宋史紀事本末二王の擁立(二王之立)

臨安陥落の直前に閩・広へ逃れた益王趙昰・広王趙昺を奉じ、陳宜中・張世傑・陸秀夫・文天祥が福州で行朝を立ててから厓山で滅びるまでの三年余り。益王は福州で即位して景炎と改元したが、蒲寿庚の離反と元の追撃で海上を転々とし、端宗の死後に立った衛王も、祥興二年(1279)二月の厓山の戦いで陸秀夫に背負われて入水した。文天祥は五坡嶺で捕らえられ、張世傑も海陵山で溺死して宋は絶えた。

年表(30件)

帝㬎德祐二年春正月(1276年)

  • 癸未、吉王の趙昰を益王に進封して判福州とし、信王の趙昺を広王として判泉州とした。
  • もと文天祥を知臨安府に召したが、天祥は辞して就かず、福王と秀王に判臨安として民望を繋がせ、自らは少尹として死をもって宗廟を衛りたいと請い、あわせて吉王と信王に閩・広を鎮めさせて興復を図ることを乞うたが、いずれも許されなかった。ここに至って宗親が改めて請い、太后は従い、駙馬都尉の楊鎮および楊淑妃の弟の楊亮節、兪充容の弟の兪如珪に二王府の事を提挙させた。
  • 戊子、駙馬都尉の楊鎮らが益王と広王を奉じて婺州へ逃れた。楊淑妃と秀王与檡が同行した。元軍がまもなく臨安に入るからである。

德祐二年二月(1276年)

  • 元の巴延が范文虎に兵を率いて二王を追わせた。楊鎮は報せを得るとすぐ引き返し、自分はあちらで死んで追兵を緩めると言った。楊亮節らはそこで二王と楊淑妃を背負って徒歩で山中に七日隠れた。統制の張全が兵数十人で至り、そのままともに温州へ逃れた。

德祐二年三月(1276年)

  • 文天祥が鎮江から客の杜滸ら十二人と夜に逃れて真州に入った。苗再成が出迎え、喜びかつ泣いて、両淮の兵は興復に足りる、ただ二人の閫帥に少し隙があって合従できないだけだと言った。天祥が計はどこから出るかと問うと、再成は述べた。まず淮西の兵と約して建康へ向かわせれば、彼は必ず力を尽くして我が西の兵を防ぐ。そのうえで淮東の諸将を指揮し、通州・泰州の兵で湾頭を攻め、高郵・宝応・淮安の兵で揚子橋を攻め、揚州の兵で瓜歩を攻め、自分は水軍でまっすぐ鎮江を衝く。同日に大挙すれば、湾頭と揚子橋はいずれも沿江の脆い兵で、しかも日夜、我が師の到来を待っている。攻めればすぐ落ちる。合わせて瓜洲を三面から攻め、自分は江中の一面から迫れば、智者がいても謀を立てられない。瓜歩が挙がれば淮東の兵で京口に入り、淮西の兵で金陵に入ってその帰路を扼せば、その大帥は坐して捕らえられる、と。天祥は大いに善しとし、ただちに書を李庭芝に送り、使者を四方へ遣って約束を結ばせた。
  • もと天祥が真州に来る前、揚州に逃げた兵があり、元が密かに一人の丞相を真州へ遣って降を説かせていると言った。庭芝は信じ、天祥が元のために降を説きに来たと思い、再成に速やかに殺すよう命じた。再成は忍びなく、天祥を欺いて城の塁を見に出させ、制置司の文書を示して門外に閉め出した。しばらくして改めて二人の路分を遣ってうかがわせ、天祥が果たして降を説く者なら殺せと命じた。二人の路分は天祥と語ってその忠義を見、これも殺すに忍びず、兵二十人で揚州へ導いた。四更に城下に至ると、門を守る者が制置司から文丞相を捕らえよという令が厳しく出ていると話しているのが聞こえ、一同は顔を見合わせて舌を吐いた。
  • 天祥はそこで姓名を変えて清江の劉洙と称し、海路へ入ろうとして元兵に遭い、垣の間に伏して免れたが、飢えて起き上がれず、樵に乞うて残りの粥をもらい、板橋に入った。元兵がまた出て、一同は逃げて竹藪に伏した。兵が入って捜し、杜滸と金応を捕らえて行った。滸と応は懐の金を兵に与えて逃れた。二人の樵が担いで天祥を高郵の嵇家荘まで運び、嵇聳が迎えて自分の家に至らせ、子の嵇德潤に護送させて泰州に至らせた。そのまま通州から海に浮かんで温州へ行き、二王を求めた。

德祐二年閏三月(1276年)

