宋史紀事本末文天祥・謝枋得の死(文謝之死)

厓山の後に捕らわれた文天祥と、招聘を拒み続けた謝枋得の最期を記す。天祥は燕へ送られて博囉と興廃・立君の是非を論じ、四年の獄中に詩を残し、至元十九年(1282)柴市で南に向かって再拝して死んだ。謝枋得は母の喪と亡国の大夫の義を理由に程鉅夫・留夢炎の招きを退け、至元二十六年(1289)に燕へ連行されて食を断ち死んだ。宋の遺臣の節を伝える篇。

年表(5件)

帝昺祥興二年二月(1279年)

  • 厓山が破れ、張弘範らが酒を置いて大いに会し、文天祥に、国は亡んだ、丞相の忠孝は尽くされた、心を改めて宋に事えたように今に事えれば、宰相の地位を失うことはあるまいと言った。天祥は涙を流して、国が亡んで救えなかった、人臣として死んでも罪は余りある、まして死を逃れて心を二つにできようかと言った。弘範はその義に感じ、使者を遣って天祥を燕へ護送させた。道が吉州を通ったとき、天祥は痛恨して八日食を断ったが、それでも死ななかったのでまた食べた。

祥興二年冬十月(1279年)

  • 燕に至った。館の人の設営はきわめて盛んだったが、天祥は寝所に入らず坐したまま夜を明かした。そこで兵馬司に移し、兵を置いて守らせた。
  • まもなく丞相の博囉らが枢密院で召見した。天祥は入って長揖した。跪かせようとすると、天祥は、南は揖し北は跪く、自分は南人だから南の礼を行う、余計に跪く必要があろうかと言った。博囉は左右を叱って地に引き倒させ、あるいは首を押さえ、あるいは背を押さえたが、天祥は屈せず、首を上げて言った。天下の事には興るも廃るもある、古来、帝王から将相まで、滅亡と誅戮のなかった代があろうか。天祥は今日、宋氏に忠であってここに至った。早く死を賜りたい、と。
  • 博囉は、汝は興廃があると言う、では盤古の帝王から今日まで何人の帝、何人の王があったか、一つ一つ自分に言ってみよと言った。天祥は、十七史をどこから話せばよいのか、自分は今日、博学宏詞や神童の科に応じているのではない、広く論じている暇はないと言った。
  • 博囉は、汝が興廃の事を言わないなら、では古来、宗廟と土地を人に与えておいてまた逃げた者があったかと言った。天祥は、国を奉じて人に与えるのは国を売る臣だ、国を売る者は利があってそうするのだから必ず去らない、去った者は必ず国を売った者ではない、自分は先に宰相を辞して拝さず、軍前へ使いを奉じ、まもなく拘えられた、その後、賊臣が国を献じた、国が亡べば死ぬべきなのに死ななかったのは、度宗の二子が浙東にあり老母が広にあったからだと答えた。
  • 博囉は、德祐の嗣君を棄てて二王を立てたのが忠かと言った。天祥は、その時に当たっては社稷が重く君は軽い、自分が別に君を立てたのは宗廟社稷のために計ったのだ、懐帝・愍帝に従って北へ行った者が忠ではなく元帝に従った者が忠であり、徽宗・欽宗に従って北へ行った者が忠ではなく高宗に従った者が忠であると答えた。博囉は言葉に詰まり、突然、晋の元帝と宋の高宗はいずれも受けた命があった、二王の擁立は正しくない、簒奪だと言った。
  • 天祥は、景炎は度宗の長子で德祐の実の兄だ、正しくないとは言えない、德祐が位を去った後に即位したのだから簒奪とは言えない、陳丞相が太皇の命を奉じて二王を宮から出したのだから、受けた命がないとも言えないと述べた。博囉らはみな言葉がなく、ただ受けた命がないと言い張るだけだった。天祥は、天が与え人が帰す以上、伝授の命がなくとも推戴して擁立することの何が悪いかと言った。
  • 博囉は怒って、汝が二王を立てて結局どんな功があったかと言った。天祥は、君を立てるのは宗社を存するためだ、一日存すれば臣子の一日の責を尽くす、何の功があろうと答えた。それならできないと知りながらなぜしたのかと問うと、天祥は、父母に病があればなしえないと分かっていても薬を下さない道理はない、我が心を尽くしても救えなければ天命だ、今日、天祥はここに至った以上、死あるのみだ、多言は要らないと答えた。
  • 博囉は殺そうとしたが、元主と大臣が許さなかった。弘範も病中に上表して、天祥は仕える先に忠であると述べて釈して殺さぬよう願った。そこで囚えた。

