の矛を挟んで一丈五尺の溝を跳び越えようとしたが、馬の足が泥にはまり、群賊が槊を集めて刺した。胸を傷つけられて落馬しながらなお数十人を斬ってから死んだ。賊は狡猾で、官軍が勝って勢いの極まったところを撃つのを常とし、これを「打倒翻」と称した。官軍はそれと知らずその計にはまり、修政の一軍は全滅した。文燦は二営の兵を収めて止まった。
  • 再び良玉に檄して賊を追い詰めさせ、内郷に至った。賊は赤眉城・四平岡で山に依って塁を築き、帰順を願うと言った。良玉が文燦に諮ると、文燦は誘いの兵ではないかと恐れ、河南の将陳永福・羅岱、山東の将金声桓を調発し、鄧州を発して南陽を経て賈宋に集結させ、副将劉国能とともに進み、張家林・七里河から分かれて賊を撃った。
  • 賊が逃げると国能に二十騎で偵察させ、併せて説得させた。李万慶が五十騎で駆け下り、官軍は矢をつがえて放とうとしたが、賊は下馬して国能を拝し事情を述べ、副将朱国強を左良玉のもとに遣わして帰順の意を伝えた。
  • ただ許州で叛いた旧党の于汝虎が誅殺を恐れて異論を唱え衆を惑わしていたので、これを縛って誠意の証しとしたいと申し出た。二十三日、汝虎を後ろ手に縛って降り、内郷城下に置かれた者は四千人であった。

十三家の帰順状況

  • そもそも諸賊は潼関で孫伝庭に挫かれてから、混十万馬進忠はやや衰え、射塌天・革里眼・順義王・老回回の四部だけが推されていたが、中でも射塌天が最も強かった。進忠と万慶が相次いで帰順し、許州で叛いた馬士秀・杜応金も再び自ら帰順すると、諸営は次々に動揺した。劉喜才という者が夜に順義王の首を取って信陽道宋一鶴に帰順し、残党は許可変を推して主とした。
  • 文燦は上奏して、自分の兵威が震え上がらせたので降る者が相次ぎ、十三家の賊のうち革里眼・左金王および馬光玉の三部だけが罪に服していないが、年月をかければ破れると述べた。

張献忠の穀城反乱(十二年五月)

  • 五月、帝は四川参政邵捷春を四川巡撫とし、前の四川巡撫傅宗竜を召して兵部尚書とした。楊嗣昌は兵部の職務を解かれて内閣に戻り政務を助けた。嗣昌は文燦を推したのは人を知る眼識だと得意げにし、一時は公卿も天下に賊はいなくなったと言った。だが間もなく張献忠が穀城で反した。
  • 献忠が初めて穀城に入ったころのこと。新野の丁挙人の妹が河南に嫁ぐ途中で献忠に捕らえられ子を産んだ。献忠は当地の郷紳で松江知府の方岳貢の空き屋敷にその妻子を住まわせた。方は知府として清廉の名があり、献忠は書を送って、人が皆あなたのように金を愛さなければ自分がどうして賊になろうか、と言った。丁挙人が来て会うと、総理は厚遇して献忠の心をつなぎ止めた。
  • 盲人の王又天は星占いに長け、監軍道張大経の食客であった。文燦は大経に檄して穀城に入り監護させ、又天を同行させた。献忠は自分と子の干支を示し、又天は再拝して祝し、人を退けて「これは口にできぬほどの貴相です」と言った。献忠は心を動かされた。
  • 穀城の挙人王秉真は度量の大きな人物で軍府に自由に出入りし、諸生の徐以顕は陰険で無頼の者であったが、献忠に孫子・呉子の兵法を教え、三眼銃・狼牙棒・埋伏・連弩・団営・方陣・左右営などの法を作った。穀城で二年間演練し、賊は僭称して徐を左丞相とし、献忠は大いに喜んでその計謀をよく用いた。
  • 穀城の城下には漢水と沔水の合流する河があり、献忠は関所と橋を設けて税を取り、月々数千金を得た。陳洪範の軍士が草むらで義武営の関防(印)を拾うと、そのまま献忠に与えるよう請うたが、兵科都給事中張縉彦が不可とした。
  • これによって献忠はますます驕り、際限なく要求した。穀城知県阮之鈿は禍福を説き、劉将軍(劉国能)の例をご覧なさい、これが赤誠の効です、不肖の私も一家をあげて公を保証する上書をしており、朝廷は詔書を下して死罪にしないと約し、車を牽き糧を運ぶ列が道に絶えないのに、何を疑って自ら不義に踏み込むのか、と諭した。
  • 献忠は猜疑と恨みを積もらせ、汚い言葉で罵った。之鈿は憂憤のあまり病を得、壁に「聖賢の書を読み尽くしてこの浩然の心性を成した、努めよ、身を殺して仁を成し賢良方正の名に背くな」と題した。之鈿は薦挙によって身を起こした人で、自分の死を覚悟していたのである。末尾には「穀邑の小臣阮之鈿、闕を拝して恭しく辞す」と書き、以後は執務に出なかった。

