醉古堂劍掃巻五 素(質朴についての清言)(醉古堂劍掃 卷5 集素)

  • 袁宏道(石公)は言った。「長安の風雪の夜、古びた廟の冷たい寝床で、物乞いや貧しい僧が雷のようないびきをかいて眠っているのに、白い髭の年老いた高貴な人は、錦の帳を垂れて横たわりながら、片時も目を閉じることができない。ああ、松の間の明月も、欄干の外の青山も、いまだかつて人を拒んだことはないのに、人が自ら拒んでしまうのはなぜだろうか」と。この巻を「集素」の第五とする。

真の楽しみとは

  • 田園には真の楽しみがあるが、瀟洒に構えなければ結局は忙しいだけの人になり、書を読み誦えるには真の趣があるが、味わい尽くさなければ結局は卑しい人になり、山水には真の鑑賞があるが、深く領会しなければ結局はただの物見遊山になり、詩歌には真の悟りがあるが、心を解き放たなければ結局は決まり文句にすぎなくなる。
  • 住まいはこの身を寄せる所であり、その土地さえ得られればよく広く立派である必要はない。衣服は時節に適していればよく贅沢である必要はなく、飲食は適量であればよく豪華である必要はなく、宴楽は誠実であればよく華美である必要はない。
  • 書物を開いて暇があれば客を留めて夜長の月を眺め尽くし、帳を巻き上げて他に用がなければ童を呼んで遠い山にかかる雲をのどかに眺めさせる。
  • 琴と杯とを自ら相手にし、鹿や猪を友とする。世の人情の炎涼など、意のままにさせておけばよい。
  • 家に居れば俗事の煩わしさに苦しむが、田舎の庭園だけは別種の暮らしがあり、香を焚き茶を煮て、酒を酌み詩を吟じれば、胸中に相反する苦しみを生じさせない。
  • 旅の宿では風雨の物思いが多いが、禅寺や道院だけはいくらか生き生きとした趣が加わり、筆を執って字を書き、経を繙き偈を問えば、俗塵を目で追うことを許さない。
  • 茅葺きの書斎で独り座り、頻りに茶を煮れば、七椀の後には気が爽やかに神が澄み渡り、竹の寝台に横になり書を投げ出せば、ひと眠りの後には心が寛ぎ夢も穏やかになる。
  • 雨に濡れながら時に竹を植え、門を閉ざして何もない時に花畑の草を鋤き、筆を執って暇に旧作の詩句を削り、泉の水を汲んで幾たびも新茶を試みる。
  • 私はかつて一室を清め、机を一つ置き、心地よい書物を数種並べ、古い法帖を一本広げた。古い鼎で香を焚き、白い麈尾を振るい、少し疲れれば竹の寝台でしばし休む。時分どきに起きればほろ苦い茶を啜り、気の向くまま『漢書』を数行書き写し、心のままに古画を数幅眺める。心と目の間に清々しい霊気を感じ、顔についた俗世の塵も少しは払い落とされたように思う。
  • ただ花の咲き散るさまを眺めるだけで、人の是非は口にしない。
  • 浮き名に恋々としてはならない、夢や幻、泡沫や影のように限りあるものだからである。むしろ楽しい事を尋ねるがよい、風花雪月は尽きることがない。
  • 白雲は天にあり、明月は地にある。香を焚き茶を煮て、偈を繙き経を翻す。俗念はすべて捨て去られ、俗塵に染まった心もたちまち尽き果てる。
  • 暑い盛りに黙って座り、心を澄まして目を閉じ、長らく水を思い描く観法を行えば、肌や髪までさっぱりとして、机や棚の間にまで涼気が漂うように感じる。
  • 胸中からただ「執着」の一字を取り除くだけで、十分に爽やかで自在になれる。人生の最も苦しいところは、ただこの心にある。泥や水にまみれているとはっきり分かっていても、断ち切ることができないのである。

