醉古堂劍掃巻四 霊(心の働きについての清言)(醉古堂劍掃 卷4 集靈)

  • 天下にはほんの一言の細やかな言葉であっても千古の後まで新鮮であり続けるものがあり、一字の意味であっても百世の後までまざまざと見えるようなものがある。これをどうして消し去ってよいだろうか。風雷雨露は天の霊であり、山川名物は地の霊であり、言語文字は人の霊である。天地人の三才の働きを尽くすのは、みな一つの霊がその間に神妙な働きをしているからにほかならず、これもまたどうして消し去ってよいだろうか。この巻を「集霊」の第四とする。

交わりと処世

  • 名刺を差し出しても空しく骨折るだけで、そもそも生計の道にはならない。人にへつらって裾を引くのも、真の交わりとは言えない。
  • 事は快心に至ったところで方向を転じ、言葉は快心に至ったところで止めるべきである。
  • 倹約は賢者の徳であるが、意図して賢者らしく見せようとしてはならない。貧は美称であるが、その美に安んじて居ることは難しい。
  • 志は高く華やかであるべきだが、趣味は淡泊であるべきだ。
  • 目に一点の塵もないほど澄んでこそ千巻の書を読むことができ、胸中に一片のわだかまりもないほど澄んでこそ初めて世に処することができる。
  • 眉間に愁いが差せば囲碁を眺め酒を酌んで紛らわし、心に楽しみが湧けば竹を植え花に水をやって過ごす。
  • 惟儉こそが廉潔を助け、寛恕こそが徳を成す。
  • 山沢に必ずしも異才の士がいるとは限らず、異才の士も必ずしも山沢にいるとは限らない。
  • 人生は暇であるに越したことはないが、暇すぎればかえって悪しき業を生み、清らかであるに越したことはないが、清らかすぎればかえって俗情に近づいてしまう。
  • 一度骨身にしみるほどの寒さを経なければ、梅の花の香りが鼻を突くほど薫ることはない。心が少し緩んだときには、この言葉を厳かに口ずさむとよい。
  • 夢の中では昨日を前世とし、今夜を来世とすることができる。
  • 史書を読むには誤字に耐えねばならない。それは山に登るのに険しい道に耐え、雪を踏むのに危うい橋に耐え、閑居するのに俗物に耐え、花を見るのにまずい酒に耐えるようなもので、これに耐えてこそ初めて力になる。

隠棲と山水の楽しみ

  • 茅葺きの家に竹の窓、これこそ貧しさの中の趣であり、何も富貴の門を訪ねる必要はない。書の手本や画譜は暇な時に必要なもので、心のままに楽しめばよい。
  • 良い香は徳を薫らせ、良い紙は後世に伝え、良い筆は花のごとき文を生み、良い墨は彩りを輝かせ、良い茶は煩わしさを洗い流し、良い酒は憂いを消すために用いる。
  • 声色に興じるより、清らかな机と明るい窓辺にしばし座って休む方がよく、利益や栄達に思いを馳せるより、名山の勝景に一度登り望む方がよい。
  • 竹垣に茅葺きの家、石造りの部屋に花咲く軒、松や柏の群れがざわめき、蔓草が景色を覆う。流れる水が家を巡り、飛泉が軒に懸かり、煙霞が棲みつこうとし、林や谷が暮れなずむ。そこに野の翁四、五人と暇な身を寄せ合い、その庵の主となる。紅い蝋燭のもとに座り、青い山々を眺め尽くし、心のわだかまりを消し去って、他人の冷ややかな目など気にも留めない。
  • 妻に酒を求めれば甕に新酒があり、童を呼んで茶を煮させれば門前に良き客が訪れる。
  • 花の下で佩び玉を解き、湖上で櫂を止め、月を愛でて歌をうたい、蓮を採って酔いしれる。晴れた雲がほのかにたなびき、漁師の笛が水面に響き、美しい詩句が一たび生まれれば、江山とともにいつまでも聳え立つ。
  • 胸中に霊薬の一粒を持ってこそ、俗情を浄化し、世事のしがらみから抜け出すことができる。
  • 丹房に独り座り、瀟洒として何事もなく、茶を一壺煮て香を一炷焚き、達磨の面壁図を眺める。しばらく簾を垂れていると、いつしか心は澄み神は清らかになり、気は柔らかく息は静まり、朦朧として混沌の境地に入っていく。まるで達磨とともに筏に乗り仙女・麻姑に会いに行くかのような心地になる。