  • 陸秀夫と蘇劉義らは二王が温州へ逃れたと聞き、道中で追いつき、人を遣って清澳の陳宜中を召した。宜中は来て謁した。さらに定海の張世傑を召し、世傑も部下の兵を率いて来た。温州の江心寺にはもと高宗が南へ逃れたときの御座があり、一同は相率いてその下で哭した。
  • 益王を奉じて天下兵馬都元帥とし、広王をその副とし、兵を発し吏を任じ、秀王与檡を福建察訪使としてまず閩中に入って吏民を撫し同姓を諭させ、諸路の忠義に檄を発してともに王室を助けさせた。折しも太皇太后が二人の宦者に兵百人を付けて二王を臨安へ召し戻そうとしたが、宜中らはその兵を江中に沈め、そのまま閩に入った。
  • 当時、黄万石が元に降り、かつて福建の漕使だったことから全閩を取って自分の功にしようとした。汀州・建州の諸州はまさに万石を通じて降を納れようと謀っていたが、二王が至ったと聞いてまた門を閉ざして万石を拒み、南剣・建州の守臣の林起鰲が軍を遣って追い払った。万石は敗走し、その将士の多くが帰属して兵勢はやや振るった。
  • 宜中らはそのまま嶺海に檄を伝え、夏貴がすでに江沿いの州郡を回復したと述べた。元の諸々の守将は江路が絶えて北へ帰れないとして、事を計るにかこつけて静江へ帰ろうとした。ただ広西宣慰使の史格だけが、諸君は虚勢に恐れるな、貴が嶺を越えるのを待って、本当に北へ帰れないと分かれば雲南を経る道もある、どうしてたやすく守備を棄てられようかと言った。元の行省はまた広州の肇慶・德慶・封州を棄てて梧州の守備に併せようとしたが、これも格に阻まれた。

德祐二年五月(1276年)

  • 乙未朔、益王が福州で即位して景炎と改元し、遥かに帝に孝恭懿聖皇帝の尊号を上り、また太皇太后に尊号を上り、楊貴妃を皇太妃に冊立してともに政を聴かせた。福州を福安府に昇格させ、大都督府を垂拱殿、便庁を延和殿とし、王剛中を知福安府とした。この日、府中から大きな音が出て、一同は驚いて倒れた。弟の昺を衛王に進封した。
  • 陳宜中を左丞相兼枢密使・都督諸路軍馬、陳文龍と劉黼を参知政事、張世傑を枢密副使、陸秀夫を直学士、蘇劉義を主管殿前司とした。
  • 詔して趙溍を江西制置使として邵武へ進兵させ、謝枋得を江東制置使として饒州へ進兵させ、李世逵・方興らに浙東へ進兵させ、呉浚を江西招諭使、鄒㵯をその副とし、毛統に海路で淮に至って兵を約して合流させ、あわせて傅卓・翟国秀らに道を分けて出師して帝室を興復するよう詔した。
  • 文天祥が行都に至り、右丞相兼枢密使・都督諸路軍馬に拝された。天祥は国事がみな陳宜中に決せられていることから固辞して拝さず、そこで枢密使・同都督とした。天祥は呂武に江淮で豪傑を招かせ、杜滸に温州で兵を募らせた。

德祐二年六月(1276年)

  • 丁卯、元兵が広州に入った。広東経略使の徐直諒が将の梁雄飛を遣って隆興の阿爾哈雅に降を請うた。阿爾哈雅は雄飛に招討使を仮して広東を巡らせた。まもなく直諒は益王の即位を聞き、権通判の李性道と摧鋒将軍の黄俊らに石門で雄飛を防がせた。性道は戦わず、俊は戦って敗れ、直諒は城を棄てて逃げた。雄飛は広州に入り、諸々の降将にみな官を授けた。俊だけが受けず、殺された。
  • 呉浚が広昌に兵を集め、そのまま南豊・宜黄・寧都の三県を回復し、翟国秀が秀山を取り、傅卓が衢州・信州に至って諸県の民の多くが応じた。折しも浚の兵が元兵に遭って敗走し、国秀は引き揚げ、卓の兵も敗れて元兵のもとへ降った。

德祐二年秋七月(1276年)

  • 文天祥が南剣州に府を開いて江西を経略した。天祥は温州へ戻って進取しようとしたが、陳宜中は自分が温州を棄てて閩に入ったので、張世傑に頼って浙東西を回復して汚名を雪ごうと考え、天祥の請いに従わず南剣に府を開かせた。

德祐二年八月(1276年)

  • 秀王与檡が婺州を囲み、元の董文炳が防いだので、与檡は戻った。当時、楊亮節が中央で権を執っており、与檡は国家の近親で賢だったので諫め止めることが多く、忌み嫉まれ、諸将もみな憚った。ここに至って浙東への出兵を詔されたとき、朝臣は、与檡には劉更生の忠と曹王臯の孝がある、府に留めて国本を隆んにすべきだと述べたが、讒言する者がいっそう急かし、ついに遣った。
  • 王積翁を福建招捕使とし、積翁に知南剣州を兼ねて上の三州の防備に当たらせ、副使の黄恮に知漳州を兼ねて下の三州の防備に当たらせた。
  • 張世傑が都統の張文虎を遣って呉浚と兵十万を合わせ、必ず建昌を回復することを期したが、元の将の李恒と戦って敗れ、浚は寧都へ逃げた。

德祐二年九月(1276年)