貧しさに処する術・田園の暮らし

  • 何事もないことを貴さとし、早寝を富とし、ゆっくり歩くことを車とし、遅い夕食を肉の代わりとする。これは貧しさに巧みに対処する術である。
  • 三月には茶やタケノコがちょうど旬を迎え、梅の風もまだ荒れておらず、九月には蓴菜と鱸がちょうど美味しく、新しい酒の香りが立つ。良き友と晴れた窓辺で、昔の人の書や名画を取り出し、香を焚いて品評するのに、この時をおいて他にない。
  • 丘の中で高く枕して眠り、名声を避けて世を離れ、耕作して国の税を納め、薪を採って親をもてなす。新しい穀物が実れば農家は大いに喜び、肥えた子羊を煮て神に供え、干し魚を焼いて友を招く。蓑と笠が戸口に掛かり、井戸の桔槹は空しく懸かったまま、濁り酒を酌み交わし、瓶を叩いて歌えば、野人の楽しみはこれで十分である。
  • 市井の一庶民としては早く国への税を納め、泉石や煙霞を主とする隠者としては日ごとに俗情から遠ざかる。
  • 手のひらを返すような人情の変わりやすさは何と危険なことか、人情を論じるならただ門を閉ざすに限る。風に吟じ月を弄んでふと物思いに沈むこともあるが、天から与えられた真心を全うするには、なお酒に向き合うべきである。
  • 早春、玉のような樹々が入り交じり、氷のような花が入り乱れ、瓊の台の奇観はまるで仙境に座るかのようで、羅浮山もこれには及ばないほどである。黄昏に月の下、琴を携えて詩を吟じ味わい、杯を交わして名残を惜しめば、ほのかな香りが漂う趣がある。これがどうして現実の中に実現できようか。
  • 生まれつき虚しさに耐えられない性であれば、大空でさえも煩わしさを受けてしまう。しかし心が境地と一体になれば、俗塵の中にあっても煙霞のような楽しみを結ぶことができる。
  • この身の外にまた別の身があるとするなら、麈尾を執って口先だけの閑談にふけるのは、まさに絵に描いた餅のようなものである。心の中にまた別の心があるとするなら、蒲団に向かって心を翻して究明することこそ、真に力を尽くす耕作というべきである。
  • 山中には三つの楽しみがある。薜荔を衣とすれば刺繍の衣を羨む必要がなく、蕨や薇を食とすれば贅沢な料理を貪る必要がなく、足を組んで髪を解き放てば、そのまま逍遥することができる。
  • 終南山が門に向かい、鶏峰は碧玉のタケノコのように左に群がる。食事を終えて退くとき、秀麗な色彩が盤にはらはらと落ち、山の泉が窓を巡って台所に流れ込む。独り枕して夢から覚めれば、雨の音に驚くこともある。
  • 世の中には一種の愚か者がいて、粗末な茶と冷たい飯を食べているだけなのに、それを高尚な趣だと称している。
  • 桑畑と麦畑が高低を競って美しさを見せ、風は緑の波を幾重にも揺らし、雨上がりには緑の雲がたなびく。雉が春の日に鳴き、鳩が朝の雨を呼び、竹垣に茅葺きの家には、紅い桃と白い李、紫の燕と黄色い鶯が彩りを添える。これを目にすれば、村里ののどかな趣が感じられ、人はつい艶やかな俗世を忘れてしまう。
  • 雲が谷いっぱいに湧き、月が大空を照らし、足を洗い衣をしまえば、まさに安らかにくつろぐ時である。
  • 陳継儒(眉公)が山中に住んでいたとき、客が「山中で最も奇なる景色は何か」と問うと、「雨上がりや露の前、花咲く朝や雪の夜だ」と答えた。また「最も奇なる出来事は何か」と問うと、「釣った魚は鶴に見張らせ、木の実は猿に採らせることだ」と答えた。
  • 古今を通じて私が愛するのは陶淵明であり、郷里の人々が称えるのは馬少游のような人物である。
  • 酒を好み眠りを好み、たびたび門を閉ざす。立ち居振る舞いは、思いのままの場所で行う。
  • 霜の降りた水は澄み渡り、切り立った崖や古木に垂れる蔓、片雲や細い月が、一つの山として波間に映る。杖をついてそこに臨めば、心も境地もともに清らかに極まる。
  • 親しい者にはわざわざ膳を捧げず、たとえ大切な客であっても牲を屠らない。それは単に奢りを戒めるだけでなく、質素であってこそ長く続けられ、また煩労を免れて身を安んじることにもなる。
  • 飢えは陽の火を生じて陰の精を鍛えるが、食べ過ぎは神を傷め気の上昇を妨げる。
  • 心にもし何事もなければ息は自ずと調い、思いにもし欲がなければ内はおのずと守られる。

文章と趣味

  • 文章の妙とは、痛快な言葉は人を舞い踊らせ、悲しい言葉は人を泣かせ、幽玄な言葉は人を冷たくさせ、憐れみの言葉は人を惜しませ、険しい言葉は人を危うくさせ、慎重な言葉は人を秘密にさせる。怒りの言葉は人に剣を握らせ、激しい言葉は人に筆を投げさせ、高邁な言葉は人を雲の上に上らせ、卑しい言葉は人を石を投げさせるほどにする。
  • 渓の響きと松の音は、清らかに遠くまで聞こえ、竹の冠と蘭の佩び物は、その趣もともにのどかである。
  • 卑しいけちな心が一たび消え去れば、白雲でさえも客に贈ることができ、心のわだかまりがすっかり浄化されれば、明月も自ずと人を照らしにやって来る。
  • 心を持つのは意図のあるなしの間、それはちょうど天の川にかかる薄い雲のようであり、世に応じるのはつかず離れずの法、それはちょうど梧桐に滴るまばらな雨のようである。
  • 肝胆相照らす仲であれば、天下と共に秋の月を分かち合いたいと願い、意気投合する仲であれば、天下と共に春風の中に座りたいと願う。
  • 堂の中に木の寝台を四つ、白い屏風を二つ、古琴を一張り、儒道仏の書物をそれぞれ数巻備える。白居易(楽天)がやって来て主となり、仰いで山を眺め、俯いて水の音を聴き、傍らに竹木や雲石を眺めやり、朝から夕方まで、目に映るものに応接しきれないほどであった。やがて外物に誘われて気が和み、外も内も寛いでいく。一晩泊まれば身は安らぎ、二晩泊まれば心は穏やかになり、三晩の後にはすっかり力が抜けてぼんやりとし、なぜそうなるのかも分からぬままそうなっていた。
  • たまたま蒲団に座っていると、紙窓に月光が次第に満ち、木々の影が入り交じり、見えるものはすでに空でもなく色でもない境地である。この時ばかりは、たとえ名高い僧が門を叩いても、山の童子にはまだ取り次がせないでおく。
  • 心にかなう場所は必ずしも遠くにある必要はない。木々や水にほのかに覆われた場所であれば、それだけで自由な想いが湧き、鳥や獣、魚たちも知らず知らずのうちに人に親しんでくる。
  • 茶は白く濃厚で新しいことを尊び、墨は黒く軽やかで古いことを尊ぶ。
  • 香気は五種の木の香りを噴き出し、色合いは氷蚕の吐く錦のように冷ややかである。
  • 風台を築いて世を避けることを思い、仙閣を構えて円満の境地に入る。
  • 客が草堂を訪れて「何を感慨して喜んで隠遁しているのか」と問うと、私は答えるのを面倒がり、ただ古人の句を借りて「暇を得れば俗事の外に多くを得、足るを知れば若さの中に少なく求める」と答えた。「日々の勤めは何か」と問われれば「花を植え春に雪を掃き、経籙を眺め夜に香を焚く」と答え、「暮らしの糧は何か」と問われれば「硯の田には不作の年がなく、酒の国にはいつまでも春が続く」と答え、「誰と行き来するのか」と問われれば「客が訪ねてくれば、名乗るのは伏羲だ」と答えた。

