宋史紀事本末蒙古、襄陽を陥れる(䝉古陷襄陽)

劉整の降伏と献策に始まり、襄陽・樊城の五年にわたる攻囲、その陥落、そして巴延の渡江から常州屠城までを一続きに記す。呂文德は榷場の許可で敵に足場を与え、張順・張貴は死を賭して入城したが援けは続かず、樊城で范天順・牛富が死に、呂文煥は襄陽を挙げて降った。賈似道は葛嶺に籠もったまま丁家洲で大敗して誅され、汪立信・李芾・文天祥らが起つ。咸淳三年(1267)から德祐元年(1275)までの九年間。

年表(30件)

度宗咸淳三年十一月(1267年)

  • 蒙古主が諸路の兵を徴し、阿珠に襄陽を経略させた。
  • それ以前、景定二年、蒙古主は朝廷が郝経を拘囚し、たびたび使者を遣って詳しく問うても返答がないので、将士に諭して兵を挙げて宋を攻めることとし、詔を下して述べた。朕は即位の後、兵を収めることを深く念とした。だから先年、宋へ使者を遣って和好を通じた。宋人は遠く図ることを務めず、我らの小さな隙をうかがってかえって辺境の釁を開き、東を掠め西を奪って安らかな日がない。朕は今春、宮に還り、諸大臣はみな兵を挙げて南伐することを請うた。朕は両国の生霊のことを重んじ、なお信使の帰るのを待って悔い改める心が生じ和議が成ることを期した。だが留められて帰らぬまま今また半年になる。往来の礼はたちまち絶え、侵擾の暴はやまない。彼はかつて衣冠礼楽の国と自負した。道理としてこれでよいのか。曲直の分は明らかである。今、王道貞を遣って卿らに諭す。諸将と約し、秋が深まり馬が肥えたら水陸から並び進んで問罪の挙とせよ、と。
  • 当時、賈似道はちょうど鄂の功を論じ、もっぱら欺き覆うことを務めて朝廷に上聞しなかった。似道はまた諸将を忌み、汚名を着せて罪に落とそうとし、諸路に打算法を行い、軍を興したときに官の物を受け取ったことを盗みとした。そこで趙葵・史巌之・杜庶はみな侵盗と隠匿に連座して罷められ、向士璧と曹世雄は獄に下されて死んだ。
  • 劉整はそのころ潼川安撫使だったが、辺境の費用のことで蜀の帥の兪興に押さえられた。整はかねて興と隙があり、自ら使者を遣って朝廷に訴えたが届かず、心はいっそう疑い恐れ、そのまま瀘州十五郡の戸三十万を挙げて蒙古に降った。整は驍将である。蒙古は整を得て国事の虚実をすべて知り、南伐の謀はいよいよ固まった。それでも似道は平然として憂いとしなかった。
  • 当時、呂文德が鄂を守って威名があった。整は蒙古主に、南人はただ呂文德だけを恃んでいる、しかし利で誘えます、使者を遣って玉帯を贈り、襄陽の城外に榷場を置くことを求めて図られたいと述べた。鄂に至って文德に請うと、文德は果たして許した。そこで樊城に榷場を開き、鹿門山に土の牆を築き、外は互市を通じながら内には堡壁を築いた。これによって敵は拠るところを得て南北の援けを遏いだ。時に兵を出して襄陽・樊城の外を哨掠し、兵勢はいよいよ熾んになった。文德は騙されたと知ったが、もう及ばなかった。
  • ここに至って整はまた蒙古主に、宋を攻める方略はまず襄陽から事を起こすべきだ、襄陽はもと我が物で、棄てて守らなかったから宋が窃んで築いて強藩とした、襄陽を回復して漢水を浮かんで長江に入れば宋は平らげられると述べ、蒙古主は従った。
  • そこで諸路の兵を徴し、阿珠と整に襄陽攻略を経略させた。阿珠は馬を虎頭山に止め、漢水の東の白河口を顧みて、ここに塁を築いて宋の糧道を断てば襄陽は図れると言い、ただちにその地に城を築いた。
  • 呂文煥は大いに恐れ、人を遣って蠟書で呂文德に告げた。文德は怒って罵り、お前はみだりに言って功と賞を求めるな、たとえあったとしても仮の城にすぎぬ、襄陽と樊城は城池が堅く深く、兵の蓄えは十年を支えられる、呂六(文煥)に堅く守らせよ、整がみだりに動いても、春の水が来れば自分が行って取る、着くころには逃げているだろうと言った。識者はひそかに笑った。

咸淳四年九月(1268年)