  • 元軍が道を分けて閩・広を侵した。阿勒哈・董文炳および蒙固岱・索多が水軍で明州に出、托爾楚および呂師夔・李恒らが騎兵で江西に出た。
  • 東筦の民の熊飛は元人のために潮州・恵州を守っていたが、趙溍が至ったと聞くとただちに兵で応じ、広州の梁雄飛を攻めた。雄飛は逃げ去り、そのまま韶州を回復した。新会の令の曾逢竜も兵を率いて広州に至った。李性道が出迎えて謁すると、飛と逢竜は性道を捕らえて殺し、溍はそのまま広州に入った。
  • 当時、知邕州の馬塈が入衛しようとしたが臨安がすでに陥ちていたので、静江に留まって諸軍の守備を総べた。折しも元の使者の阿爾哈雅が広西を取ろうとした。塈は部下および諸洞の兵を発して静江を守らせ、自ら三千人で厳関を守った。元兵は関を攻めて落とせず、そこで分遣隊を平楽に入れ臨桂を経て塈を挟撃した。塈は退いて静江を保った。阿爾哈雅が人を遣って降を招くと、塈は弩を放って射殺した。攻めること三か月、塈は甲を解かず、前後百余戦、城中は死傷が折り重なったが、ついに降る意はなかった。

德祐二年冬十月(1276年)

  • 文天祥が軍を率いて汀州に泊まった。天祥は趙時賞らに一軍を率いて贛へ向かわせて寧都を取らせ、呉浚に一軍を率いて雩都を取らせた。劉洙らもみな江西から兵を起こして合流した。
  • 元の呂師夔らが兵を率いて梅嶺を越えた。趙溍は熊飛と曾逢竜に南雄で元軍を防がせた。逢竜は敗死し、飛は韶州へ逃げた。元軍が囲むと守将の劉自立が城を挙げて降った。飛は兵を率いて市街戦をしたが敗れ、水に赴いて死んだ。

德祐二年十一月(1276年)

  • 元の阿勒哈と董文炳が処州に入った。秀王与檡とその弟の与慮、子の孟備および観察使の李世達、監軍の趙由𤥨、察訪使の林温が捕らえられ、みな屈せずに死んだ。知処州の李珏と知瑞安府の方洪はともに城を挙げて降った。
  • 元兵が建寧府と邵武軍に入った。
  • 北の兵が迫ると、陳宜中と張世傑は海船を備えて帝と衛王・楊太妃を奉じて舟に乗せた。当時、軍は十七万人、民兵は三十万人、淮の兵は一万人。北の舟と遭遇したが、折しも霧が立ち込めて暗く見分けがつかず、進むことができた。
  • 王積翁が叛いて元に降った。それ以前、積翁は南剣を棄てて行都へ逃げながら、人を遣って元に降を納れていた。ここに至って元軍が福安を侵すと、積翁は内応し、そのまま王剛中とともに降った。
  • 帝が泉州に至り、舟を港に泊めた。招撫使の蒲寿庚が来て謁し、駐蹕を請うたが、張世傑は許さなかった。もと寿庚は提挙市舶として舶の利を三十年も擅にしていた。ある者が世傑に、寿庚を留めて帰さなければ、海舶はみな自分に従わせられると勧めたが、世傑は従わず放って帰した。まもなく舟が足りなくなり、その舟を奪い、あわせてその財を没収した。寿庚は怒り、泉州にいた諸宗室および士大夫と淮の兵を殺した。宜中らはそこで帝を奉じて潮州へ向かった。

德祐二年十二月(1276年)