  • 五月六日、献忠は城を壊し蔵を掠め囚人を放った。阮之鈿は毒を飲んでまだ絶命していなかったが、賊は馬元利に印を求めさせた。之鈿が手を振って渡さないと、傍らの二人の賊が刀を振るって斬り、之鈿は死んだ。家人が印を出すと、賊は火を放って役所を焼き、之鈿の遺骨も灰となった。陳洪範が穀城防衛の助けに派遣していた将の馬廷宝・徐起祚は、献忠に脅されて去った。

  • 文燦は密疏で報告した。張縉彦はこれを論駁した。張献忠が禍心を抱いていることは賢愚を問わず皆知っているのに、文燦は賊に欺かれて日々官階と恩賞を請い、殺人・強奪の跡は言葉を巧みにして隠し、その企みを察知した者があれば遠ざけて上聞させなかった。賊が猛威を振るって関を斬り血を流し巣窟に逃げ込んだ以上、総理たる者は庸から濮まで兵を分けて追捕すべきである。ところが御前に下された密奏を見ると、献忠が略奪したのは理臣が職務に力を尽くさぬことを恨んだからで、張大経の請うとおり月々の糧を与えて貪欲を満たすほかない、とある。それに従えるのか、従えないのか。州郡を攻め奪う雄を「刃を逃れて肝をつぶした」と言い、山谷を駆け巡る勢いを「鼠のように逃げて道に窮した」と言い、強兵を擁して異志を抱くのを「反の形はまだ現れず先手は打ちにくい」と言い、名城を屠り官吏を殺すのを「命を借りるのは束の間で、縛り取るのは難しくない」と言う。取り繕いが筋違いで、欺きがはなはだしい。臣は理臣を弁護できない、と。
  • 帝はついに文燦の帯びる官をすべて削り、平服のまま賊にあたって罪を償わせた。嗣昌は上奏し、国家が重臣を置き換えれば兵と糧はすべて新たに区画し直さねばならず、左右に支えるのが精一杯のいまは改めるのが極めて難しいので現状の局面に責任を負わせたのだが、まさか委任に背かれるとは思わなかったと述べ、早く総理を交代させなかったことを自らの罪とした。

房県の攻防と郝景春父子の死(十二年五月)