  • 蒙古の劉整が阿珠と計って、我らの精兵と突撃騎は当たるところ破らぬものがないが、ただ水戦だけが宋に及ばない、彼の長所を奪い、戦艦を造って水軍を習わせれば事は済すと述べた。そこで船五千艘を造り、日々、水軍を練った。雨で出られないときも地に船を描いて習わせた。兵七万を練り、そのまま白河城を築いて襄陽に迫った。

咸淳五年三月(1269年)

  • 乙卯、蒙古軍が樊城を囲み、そのまま鹿門に城を築いた。
  • 己未、詔して浙西六郡の屯田に官を置いて租を督させ、差等を設けた。
  • 辛酉、京湖都統の張世傑が兵を率いて樊城を囲む蒙古の軍を防ぎ、赤灘圃で戦って敗れた。

咸淳五年秋七月(1269年)

  • 夏貴が新郢で蒙古の阿珠を襲って敗れた。もと貴は沿江制置副使として襄陽・樊城を援け、春の水の増したのに乗じて軽兵で糧を運んで襄陽の城下に至ったが、蒙古軍の襲撃を恐れ、わずかに呂文煥と言葉を交わして戻った。秋になって大雨が続き漢水が溢れると、貴は水軍を分け遣って東岸の林や谷の間に出没させた。阿珠は諸将に、これは虚勢だ、戦うべきではない、水軍を整えて新城に備えよと言った。翌日、貴の舟は果たして新城へ向かい、虎尾洲に至って阿珠に敗られ、士卒で漢水に溺れ死ぬ者はきわめて多かった。范文虎がまた水軍で貴を援け、灌子灘に至ったが、これも阿珠に敗られ、文虎は軽舟で逃げた。

咸淳五年十二月(1269年)

  • 癸酉、呂文德が没した。文德は蒙古に榷場を許したことを恨みとし、いつも、国家を誤らせたのは自分だと言い、そのために背に疽を発し、致仕を乞うた。詔して少師を授け衛国公に封じ、ここに至って没した。

咸淳六年春正月(1270年)

  • 李庭芝を京湖制置大使として軍を督して襄陽・樊城を援けさせた。当時、夏貴と范文虎が相次いで大敗しており、庭芝が着任すると聞いて、文虎は賈似道に書を送り、自分は兵数万を率いて襄陽に入り一戦で平らげられる、ただ京湖の閫の命令を受けさせないでいただきたい、事が成れば功は恩相に帰しますと述べた。似道はただちに文虎の兵を中央から制させた。庭芝はたびたび進兵しようとしたが、文虎は妓妾や寵臣と鞠を打ち飲宴して楽しむばかりで、旨がまだ届かないことを口実にした。

咸淳六年十二月(1270年)

  • 己亥、蒙古の張弘範が史天沢に、今、襄陽を取ろうとして囲みは周到だが攻めが緩いのは、自ら斃れるのを待つ計だ、しかし夏貴が江の増水に乗じて衣と糧を城に入れても防ぐ者がなく、江陵・帰州・峡州の旅人や休む兵が道を襄陽の南へ通って相次いでいる、どうして自ら斃れる時が来ようか、万山に城を築いて西を断ち、灌子灘に柵を立てて東を絶てば、まずまず斃す道になると述べた。天沢は従い、そこで万山に城を築き、弘範の軍を鹿門に移した。これ以来、襄陽・樊城の道は絶え、糧も援けも続かなくなった。

咸淳七年五月(1271年)

  • 蒙古が詔して東道の兵に襄陽を囲ませ、各道は進兵して牽制すべきだとした。そこで秦蜀行省平章政事の賽音迪延齊と沙木斯迪音が諸将を率いて水陸から並び進み、鄭鼎は嘉定に出、汪良臣は重慶に出、北朗布哈は瀘州に出、至るところ流れに順って筏を放って浮橋を断ち、将卒と戦艦をきわめて多く獲た。

咸淳七年六月(1271年)

  • 范文虎が衛兵および両淮の水軍十万を率いて進んで鹿門に至った。当時、漢水が溢れており、阿珠は江を挟んで東西に陣を敷き、別に一軍に会丹灘へ向かわせてその前鋒を衝かせ、諸将は流れに順って鼓を打ち喊声を上げた。文虎の軍は迎え撃ったが不利で、旗鼓と鎧・武具を棄てて夜に紛れて逃げた。蒙古はその軍を捕らえ、戦船と武具を数え切れないほど獲た。

咸淳八年五月(1272年)