山居と隠遁の徳

  • 山に住む方が街に住むより勝るのは八つの徳があるからである。堅苦しい礼を求められないこと、見知らぬ客に会わずに済むこと、酒肉の付き合いに巻き込まれないこと、田畑の権利を争わずに済むこと、人情の冷暖を聞かずに済むこと、是非の論争に巻き込まれずに済むこと、細かな法令に煩わされないこと、士人の家柄について語らずに済むことである。
  • 茶を採るには精選を、蓄えるには乾燥を、煮るには清潔を心がける。
  • 茶は日に当たれば味を奪われ、墨は日に当たれば色があせる。
  • 墨を磨るときは病んだ子のようにゆっくりと、筆を執るときは壮健な男のように力強くする。
  • 庭に珍しい花や奇石を見分けられなくとも、ただ一片の木陰、庭の半分を覆う苔の跡があれば、それだけで十分に心にかない、我を忘れることができる。友が訪ねてくれば、膝を交えて熱く論じ合ったり、手を打って笑い合ったりして、客と主人がともに我を忘れてしまう。
  • 俗世の縁を断ち切れば、煩悩はどこに落ち着くところがあろうか。世俗の思いが密かに消え去れば、清らかな虚しさはまさにここに足場を立てる。
  • 軒先の緑の芭蕉と黄色い葵、老いも若きも茂る葉、鶏頭の花が、庭の敷石一面に広がっている。寝台を移してそれに向かい、あるいは石を枕に高く眠り、あるいは麈尾を執って清談を交わす。門の外を馬車の砂塵がもうもうと巻き上がっていっても、まるで関わりのないことである。
  • 寒い夜、小さな部屋に座り、炉を抱いてのどかに語り合う。喉が渇けば氷を砕いて茶を煮て、腹が空けば火を掻き起こして芋を焼いて食べる。
  • 伊尹(阿衡)が五度湯王に仕えたというが、それも莘野で自ら耕していた頃には及ばず、諸葛亮が七度孟獲を捕らえたというが、それも南陽で膝を抱いていた頃には及ばない。
  • 食後にぐっすり眠り、日中に少し酔うのは、それだけで別世界のようであり、茶釜と酒の臼、粗末な机と縄の寝台があれば、それだけでいつもの福地となる。
  • 翠の竹と碧の梧桐の下で高僧が碁を打ち、蒼い苔と紅葉の中で童子が茶を煎じる。
  • 長く座って気力が疲れれば、香を焚いて仰向けに横たわる。ふと良い詩句を得れば、すぐに筆を枕元に置かせて記録させる。そうしなければ寝返りを打つうちに忘れてしまう。
  • 雪とともに梅の花を噛むのは鉄脚の道人の風流であり、丹薬を練り香を染めた履物を用いるのは酔って吟じる先生の風流である。
  • 灯りの下で花を愛で、簾の内で月を眺め、雨上がりに景色を見、酔いのうちに詩を題し、夢の中に書の声を聞く、これらすべてに格別の趣がある。
  • 王思遠が客の座を掃き清めて長居させたのは、門を閉ざすことに及ばず、孫仲益が大酒を飲んで俗な話をしたのは、耳を洗うのにふさわしい話であった。
  • 鉄笛を吹き終えて長嘯すれば、人けのない山にその声がこだまし、胡麻飯を食べ終えて高くいびきをかいて眠れば、茂った木々が影を落とす。
  • 茅を編んで屋根とし、石を積んで階段とすれば、俗塵などどこから入ってこられよう。机に向かって吟じ、茶を煮て語り合えば、この中にある幽かな興趣はいつまでも尽きない。
  • 上奏の書類にまみれて半生を描き尽くされてきたが、黄帽と青鞋で気ままに、一生を逍遥に任せよう。
  • 清閑な人であっても四肢を怠けさせてはならず、暇な人には暇な人なりのすることがある。古人の書を習い、昔読んだ書を復習し、机の塵を払い、硯に残った古い墨を洗い、庭の花に水をやり、林の落ち葉を掃く。少し疲れを感じたら、寝床に身を横たえて、しばらく休めばよい。