  • いわれなき妖艶さも結局は地下の髑髏となる運命であり、分に応じた功名もしょせんは夢の中の胡蝶にすぎない。
  • 幾月も独り住まいで部屋はひっそりと寂しいが、雲霞を伴とし、青松を心の友とする。時に幼子や老翁が訪ねてくれば、濁り酒と蒸した里芋を用意し、共に笑い合い、話すのはただ浮世のとりとめのないことばかりで、朝廷や市中の噂には及ばない。客が去れば門を閉じ、礼を尽くして送るでもない。このようにして余生を終えれば十分である。
  • 谷の半ばに広がる白雲は耕し尽くせず、淵に映る明月は釣り上げても跡形もない。
  • 茅葺きの軒先で犬の吠える声や鶏の鳴く声を聞けば、まるで雲の彼方の別世界にいるかのようであり、竹の窓辺で蝉の声や鵲の騒ぎだけが聞こえるとき、初めて静けさの中にある天地を知る。
  • 今やめられるならすぐにやめてしまえばよく、いつか終わりを求めようとすればいつまでも終わりは来ない。楽しめるなら今すぐ楽しめばよい。身に病なく心に事なければ、春の鳥の声が笙歌となり、春の花が化粧の色となる。ひととき暇を得ればそれがそのままひとときの楽しみであり、何も情欲だけを楽しみとする必要はない。
  • 目を開けば天地の広さをすぐに感じ、鼓を打ち鳴らすのも狂気とは言えない。林の中に寝転がれば寒暑も忘れ、寝床に上がっても時を数えるまでもない。

世俗を離れる境地

  • 六根の業を浄めれば智慧の眼を得られ、身に何一つ持たなければ茅庵に至ることができる。
  • 何事もないのに憂え、良い景色を前にしても楽しめず、自分でもその理由が分からないとしたら、それはもう生きながらの地獄であり、あえて地獄の責め苦を持ち出すまでもない。
  • 煩悩の場にはあらゆる種類のものがあるが、仏の智慧の眼で照らして見れば、それはさそりが実体のない花を踏むようなものにすぎない。
  • 高い山に登り、深い林に入り、曲がりくねった谷の奥を極め、幽玄な泉や奇怪な石を、どんなに遠くても訪ね尽くす。着けば草を払って座り、壺を傾けて酔い、酔えば互いに枕を並べて横たわる。その心地はまことに快く、夢もまた同じ趣を見る。
  • 門を閉じて仏書を読み、門を開いて良き客を迎え、門を出て山水を尋ねる、これが人生の三つの楽しみである。
  • 客が去って門を閉ざし、風はそよぎ日は落ち、澄んだ月が空にかかり、花の陰が地面いっぱいに広がる。近くの軒には鳥が宿り、遠くの寺の鐘が鳴り、茶が煮え、酒甕が開けられる。この情景に新しい詩を作らないのなら、結局は俗物にすぎない。
  • 世の中で波風を立てなければ、自ずと胸中に相反する苦しみが入り込むこともない。
  • 秋の月が中天にかかり、細かな雲もすっかり晴れ渡った広々とした場所で座って夜露に濡れれば、清らかな光が冷たく身に染み、まるで水晶宮の中にいるかのようで、人の心をすっかり澄み渡らせる。
  • 子に黄金を箱いっぱい遺すより、子に一つの経書を教える方がよい。
  • 酔い方にはそれぞれふさわしい場がある。花に酔うなら昼、雪に酔うなら夜、得意になって酔うなら歌い、別れに酔うなら鉢を打ち鳴らし、文人と酔うなら節度をわきまえ、俊敏な人と酔うなら杯を重ねて勢いを助け、楼閣で酔うなら暑い時節、水辺で酔うなら秋がよい。これらはみなその場にふさわしいかどうかを見極めたもので、これに反すれば酒を飲む楽しみを失うことになる。
  • 一陣の竹風が茶竈の薄煙を吹き散らし、半ば欠けた梅の月が書斎の窓辺に残る雪を照らし出す。
  • 台所は冷えて山の青さを分かち合い、楼閣はがらんとして水面の霞が入り込む。
  • 暇なときに滞った落ち葉を除いて隣の水路に通じさせ、荒れた住まいを担保にしてでも小さな山を築こうと思う。
  • 聡明で身を清く修める者は、天帝がその清らかさを必ず書き留めるが、文才があっても貪欲で残忍な者は、冥界の役人もその詞賦を受け取らない。