  • 己巳、李庭芝が兵を率いて襄陽を救おうとした。当時、襄陽は囲まれて五年、援兵は来なかったが、呂文煥が力を尽くして守り、幸い城中には多少の蓄えの粟があり、乏しいのは塩・薪・布帛だけだった。
  • 張漢英は樊城を守り、泳ぎの上手な者を募って蠟書を髻に入れ、積んだ草の下に隠して水に浮かんで出させた。鹿門に築城された以上、勢いとして荊州・郢州から救援するほかないと考えたのである。だが隘口に至ったとき、元の兵が積み草の多いのを見て鉤で引き寄せ焼いて煮炊きに使おうとし、泳ぎ手は捕らえられた。こうして郢州・鄧州の路も絶えた。
  • ここに至って詔して李庭芝を郢州へ移屯させ、将帥はみな新郢および均州の河口に駐まって要津を守った。庭芝は襄陽の西北に清泥河という水があり、源は均州・房州にあると聞き、その地で軽舟百艘を造り、三艘を連ねて一つの舫とし、左右の舟に荷を積み、底を空にして覆い隠した。重賞を出して決死の士を募り、襄陽・郢州・山西の民兵で剽悍で戦に長けた者三千人を得た。将を求めると、民兵の部轄の張順と張貴があり、ともに智勇で平素、諸将に服されていたので都統とし、貴を「矮張」、順を「竹園張」と号した。
  • 出発に際して、この行は死あるのみだ、お前たちに本心でない者があれば速やかに去れ、我が事を敗るなと令した。人ごとに感じ奮った。漢水が増したところで、流れに順って舟百艘を発し、進んで団山の下、さらに高頭港口に至って方陣を組み、船ごとに火槍・火砲・熾した炭・巨大な斧・強い弩を置いた。夜の三刻に碇を上げて江に出、紅い灯を合図とした。貴が先登し順が殿を務め、風に乗り浪を破ってまっすぐ重囲を犯し、磨洪灘に至った。それより上流は元兵が舟を並べて江を蔽い、入る隙がなかった。順らは鋭に乗じて鉄の綱を断ち、筏を数百かき集め、百二十里を転戦した。元兵はみな靡いて鋒を避け、夜明けに襄陽の城下に着いた。
  • 城中は長く援けが絶えていたので、順らが来たと聞いて躍り上がり、望外の喜びで勇気は百倍した。軍を収めると順だけが行方知れずだった。数日後、屍が流れをさかのぼって浮かんできた。甲冑を着け弓矢を執ってまっすぐ浮橋に至った。見ると順だった。身に六つの傷と矢を受け、怒気は生けるように勃々としていた。諸軍は驚いて神だとし、塚を築いて葬った。
  • 貴は襄陽に入り、文煥は固く留めてともに守ろうとした。貴はその驍勇を恃んで郢へ戻ろうとし、水中に伏して数日食べずにいられる者二人を募り、蠟書を持って郢の范文虎のもとへ援けを求めに行かせた。元兵は守りを増して厳しく、水路には数十里にわたって鎖を連ね、星のように杭を並べ、魚蝦さえ通れないほどだった。二人は杭に出会うたびに鋸で切り、ついに郢に達して帰り報せた。兵五千を発して龍尾洲に駐め挟撃を助けることとし、期日も定まった。
  • そこで文煥に別れて東下し、部下の軍を点検した。舟に登ろうとしたとき、帳前の一人が逃げた。過ちを咎められて鞭打たれた者だった。貴は驚いて、我が事は漏れた、急ぎ行けば彼はまだ知らぬかもしれない、しかし枚を含んで隠れて行くこともできぬと言い、砲を挙げ鼓を鳴らして舟を発し、夜に乗じて流れに順い、綱を断ち囲みを破って冒し進んだ。元兵はみな退いた。険地を出て夜半、闇の中を小新河に至ると、阿珠と劉整が戦艦を分けて並べて迎え撃った。死をもって拒み戦い、岸沿いに葦を束ねて松明を並べ、火の光は天を照らして白昼のようだった。勾林灘に至って龍尾洲に近づき、遠くに軍船の旗が翻るのが見えた。貴の兵は郢の兵が合流に来たと思い、喜び躍って進み、流星火を挙げて示した。軍船は火を見てすぐ迎えに前へ出た。近づいて合わさろうとすると、来た舟はみな元の軍だった。
  • 郢の兵は二日前に風と水に驚き疑って三十里退いて駐屯しており、元兵は逃げた兵の報せを得て先に龍尾洲を占め、逸をもって労を待っていたのである。貴は戦って困り、しかも不意を突かれ、部下は殺傷され尽くし、身に数十の傷を負って支えきれず捕らえられた。櫃門関で阿珠に会った。阿珠は降らせようとしたが、貴は誓って屈しなかったので殺された。元は降卒四人に貴の屍を担がせて襄陽の城下に至らせ、矮張都統を知っているか、これがそれだと言わせた。城壁を守る者はみな哭し、城中は気を落とした。文煥は四人の卒を斬り、貴を順の塚に合葬し、双廟を立てて祀った。
  • 当時、朝廷は劉整が元に用いられていることを憂いとした。荊湖制置の李庭芝が整を盧龍軍節度使とし燕郡王に封じることを請い、朝廷は従い、永寧の僧に告身・金印・牙符および庭芝の書を持たせて期日を約して届けさせた。僧が元に入ってから事が露見し、元主は張易と姚枢に取り調べさせた。整は軍中から入って元主に見え、これは宋の患いです、臣が襄陽で兵を用いているので、これで臣を殺そうというのです、臣は実に与り知りませんと述べた。元主は整に賞して帰らせ、僧を誅し、あわせて整に書を送って執政を責めさせた。