  • 蒲寿庚が知泉州の田子真とともに城を挙げて元に降った。
  • 趙溍が広州を棄てて逃げ、制置副使の方興も逃げた。
  • 元人が福州に入り、そのまま興化軍に入った。陳文龍が戦死した。当時、降将の王世強および王剛中が元兵を福へ導き、改めて使者を遣って興化を巡らせた。文龍は使者を斬り、その副使を放って書を持たせ、世強と剛中が国に背いたことを責め、そのまま民兵を発して固く守った。阿勒哈がまた使者を遣って招くと、文龍はまた斬った。降を納れるようほのめかす者があると、文龍は、諸君はただ死を畏れているだけだ、だがこの身が死なずにいられると思うかと言った。
  • そこで部将の林華に境で元兵をうかがわせたが、華は逆に元兵を城下へ導き、通判の曹澄孫が門を開いて降り、文龍を捕らえて降らせようとした。文龍は屈せず、左右が侮り挫こうとすると、文龍はその腹を指して、ここにはみな節義と文章がある、迫れるものかと言い、ついに屈しなかった。そこで枷をはめて杭州へ送り、文龍は食を断って死んだ。その母は福州の尼寺に繋がれ、病が重くなった。左右が見て涙を落とすと、母は、自分は我が子と同じく死ぬ、何の恨みがあろうと言い、これも死んだ。衆は嘆じて、この母にしてこの子ありと言い、収めて葬った。
  • 元の阿爾哈雅が静江を破り、馬塈が戦死した。それ以前、阿爾哈雅は書を送って馬塈に広西大都督を許したが、塈は聴かなかった。また元主に自ら手詔を降して諭すよう請うたが、塈は詔を焼いてその使者を斬った。
  • 静江は水を固めとしていた。阿爾哈雅はそこで堰を築いて大陽・小溶の二江を断って上流を遏め、東南の堤を決して城の濠を涸らし、そのまま破った。塈は内城を閉ざして守ったが、これも破られた。塈は決死の士を率いて市街戦をし、刀で腕を傷つけられて捕らえられた。首を斬られてもなお拳を握って奮い起ち、しばらく立ってからようやく倒れた。
  • 静江が破れると、邕州の守の馬成旺とその子の都統の馬応騏が城を挙げて降った。ただ塈の部将の婁鈐轄だけが二百五十人で月城を守って下らなかった。阿爾哈雅は笑って、それしきを攻めるまでもないと言い、十余日囲んだ。婁は壁の上から呼ばわり、我らは飢えて出て降ることもできない、食を賜れば命を聴くと言った。そこで牛数頭と米数斛を送った。一人の部将が門を開いて取って帰り、また壁を閉ざした。大軍が高みから見ると、兵はみな米を分けて炊いていたが、煮えないうちに牛を生のまま切って食べ尽くし、角を鳴らし鼓を打った。諸将は出て戦うのだと思って甲を着けて待った。ところが婁は部下に一つずつ火砲を抱えさせて点火させた。音は雷霆のように城を震わせ、城壁は崩れ、煙が天に立ち込め、外の兵にも驚いて死ぬ者が多かった。火が収まってから入って見ると、灰燼だけで何も残っていなかった。
  • 阿爾哈雅はその民をことごとく生き埋めにし、兵を分けて鬱林・尋州・蓉州・藤州・梧州などの州を取った。広西提刑の鄧得遇は静江が破れたと聞き、朝服で南を望んで拝辞し、南流江に身を投げて死んだ。
  • 帝が恵州の甲子門に駐まり、倪宙を遣って表を奉じて元の軍に降を請うた。索多はその子の伯嘉努に宙とともに燕へ赴かせた。

端宗景炎二年春正月(1277年)

  • 元兵が汀関を破った。文天祥は城に拠って敵を防ごうとしたが、汀の守の黄去疾は車駕が海に浮かんだと聞いて兵を擁して異心を抱いた。天祥はそこで軍を漳州へ移した。当時、趙孟濚らの軍は戻ったが、呉浚だけが来なかった。まもなく浚と去疾は元に降った。

景炎二年二月(1277年)

  • 元兵が広州に入り、そのまま広東の諸郡を陥れた。
  • 呉浚は元に降ってから漳州に来て文天祥に降を説いた。天祥は大義をもって責め、斬った。
  • 元兵が引き揚げ、潜説友を福州宣慰使、王積翁をその副として留めた。当時、北方に警報があり、元主は諸将を召して軍を戻させた。福安にいた諸将および淮の兵は李雄に統べさせた。

景炎二年三月(1277年)

  • 文天祥が梅州を回復した。
  • 陳瓉が兵を起こして興化軍を回復した。瓉は文龍の甥である。兵を挙げて林華を誅し、その城を回復した。

景炎二年夏四月(1277年)

  • 広東制置使の張鎮孫が広州を回復した。

景炎二年五月(1277年)

  • 張世傑が潮州を回復した。文天祥は兵を率いて梅州から江西へ出、吉州・贛州の兵がみな合流し、そのまま会昌県を回復した。
  • 淮の人の張德興が淮西の野人原寨の劉源らと兵を起こして興復し、司空山の民の傅高が兵を挙げて応じ、そのまま黄州と寿昌軍を回復して景炎の正朔を用いた。元の賈居貞は湖北宣慰使の鄭鼎に兵を率いて防がせた。鼎は、鄂の大姓はみな高と通じている、まず除いて禍の本を絶ちたいと述べたが、居貞は許さなかった。鼎は出発するにあたり親しい部将に、自分が軍を戻すと聞いたら城楼に烽火を挙げよ、内外で合わせて発し、城中の大姓をみな殺せと言い残した。鼎は樊口で德興と遭遇し、戦って敗れ溺れ死んだ。

景炎二年六月(1277年)

  • 辛酉、文天祥が雩都で元軍を破った。

景炎二年秋七月(1277年)

  • 文天祥が趙時賞らを遣って道を分けて吉州・贛州の諸県を回復し、そのまま贛州を囲んだ。衡山の人の趙璠、撫州の人の何時もみな兵を起こして応じた。
  • 乙巳、張世傑は元軍が退いたので、自ら淮の兵を率いて蒲寿庚を討った。当時、汀州・漳州の大盗の陳弔眼および許夫人の統べる諸洞の畬族の賊がみな合流し、兵勢はやや振るった。寿庚は城を閉ざして守り、世傑はそのまま諸路に檄を伝えた。陳瓉は家丁と民の義兵五百人を起こして世傑に応じた。世傑は将の高日新を遣って邵武軍を回復した。
  • 福州にいた淮の兵が王積翁を殺して張世傑に応じることを謀ったが、事が露見してみな積翁に殺された。

景炎二年八月(1277年)