  • 煩悩を打ち破るのは、更け行く山寺の木魚の音であり、本性を見極めるのは、雲堂に映る一点の優曇華の影である。
  • 興が乗って落花の前で酔い倒れれば、天地さえもそのまま夜具となり、心を静めて磐石の上に座り込み世を忘れれば、古今のすべては蜉蝣のようにはかないものと見える。
  • 老木に花が咲けば、いっそう生き生きとした気が満ち、秋の鳥がさえずれば、かえって物寂しい風情が澄み渡る。
  • 心の本来の姿を全うしてこそ初めて「心を了した」と言え、世間の常道を尽くしてこそ初めて「出世」を論じることができる。
  • 雪の後に梅を尋ね、霜の前に菊を訪ね、雨の際に蘭を守り、風の外に竹の音を聴く。これは野人の閑情であると同時に、文人の深い趣でもある。
  • 一軒の草堂を結び、南に洞庭の月、北に蛾眉の雪、東に泰山の松、西に瀟湘の竹を望む。中には晋の高僧・支道林ゆかりの八尺の沈香の寝台を備える。温泉で浴し終えて寝台に横たわり眠りこける、これで暑さを避けられれば、なんと楽しいことか。
  • 人は一字も知らなくても詩情に富むことがあり、一つの偈も学ばなくても禅の境地に富むことがあり、一滴も飲まなくても酒の風情に富むことがあり、一石も知らなくても画趣に富むことがある。それはこだわりのない、のびやかな心のなせるわざである。

学問・文章

  • 世人を見るときの好悪の目を転じて書を見れば聖賢の真の見識が現れ、人を論評するときの是非の口を転じて史書を論じれば左丘明の真の是非が現れる。
  • 事が完全に美しく整った状態にあれば、自分を憎む者もあら探しの手立てを見出せず、行いが極めて汚れきった状態にあれば、自分を愛する者もかばい隠す術を施せない。
  • 世を超越しようとする者だけがかえって世の中にうまく身を処すことができる、そうでなければ世俗の縁にたやすく堕ちてしまう。世の中に深く入り込む者だけがかえって世を超越することができる、そうでなければ空の境地の趣を保つことは難しい。
  • 性を調える法は、急ぐときには緩め、緩むときには引き締めるようなものであり、情を調える法は、水路では舟に従い、陸路では車に従うようなものである。
  • 才ある人の振る舞いは放縦になりがちなので、正しさによって引き締めるべきであり、正しい人の振る舞いは杓子定規になりがちなので、趣によって通わせるべきである。
  • 人に至らないところがあれば情によって許すことができ、義に反しないことであれば道理によって受け流すことができる。この二つの言葉を身につければ、世を渡るのに十分である。
  • 冬は起きるのを遅くし、夏は起きるのを早くする。春の眠りは十分に取り、昼寝は少なめにする。
  • 何事もないときは白居易のようにぼんやりとくつろぐことを学び、客があるときは李建勲のように磬を打ち鳴らして迎えるとよい。
  • 郊外に住み、茅を刈って家を結び、雲霞が梁や棟の間に棲み、竹木が水辺の外に立つ。二、三人の気の合う仲間と垣根越しに向かい合い、路地を挟んで近所付き合いをする。風の吹く日や雪の夜には、酒を買って呼び合う。この時に感じる濁り酒の趣は、街中で飲む酒の十倍にも勝る。
  • すべての事は満足しやすいものだが、ただ読書だけは一生かけても尽きることがない。人はなぜ「飽き足りない」という思いを読書にこそ向けないのだろうか。読書は薬を服むようなもので、薬が多ければ自ずとその力が働くともいう。
  • 酔った後にいつも草書を十数行書きつけると、酒の気がふわりと十本の指先から立ちのぼるのを感じる。
  • 書棚には蔓草を引いて架とし、人はヒカゲノカズラを衣とする。
  • 江や渓のほとりで石の上に足を組んで座り、浩々と流れる水音、澄んで冷ややかな響きを聞けば、まるで天然の音楽のようで、湘水の女神が水の中で瑟を弾いているのではないかと思われる。