咸淳九年春正月(1273年)

  • 乙丑、樊城が陥ちた。樊は囲まれて四年、范天順と牛富が力戦して挫けなかった。富はまたたびたび襄陽の城下へ書を射込み、呂文煥と互いに固く守って唇歯となることを期した。
  • まもなく阿爾哈雅が西域人の献じた新しい砲法を得、そこで樊を進攻して外郭を破った。張弘範は流れ矢に肘を射られたが、傷を縛って阿珠に会い、襄は江南、樊は江北にある、我らが陸から樊を攻めれば襄が水軍を出して救うので、ついに取れない、江の道を截って援兵を断ち、水陸から挟み攻めれば、樊が破れて襄も下ると述べ、阿珠は従った。
  • もと襄陽と樊城の西の城は漢水がその間を流れ、文煥は江中に木を植えて鉄の綱で鎖し、上に浮橋を造って援兵を通わせ、樊もこれを頼みに固めとしていた。ここに至って阿珠は機械の鋸で木を断ち、斧で綱を断ち、その橋を焼いた。襄の兵は救えず、そこで兵で江を截って出、鋭い軍で樊城に迫り、城はついに破れた。
  • 天順は天を仰いで嘆じ、生きて宋の臣、死しては宋の鬼だと言い、その守った地で縊れて死んだ。富は決死の士百人を率いて市街戦をし、元兵の死傷は数え切れなかった。渇いては血の混じった水を飲み、転戦して進み、民家に出会えば焼いて街路を絶ち、富は身に重傷を負って柱に頭を打ちつけ火に赴いて死んだ。副将の王福は富の死を見て嘆じ、将軍は国事に死んだ、自分だけ生きていられようかと言い、これも火に赴いて死んだ。

咸淳九年二月(1273年)

  • 庚戌、呂文煥が襄陽を挙げて叛き元に降った。襄陽は長く苦しんで援けが絶え、家を壊して薪とし、紙をつづって衣とした。文煥は城を巡るたびに南を望んで慟哭してから下り、朝廷に急を告げた。
  • 賈似道はたびたび上書して辺境へ行くことを請いながら、密かに台諫に上章して自分を留めさせていた。樊城が陥ちてまた請うと、事は公卿に下されて合議された。監察御史の陳堅らは、師臣が出て襄を顧みれば淮に及べず、淮を顧みれば襄に及べない、中央にいて天下を運らせるに越したことはないと述べ、帝は従った。
  • 当時、群臣の多くが高達なら襄陽を援けられると言った。御史の李旺が入って似道に言うと、似道は、自分が達を用いて呂氏をどうするのかと言った。旺は出て嘆じ、呂氏が安んじれば趙氏が危うくなると言った。
  • 文煥は達が来ると聞いてこれも喜ばず、客に語った。客は、易しいことです、今、朝廷は襄が急なので達を遣るのです、こちらが勝利を報せれば達は遣られませんと言った。文煥はもっともと思い、折しも元の哨騎数人を捕らえたので、偽って大勝と奏した。だが朝廷に実は襄を援ける意がないとは知らなかった。
  • まもなく阿爾哈雅が総管の索多らを率いて兵を移し、樊を破った攻具で襄陽に向かった。一発の砲がその譙楼に当たり、音は雷のようで城中は騒然とし、諸将の多くが城を越えて降った。
  • もと劉整はかつて馬を躍らせて独り前へ出て文煥と語り、文煥の伏せた弩に射られたが、幸い甲が堅くて貫かなかった。ここに至ってその城を粉砕し文煥を捕らえて溜飲を下げようとしたが、阿爾哈雅が許さず、自ら城下に至って元主が降した文煥招諭の詔を宣べた。曰く、お前たちは孤城に拠って守ること五年になる、主のために力を尽くすのはもとより当然だ、しかし勢いは窮し援けは絶えた、数万の生霊をどうするのか、降を納れれば悉く赦して咎めず、そのうえ登用する、と。文煥は疑ってためらったが、矢を折って誓ったので、文煥は出て降った。まず鍵を納れて城邑を献じ、あわせて郢を攻める策を陳べ、自ら先鋒となることを請うた。阿珠は襄陽に入り、阿爾哈雅は文煥を伴って燕に朝した。元主は文煥が降ったので詔のとおり登用するよう命じた。
  • 事が伝わると、似道は帝に、臣は初めたびたび辺境へ行くことを請うたのに陛下は許されなかった、早く臣の言を聴かれていればここまでにはならなかったと述べた。文煥の兄の文福・文德の文福は知廬州、文德の子の師夔は知静江府で、ともに上表して罪を待った。似道は庇い、詔していずれも問わなかった。