  • 献忠が穀城を出ると房県を激しく攻めた。鄖陽属下の四城は荒れ果てていたが、房県だけは有能な知県郝景春が民を呼び集めて城に籠らせ、守りがほぼ整っていた。羅汝才はこれに寄って甲を解き屯田すると称し、形勢を眺めていた。献忠は、必ず汝才と示し合わせて共に反するが、房県を破らなければ汝才は反乱を決断しないと言った。
  • 景春の子で諸生の郝鳴鸞は万人に当たる力があった。穀城の変を聞き、父に、我が城は賊の衝路に当たるのに弱兵二百でどう守るのかと言い、甲を着て汝才の陣営に行き、香火の盟を忘れたのか、乱に加わるなと言った。汝才は生返事をしたが、鳴鸞はその目つきが動いたのを見て、信用できないと判断した。
  • 帰って守備の楊道選とともに兵を授けて城壁に登らせ、まず賊の先鋒上天竜を城下で斬った。密使を城から吊り下ろして文燦に救援を求めること十四度に及んだが、返事はなかった。
  • 五月二十五日、献忠の騎兵が大挙して到着した。守兵が土塁から見下ろすと、献忠の兵は白旗、汝才の兵は赤旗で、やがて白と赤が馬を並べて語り合った。白旗の軍は衆を分け、一方は北から回って西城を、一方は東から回って南城を攻めた。曹操(羅汝才)営の白貴・黒雲祥は馬を進めて、城を我ら曹営に譲って門を開き会見すれば他意はないと保証すると叫んだ。献忠はまた張大経の檄をもって降伏を諭したが、景春は怒って罵り応じなかった。
  • 鳴鸞は戦いながら守り、五日五晩持ちこたえた。大砲を撃ち落石を落として賊を多く殺した。賊が板を背負って城壁に穴を開け、城が崩れかけると、鳴鸞は薪を積んで釜の油を煮え立たせ、注ぎかけて殺した。さらに献忠を撃って左足を傷つけ、その愛馬を殺したので、兵も民もいよいよ奮い立った。景春は間者を賊の壁に入れてひそかに献忠の寝所の幕を突き止め、夜襲して捕らえる計を立てた。
  • 鄖陽衛指揮の張三錫は、文燦がかつて降人の処置のために派遣した者で、以前から汝才と通じていた。三錫は北門を守り、汝才の旧屯はその外にあった。二十九日、汝才が人を遣わして旗を振り「南城が陥ちた」と騒がせると、守兵は驚いて潰え、三錫は門を開いて汝才を迎え入れ、城は陥落した。
  • 張大経は景春を引き込んで自分の悪事を分担させようと、汝才に景春の降伏を説かせたが、応じなかった。献忠が倉庫の銀と米はどこかと問うと、景春は、死にぞこないの賊め、倉庫に物があったら城がお前に落とされるものか、と叱りつけた。賊は怒って宋典史を殺し、さらに一人の守備を殺して景春を恐れさせようとしたが、景春は動じず、子の鳴鸞ともども殺された。義僕の陳宜も死んだ。

均州五営の盟約と王光恩

  • このとき九営がすべて反したと道々に伝わり、均州の新たに帰順した衆は討伐されるのを恐れて疑心を抱き、また献忠が強いので併呑されることを憂え、会議は昼になっても決しなかった。
  • 王光恩だけが奮い立ち、丈夫は自ら門戸を立てるものだ、いま献忠が反したから我らも反するというのでは献忠の下風に立つことになる、諸君にできても自分は恥じて従わない、と言った。諸校は皆呆然としてから賛同した。左右を見て地を掘り牲を埋めて盟おうとすると、光恩はただちに指を噛んで血を出し、これでは血をすするに足りないかと言った。王国寧も指の血を出し、恵登相・常国安・楊友賢が順に従った。
  • 均州から房県・竹山に通じる要地は三か所あり、王国寧は分水嶺、常国安は江廟、恵登相は白菓樹を守ると願い出て、献忠が来れば迎え撃って逃さないと約した。
  • 光恩は制府に書を上げ、自分たちは反していない、むしろ反した者を撃つのだから、流言を禁じて逆順を区別し軍士の心を安んじてほしいと述べた。均州の太監李維政がこの件を上申した。
  • その後、五営も乱に加わり、王光恩だけが従わなかった。最後に王国寧・常国安は閣部に従って討賊にあたり、恵登相は左良玉に仕えて終始を全うしたが、これも王光恩の言葉が発端になったのかもしれない。
  • 癸未の年(崇禎十六年)、李自成が光恩を攻めて敗れた。鄖陽巡撫徐啓元、守道高斗枢、鄖県の柴孝廉が光恩を鄖陽に招いて共に守り、自成は襄陽から攻めてきたが二年半かかっても落とせず、しばしば挫かれた。陝西・河南・湖広が皆破られる中で、鄖陽だけが無事であった。
  • この月、帝は登州巡撫楊文岳を保定総督、李昌齢を延綏総兵とした。

陝西督撫の交代と出師(十二年六月)