  • 庭に石を積み重ねて高低の趣を論じるのが常だが、木陰と水気さえあれば、それだけで自ずと俗を超えた趣となる。
  • 段由夫が瑟を携えて松風と渓流の響きの間に赴き、「この三つはみな自然の声であり、まさに類は友を呼ぶというものだ」と言った。
  • 静かな窓辺に高く枕して横たわり、緑陰の澄んだ昼を過ごせば、天地はなんと広々としていることか。
  • 若い頃に琴と書を学び、清らかで静かなことを好んだ。書を開いて得るところがあれば喜んで食事も忘れ、木々が交わり映え合い鳥の声が変わるのを見ればまた喜びに満ちる。五、六月に北窓の下に横たわり涼風がふと吹き寄せれば、自らを伏羲以前の悠々たる人だと思う。
  • 人けのない山で雨を聞くのは、人生の思い通りになる楽しみの一つである。雨を聞くのは人けのない山の荒れ寺で、寒い雨の中、炉を囲んで枯れ葉を燃やし、新鮮なタケノコを煮るのがよい。
  • 鳥が鳴き花が散るのを見て心にふと感じるものがあれば、小僧に瓢箪の樽を提げさせ、白酒を買わせ、梨花の模様の磁器の盃で一杯干す。急いで詩巻を取り出し一気に読み下して味わい尽くせば、自分が俗世の塵の中にいることさえ忘れてしまう。
  • 門を閉じればそこがそのまま深山であり、書を読めばどこにいてもそこが浄土である。
  • 幾千の岩が秀麗さを競い、幾万の谷が流れを競い、草木がその上を覆い茂り、まるで雲が湧き霞がたなびくかのようである。
  • 山陰の道を歩けば、山川が互いに映え合い、目に応接する暇もないほどであり、秋冬の頃ともなれば、なおさら言葉に尽くしがたい思いにとらわれる。
  • 聖人の気概を見たいと思うなら、自分自身の胸中が潔く澄み渡っているときにそれを見るべきである。
  • 筆を執るのはただ手慣れに頼ればよく、文を作るのはいつも口をついて出るままにするのがよい。
  • 斑竹の林の中に足を組んで座り、青い磯石にもたれかかる。手元の道教や仏教の書物を少し校合したり諳んじたりする。茶はさほど上質でなくとも壺は湿ってはおらず、香もさほど良くなくとも灰は死んではいない。短い琴には曲はないが弦だけはあり、長い謳には節はないが音だけはある。これはもう伏羲以前の人でなければ、嵆康や阮籍のような境地にある人であろう。

人心と修養

  • 人の善行を聞けば疑い、人の悪事を聞けば信じてしまう、これはまさに胸いっぱいの殺伐とした心である。
  • 士君子が心を尽くして人々の利益と救済に努め、世の中がその人なしでは済まなくなるほどになれば、天もまた自ずとその人なしでは済まなくなる。これこそが天命を立てるということである。
  • 読書は気質を変えるだけでなく精神をも養う。それは道理と義がその人をまとめ上げるからである。
  • 人との付き合いを終えた後には清静経の一部を誦えるべきであり、弔問や見舞いを終えた後には他愛のない歌を一通り口ずさむべきである。
  • 横たわる石は傾いていても構わず、立てる石は細くても構わず、寄りかかる石は薄くても構わず、盆栽の石は巧みすぎても構わず、山の石は不格好でも構わない。
  • 雨上がりの涼しい情景の中、隣家の笛の音が晴れた雲や途切れた雨の音と重なり合って聞こえ、その一音一音が肺腑に染み入る。
  • 出費を惜しまなければ必ず窮乏して人に頼ることになり、享楽を受け入れなければ財を守るばかりで人に嘲られても不思議はない。
  • 庭園に山林の趣が少しもなく、ただ壮麗さだけを誇るなら、俗っぽさが人を圧倒するように感じられる。
  • 霞を食べ露を吸うようにしてしばし若さを留め、月を愛で風をからかうようにしてのどかに一日を過ごす。
  • 「清」の品格には五つある。優れた趣を見て俗を厭う心を起こすのを「清興」、書史を蓄え花木を上手に育てるのを「清致」、貧しく困窮しながら身内からも見捨てられるのを「清苦」、世を避けた偏った暮らしをそれと誇るのを「清狂」、今古に博く通じ泉石に心を適わせるのを「清奇」という。