心の持ちよう

  • 客をもてなすには清潔を旨とすべきで、贅沢を旨とすべきではない。続けられないというだけでなく、それは福を惜しむゆえんでもない。
  • 真を保つには思いを少なくするに越したことはなく、過ちを少なくするには事を省くに越したことはない。よく応じるには心を収めるに越したことはなく、誤りを解くには志を淡くするに越したことはない。
  • 世俗の味わいが濃ければ、忙しさを求めなくても忙しさが自ずと訪れ、世俗の味わいが淡ければ、暇を盗まなくても暇が自ずと訪れる。
  • 膳に一皿の菜だけで生臭さを断ち、僧を饗し客をもてなすのに、何も大掛かりな料理番を煩わせる必要はない。三間の茅屋は、ただ風雨を防ぐだけで、地を掃き香を焚くのに、何人もの童に箒を持たせる必要はない。
  • 倹約によって貧しさに勝てば貧しさを忘れ、施しによって奢りに代えれば奢りは消える。省くことによって煩わしさを取り除けば煩わしさは消え、逆境によって心を鍛えれば心は定まる。
  • 清潔な机と明るい窓、一幅の画、一つの琴袋、一羽の鶴、一椀の茶、一炉の香、一部の法帖。小さな庭のひそやかな小道、いくつかの花の茂み、いくつかの鳥の群れ、いくつかの亭、いくつかの拳ほどの石、いくつかの池、いくつかののどかな雲。
  • 花の前に灯りがなくとも松の葉を燃やせばよく、石のほとりで眠くなれば琴袋を枕にすればよい。
  • 過ぎゆく歳月をもう数えることはせず、ただ花が咲けば春、花が散れば秋と見るのみである。一年を通じて何かを求めることもせず、ただ日が昇れば働き、日が沈めば休むのみである。
  • 頭巾を脱ぎ襟をくつろげ、斑模様の竹皮で編んだ冠をかぶり、枕にもたれて香を焚き、華山の道士の半袖の衣を身にまとう。
  • 穀雨の頃、茶の会を催し、双井の白茅茶や湖州の紫筍茶を用意し、臼と釜を洗い清め、清らかな泉と良い火を選ぶ。王蒙を品定め役、盧仝を差配役、李徳裕を博士、陸羽を統括役に見立てる。ただ喉の渇きを癒すためであり、湯加減を選び、茶の優劣を競い合う。
  • 窓辺に月が落ち、戸の外に蔓草が垂れ、石のそばに草の根が茂り、橋のたもとに木の影が映る。立つもよし、臥すもよし、座るもよし、吟じるもよし。
  • 馴れ馴れしい交わりはたやすく結ばれるが、日ごとに放縦に流れやすく、厳めしくよそよそしい交わりは親しみにくいが、日ごとに規律に進んでいく。
  • 甘さも苦さも味わい尽くしたなら、もはや手を引くべきであり、世の味わいなどまるで蝋を噛むように味気ないものである。生死の一大事を思えば、急いで振り返るべきであり、歳月は弾丸よりも速く過ぎ去る。
  • もし富貴が自分の力で得られるものであるなら、造物主にも権限はないことになる。もし毀誉が他人の思うがままに決まるものであるなら、讒言する者が思いのままに事を運べることになる。
  • 清らかな事は形にこだわってはならない。衣冠が必ず奇抜で古風であることを求め、器物が必ず精巧であることを求め、飲食が必ず珍奇巧妙であることを求めるなら、それは清らかさの中の濁りであり、私はこれを清事における一つの害虫だと思う。
  • この身一つを見ても、若い頃と壮年、壮年と老年ではそれぞれ違う。まして死後において、子が父に似、孫が祖父に似るなどということがどうしてあろうか。そう望むのは必ず妄想であり、できることといえば、ただ良い手本を子孫に残すことだけである。
  • もし金を望んで金が来るのなら、望まない理由があろうか。もし米を心配して米が届くのなら、人は当然心配すべきだろう。しかし朝起きればやはり貧しく、夜になればただ煩悩が増えるばかりである。
  • 半分開いた窓辺の一つの机で、遠くに思いを馳せのどかに考えれば、天地はなんと広々としていることか。清朝に起き出し、真昼に高く眠れば、胸中はなんとさっぱりと洗い清められることか。
  • 行いが道義にかなえば占わなくても自ずから吉であり、行いが道義に背けば占っても凶である。人は自ら己を占うべきであり、他に占いを問う必要はない。
  • 権勢者の門に奔走する者は、自分ではこの上ない栄誉と思っていても、他人はひそかに恥辱だと見ている。利益や名声の場で立ち回る者は、心はこの上なく苦しくとも、自分ではかえってそれを楽しみだと思っている。

処世の分類と修行の法

  • この世には治世の法、傲世の法、維世の法、出世の法、垂世の法がある。堯舜が衣を垂れて治め、殷周が鉞を執って統べたのは「治世」であり、巣父が耳を洗い、褒公が目を怒らせたのは「傲世」であり、伯夷が周に仕えることを軽んじ、厳光が富春江のほとりを重んじたのは「維世」であり、老子が青牛に乗って関を出、仙人が白鶴に乗って雲に翔けたのは「出世」であり、魯の儒者や孟子が七篇の書を著したのは、初めて「垂世」と呼ぶべきものである。
  • 書斎における過ごし方の法。心は暇だが手が億劫なら法帖を眺めるとよい、一字ずつ好きな時に置いておけるからである。手は暇だが心が億劫なら雑用を片付けるとよい、いつでもやめられるからである。心も手も暇なら字を書き詩文を作るとよい、両方を活かせるからである。心も手も億劫なら座って眠るとよい、無理に神を働かせなくて済むからである。心が落ち着かないときは詩や雑多な短い話を読むとよく、心が暇で何事もないときは長編の文章、経の注釈や史伝、古人の文集を読むとよい、これは風雨の時や寒い夜に特にふさわしい。また言う、「手が忙しく心が暇なら思索し、心が忙しく手が暇なら休み、心も手も暇なら著作や書をし、心も手も忙しいなら早く事を終えて心を安らかにするに越したことはない」と。
  • しばらくの間でも清々しく心地よければ、その一時を存分に味わい、半ばの景色でものどかで趣があれば、その半景を存分に楽しむ。改めて先延ばしにする心を起こす必要はない。
  • 一室の中で歩き回る修行は、街中を忙しく駆け回るよりも優れており、一日六度の礼仏は、五更に朝廷に伺候するよりも清らかである。
  • 心にかなうものは多くを求めない、数幅の王維の晴れやかな画があれば十分であり、心を知る友は幾人もいらない、百篇の杜甫の野趣ある詩があれば十分である。
  • 良い酒百斛も、一杯の穏やかな和み茶に及ばず、良薬千包も、一服の清涼な散薬に及ばない。
  • 暇なとき、昔の人の胸のすくような文章を取り出し、朗々と読み上げれば、心も神も超然とし、眉も晴れやかに開く。
  • 浄土を修める者は自らその心を浄めれば、この胸の内がそのまま蓮の世界となり、禅坐を学ぶ者は禅の理を悟れば、大地がすべて座禅の蒲団となる。
  • 質素な門の下に、琴があり書があり、それを弾き詠じて、そこに我が楽しみを得る。他に好むものがないわけではないが、この閑居こそを楽しみとする。朝には庭に水をやり、夕にはよもぎの庵に身を横たえる。
  • 古い庵を葺き直し、水路を通して泉を引き、周りを花木で囲み、日々その中で詩を口ずさむ。旧友が訪ねてくれば、茶を淹れ碁を打ち、杯を交わして酒がこぼれるほど楽しむ。これはもう俗塵の中の生活とは言えないものである。
  • 人に会っても世間の話をしなければ、それがそのまま世間に事なき人ということである。
  • 閑居の趣には五つの快活がある。人と交際せずに済み送迎の礼を免れるのが一つ、一日中書を読み琴を弾けるのが二つ、起き伏しを思いのままにでき束縛がないのが三つ、世間の冷暖のかしましさを聞かずに済むのが四つ、子に耕作と学問を課すことができるのが五つである。
  • 管弦の盛んな演奏はなくとも、一杯の酒と一つの詩があれば、それだけで幽かな情を存分に語り合うことができる。
  • 独り林泉に身を横たえ、心を広くのびのびと過ごし、利を求めず名を欲さず、思いを少なく欲を少なくする。これが身を修めて世を超える法である。
  • 茅屋三間、木の寝台一つと枕、良い香を焚き、ほろ苦い茶を啜り、書を数行読む。疲れれば松や梧桐の下に高く横たわり、あるいは冠もつけず気ままに吟じ歩く。日頃はほろ苦い茶を肉の代わりとし、松や石を珍味の代わりとし、琴と書を良き友の代わりとし、著述を功業の代わりとする。これもまた一つの楽しみである。
  • 素朴な心を懐に抱いて権勢や栄誉を楽しまず、辺鄙な地に身を落ち着けて利益や名声を意に介さない。恬淡な心を守って安らぎを願い、のどかに閑居して時に美しい琴を撫でる。