元至元十九年十二月(1282年)

  • 宋の丞相の文天祥を殺した。それ以前、天祥は燕に留められて三年、小さな楼で起き臥しし、足は地を踏まなかった。
  • 当時、帝は南人で才ある者を急いで求めていた。王積翁が薦め、帝はただちに積翁を遣って旨を諭して用いようとした。天祥は、国が亡んだ以上、自分の分は一死あるのみだ、もし寛大なおかげで一介の道士として故郷へ帰れるなら、いずれ方外の身として諮問に備えることもできよう。だがすぐに官に就けるとなれば、亡国の大夫はともに存続を図れないというだけでなく、その平生をすべて棄てることになる、自分をどう用いるのかと言った。
  • 積翁は宋の官の謝昌言ら十人に願い出させて道士として釈すことを請おうとしたが、留夢炎が許さず、天祥が出れば再び江南に号令する、我ら十人をどこに置くのかと言い、事は沙汰やみとなった。
  • 帝はその屈しないことを知って釈すことを議したが、天祥が江西で兵を起こした事を持ち出す者があり、釈免は果たされなかった。
  • ここに至って閩の僧が土星が帝座を犯したと言い、変事があるかと疑われた。まもなく中山に狂人があって宋主と自称し、衆千人で文丞相を取ろうとした。京城にも中山の薛保住という者があって匿名の書を上げ、某日、蓑城の葦を焼き両翼の兵を率いて乱を起こす、丞相はご心配なくと述べた。朝廷は疑い、そこで蓑城の葦を撤し、瀛国公および宋の宗室を上都へ移した。丞相とは天祥のことかと疑い、そこで詔して天祥を召して諭し、汝が宋に事えたやり方で我に事えれば汝を宰相にしようと言った。天祥は、天祥は宰相です、どうして二姓に事えましょう、一死を賜れば十分ですと言った。帝はなお忍びず、手で退けさせた。左右がその請いに従うようすぐ勧め、そこで詔して都城の柴市で殺した。
  • 天祥は刑に臨んで落ち着いて吏卒に、自分の事は終わったと言い、南に向かって再拝して死んだ。享年四十七。その衣帯の中に賛があった。曰く――孔子は仁を成すと言い、孟子は義を取ると言う。ただその義を尽くしてこそ仁に至る。聖賢の書を読んで学んだのは何事か。今より後、まずまず愧じるところがない――と。
  • その妻の欧陽氏が屍を収めると、顔は生けるようだった。天祥は人となり頬が豊かで両目は炯々とし、博学で事を論じるのに巧みで、文を作るのに草稿を書いたことがなく、とりわけ詩に長けた。獄にあること四年、忠義の気はひとたび詩歌に現れて数十百篇に累なった。ここに至って兵馬司が残ったものを集めて上げた。見る者で涙を流し悲しみ慟かない者はなく、その履の片方を得た者もこれを宝として蔵した。
  • まもなく義士の張毅甫という者がその骨を負って吉州に帰って葬った。折しも家人が広東からその母の曾夫人の柩を奉じて同じ日に城下に着いた。忠孝の感じたところだと言われた。
  • もと天祥が督府を開いて僚属を置いたとき、一時の名を知られた者は四十余人、遠くから号令を請うて幕府の文武の士と称した者は数えきれない。しかしみな一念を正に向け、死に至るまで悔いなかった。廬陵の鄧光薦は、天祥は詔を奉じて勤王し、独りその志を行い、たびたび躓いてはいっそう奮った、だからその軍は日々敗れ勢いは日々窮まりながら帰属する者は日々増え、従う者は一族を沈め家を亡ぼしても悔いなかった、人心が中国に向かい趙氏を思ったからでもあるが、また天祥の気迫と度量が人を感じ悟らせるに足りたからだと言った。