  • 六月、馬爌・馬科・李国奇・官撫民の四人が前後して総兵となった。爌は天津、科は山海関で、いずれも以前の討賊の功による。国奇は陝西、撫民は寧夏である。国奇はまもなく兵乱のため位を削られ、任命は取り消された。
  • 孫伝庭と戴東旻がそれぞれ獄に下された。孫は病と偽って欺いたとされ、東旻は招撫の議を妨げたとされ、ともに錦衣衛の騎士に逮捕された。
  • 張献忠は房県に拠って襄陽をうかがい、興安・漢中へ向かうと声を立てて陝西・四川に迫った。文燦は、湖広巡撫孔炤に荊門・当陽を、鄖陽巡撫王鰲永に江陵を防がせ、安遠巡撫啓濬、四川巡撫捷春にもそれぞれの境で厳しく備えさせるよう請うた。
  • 陝西総督鄭崇倹は兵を率いて合撃することを主張したが、陝西三鎮の兵の多くは洪承疇に従って北へ行っており、柴時華だけが途中で甘粛に戻っていた。崇倹は曹変蛟を請うたが帝は許さず、崇倹が延綏・寧夏の兵と時華に檄を発しても皆到着しなかった。李国奇は陝川に駐屯し、汧・隴を経て咸陽に至れば道は近かった。
  • 崇倹は十三日に西安から出師したが、兵馬は手薄で、陝西の劉某の軍を左右の手のように頼った。国奇は千人で命に応じたが、殿の歩卒八百が略陽で大騒動を起こし、瑞王の国租一万両を掠奪した。国奇はまもなく事によって殺された。

諸将の逃亡と羅猴山の大敗(十二年七月)

  • 七月、帝は元総兵の張天礼を陝西で左光先に代え、梁甫を臨洮で曹変蛟に代えた。曹・左の率いる兵は薊州にあって帰郷を望み、変蛟の兵の逃亡者四十三人、光先の兵の逃亡者六十一人、陝西将の馬科の兵の逃亡者も百人に及んだ。いずれも選りすぐりの兵で、二頭の馬を挟んで駆けて境を出、賊に投じたという。
  • 崇倹は六月二十三日に咸陽に着き、一か月余りで興安に至った。関中では賀人竜の兵が最も強かったが、崇倹はその横暴を恐れて用いなかった。当時、帝は陝西総督の失職を憂えつつ、なお文燦が穀城の恥をそそぐことを期待していたので、しばらく処罰しなかった。
  • 張献忠は七月二十二日に房県を去った。二十六日、左良玉は河南の将羅岱とともに兵を率いて追った。良玉は岱を前軍に立て、自分はその後に従った。房県から八十里の羅猴山まで来ると、軍は食糧に乏しく木の葉を摘んで糧とした。賊は山の険阻に伏兵を置いて待っていた。
  • 岱は副将劉元捷と兵を分けて進み、劉は左、羅は右から入った。両側の山は草木が密で、伏兵が四方から起こった。岱は馬の足が藤に絡まって止まったので刀を抜いて断ち、つまずきながらも進み、馬を捨てて山に登った。賊の包囲が急となり、岱は箙にあった数十本の矢を放って賊を多く傷つけたが、矢が尽きて捕らえられた。
  • 良玉は大敗して逃げ帰り、軍符と印信をことごとく失い、軍資十余万を捨て、兵は一万人が死んだ。事が聞こえると、良玉は大帥でありながら軽々しく進んで敗れたとして三等を貶された。張任学は中軍を失い、いよいよ任に堪えぬとして、ひとまず官を落とされた。文燦は穀城の一件を引き起こした張本人であり、重ねて国軍を辱めたので、後任を待つ処置となった。帝は早くから彼を誅する意を固めていた。

淅川の勝利(十二年八月)

  • 八月、太監劉元賓、総兵孫応元・黄得功、副将周遇吉らが淅川の呉村・王家寨で賊の馬光玉を大破し、許可変・胡可受はその衆を率いて淅川で降った。
  • もともと馬光玉は呉村で偽って招撫を乞い、ひそかに漢江を渡って献忠に呼応しようとうかがっていた。淅川知県郭守邦はその中で許可変・胡可受に帰順の意があると知り、県の諸生王作霖を遣わして誘い語らせた。可変は作霖に従って夜に来たので東関に置いた。胡可受は光玉に抑えられて約束が定まらなかった。
  • 応元・得功は鄧州から内郷へ向かって賊の背後を襲い、遇吉は副将張一竜・刁明忠と道を分けて別に撃った。文燦は陳洪範に兵を率いて合流させた。
  • 二十四日、小黄河口に至り、参将馬文豸、偏裨の曹雄・張召らが力戦した。胡可受は敗れて山に登り、初めに許可変と降伏を約したのは自分だ、将軍が来られたのでいま帰順すると叫んだ。遇吉は馬を止めてこれを受け入れた。
  • 応元・得功は二十七日に王家寨へ進兵した。南北両山に賊が分かれて壁を築き、石塁と木柵が連なって切れ目がなかった。応元は参将馬文豸を率いて南を、得功は副将林報国を率いて北を攻めた。河南兵は鎮平の華陽関を厳しく塞いだので賊は思うようにいかず、大敗して九百五十八級を斬られ、光玉は逃げ去った。
  • 元賓は九月四日に淅川に着き、檄を公示して二人(許可変・胡可受)の罪を除いて官を与え、精鋭四百を選んで糧を給した。上奏ではその功を誇張し、穀城の件とは比較にならぬ大功だと述べた。