人生の無常

  • 人の一生は古来七十まで生きるのも稀であり、幼年と老年を除けばその中間の時はさして長くない。しかもその間には晴れの日も曇りの日も、悩みもある。中秋には月が一段と明るく、清明には花が一段と美しい。花の下、月の下で高らかに歌い、急いで金の杯を傾けるがよい。世の財産はいくら稼いでも尽きることがなく、朝廷の官職はいくら務めても終わりがない。官が高く金が多くなればなるほど身は疲れ、結局は自分の頭が早く白くなるだけである。目の前の人々をよく見るがよい、毎年その何割かは青草の下に埋もれていく。草の中には数え切れないほどの墓があり、その半分は年ごとに誰も掃苔に来ない。
  • 空腹になってから食べれば、粗末な菜も珍味に勝り、疲れてから眠れば、草の敷物も厚い布団に勝る。
  • 流れる水は泳ぐ魚を忘れ、泳ぐ魚は流れる水を忘れる、それこそが天のはからいである。大空は浮雲を妨げず、浮雲は大空を妨げない、それ以外のどこに仏性があるというのか。
  • 昔の人の風雅を大いに慕うが、屏風を贈られるような境遇にはない。しかし青山と白雲があれば、どこにいてもそれが私の枕屏となる。
  • 江山風月には、もとより決まった主はなく、暇のある者こそがその主人である。
  • 部屋に入れるのは清風だけであり、共に酒を酌み交わす相手はただ明月のみである。
  • 山の庵に一つの鐘を置き、清らかな朝や良き夜ごとに、それを打ち鳴らして節目とすれば、朝夕心を清め、心の動きを穏やかにしてくれる。李禿は「雑念があれば一打でたちまち忘れ、愁いの思いがあれば一打でたちまち払われる」と言ったが、まことに音を知る者の言葉である。
  • 淵と渓流の間、清らかな流れが注ぎ、幾千の岩が美しさを競い、幾万の谷が流れを競う。胸に何のわだかまりもなく清らかな流れで口をすすげば、心はすっかり澄み渡り、まさに深い情趣があると言えよう。
  • 林泉のほとりで、風が花びらを幾筋も舞い散らし、清らかな露が朝に流れ、新しい桐の葉が芽吹き始める頃、何事もなくのどかに落花を掃き清めれば、それだけで人の思いを晴らすに十分である。
  • 浮雲が山の峰から湧き出て、切り立った崖に天が懸かるように見え、日月は清らかに澄み渡り、時にわずかな雲が彩りを添える。雲が軒昂として霞のように湧き立つのを眺め、胡床に座って友と詩を詠み戯れれば、大いなる清らかさを汚すことはない。
  • 山の庵の磬は、たとえ緑玉でなくとも、その沈んで澄んだ清らかな音は、清らかな歌の調子をとり俗な耳を洗い流すのに十分である。山居の楽しみは冷ややかな趣にかなうもので、落ち葉を焚いて紅の炉とし、岩戸のもとで日向ぼっこをする。土鼓が梅の開花を促し、荻の灰が地を暖める。凛とした寒々しさはあっても、常磐木の枝がその年の寒さを乗り越えるさまが見られる。曇り空は流れず、舞い散る雪は酔うように見え、野は広々として冷たさもゆったりと感じられ、山は静かでも暗くはならない。干し魚が吊るされ、濁り酒がすでに注がれ、友が付き従い、寒中の約束は堅く守られる。天涯で歳の暮れに驚くこともなく、それはまるで孤島で綿入れをまとっているかのようである。
  • 錦の幕を幾重にも巡らし、紫の緞通を幾重にも敷き詰めても、木の葉を編んで幕とし、茅を集めて敷物とすることには及ばない。緑の木陰が流れるように影を落として神を清め、香気は骨身にまで染み渡る。座れば天地が一時に広々と感じられ、のどかに風流を放って、清福を悟る朝を迎える。
  • 春を送るときには血の涙が頬を濡らし、秋を悲しむときには美しい顔も目も痛ましく曇る。
  • 翡翠の羽は流れるように輝き、碧の雲は舞い上がる。
  • 郊外で野に座れば、まさに柴を敷いて語らうのにふさわしく、小道でのどかに語らえば、石を払って座るのに最もふさわしい。雲や煙の中に独り冷ややかに身を置き、胡床を動かして清らかに声を長く引いて嘯き、草木に寄り添って幽玄な趣をなす。琴を枕にして夜に奏でれば、その趣はいっそう高まり、碁盤を置いて昼に打ち鳴らせば、その清らかな音は遠くまで届く。まことに幽居の勝れた楽しみであり、野に生きる客の空いた席である。
  • 酒を飲むのに真剣になりすぎてはならない。真剣になれば大酔し、大酔すれば精神が混乱する。書物においては溺れるということになり、詩においては愚かな戯れとなり、礼においては豚を養うようなもの、史においては狂気の薬となる。それよりも、ほろ酔い程度にとどめて、風月を友とするのがよいではないか。
  • 家は鴛鴦湖のほとりにあり、葦や鴨の群れ、水と月の澄み渡る眺めに恵まれている。客の口笛や漁師の歌、帆掛け舟や霞の小舟が、あるかなきかに現れては消え、その半ばが机の上にまで映り込む。野僧を呼んで夕日の下に舟を浮かべる、これに勝る楽しみはない。