咸淳九年三月(1273年)

  • 詔して機速房を中書に置いた。襄城が失われてから、賈似道は改めて上書して、事勢がこうである以上、臣が上下に駆け回って気勢を連ねなければ大いに慮るべきことが起こると述べた。帝は、師相はどうして一日も左右を離れられようかと言った。似道はそこで機速房を建てて、枢密院が兵事を漏らし辺報を遅らせる弊を改めた。

咸淳九年夏四月(1273年)

  • 宣撫司参議官の張夢発が危急の三策を陳べた。漢口の岸を鎖すこと、荊門軍の当陽の境の玉泉山に城を築くこと、峡州の宜都から下流に堡砦を連ねて署いて流民を保聚し、守りつつ耕させること。あわせて築城の形勢を図にして上げた。似道は上聞せず、荊湖の制置司に可否を審議させ、事はついに行われなかった。

咸淳九年六月(1273年)

  • 己丑、給事中の陳宜中が、襄陽・樊城の失陥はみな范文虎の怯懦と逃亡によるとして斬ることを乞うた。賈似道は許さず、一官降しただけだった。
  • 監察御史の陳文龍が、文虎は襄陽を失いながらなお知安慶府とされている、罰すべきを賞するものだ、趙溍は乳臭い小僧で大閫の任に堪えない、ともに罷めるべきだと述べた。似道は大いに怒り、文龍を知撫州に黜け、まもなく台官の李可に弾劾させて退けた。
  • 汪立信が、臣は命を奉じて閫を分かち、吏民に会うたびにみな痛哭流涕して、襄陽・樊城の禍はみな范文虎および余興父子によると言う、文虎は三衙の長でありながら難を聞いて戦を怯み、わずかに薄い罰を受けただけだ、子の天順が節を守って屈しなかったことでいささかその咎を贖えるとはいえ。余興は奴隷同然の凡才で、私怨を晴らすことを務めて劉整を叛かせ、その毒は今に及んでいる、その子の余大忠は多くの資財を挟んで父のために賄賂を行い、しかも自ら進もうと望んでいる、寸刻みにしても天下の憤りを快くするに足りない、重い刑に処されれば人心は興り事功も図れると述べた。詔して大忠を除名し循州に拘管した。
  • 当時、国勢はきわめて危うかった。陳仲微が封事を上げた。要旨は――襄を誤らせたのは老将であり、襄を失った罪はもっぱら凡庸な閫帥や副将、幼い兵にあるのではない。君と宰相がその責を分け受けて先皇帝の天にある霊に謝すべきだ。天子が「罪は朕の身にある」と言い、大臣が「咎は臣らにある」と言い、十年の安逸を養った過去の誤りを布告し、六年の敵を軽んじた昨日の非を深く懲らすべきだ。過ちを未然に救うのはもう及ばないが、既往を追悔するのはなお迷い続けるよりましである。 ところが覆い庇う意ばかり多くて自ら責める言葉は少なく、陛下には師を哭する誓いがなく、師相は過ちを分ける言葉を飾る。義に死んだ者を慰め恤み、天に祈って禍を悔いる道ではない。しばしば代言の任に体を知る士が乏しく、翹館に識ある人がまれで、脂を吮い柔に媚びる習いが積もって痼疾となり、君の道も宰相の業もともに欠けている。 今は何の時か。それでいて朝廷に国を謀る臣がなく、辺境に折衝の帥がない。先朝の宣和の乱前、靖康の敗後を鑑とせよ。かつて日々、冕旒に近く華やかな車に乗って首を垂れ心を吐き、奴の顔と婢の膝で仕えた者が、そのまま今日、敵に奉じて臣と称する人である。強力で事に敏く敏捷で快活だった者が、そのまま今日、君に叛き国を売る人である。国を治める者がどうしてそういう人を便としようか。 国を迷わせる者は憂いを侮る欺きを進めてその君に迎合し、国を誤らせる者は恥と敗の局を庇ってあえて議さず、国に当たる者は安危の機に暗くて悔いない。臣はかつて思った。今、少ないのは兵だけではない。閫外の事は将軍が制すべきなのに、一階級半階級の任命もみな中央から出る。一斗の粟、一尺の布にも後の憂いがある。平素は権がなく緩急には責めがある。あるいは督府の設置を請い、あるいは辺境へ行くことを請い、あるいは築城を請えば、初めて聞いて驚かれる。諸閫は緩急のときに言い訳ができ、だから廟堂は敗れ欠けた後に悪を覆わずにいられない。謀があっても展べられず、敗れても誅されず、上下は恥を包んで口をつぐみあえて議さない。それゆえ下は器仗・甲馬に至るまで衰え粗末で軍容を粛すに足りず、壁塁・堡柵は折れ漏れて突撃の騎に当たれない。帥閫と号しても名存して実は亡い。 城があっても兵がなければ城を敵に与えるようなもの、兵が戦を知らなければ将を敵に与えるようなもの、将が兵を知らなければ国を敵に与えるようなものだ。事態は目睫に迫っている。ただ君と宰相が翻然と改め悟られれば、天下の事はまだ為すところがある。敗を転じて成となすのは君のひと念にかかっている、と。似道は大いに怒り、仲微を江東提点刑獄として出した。