  • 元の李恒が兵を遣って贛を援け、自ら興国の文天祥を攻めた。天祥は恒が突然来るとは思わず、兵を遣って鍾歩で戦わせたが不利だった。当時、鄒㵯が永豊に数万の兵を集めていたので、天祥は兵を率いてそこへ向かった。ところが㵯の兵が先に潰え、恒は天祥を万石嶺まで追って追いついた。鞏信が短兵で接戦した。恒はその寡で衆に当たるのに驚いて伏兵があるかと疑い、兵を収めて進まなかった。信は巨石に坐し、残る兵が左右に侍った。矢が雨のように集まったが屹然として動かない。恒が間道から近づいて見ると、傷が体を覆って死んでいながら倒れていなかった。
  • 天祥は空阬に至って兵が潰えた。趙時賞は肩輿に坐して後ろにいた。元軍が誰かと問うと、時賞は、自分は姓を文というと答えた。衆は天祥だと思って捕らえた。恒は俘虜をあまねく調べて確かめさせ、これは趙督参の時賞だと言う者があった。天祥はこれによって杜滸・鄒㵯とともに馬に乗って逃れられ、循州に至ると散った兵がかなり集まった。天祥の妻子および幕僚・客将はみな捕らえられた。
  • 時賞は隆興に至って奮い罵って屈しなかった。僚属で縛られて来る者があると、そのつど、小さな僉庁の官にすぎない、捕らえて何になるかと言って追い払わせ、逃れた者はきわめて多かった。刑に臨んで劉洙がしきりに弁明すると、時賞は叱って、死ぬだけだ、なぜそんな真似をするかと言った。こうして捕らえられた者はみな死んだ。恒は天祥の妻子と家族を燕へ送り、二人の子は道中で死んだ。

景炎二年九月(1277年)

  • 戊申、元の将の伊德黙色が邵武軍を陥れ、福州に入った。帝の舟は広州の浅湾に泊まった。
  • 元主が詔して托爾楚と李恒・呂師夔らに歩兵で大庾嶺に入らせ、蒙固岱・索多・蒲寿庚および元帥の劉深らに水軍で海に下らせ、合わせて二王を追わせた。
  • 張世傑が謝洪永を遣って泉州の南門を攻めさせたが不利だった。蒲寿庚はまた密かに残る軍に賄賂して攻城に力を入れさせず、その隙に間道から索多に救いを求めた。ここに至って索多が援けに来たので、世傑は囲みを解いて浅湾に戻った。
  • 元が昂吉爾らを遣って兵を率いて司空山の寨を襲って破った。黄州はまた陥ち、張德興は殺され、その三子は捕らえられて行った。傅高は姓名を変えて逃げたが、まもなく捕らえられて死んだ。

景炎二年冬十月(1277年)

  • 陸秀夫を同僉書枢密院事とした。秀夫が謫されたとき、張世傑は陳宜中を責めて、これが何の時だと思っているのか、動くたびに台諫で人を論じるのかと言った。宜中は恐れ入って急ぎ秀夫を行朝に召し戻した。
  • 当時、海のほとりを流離して庶事は粗略だった。楊太妃は垂簾して群臣と語るとき、なお自らを「奴」と称した。節ごとの朝会では秀夫だけが儼然として笏を正して立ち、朝廷を治めるかのようだった。あるいは行軍中に凄然として涙を落とし、朝衣で拭って衣が濡れ尽きるほどで、左右で悲しみ慟かない者はなかった。
  • 甲辰、元の索多が興化に至った。陳瓉は城を閉ざして堅く守った。索多は城に臨んで攻め、矢石が雨のように降ったので、雲梯と砲石を造って城を攻め破った。瓉は死を誓い、終日、市街戦をした。瓉を捕らえて車裂きにし、その民を屠り、血が音を立てて流れた。

景炎二年十一月(1277年)

  • 元の将の托爾楚は初め索多に泉州を経て海に浮かんで広州の富場で合流するよう命じた。索多は興化軍と漳州を取ってから進んで潮州を攻めた。守臣の馬発が力を尽くして守り、索多は期日に遅れることを恐れて放って去り、恵州で呂師夔と軍を合わせて広州へ向かった。制置使の張鎮孫および侍郎の譚応斗が城を挙げて降り、托爾楚はそのまま広州城を平らげた。
  • 元の将の劉深が浅湾の帝を攻めた。張世傑は戦って不利で、帝を奉じて秀山へ逃れ、井澳に至った。陳宜中は占城へ逃れ、そのまま戻らなかった。

景炎二年十二月(1277年)

  • 丙子、帝が井澳に至った。颶風が大いに起こり、舟が壊れてあわや溺れるところだった。帝は驚き悸えて病となり、十日余り。諸々の兵士はしだいに集まったが、死者は半ばを超えた。
  • 元の劉深が井澳を襲い、帝は謝女峡へ逃れ、また海に入って七里洋に至り、占城へ行こうとしたが果たさなかった。

景炎三年二月(1278年)

  • 帝の舟が広州へ戻った。元の将の托爾楚は索多に戻って潮州を攻めさせた。知州の馬発は城の守りをいっそう厳しくした。索多は塹を塞ぎ濠を埋め、雲梯と鵞車を造って日夜、急攻した。発は密かに人を遣って焼かせ、およそ二十余日対峙して敗れ、発は戦死し、索多はその民を屠った。