  • 雨上がりに簾を巻き上げて晴れた景色を眺めれば、苔の影が花の上に映り込んでいるのではないかと見紛う。
  • 月夜に香を焚き、古い桐の琴を三度弾き鳴らせば、あらゆる思い煩いを忘れ、妄想もすっかり絶える。試みに問うてみよう、香りはどんな味わいか、煙はどんな色か、窓を通す白い光はどんな影か、指先に残る余韻はどんな音か。恬然と楽しみ、悠然と忘れ去るその境地はどんな趣か、思いも及ばぬその境地はどんなものか。
  • 貝葉に記された経の歌は何にも妨げられず、蓮の花のような心は何にも染まらない。
  • 川辺で共に星を指して客人と見なし、花の中でむなしく月を仰いであなたと見なす。
  • 人の友との交わりは「趣」と「味」の二字に尽きる。趣に勝る者もいれば味に勝る者もいるが、味に富むよりも趣に富む方がよい。
  • 恬淡を守って道を養い、卑下に身を置いて徳を養い、怒りを去って性を養い、味の濃さを控えて気を養う。
  • 私はもともと福の薄い人間だから福を惜しむ生き方をすべきであり、私はもともと徳の薄い人間だから厚い徳を行う生き方をすべきである。
  • 天地はみな旅の宿にすぎないと知れば、これ以上順境を求める必要はない。あらゆる衆生を身内と見なせば、かえって仇敵となってしまうこともある。
  • 心を込めるべきところでこそ写意すべきであり、実景に対してわざとらしく点景を加えてはならない。
  • ただ名前を人に知られることを憂うなら、渓のほとりの幽かな草のようであればよく、清らかな約束を誰に託せるかと問うなら、砂の上ののどかな鷗のようであればよい。山の童子は草木の性質のままに鶴と共に眠り、下僕は詩歌の情を汲んで韻を集めてやって来る。門を閉ざして書を読むのは、山に入って道を修めるよりも遥かに勝り、人に会って説法するのは、独り座して胸に手を当てて省みることには遠く及ばない。
  • 硯の田が豊作となれば、たとえ千倉の珠のような穀物があっても両税の徴収には及ばないほどであり、文の錦を機で織り上げれば、たとえ万軸の龍の文様があっても宮中の禁令に触れることはない。
  • 大空の月の下を歩き、江辺の楼閣から錦のような雲を眺める。
  • 隠者の清らかな日課は、ただ茶を啜り香を焚くだけではなく、風雅な人の高い約束は、詩を作り筆を揮うことだけにあるのではない。
  • 花を養う情によって自らを養えば、風雅な心が日ごとにのどかになり、鶴を調える性によって自らを調えれば、真の性が自ずと美しくなる。
  • 湯が沸き立つような熱さでは、茶は酒に及ばないが、雲のように幽かな趣では、酒は茶に及ばない。茶は隠者の類であり、酒は侠客の類である。酒はもとより道が広く、茶もまた徳が素朴である。
  • 老いていけば、あらゆる縁が尽きたと自ずと感じられ、人の是非などどうでもよくなる。春が来れば、なお一つの気にかかることがあるとすれば、それはただ花の咲き散りだけである。
  • 是非の渦巻く場でも、人はそこから抜け出て逍遥することができ、順逆の境遇の中でも、思うがままに振る舞うことができる。竹が密生していても水の流れを妨げず、山が高くても雲が飛ぶのを妨げない。
  • 口に他人を評する言葉を用いず、眉間に煩悩をかけなければ、俗世に生きながらの神仙と呼べる。思いのままに花や柳を植え、性に合うように鳥や魚を養うのは、これぞ山林における暮らしの道である。
  • 昼寝から目覚めれば、身は疲れ果て、この世のことをほとんど忘れてしまう。夕餉の片付けが終われば、静かに何をするでもなく、炊事の煙が再び上がるのも気の向くままである。
  • 花が咲き散るのを春は気にかけず、意にそぐわぬことがあっても人に語らない。水が温かかろうと冷たかろうと魚だけが知っており、心にかなう境地はやはり独り味わうことを期する。
  • 心の中に波風が立たなければ、どこにいても青山緑水に見え、本性が育まれていれば、触れるところどこにでも魚が躍り鳶が飛ぶさまが見える。
  • 寵愛にも屈辱にも驚かず、庭前の花の咲き散りをのどかに眺め、去るも留まるも意に介さず、天の彼方の雲の巻き広がるままに任せる。小さな部屋の中であらゆる思い煩いを捨て去れば、彩色の梁を飛ぶ雲や、珠の簾を巻く雨など言うまでもない。三杯の酒の後にはひとしお本当の自分を得て、白い琴の弦が月に横たわり、短い笛が風に吟じることなど誰が知ろうか。
  • 趣を得るのに多くを要しない、盆の池と拳ほどの石があれば、それだけで煙霞は十分に備わる。景色に出会うのに遠くへ行く必要はない、粗末な窓と竹の家があれば、それだけで風月は自ずと満ちる。
  • この境地の趣を会得すれば、五湖の煙月がすべて胸の内に収まり、目の前の機微を見破れば、千古の英雄がすべて掌中に帰する。