  • 碁を打つより碁を観る方がよく、碁を観るより瑟を弾く方がよく、瑟を弾くより琴の音を聴く方がよい。昔の人は「ただ琴の趣を知ればよい、何も弦の上の音にこだわる必要はない」と言ったが、まことにその通りである。
  • 名手・奕秋も伯牙もすでに世を去り、今にはただその遺した棋譜が残るのみで、人にどれほど益をもたらすかは分からない。ただ詩文や書画だけは後世に伝わる珍宝となり、名を朽ちさせない。要するに死後の名声は生前の一杯の酒に及ばない。
  • 君子は人を信じすぎることはあっても、人を疑いすぎることは決してない。
  • 人はただ自分より劣る者と比べさえすれば、自ずと満ち足りることを知る。
  • 寒暑の苦しみと心地よさは、もとより心のありようひとつである。だから仏国には寒暑がなく、仙界はいつも春のようだという。
  • 鳥が高い枝に棲めば弾よけの矢も届きにくく、魚が深い淵に潜めば網や釣り糸も及ばない。士人が岩穴に隠れ住めば、どうして禍が及ぼうか。
  • 弓射の中に譲り合いの礼を見出し、囲碁の中に征伐の道を見出す。忙しさの中に伊尹や周公の姿を、閑暇の中に巣父や許由の姿を見出す。酔いの中に釈迦の境地を、病の中に老子や荘子の境地を見出す。そして日々の飲食や起き伏しの中に孔子の姿を見出す。
  • 昔の人は「昼が短く夜の長さを苦にするなら、なぜ燭を灯して遊ばないのか」と言った。この言葉は軽々しく読み過ごしてはならない。
  • 役者は古人の言葉を語り、古人の笑いや怒りを演じるが、今の文人が文章を書くのもこれに似ている。役者は舞台に上がれば古人になりきり、舞台を降りればまた役者に戻るが、今の文人が文章を書くのもまたこれに似ている。もし古人が今の文人を見たなら、どれほど怒り、どれほど笑い、どのように語るであろうか。
  • 書を読むにはただ道理が筋道立って通っていればよく、古い説にこだわってもならず、まして新しい説にこじつけてもならない。
  • 高慢を高潔とは言わず、へつらいを謙虚とは言わず、刻薄を厳明とは言わず、無能を寛大とは言わない。
  • 詩を作るとき、目の前の光景と胸中の情趣をそのまま一気に書き出せれば、それこそが作者であり、何も唐風だ宋風だと言う必要はない。
  • 若者よ、老人が呆けているのを笑うな。自分も老いれば同じように呆けるものだ。ただ呆けるまで生きられないことこそ恐れるべきであり、老人にどうして若者を笑う暇があろうか。
  • 飢えや寒さ、困苦の中にこそ幸福が訪れようとしており、満腹の宴遊の中にこそ禍が生まれようとしている。
  • 生死の関門を見抜き通せば、生まれてくるのも構わず、死んでいくのも構わない。名利の場を見破れば、得るのもよく、失うのもよい。
  • 俗塵の中に身を混じらせながらも、物事を超越した高い視点を保ち、酒に情を託し、詩文に興を寄せる。一時は名を隠しても、千古の昔の人々を友とする。
  • 愚かなまでに酒に狂った客は友人をこよなく愛し、賢い妻は夫に逆らわない。酔った人が座を埋め尽くし、酒屋の食客は堂に満ちる。灯火がゆらめけば夜の晩酌にふけり、炊煙が絶えても朝餉のことなど気にもしない。生まれつき眉をひそめることを知らず、老いてはますます腹鼓を打って楽しむ。
  • この肉体はすぐに壊れるものだが、心の識だけは常に存在し続ける。万の命を殺してこの肉体を養えば、その罪はすべて心の識に帰する。仏性には限りがないが経書には限りがあり、万巻の書を窮めて仏性を求めても、それは経書のものではない。
  • 人が自分に勝っても害はない、相手に恨みを蓄える心がないからである。自分が人に勝っても福とは言えない、思わぬ禍を招く恐れがあるからである。

日常の楽しみ・文章の妙

  • 書斎の前には曲がりくねった欄干を巡らせて花を植え、四角い池を掘って月を映し、水を引いて魚を養う。小さな窓の下では清らかな香を焚いて書を読み、清潔な机を置いて琴を弾き、疎らな簾を巻き上げて鶴を眺め、高い楼に登って酒を飲む。