景炎三年三月(1278年)

  • 元の倪宙が燕に至った。元主は托爾楚らを召し戻して二王の事を議し、そこで索多と蒲寿庚を留めて福州で行省の事を執らせ、海沿いの諸郡を鎮撫させた。
  • 文天祥は帝の璧および母が恵州にあることから、そこへ向かい、行く先々で兵を収めて海豊県を出、そのまま麗江浦に泊まった。
  • 都統の凌震および転運判官の王道夫が広州を回復した。
  • 帝が碙州へ移った。
  • 曾淵子が雷州から至り、参知政事・広西宣諭使とされた。当時、淵子は兵を起こして雷州に拠り、元兵が降を諭したが聴かなかった。兵を進めて攻められ、淵子は碙州へ逃れ、そこでこの任命があった。

景炎三年夏四月(1278年)

  • 帝が崩じた。享年十一。群臣の多くは散じようとしたが、陸秀夫は、度宗皇帝の一子がなお在る、これをどこに置くのか、古人には一旅一成で中興した者がある、今、百官有司はみな揃い士卒は数万ある、天がまだ宋を絶やそうとしないなら、これで国たりえないはずがあろうかと述べた。そこで衆とともに衛王を立てた。八歳だった。壇に登って礼が終わると、御輦の向かう先の海中から黄龍が現れ、宮に入ると雲が翳って見えなくなった。大行皇帝に廟号を上って端宗とした。楊太妃はそのまま同席して政を聴いた。
  • 陳宜中が占城に入ってから日々その帰朝を待ったが、宜中はついに来なかった。当時、張世傑が政を執り、秀夫が助け、外は軍旅を計り内は工役を調え、およそ文書はすべてその手から出た。慌ただしい流離の中でも、なお日々、大学の章句を書いて講義に努めた。

祥興元年五月(1278年)

  • この年を祥興元年と改めた。乙酉、碙州を翔龍県に昇格させた。
  • 張応科と王用を遣って兵を率いて雷州を取らせた。応科は元兵と三度戦って不利で、用はそのまま元に降った。

祥興元年六月(1278年)

  • 張応科が兵を収めて改めて戦ったが敗死した。張世傑が全軍で城を囲むと、城中は糧が絶えて士は草を食とした。元の史格が欽州・廉州・高州・化州の諸州の糧を漕運して給し、世傑は引き揚げた。
  • 帝が新会の厓山へ移った。当時、六軍の泊まる所は雷州と化州が入り組む地で、厓山は新会県の南八十里の大海の中にあり、奇石山と向かい合って二枚の扉のように立ち、潮の出入りする所だった。もと鎮守の兵が置かれていた。張世傑は天険で扼して自ら固めうると考え、そこで帝を奉じて移り駐まらせ、人を山に入れて木を伐らせ、行宮三十間・軍屋三千間を造り、正殿を慈元と名づけて楊太妃を住まわせ、広州を祥興府に昇格させた。
  • 当時、官・民・兵はなお二十余万で多くは舟に住み、糧と資材は広右の諸郡と海外の四州から調達し、改めて人夫と工匠を集めて舟楫を造り器仗を作り、十月に至ってようやくやめた。
  • 庚辰、広州を翔龍府に昇格させた。
  • 元の張弘範が、張世傑が改めて広王を立て閩・広が呼応している、進んで取るべきだと述べた。元主は弘範を蒙古漢軍都元帥とし、宝剣を賜って軍事を専断させた。弘範は李恒を自らの副に薦め、許された。弘範は揚州に至って将校を選び、水陸の師二万を発して道を分けて南下した。元主はさらに托爾楚に後方に留まって軍費を供給するよう命じた。

祥興元年秋七月(1278年)

  • 湖南制置使の張烈良および提刑の劉応竜が兵を起こして厓山に応じ、雷州・瓊州・全州・永州および潭州の属県の民の周隆・賀十二らがみな応じた。大きいものは数万、小さいものも数千を下らなかった。元主は阿爾哈雅に討伐を命じ、周隆と賀十二を捕らえて斬った。烈良らは一族と残る兵を挙げて思州の烏羅洞へ逃れたが、元軍に襲われてみな戦死した。
  • 阿爾哈雅は海外の地を掠めることきわめて猛烈だった。ただ瓊州安撫の趙与珞および冉安国・黄之傑らが兵を率いて白沙口で防ぎ、固守を約して死を誓い、日々、援兵を待ったが来なかった。これによって瓊州・南寧・万安・吉陽の諸州県および八蕃・羅甸の諸蛮はみな元に付いた。

祥興元年八月(1278年)

  • 文天祥に少保・信国公を加え、張世傑を越国公とした。天祥は帝の即位を聞き、上表して江西で兵を敗った罪を自ら弾劾し、入朝を乞うた。手厚い詔で許されず、官爵を加えられた。天祥は陸秀夫に書を送り、天子は幼く宰相は逃げ隠れた、詔令はみな諸公の口から出る、どうして遊辞で拒めようかと述べた。
  • 折しも軍中で大疫が起こり、士卒の多くが死に、天祥の母も病没した。詔して喪中から起用した。天祥の長子もまた亡くなり、家族はみな尽きた。