  • 細やかな雨の中でのどかに書を開き、微かな風の中で独り琴を弄ぶ。
  • 水は思うがままに流れても景色は常に静かであり、花はしきりに散っても心は自ずとのどかである。
  • 残りの酔いはほろ酔いに供され、熱を好んで群がる蛾を鼻で笑い、ひと眠りの余韻は熟睡に及び、香りを分ける蝶にも劣らない。のどかに水竹雲山の主となり、静かに風花雪月の権を得る。
  • 半幅の花模様の便箋を手にすれば、臘の雪や春の氷のような趣を切り取ることができ、一本の竹の杖を携えれば、燕の雲や楚の水のすべてを収めることができる。
  • 心が竹とともに空であれば、是非などどこに感じ取ろうか。姿が松とともに痩せていれば、憂いや喜びが眉に上ることもないと知る。
  • 花咲く林や畑で蜂の忙しく飛ぶさまを見れば、いくつもの俗世の情態を見破ることができ、寂寞たる粗末な家で燕の巣ごもりを眺めれば、一種の冷ややかな趣と幽かな思いが湧き起こる。
  • どこであろうと真の境地でないところはなく、どんなものであろうと真の妙機でないものはない。半畝の芳しい庭園があれば、それだけで昔日の金谷園であり、一筋の流れる水があれば、それだけで小さな桃源郷である。林の中の野鳥の鳴き声いくつかが、それだけで一部の清らかな音楽であり、渓のほとりを流れるいくつかののどかな雲が、それだけで一幅の真の絵画である。
  • 人は病の中にいれば、あらゆる思いが冷え切り、たとえ富貴があっても享受できず、かえって貧賤でも健やかな者を羨むようになる。だから人は何事もないときにこそ常に病を想像すべきである。そうすればあらゆる名利の心は自然と払い去られる。
  • 竹の影が簾に映り込み、芭蕉の陰が欄干を覆う。そこで蒲団に横たわれば、自分が氷の壺や人魚の宮殿にいることさえ忘れてしまう。
  • 霜が降り木の葉が落ちる頃、疎らな林の奥に入り、木の根元に座れば、はらはらと葉が袖に降りかかり、野鳥が梢から飛んできて人をうかがう。荒涼とした地でありながら、格別に清らかで広々とした趣がある。
  • 明るい窓辺に図史や琴、酒器を並べて自ら楽しむ。興が乗れば小舟を浮かべ、詩を吟じ長嘯しながら山川の間で古を偲ぶ。渚の茶や田舎の酒があれば憂いを消すに十分であり、蓴菜や鱸、稲、蟹があれば口に適うに十分である。また高僧や隠士が多く、寺も絶景の地にある。家には庭園があり、珍しい花や奇石、曲がった池や高台があり、魚や鳥が戯れ留まるさまを見ていると、日が暮れるのも気づかない。
  • 山中で花や草を植えて自ら楽しむが、土地が素朴で人けが少なく、泉石も絃楽器の響きもなく、風雅な人も訪れなくなれば、寂しく日を過ごすことを免れない。しかし泉石は水や竹に代え、管弦は鶯の声や蛙の鳴き声に代え、風雅な人は虫食いの古い書物に代えれば、それもまたほぼ同じ趣となる。
  • 暇な時に伴を求めるなら書物が最上であり、この身の外に何も求めなければ眠りが最も安らかである。
  • 花を植え竹を育てても、それだけで必ずしも風流人と言えるわけではなく、酒を前に歌を歌っても、それだけで俠客と称せるわけではない。
  • がらんとした堂に燭を灯し続ければ書を写す老いた目もまだ役立ち、客が門を訪ねてくれば麈尾を揮ってただ青山のことだけを語り合う。
  • 帝の子が巫山の日の当たる地を望めば、遠くの山に雨が過ぎゆく。王孫が南の浦で別れを告げれば、香しい草が天に連なる。
  • 部屋は桃源郷に隣り合い、朝夕いつも蘭や菊を育てる。門は隠者の径に開かれ、行き来するのはただ羊裘を着た隠者だけである。
  • 長い林を枕にして史書を披けば、松の実を食物とし、豊かな草原に身を投じて閑を得れば、蒲の根を服することができる。
  • 一筋の渓水を柳が分けて流し、清らかな虚しさをかき乱すという者もいるが、三月の林の光を花が携え去るからといって、香りが消え残ったなどと言ってはならない。
  • 柴の門を昼も閉ざし、静かな庭にくつろげば、行雲流水のような自在な心境となる。隠遁しても親には背かず、正しさを守っても俗世を絶たなければ、それは泰山や高嶽のような気概である。
  • 窓辺の独り寝の寝台を頻りに移すのは、夜の月を親しく眺めるためであり、壁に琴を常に掛けておくのは、時折それを天の風に触れさせるためである。
  • ひっそりとした書斎には香炉と書物があり、酒器はすべて片付けられている。北窓のそばには石の枕と松風があり、茶釜がまさに沸こうとしている。
  • 明月が人に寄り添い、清風の中に座り、柴を敷いて水を問うのは、天涯の風雅の士のすることであり、箸をつけて酒に添える渓谷の珍味は、もてなす側の栄誉となる。高い車が門に寄せ、肥えた馬が門でいななき、酒を命じ茶を呼ぶ声が鬼神をも驚かすほど響き渡り、宴席が幾重にも重なり、珍味が地の果て天の果てまで尽くされるのは、招かれた客にとっての恥辱である。