  • 誰もが眠りを好むが、その味わいを知る者は少ない。眠るとひとたび両眼を閉じれば、あらゆる事を忘れ、四肢はすっかり寛ぎ、世俗の疲れはすべて消え去る。黄粱の夢や南柯の夢の話も、しょせん眠りのついでの話にすぎない。劉因(静修)は「書物の外で交わりを語れば、眠りこそが最も賢い」と詠んだが、まことに味わい深い言葉である。
  • 度を越えて福を求めれば、かえって禍を早めるだけであり、分をわきまえて禍を遠ざければ、自ずと福を得ることになる。
  • 権勢に頼って人を凌辱する者は、権勢が衰えれば人に凌辱される。財力に頼って人を侮る者は、財が散じれば人に侮られる。これは巡り巡る道理である。
  • 自分が争えば人も必ず争うもので、力の限り争っても必ずしも得られるとは限らない。自分が譲れば人も必ず譲るもので、力の限り譲っても必ずしも失うとは限らない。
  • 貧しくて客をもてなせなくても客と交わることを好み、老いて世に従えなくても世を支えることを好み、貧窮して書を買えなくても珍しい書を読むことを好む。
  • 滄海の日、赤城山の霞、蛾眉山の雪、巫峡の雲、洞庭湖の月、瀟湘の雨、彭蠡湖の靄、広陵の波、廬山の瀑布、これら宇宙の奇観を集めて我が書斎の壁に描き出す。杜甫の詩、王維の画、『左伝』の文、司馬遷の史書、薛濤の詩箋、王羲之の書、『荘子』、司馬相如の賦、屈原の『離騒』、これら古今の絶妙の芸を集めて我が山窓に置く。
  • 韓信が淮陰で一膳の飯を得た故事は、万古の英雄の見識を定め、宮中で酔って詩を題した故事は、千秋にわたる風雅の光を生んだ。
  • 清らかで暇な身であれば、粗末な衣、質素な食事であっても真の趣があり、紛擾し憂患が身にまとわりつけば、たとえ錦の衣、豊かな食であっても、ただあらゆる形の愁苦を感じるばかりである。
  • 自分が善を行えば、たとえ一介の貧しい士であっても、その徳に人が服し、自分が悪を行えば、たとえ位が人臣を極めても、その過ちを人が非難する。
  • 道理と義の書を読み、法帖の字を習い、心を澄まして静かに座り、良き友と清談を交わし、少し酒を酌んでほろ酔いになり、花に水をやり竹を植え、琴の音を聴き鶴を愛で、香を焚き茶を煮て、舟を浮かべて山を眺め、興のままに碁を打つ。他にどんな楽しみがあろうと、私はこの楽しみを変えることはない。
  • 名を成すのはたいてい窮苦の日々であり、事を敗るのは多く志を得た時である。
  • 寵愛を受けても辱めを受けても心を動かされなければ肝の気は安らかになり、動くにも静まるにも敬をもってすれば心の火の気は定まり、飲食に節度があれば脾の気は漏れず、呼吸を調えて言葉少なであれば肺の気は全うされ、心を穏やかにし欲を少なくすれば腎の気は満ち足りる。
  • 利を譲ることは利を取ることよりも巧みであり、名を避けることは名を求めることよりも巧みである。
  • 彩筆で空に描いても筆に色は付かず空も染まらない。鋭い刀で水を切っても刀の刃は損なわれず水にも跡は残らない。
  • 顔に唾を吐かれても自然に乾くに任せた婁師徳は、なお雅量の持ち主と言えるが、ほんのわずかな恨みも必ず報復した郭象は、禍の種を残したと言わざるを得ない。
  • 世の中で愛すべき人はみな哀れむべき人であり、世の中で憎むべき人はみな惜しむべき人である。
  • 事業や文章はその身とともに消え去るが、その精神は万古の後も新しいままである。功名や富貴は世につれて移ろうが、気節は千年の後も昨日のごとくである。
  • 書を読んで痛快な境地に至れば、あらゆる沈滞した気分を一掃し、話が心の奥深くに届けば、あらゆる曖昧な私心を打ち破る。
  • こびへつらう臣下は天下で最も聡明な人物であることが多く、正義を守り邪を憎む者は世間で最も忠直な気概を体現する。