史論(史臣曰)

  • 古来、大義を天下に信べようとする志士は、成敗や利鈍でその心を動かさない。君子はこれに名づけて仁という。天理の正しさに合い人心の安らぎに即しているからだ。宋の德祐は亡んだ。文天祥は二人の幼弱な主を奉じて嶺海を彷徨いながら興復を図った。兵は敗れ身は捕らわれ、ついに屈せず、落ち着いて刑に伏し死に就くこと帰するがごとくだった。これは生よりも欲するところがあったのである。仁と言わずにいられようか。

史論(許有壬曰)

  • 宋は士を養うこと三百年、人を得た盛んさは漢唐を越えていた。天命がすでに去るに及んで、文天祥は万変にも変わらず、一朝に義に就いた。光明俊偉、一世を睥睨し、飾り立てた敏捷な士など何ほどのものかも分からないほどだ。宋の亡ぶとき節を守って屈しなかった者はあったが、天祥ほど為すところのあった者はない。事はまことに成敗で論じられない。

至元二十五年夏四月(1288年)

  • もと宋の江西招諭使の謝枋得を徴した。もと枋得は逃れて建陽に入っていた。当時、程鉅夫が江南に至って人材を訪ね求め、宋の遺士三十人を薦めた。枋得もその列にあった。
  • 枋得はちょうど母の喪中で、鉅夫に書を送って述べた。大元は世を制し民物は一新した。宋室の孤臣はただ一死を欠くだけだ。枋得が死なずにいるのは九十三歳の母が家にあるからにすぎない。罪は大きく悪は極まり、天がその命を絶やさずして頼みとするものを奪った。枋得は今より人間の事に意がない。 執事が士を薦められたとき、枋得に母の喪があることをご存じだったか。喪服では公門に入れない。古の礼に稽えれば、子に父母の喪があれば君命は三年、その門を過ぎない。天下に孝を教えるためである。伝に、忠臣を求めるなら必ず孝子の門にとある。人臣として家で孝を尽くさずして国に忠でありえた者はない。枋得は親の喪をまだ葬れず、服して三年に満たない。もし礼に違い法に背いて郡県の令に従い執事の意に順えば、不孝でこれに勝るものはない。 語に、人はどうして自らを知らずにいようかとある。枋得は自分が不才だと久しく知っている。亡国の大夫は存続を図れない。李左車でさえこれを言えた。まして詩書をいささか知り義理を識る者においてをや。 淳祐甲辰、丞相の史嵩之の父が没し、天子が詔して起復させた。嵩之は来なかったが、太学生が闕を叩いて攻めた。その言葉に、天子は国家のために綱常を扶け、天地のために人の極を立てるべきだ、情を奪うのは正しい典ではなく起復は美名ではないとあった。朝臣ではただ徐元杰だけが上疏して正論を主張し、君父に嵩之に三年の喪を全うさせるよう力めて勧めた。人心と天理は滅ぼせない。 咸淳甲戌の後は、もはや礼法がなくなった。賈似道は起復して平章となり、徐直方は起復して尚書となり、陳宜中は起復して宰相となり、劉黼は起復して執政となった。三綱四維は一朝にして絶えた。これが生霊が肉となり血となり、宋が肉となり血となったゆえんだ。後車の明らかな鑑ではないか。 忠臣が事を論じるには必ず大体を識り、君子が人を取るにはまず大節を観る。執事はその人でない者を挙げて大元が才を求める意を虚しくすべきではなく、枋得は礼によらずに進んで執事の人を知る明を誤らせるべきではない、と。
  • まもなく留夢炎もまた薦めた。枋得は改めて夢炎に書を送って述べた。江南の人材は今日ほど恥ずべきときはない。春秋以下の人物はもとより語るに足りないが、今、呂飴甥・程嬰・公孫杵臼・厮養卒のような者を一人でも求めようとして得られない。 紂が亡ぶとき、八百国の精兵をもってしても伯夷・叔斉の正論に抗しえなかった。武王と太公は慄然として身の置き所がなく、急いで滅びを興し絶えたるを継いで天下に謝し、殷の後裔をそのまま周と並び立たせた。三監と淮夷が叛かなければ武庚は必ず死なず、殷の命は必ず黜けられなかった。 そもそも女真が二帝を待遇したのも惨いものだった。王倫は一介の不良で無頼の市井の小人だったが、梓宮は還り太后は帰ると言い、ついに二つの事はその言葉どおりになった。今は王倫一人さえいない。江南に人材がないことが見て取れる。 今、自分は六十余、欠けているのは一死だけだ。どうして他の志があろう、と。ついに行かなかった。