祥興元年九月(1278年)

  • 端宗皇帝を厓山に葬り、陵を永福と号した。

祥興元年冬十月(1278年)

  • 元の蒙古・漢軍が数路から並び進んだ。張弘範は水軍で海路から漳州・潮州・恵州の三州を襲い、李恒は歩騎で梅嶺から広州を襲った。
  • 阿爾哈雅が人を遣って瓊州の安撫使の趙与珞および冉安国・黄之傑らに招降したが従わず、兵を率いて防いだ。

祥興元年十一月(1278年)

  • 瓊州の民が乱を起こして趙与珞らを捕らえて元に降った。与珞・冉安国・黄之傑はみな死んだ。
  • 李恒の兵が清遠に至り、王道夫が迎え撃って大敗した。恒はそのまま凌震を撃ってこれも破り、二人は広州を棄てて逃げた。恒は広州に入って弘範を待った。

祥興元年十二月(1278年)

  • 王道夫と凌震が広州を攻め、李恒と再び戦って敗れ、震は厓山へ逃れて翟国秀の軍と合流した。
  • 文天祥は潮陽に駐屯し、鄒㵯と劉子俊がみな軍を集めて合流した。そこで潮州の大盗の陳懿と劉興を討ち、興は死に、懿は逃げて海船で張弘範の兵を導いて潮陽へ渡らせた。天祥は麾下を率いて海豊へ逃れた。先鋒将の張弘正が追い、天祥がちょうど五坡嶺で食事をしていたところへ弘正の兵が突然、至り、衆は戦う暇もなく天祥は捕らえられた。脳子(樟脳)を呑んだが死ななかった。鄒㵯は自刎した。劉子俊は自ら天祥だと偽り、元兵が追い詰めなければ天祥が間道から逃れられると期した。別隊が天祥を捕らえて至り、道で行き合って互いに真偽を争い、実が知れて、元はそこで子俊を煮殺した。
  • 天祥は潮陽に至って弘範に会った。左右が拝を命じたが、天祥は屈しなかった。弘範はその縛を解いて賓客の礼で遇した。天祥は固く死を請うたが、弘範は許さず、舟中に置き、捕らわれた族属を求めて返した。

帝昺祥興二年春正月(1279年)

  • 元の張弘範が潮陽港から舟で海に入り、甲子門に至って斥候将の劉青と顧凱を捕らえ、帝の所在を知って厓山に至った。
  • ある者が張世傑に、北の兵が水軍で海口を塞げば我らは進退できない、行って先に占めるべきだ、幸い勝てば国の福、勝てなくとも西へ逃げられると言った。世傑は長く海中にあって士卒が心を離すことを恐れ、動けば必ず散じると考え、そこで、年ごとに海を渡り歩いていつ終わるのか、今こそ勝負を決すべきだと言った。
  • そのまま行朝の草市を焼き、大船千余艘を結んで一字の陣とし、海中に碇を下ろし、艫を内に舳を外にして大綱で貫き、四周に楼と棚を起こして城壁のようにし、帝をその間に奉じて必死の計とした。人はみな危ういとした。
  • 厓山の北は浅く、舟は膠着して進めなかった。弘範は山の東から南へ回って大洋に入り、世傑の軍と遭遇して迫り、あわせて騎兵を出して官軍の水汲みの路を断った。世傑の舟は堅くて動かせなかった。弘範はそこで舟に茅を積み油脂を注ぎ、風に乗じて火を放って焼こうとした。世傑の戦艦はみな泥を塗り長い木を縛って火の舟を防いだので燃えなかった。弘範はどうしようもなかった。
  • 当時、世傑の甥の韓某が元軍にいた。弘範は三度、韓を遣って世傑を招いた。世傑は従わず、自分は降れば生きて富貴になれると知っている、ただ義として移れないだけだと言い、そこで古の忠臣を歴挙して答えた。
  • 弘範はそこで文天祥に書を作らせて世傑を招こうとした。天祥は、自分は父母を守れなかったのに、人に父母を叛かせられようかと言った。強いて命じると、天祥は通りかかった零丁洋の詩を書いて与えた。その末に、「人生、古より誰か死無からん、丹心を留取して汗青を照らさん」とあった。弘範は笑って措いた。
  • 弘範はさらに人を遣って厓山の士民に、お前たちの陳丞相はすでに去り文丞相はすでに捕らえられた、まだ何をしようというのかと言わせた。だが士民に叛く者はなかった。
  • 弘範はまた水軍で海口を押さえた。世傑の兵士は乾いた糧を十余日食べ、海水を掬って飲んだ。水は塩辛く、飲めば嘔き下し、兵士はひどく困憊した。世傑は蘇劉義・方興らを率いて朝夕、大いに戦った。まもなく李恒が広州から軍を率いて合流し、弘範は恒と合わせて厓山の北を守った。

祥興二年二月(1279年)