  • 隠逸の林の中には栄辱の別はなく、道義の道の上には人情の冷暖の別はない。
  • 誹謗を聞いて怒る者は讒言のおとりとなり、称賛を聞いて喜ぶ者はへつらいの仲立ちとなる。
  • 濁った流れを絵に描くのは、簾越しに月を見、水越しに花を見るのに似て、遠近の間に趣を見出すことであり、これもまた文章の法である。
  • 錦を心に、刺繡を口に秘め、玉のような言葉を軽い咳や唾のうちに秘め、珍奇なものを筆墨のうちに秘める。時を得れば書庫に納め、時を得なければ名山に秘める。
  • 一篇の爽快な文章を読めば、まるで青い山と白い水を見るようであり、いくつかの気の利いた言葉を聞けば、まるで聳え立つ山と流れ行く川を見るようである。
  • 読書は竹の外を流れる渓流のようにさらさらと流れ去るようであり、詩を詠むのは水草の間から吹き起こる風のように勢いよく舞い上がるようである。
  • 若い子弟が体裁を整えて謙遜し飛躍を避ければ、なかなか賞賛を得るには至らず、主客が席で慎み深さばかりを重んじて含みのある趣を欠けば、結局は泥人形のような無味乾燥な人になってしまう。
  • 扇で涼を取るより清風が自然に吹いてくる方がよく、はねつるべで水を汲み上げるより時を得た甘い雨が降る方がよい。
  • 手際の良い才があってもそれを活かす場がなければ憤りに乗じて一時その勢いを発揮しがちであり、縦横の議論があってもそれを発表する場がなければ扇動の場に乗じて余力を思うさま発揮しがちである。
  • 月の見える楼閣の欄干にもたれれば、はるかな彼方へと心が飛び、雲に囲まれた部屋の戸を開けば、座ったままたなびく靄を眺める。
  • 物事の始まりに筋道が立っていなければ結末もまた散漫になり、入り口で一つ誤れば進むほどに結局は曖昧なものになる。
  • 李納は気性がせっかちで囲碁を非常に好み、石を打つたびに極めて落ち着いてゆったりとしていた。時に苛立って怒ることがあると、家人はそっと碁盤を目の前に用意した。李納はそれを見るとたちまち表情を和らげ、石を取って形勢を数え、怒りをすっかり忘れてしまったという。
  • 竹林の中で楼に登り、遠くから風雅な人物を眺め、その名理を語るさまを座して聞けば、自他の隔てを忘れてしまう。花の間で石を掃き、棋士を待って、その危機を捌くさまを見れば、勝負の機微はすでに読み取れる。
  • 六経を台所とし、諸子百家を珍味とし、三墳を美しい玉器とし、諸子を音楽とする。自分を養うにはこれで十分すぎるが、客をもてなすには必ずしも喜ばれるとは限らない。
  • 一言でも良い言葉を口にできれば、その心はほとんど満ち足りたものになる。少しでも余計な事に関わってしまえば、この身は永遠に暇にはなれない。
  • 昔の人は松風を特に愛し、庭にはみな松を植え、その音を聞くたびに喜んでその下に赴き、「これで十年分の俗塵にまみれた胃の腑を洗い流せる」と言った。
  • たいていの名声は身に負うことができるが、清らかな名声だけは負うのが難しい。たいていの福は享受できるが、清らかな福だけは享受するのが難しい。
  • 賀蘭山の彼方にはむなしい恨みが広がり、無定河のほとりには鏡が割れたような愁いが漂う。
  • 書物を集める癖があっても取捨選択ができなければ、ただの書物の物置にすぎず、酒を飲む名を得ていても含みのある趣に乏しければ、結局は名酒とは言えない。
  • 飛泉の数滴は雨のようで雨ではなく、空にかすむ緑は幾重にも重なる山また山である。
  • 夜は昼の余り、雨は晴れの余り、冬は年の余りである。この三つの「余」の時にこそ、人事はやや疎かになり、まさに一心に学問に励むべき時である。
  • 木の影が寝床を横切れば詩の思いは枕の外にまで広がり、雲の彩りが紙いっぱいに満ちれば文字の趣が行間にほのめき躍る。
  • 耳目を広くとらわれさせれば天地は狭く感じられ、争いごとに関わる暇を減らせば日月は長く感じられる。