度宗咸淳十年春正月(1274年)

  • 元の阿爾哈雅が、荊襄は古来、武を用いる地である、漢水の上流はすでに我が有だ、流れに順って下れば宋は必ず平らげられると述べた。阿珠もまた、臣は江淮を巡って宋兵の弱さをつぶさに見た、今取らなければ時は二度と来ないと述べた。
  • 元主は史天沢を急ぎ召してともに議した。天沢は、これは国家の大事です、重臣に命じられるべきで、安図と巴延に諸軍を都督させれば四海の混同は日を数えて待てます、臣は老いましたが、副将としてならまだ役に立ちますと答えた。元主は、巴延にこの事を任せられると言った。
  • 阿爾哈雅がそこで、我が師の南征は必ず三つに分かれる、旧来の軍では足りない、兵十万を増さなければならないと述べ、そこで中書省に詔して十万人を徴発させた。

咸淳十年六月(1274年)

  • 元主が諸将に兵を率いて南伐するよう諭し、あわせて賈似道が約に違えて郝経を捕らえた罪を数えた。詔して述べた。太祖皇帝以来、宋と使者を交わしてきた。憲宗の代、朕は藩の職として命を奉じて南伐した。彼の賈似道は宋京を我に遣って兵を罷め民を息めることを請うた。朕は即位の後、その言を思い起こし、郝経らに書を奉じて聘問させた。生霊のために計ったのである。ところが彼を捕らえたために師を出すこと連年、死傷は相次ぎ、縛られる者は続いた。みな彼の宋が自らその民に禍したのである。 襄陽が降った後、宋が禍を悔いて改め図ることを期したが、迷いに執して悔い改める心がない。だから問罪の師をやめられないのである。今、汝らを遣って水陸から並び進ませる。遠近に布告して知らせよ。罪なき民は初めから与っていない。将士はみだりに殺し掠めてはならない。逆を去って順に効し、別に奇功を立てる者があれば等級に応じて賞し遷す。固く拒んで従わず、逆らって敵する者は、俘とし戮して何を疑おうか、と。

咸淳十年秋七月(1274年)

  • 京湖制置使の汪立信を罷めた。立信は賈似道に書を送り、今、天下の勢いは十のうち八、九まで失われた、まことに上下が交々修めて天命を続ける機を迎え、寸陰を惜しんで事に赴き功に趨るべき日である、それなのに深宮で歌に酔い湖山に嘯き、歳月を弄び、緩急を取り違えている。卿士はみな法度を非とし百姓は鬱屈して怨んでいる。それで上は天心に適い下は民物を安んじ、手を拱いて指揮して万里に折衝しようというのは、難しいではないか。 今日の計としては三つの策がある。そもそも内の都にどうして多くの兵が要るのか。すべて江のほとりへ出して外の防ぎを実らせるべきだ。兵の帳簿を数えれば現在の兵は七十余万、しかし沿江の守りは七千里に及ばない。百里ごとに屯を置き、屯ごとに守将を置き、十屯で一府とし、府ごとに総督を置き、とりわけ要害の所には三倍の兵を置く。事がなければ舟を長淮に屯して往来し巡邏させ、事があれば東西が一斉に奮い、戦と守をともに用い、刁斗の音が聞こえ合い、糧の輸送が絶えず、互いに応援して連絡を固くする。宗室と大臣で忠良かつ実務に堪える者を択んで統制とし、東西の二府に分けて臨ませる。任に人を得れば率然の勢いを成せる。これが上策である。 使者を長く拘えても我らに益はなく、いたずらに敵に口実を与えるだけだ。礼を尽くして帰し、歳幣を輸することを許して師の期を緩めれば、二、三年もせず辺境の蓄えはやや回復し、藩籬はやや固まり、新しい兵は日々増え、戦うことも守ることもできる。これが中策である。 二つの策が果たして行われなければ、天が我を敗るのである。璧を銜み柩車を引く礼を備えて待つのみ、と。似道は書を得て大いに怒り、地に投げつけて罵り、片目の賊が狂言を吐く、よくもと言った。立信は片目がやや不自由だったのである。まもなく厳しい法にかけて廃し斥けた。
  • この月、元の巴延が南攻するにあたって暇乞いした。元主は諭して、古の善く江南を取った者は曹彬ただ一人だ、汝が殺しを好まなければ我が曹彬だと言った。