  • 都統制の張達が夜に元軍を襲ったが敗れて戻った。
  • 癸未、元の張弘範は軍を四つに分け、自ら一軍を率いて一里ほど離れ、諸将に令して、宋の舟は西の厓山に寄せている、潮が来れば必ず東へ動く、急ぎ攻めよ、我が楽の音が聞こえたら戦え、令に違う者は斬ると命じた。
  • 当時、黒い気が山の西に出た。李恒は朝の潮の引くのに乗じてその北を攻め、張世傑は淮の兵で決死の戦いをした。昼に潮が満ち、元軍の楽が鳴った。世傑はそれで気が緩んだと思って備えなかったが、弘範は舟でその南を攻めた。世傑は南北から敵を受け、兵士はみな疲れて再び戦えなかった。
  • ほどなく一艘の帆柱の旗が倒れると、諸舟の帆柱の旗もみな倒れた。世傑は事が去ったと知り、精兵を抜いて中軍に入れた。諸軍は大潰し、翟国秀と凌震らはみな甲を解いて元に降った。
  • 元軍が中軍に迫ったとき、折しも日暮れで風雨が起こり、暗い霧が四方を塞いで一尺先も見分けられなかった。世傑は小舟を帝の所へ遣って帝をその舟に移し、そのうえで逃げ去る謀を立てた。秀夫は来た舟が無事に逃れられるとは限らず、また人に売られたり俘となって辱められたりすることを慮り、固く赴くことを肯じなかった。
  • 秀夫は帝の舟が大きく、しかも諸舟が環状に結ばれていて逃げ出せないと察し、そこでまず妻子を海に駆り入れ、帝に、国事はここに至りました、陛下は国のために死なれるべきです、德祐皇帝は辱めがすでに甚だしかった、陛下は再び辱められてはなりませんと言い、そのまま帝を背負ってともに溺れた。後宮と諸臣で従って死んだ者はきわめて多かった。
  • 世傑は蘇劉義と綱を断って港を奪い、暗い霧に乗じて潰え去った。残る舟なお八百はすべて弘範の手に落ちた。七日後、海上に浮かんだ屍は十余万人。元の兵に屍の間で物を漁る者があり、小さくて黄色い衣を着け詔書の宝を負った屍に出会い、宝を取って弘範に献じた。弘範は急ぎ行って求めさせたが、もう見つからなかった。そこで帝の崩御と報じた。享年九。
  • 楊太后はこれを聞いて胸を打って大いに慟き、自分が死を忍んで苦難を越えてここまで来たのは、まさに趙氏の一塊の肉のためだった、今は望みがないと言い、そのまま海に赴いて死んだ。世傑は海のほとりに葬った。
  • 世傑は占城へ赴こうとしたが、土豪が強いて広東へ戻らせ、そこで舟を回して南恩の海陵山に至った。散り潰えた者がやや集まり、広へ入ることを議した。ところが颶風が大いに起こった。将士は世傑に岸へ上がるよう勧めたが、世傑は、その必要はないと言い、舵楼に登って香を焚いて祝した。曰く、自分は趙氏のために力を尽くし尽くした。一人の君が亡べばまた一人の君を立てた。今また亡んだ。自分がまだ死なずにいるのは、敵兵が退いてから別に趙氏を立てて祀りを存せるかと思えばこそだ。今こうであるなら、これは天意か、と。風濤はいよいよ激しくなり、世傑は水に落ちて溺れ死んだ。

史論(史臣曰)

  • 宋は武によって起こったが、功が成り治が定まった後は仁をもって家を伝えた。しかし仁の弊は弱きに失することにある。中世に自ら強くしてその弊を革めようとした者があったが、用いる方法が誤り、ついに紛乱に至った。建炎の後は領土が分裂したが、なお六代の主を経て百五十年で亡んだ。これは礼義が君子の志を維持するに足り、恩恵が民の心を固く結ぶに足りたからではないか。恨むべきは、嗣主が昏庸で姦臣が相次ぎ、ついに大命が傾いたことだ。善き者があっても如何ともしがたかった。区々として二王を奉じて海上に謀ったのは、もとより亡びを救えなかったが、人臣が仕えるところに忠を尽くしてここに至ったのは、やはり悲しむべきことである。

補記(張珏の死)

  • もと元兵が蜀に入ってからも重慶だけは長く下らなかった。張珏は合州から兵を遣って瀘州・涪州の二州を回復し、たびたび元兵と戦った。元の巴哈と汪良臣らが重慶を陥れると、李德輝に書を作らせて張珏に送り、君が臣であることは宋の子孫より親しいわけではない、合州が州であることは宋の天下より大きいわけではないと述べた。珏は答えなかった。
  • 巴哈は城下に至って塔を営み梯と衝車を造って攻めようとした。珏は全軍で良臣と激戦し、良臣は身に四本の矢を受けた。翌日、督戦をいっそう急にした。珏は伊蘇岱爾と扶桑埧で戦い、元兵が背後から挟撃して珏の兵は大潰した。その夜、都統の趙安が城を挙げて降った。珏は兵を率いて市街戦をしたが支えきれず、帰って毒を求めて飲もうとしたが得られず、そこで流れに順って涪へ逃げた。巴哈が水軍を遣って迎え撃ち、捕らえられて安西に至り、弓の弦を解いて縊れて死んだ。