  • 秋は洞庭湖に深まり、霜は彭沢の地を清める。
  • 静かな夜の鐘の音を聞けば夢の中の夢から目覚めさせられ、澄んだ淵に映る月影を見ればこの身の外にある別の身が垣間見える。
  • 事の中には急いでは明らかにならないものがあり、ゆるやかにすれば自ずと明らかになることもあるので、性急に事を運んでその怒りを速めてはならない。人の中には無理に従わせられない者がいるが、放っておけば自ずと変わることもあるので、性急に強要してその頑なさを増してはならない。
  • 士君子が貧しくて物質的に人を救えないときでも、人が迷い惑っているところに一言で気づかせ、急難に陥っているところに一言で救いの手を差し伸べれば、それもまた計り知れない功徳である。
  • 父兄など肉親の間の変事に対処するときは落ち着いて事を進めるべきで、激しく動じてはならない。友人との交わりの過ちに出会ったときは率直に指摘すべきで、なあなあで済ませてはならない。
  • 先祖の徳の恵みを自分がどれほど享受しているかを問うなら、その積み重ねの難しさを思うべきであり、子孫の福祉を自分がどれほど遺してやれるかを問うなら、その崩れやすさを思うべきである。
  • 麗しい歳月は過ぎ去り、目の前の年月がいくばくもないことを嘆けば、若さは疾走する馬のように惜しい。長嘯して帰るべき時を知れば、身の外の功名が仮のものであることが分かり、自分の名など人に牛と呼ばれようと構わないと思えるようになる。
  • 心は古きものを慕い、あえて古きものに背くことはしない。心は世を保ちながらも外には世を厭う思いがあり、いまだ世を離れることはできない。
  • 苦悩に満ちた世の中には迷妄から抜け出せない多くの人がいる。世間の人は彼らを見て心を痛めるが、私はかえって冷ややかに見てしまう。欲望の渦巻く場には目覚めることのない多くの利口者がいる。世間の人は彼らを見て冷ややかだが、私はかえって心を痛めてしまう。
  • 昔から今に至るまで、山の勝景の多くは天然の妙にあり、しばしば人の手が加わることで損なわれてしまう。
  • 画家の妙味は筆を運ぶ前、構想を練る際にこそあり、いったん彩色に手を付けてしまえば、その気韻はかえって損なわれる。
  • 筆に長じた者は文章がそのまま言葉のようになり、舌に長じた者は言葉がそのまま文章になる。昔の人は「絵画は言葉なき詩であり、詩句は言葉ある絵画である」と言ったが、絵画は詩のようになり、詩句は言葉を超えたものになってこそ、それぞれが妙境に至ると言えるだろう。
  • 舞い戯れる蝶と飛び回る蜂は、忙しさの中の暇であり、暇の中の忙しさである。散る花と舞う柳絮は、情景の中の情であり、情の中の情景である。
  • 夜明けの鶏の声が窓辺の明月を呼び覚まし、ひと眠りして目覚めれば夢の中に見た若き日々を見破ることができる。
  • 「非非想」にまで思いを致せば天の果てに漂う白雲のごとく茫漠となり、「無無明」を悟れば高台に懸かる明月のごとく渾然一体となる。
  • 深い林に暑さを逃れれば南風が木々の間にとどまり、帽子を脱ぎ頭をあらわにして李や瓜を水に浮かべて冷やす。火のように暑い部屋にも、蓮の花がふと咲くように涼が訪れる。これを陶淵明が北窓の下で自らを伏羲以前の人と称した楽しみと比べれば、この楽しみはそれを半ば以上も超えている。
  • 霜が空に舞い霧のように広がり、雁は月に照らされて弓の弦かと見紛う。
  • 景色は華やかでありながら彩りは凋み、光は密でありながら明るさはまばらである。それは春の日差しに花が揺れるようであり、秋の天の川に星をふくむようである。
  • 景色が澄めば岩山は鏡のように開け、風が生じれば香しい木々は芳香を漂わせる。
  • 道を有する君子のように、暗い部屋にいても心を欺かず、跡を残さない至人のように、明らかな義を胸に抱いて時に応じる。
  • ひるがえり覆るさまは手のひらを返すようであり、死と生とはめぐる車輪のようである。