熊文燦の罷免と処刑(十二年九月)

  • そのころ楊嗣昌はすでに督師の詔を受けていた。文燦は交代の人事が出たと聞いて自分に累が及ぶことを憂えていたが、この勝報があったのを喜び、陳洪範に、貴殿の淅川の功のおかげで死を免れられるだろうと言った。洪範は適当に相づちを打った。
  • 文燦の罷免を弾劾したのは河南巡按高名衡である。監軍孔貞会は文燦が推薦して用いた者であったが、名衡が重ねて調査し、彼が招撫によって理臣を愚かにしたと厳しく論じた。
  • 嗣昌は赴任の途上で割り込んでこれと争い、また帝の意向の軽重をひそかに探って言った。流賊は蔓のように広がり誅し尽くせない。熊文燦は命を受けて恩信によって降伏を受け入れ、湖広・河南・江淮の事を十のうち六、七まで処理した。ただ献忠が再び叛いたために八営が動揺し、西に付いて成りかけの功を損なった。いまひとつの過失で罷免し、彼が用いた人物までまとめて誹謗するのは、公平な議論と言えようか、と。
  • 文燦自身も弁明を上奏した。自分は十一年春の舞陽の大勝以来、兵を率いて賊を追うこと前後二年、二万を斬り、脅されて従った十万余を解散させた。首領の劉国能・馬士秀・杜応金はいずれも朝命を受けて官となり、馬進忠・李万慶・劉喜才・許可変・胡可受らも心を傾けて生き方を改めた。献忠は軽薄狡猾で教化になじみきらず、自分ももともと制しがたいと憂えていた。だが去冬は京師が急を告げ辺兵がすべて出払ったので、もし彼の要求を聞き入れなければそのまま堂々と進撃してきたであろう。中原の動揺を恐れてやむを得ず許したのであり、それによって国家は漢水の東の備えを引き上げ、河北を支えることができたのだ。いま朝議で自分を責める者に、誰かこれを分かっている者がいるか、と。
  • そもそも帝は五つの事件の失態について督撫の諸臣を少しも容赦せず、武臣でも祖寛・倪寵・李重鎮は皆湖広・河南の宿将で、寛には朱竜橋の功があったのに、ついに重く論じられた。文燦は帝の厳格な法運用を知って免れないと恐れ、先んじて自ら弁明したのである。帝は敵に臨んで帥を代えるのを避けてしばらく遅らせたが、嗣昌が軍に着いたころには逮捕役はすでに都を出ていた。
  • 文燦が護送されて入京する途中、蘄州・黄州を通った。当初嗣昌に付いて文燦を推薦した姚明恭は宰相となり、まもなく帰郷するところであった。文燦は彼と語り、自分は必ずしも誅されまいと考えていた。陳洪範は穀城の計画に関わっていたが、宦官が取りなしたので病と称して逃れた。文燦は急に拘束された。広西薬材採辦と称したあの宦官はすでに先に死んでいた。文燦はついに市に棄てられた(処刑された)。
  • 一方、余応桂は罪を免じられて再び用いられ、戴東旻はついに獄中で死んだ。文燦にはただ一人の子があり、姚明恭に身を寄せた。張献忠は蘄水を破ったとき、空隠和尚も殺したという。

史論(外史氏曰)