  • 賀函伯が径山の竹林に座れば、眉も髭もみな青く染まり、王長公が杜鵑の花咲く楼の下に住めば、雲母の石までみな紅く染まる。
  • 茂った木の下に一日中座り、清らかな流れで身を洗い清める。山で採れば美味しい木の実が食べられ、水で釣れば新鮮な魚が食べられる。
  • 毎年科挙に落第しては、春風の中で出世の遅れを泣き、あちこちを流浪しては、夜雨の中で断ち切れた雁の便りを悲しむ。それでも金の壺には潤いがあり、玉の笛の音はゆったりと響く。
  • 若菜が初めて伸びる頃、その味は酥酪にも勝る。寒い雨の夜、童子を呼んでそれを摘み取らせ、酒の肴に夜語りをしながら、その清らかな香りをかげば、胸中の柴のようなわだかまりを洗い流すことができる。何も大量の灰を用いて心を鎮める必要などない。
  • 暖かな風の中、春の座で酒を酌み、細やかな雨の中、夜の窓辺で碁を打つ。
  • 秋冬の交わる頃、夜静かに独り座り、風雨の音を聞くたびに、もの寂しく愁いを覚える一方で、悠然と喜びも覚える。酒が醒め灯りが暗くなる頃には、なおさら言葉にしがたい思いにとらわれる。
  • 長亭に霞む柳の下、白髪になってもなお奔走する哀れな名利の客がいる一方、鄙びた宿や渓の雲の下、俗塵の届かぬ所で逍遥する牧童や樵がいる。天から与えられた命はみな同じであるのに、人が自ら選び取る道は異なるのである。
  • 富貴は人を俗にする最たるものだが、われらがそれを手にしても俗にならずにいられるならそれでよい。しかしそのような俗ならざる心を持てるのであれば、そもそも富貴でなくてもよいはずである。
  • 風が起これば張翰は蓴菜の味を思い出し、官を辞して悠々と帰り、春が巡れば陶淵明は柳を見て興趣に浮き立った。しかしこの二人が、薄給の官を辞して簪を投げ捨てたのは、それでもなお遅すぎたと私は嘆かずにいられない。
  • 黄色い花と紅葉は、春よりも秋の方が趣深く、白雪と青松は、冬もまた夏に勝る。春夏には園林、秋冬には山谷、心に何のわだかまりもなければ、四季それぞれが良き時である。
  • 牧童の歌や樵の歌を聞けば、五年分の俗塵にまみれた腸胃を洗い流すことができる。賑やかな管弦の調べも、一筋の山水の清らかな音には及ばない。
  • 孤独な一身、がらんとした四方の壁。見識ある者はこれに直面しても、たとえ冷淡さから愁いを生むことはあっても、決して寂しさから後悔を生むことはない。
  • 夜明け前の寝床の上で心の本体を参究すれば、心が動かず情が芽生えない、その本来の姿がようやく見えてくる。日々の飲食の中で世の味わいを吟味すれば、濃い味を喜ばず淡い味を厭わない、それこそが真に切実な修養である。
  • 瓦の枕と石の寝台にも、趣を得られればこの下界にも仙人がいるようなものであり、木の実を食べ草を着ても、縁に任せていれば西方浄土に仏がいなくても構わない。
  • 楽しい境遇にありながらそれを享受できない者は、結局は福の薄い人であり、苦しい境遇にありながらかえって甘美に感じる者こそが、真の修養を積んだ士である。
  • 半輪の新月と数本の竹、千巻の蔵書と一杯の茶。
  • たまたま水辺の村や川沿いの町に赴き、繋がれていない舟を浮かべ、また砂の岸や草の橋から、穴のない笛を吹く。
  • 物事の情としては常に何事もないことを喜びの顔とし、世の様としては口実をうまく作ることを巧みな術とする。
  • 時勢をよく救う者は、和やかな風が酷暑を消し去るようであり、俗を脱する者は、淡い月が軽い雲に映るようである。
  • 廉潔は貪欲を戒めるためのものであるが、自分が本当に貪欲でないなら、何も廉潔の名を立てて貪欲な者に睨まれる必要はない。譲ることは争いを止めるためのものであるが、自分が本当に争わないなら、何も譲る名を立てて乱暴者に弓を引かれる理由を作る必要はない。
  • 調べが高尚すぎればしばしば唱和する者が少ないという嫌疑を生むので、歌を歌うには調子を合わせる相手を求めるべきであり、眉が美しすぎればしばしば後宮に召される妬みを買うので、化粧をするにも決して城を傾けるほどにしてはならない。
  • 縁に随うことはそのまま縁を遣ることであり、それは舞う蝶と飛ぶ花が共に適うようなものであり、事に順うことは自ずと事無きことであり、それは満月と盆の水が共に円くなるようなものである。
  • 耳は谷にこだまする音のように、過ぎ去れば留めない、そうすれば是非もともに消え去る。心境は月が池に色を映すように、空でありながらとらわれない、そうすれば物と我とをともに忘れる。
  • 心の内に人に語れないことがなければ夢寐もすべて清らかであり、行いに人に見せられないことがなければ飲食もすべて健やかである。