咸淳十年九月(1274年)

  • 元は呂文煥に巴延とともに郢州へ向かわせ、劉整に博囉歓とともに淮西へ向かわせた。巴延は大軍を二道に分け、自ら阿珠とともに襄陽から漢水に入り江を渡り、呂文煥に水軍を率いさせて前鋒とし、博囉歓に東道から揚州を取らせて淮東の兵を監させ、劉整に騎兵を率いて先行させた。
  • 巴延の一軍はさらに三道に分かれ、索多に一軍を率いて棗陽から司空山を哨させ、翟招討に一軍を率いて老鴉山から荊南を巡らせ、自らは阿珠とともに阿勒哈・張弘範の諸軍を率いて水陸から郢へ向かった。旗は連なって前後数百里に及んだ。
  • 丁巳、元の巴延が濼水に至った。前部の将の武顕が、水が溢れてまだ渡れないと言った。巴延は、この小さな水も渡れずに大江を渡れるかと言い、一騎を先導させて諸軍を指揮してすべて渡らせ、そのまま郢州に迫り、城の西に軍を置いた。
  • 当時、張世傑が兵を率いて郢に駐屯していた。郢は漢水の北にあり石で城を築いてあった。新城は漢水の南にあり、鉄の綱を横たえて戦艦を鎖し、水中に密かに杭を植え、砲と弩を挟み、要津にはみな杭を設けて攻具を備えていた。元軍が城を襲うと世傑は力戦し、元軍は前進できなかった。人を遣って世傑を招いたが聴かなかった。
  • 阿珠は捕らえた民から、沿江九郡の精鋭はみな二つの郢に集まっている、水軍がその間に出れば騎兵は岸を守れない、これは危うい道だ、黄家湾堡を取るに越したことはない、東に河口があり、そこから船を曳いて藤湖に入り、転じて江へ下ればわずか三里だと聞いた。呂文煥も便としたが、諸将は、郢城は我らの喉と口だ、取らなければ帰路の患いとなろうと言った。巴延は従わず、総営の李廷と劉国傑を遣って黄家湾堡を攻めて抜いた。諸軍は竹を割り席を地に敷いて舟を運び、藤湖から漢水に入った。
  • 巴延と阿珠が殿を務め、百騎に満たなかった。郢州副都統の趙文義が精騎二千を率いて追い、泉子湖に至って力戦したが敗れた。巴延は手ずから殺し、郢の兵はみな潰えた。
  • 元兵は進んで沙洋に至り、捕虜に黄榜と檄文を持たせて城に入れた。守将の王虎臣と王大用は捕虜を斬って榜を焼いた。文煥がまた城下に至って招いたが応じなかった。日暮れに大風が起こると、巴延は風に順って金汁砲を放って家屋を焼かせ、煙と炎が天を覆い、城はついに破れた。虎臣と大用を生け捕り、他はみな屠った。
  • 進んで新城に迫った。文煥は沙洋で斬った首を城下に晒し、大用らを縛って壁の前に連れて行って降を招かせた。都統の辺居誼は答えなかった。翌日、また至って、自分は呂参政と話したいだけだと言った。文煥は自分に降るのだと思って馬を馳せて至ったところ、伏せた弩が放たれ、文煥の右腕と馬に当たって倒れ、あわや鉤で捕らえられるところだった。衆は文煥を抱えて他の馬で逃げた。
  • 折しもその総制の黄順と副将の任寧がともに出て降り、その部曲の多くが城を縄で下りて出ようとした。居誼はみな追い込んで門の前で斬った。文煥はそこで兵を指揮して城を攻めた。居誼は火具で退けたが、たちまち蟻のように取りついて登られた。居誼は支えきれないと察し、剣を抜いて自殺したが死ねず、火に赴いて死んだ。部下三千人はなお力戦してみな死んだ。巴延はその勇を壮とし、その屍を買い求めて見、そのまま進んで渠州・復州を攻めた。居誼は随の人で、初め李庭芝に仕え、戦功を積んで都統制に至った。ここに至って節に死んだ。事が伝わり、死んだ所に廟を立てた。