  • 穀城・房県の一件が乱を醸したのは確かである。だが十三家の賊の半ばは軍籍に就き、劉国能・李万慶らは終始二心を抱かなかった。これは楊鶴の金鎖関、陳奇瑜の車箱峡のような偽りの降伏とは違う。しかも中原の賊禍は大勢としてこの時期が最も衰えており、張伯鯨が軍糧削減と兵の淘汰を請うたことからもそれは分かる。では文燦にもなお功があったのか。否、否である。
  • かつて漢の武帝が南越を下したとき、路博徳を伏波将軍、楊僕を楼船将軍とした。楼船は精兵を率い数万の越軍の鋭鋒を挫いたが、伏波は罪人千余を得ただけで、道が遠く期日に遅れ、遅れて共に進んだ。番禺に至ると楼船が越人を攻め破って城を焼き、伏波は営を構えて使者を出し降伏者に印綬を与え、さらに彼らに仲間を招かせた。日暮れになると越人は伏波の兵の多少を知らず、楼船が力攻めして敵を焼き立てた結果、かえって越人を駆り立ててことごとく伏波の軍中に入らせることになった。また降人によって呂嘉・建徳の居所を知り、これを捕らえた。この功で伏波の校尉までみな侯に封じられ、楼船は堅陣を陥した功でわずかに封を得ただけであった。
  • 今の事をこれに照らしてみよう。孫伝庭・曹変蛟の渭南の戦い、咸陽北原の戦いは、楼船が陣を陥し石門を破って番禺城を焼いたのに当たる。劉国能の随州、李万慶の張家林、馬光玉・許可変・胡可受の淅川は、越人が伏波の兵の少なさを知らず、駆り立てられてその軍中に入ったのに当たる。文燦にいったい何の力があったのか。
  • 天道は十年に一度変わるという。賊が乱を起こしてから十年になる。以前の賊の得意な策は逃走にあり、志は略奪にあった。いまは関所や集落が荒れ尽くして略奪しても食が得られず、分かれていた部隊は次第に合し、荷が軽かった者も重くなり、集まって計を改め、山川の要害の地で二、三の大郡を取って兵糧を確保し兵馬を休めようとしている。ところが我が方の備えがまだ緩みきらず、彼らの力も攻略しきれないので、進んだり退いたりしながらその間をうかがっている。つまり彼らが潜伏して機をうかがう謀は極めて狡猾で気性も獰猛である。これこそ今の時勢の最も憂うべき点であり、賊の勢いがやや衰えたなどと言えようか。
  • 一方、我が方の将吏が兵を擁して賊をなおざりにし因循することは十年を超えたが、曹変蛟・黄得功のような異才で忠憤の士がぽつぽつ現れ、賊も忌憚を抱かずにはいられない。しかも賊は陝西の人であり、三晋を渡り河南を過ぎて万里を駆けても必ず陝西を帰るべき地としている。いま陝西の官軍が大勝し、賊は再び関を叩いて西に入る勇気がない。数年転戦して功業は成らず、故郷への道も断たれれば、倦んで後悔しないはずがない。彼らは初め飢寒に迫られ誅戮を恐れていたが、いま朝廷が本気で招く意があると知り、内では同類同士の猜疑が必ず斬り合いに至ると見込めば、早くこの機に天子に臣事せずして、なぜ好んで賊であり続けようか。
  • ゆえに劉国能・李万慶が逆を捨てて順に効したのは、穀城・房県の徒とは、招撫は同じでも心が違う。統御が適切であれば必ず我が方の用となり、単に反しないだけでは済まないだろう。これこそ今の時勢において大いになし得る点である。
  • 天下の謀を合わせ十年の力を尽くして賊を図る以上、憂うべき点となし得る点の機は十一年・十二年の両年に決した。適任者を得れば剿の功も成り、撫の局面も成就したはずである。ところが不幸にも貪欲・凡庸・軽躁・臆病な熊文燦の手に委ねられ、ひどい敗北に至った。
  • ああ、洪承疇と孫伝庭は招撫を主としなかった二人である。だがこの二人が関中にいれば穀城・房県は安泰で、関中を去れば穀城・房県は叛いた。剿も撫も、この二人の一挙一動が軽重を左右した。文燦のような者は、いてもいなくても同じではないか。朝廷の失策は、文燦を用い、しかも剿と撫が成就しかけていたときに陝西の督撫を他の任務に移したことにある。危亡の局面は実にここで決した。ああ、いずれも天のなせるわざでないものがあろうか。