至元二十六年夏四月(1289年)

  • 福建参知政事の魏天祐が宋の謝枋得を捕らえて燕に至らせ、屈せず死んだ。
  • もと天祐は当時、才を求めることが急務とされているのを見て、枋得を薦めて功としようとし、その友の趙孟頫に枋得を誘って入城させた。語りかけても坐したまま答えず、あるいは無礼な言葉を吐いた。天祐は堪えられず、責めて、封疆の臣は封疆に死ぬべきだ、安仁の敗北でなぜ死ななかったのかと言った。
  • 枋得は、程嬰と公孫杵臼の二人はともに趙氏に忠だったが、一人は十五年前に死に、一人は十五年後に死んだ、万世の後もともに忠臣であることを失わない。王莽が漢を簒って十四年、龔勝はそこで餓死したが、これも忠臣であることを失わない。司馬子長は、死には泰山より重いものと鴻毛より軽いものがあると言った。参政にこれが分かるものかと答えた。
  • 天祐は怒って北行を迫った。枋得は死を自ら誓い、嘉興を離れてから食を断った。二十余日たっても死ななかったのでまた食べた。采石を渡ってからは少しの野菜と果物だけを口にし、数か月を重ねて衰え尽きた。
  • この月の朔日、燕に至り、太后の攢宮の所在と瀛国公の居所を問い、再拝して慟哭した。まもなく病が重くなり、憫忠寺に移された。壁の間の曹娥碑を見て泣き、小さな女子でさえこうだった、自分がどうして及ばずにいられようかと言った。
  • 留夢炎が医者に薬を米の飲み物に混ぜて進めさせた。枋得は怒って地に投げつけ、食を断って五日で死んだ。子の謝定之が骨を得て信州に帰って葬った。
  • 枋得は生来、厳しく、雅かに奇気を負い、風骨は孤高で世と高下をともにできなかった。天の時と人の事から宋は必ず二十年後に亡ぶと推していた。楽毅・申包胥・張良・諸葛亮の事を論じるたび、常に千古の憤りを抱くかのようだった。そして世の教えを植え民の常道を立てることを任とし、富貴も貧賤も心を動かさなかった。
  • もと枋得が北行するとき、貧苦はすでに甚だしく、衣は綻び履は破れていた。かつてその德を受けた者が金帛を贈ったが、辞して受けなかった。また詩を作って門人と旧友に別れた。当時の人は、その辞を読めばその心が見え、慷慨激烈でまことに頑なな者を廉にし懦弱な者を立たせられると言った。