咸淳十年十二月(1274年)

  • 元の巴延が蔡店に至り、諸将を大いに集めて渡江の期日を刻み、人を遣って漢口の形勢を見させた。
  • 当時、夏貴が漢水・鄂の水軍で要害を分け占め、三十余里に連なっていた。王達が陽邏堡を守り、朱禩孫が遊撃軍で中流を扼して、兵は進めなかった。軍将の馬福が、淪河は湖の中を貫いている、陽邏堡の西の沙蕪口から江に入れると述べた。巴延が沙蕪口を偵察させると、夏貴も精兵で守っていた。
  • 巴延はそこで進んで漢陽を囲み、漢口を取って渡江すると言い触らした。貴は果たして兵を移して漢陽を援けた。巴延はその隙に阿喇哈に奇兵を率いさせ、道を倍して沙蕪口を襲って奪い、そこで漢口から堰を開いて船を淪河に入れ、沙蕪口を経て江に達した。戦艦は万を数えて相次いで至り、数千艘を淪河の湾口に泊め、蒙古・漢軍数十万騎を江北に屯した。
  • 人を遣って陽邏堡に招諭したが応じなかったので、白鷂子船千艘で攻めたが三日たっても落とせなかった。巴延はそこで密かに阿珠に、彼らは我らが必ずこの堡を抜いてから渡江すると思っている、この堡はきわめて堅く、攻めても徒労だ、汝は今夜、鉄騎三千で舟に乗ってまっすぐ上流へ向かい、虚を衝く計を立てよ、明日、渡江して南岸を襲い、渡り終えたら急ぎ人を遣って自分に報せよと謀った。阿珠も、城を攻めるのは下策です、軍船の半ばを分けて岸沿いに西へ上り、青山磯の下に泊まって隙をうかがって動けば志を遂げられますと言った。
  • 巴延はそこで阿爾哈雅を遣って陽邏堡に迫らせた。貴が衆を率いて援けに来ると、阿珠はすぐ日暮れに四翼の軍を率いて流れをさかのぼること二十里、青山磯に至った。その夜、大雪が降った。夜明けに阿珠は南岸に露出した砂洲の多いのを遠望し、ただちに舟に登って諸将を指し、まっすぐ渡れ、馬を載せた船は後に続けと命じた。
  • 万戸の史格の一軍がまず渡り、荊鄂都統の程鵬飛に敗られた。阿珠が兵を率いて続き、流れの中で大いに戦い、鵬飛の軍は退いた。阿珠はそのまま砂洲に登り、岸をよじ登って歩戦し、散じてはまた合わさること四度、馬を出して急襲し、鄂の東門まで追った。鵬飛は重傷を負って逃げ、阿珠はその船千余艘を獲た。
  • 阿珠が人を遣って報せると巴延は大いに喜び、諸将を指揮して陽邏堡を急攻した。夏貴は阿珠が飛ぶように渡ったと聞いて大いに驚き、麾下三百艘を率いて先に逃げ、流れに沿って東下し、火を放って西南岸を焼き、大いに掠めて廬州に戻った。都統制の王達は部下八千人を率い、定海水軍統制の劉成とともに戦死した。
  • 元の諸将が貴を追うことを請うと、巴延は、陽邏の勝利は自分が使者を遣って宋人に先に告げようと思っていた、今、貴が逃げたのは我が使者の代わりだと言った。
  • そのまま渡江して阿珠と会し、軍の向かうところを議した。ある者はまず蘄州・黄州を取ろうとしたが、阿珠は、下流へ行けば退くとき拠るところがない、上って鄂・漢を取れば十日ほど遅れても万全ですと言った。巴延はそのまま鄂州へ向かった。
  • 己未、知漢陽軍の王儀が城を挙げて元に降った。
  • 朱禩孫は元兵が鄂へ向かったと聞いて軍を率いて援けに行ったが、途中で陽邏堡の敗北を聞き、夜に江陵府へ逃げ帰った。
  • 当時、鄂州は漢陽を蔽いとし京湖の援けを頼りにしていた。朱禩孫が逃げ漢陽も失われて、鄂の勢いは孤立した。呂文煥が兵を城下に並べて、お前の国の頼みは江と淮だけだ、今、大軍が江を渡り、淮は平地を踏むようなものだ、お前たちは降らずに何を待つのかと言った。折しも元軍が艨艟三千艘を焼き、火が城中を照らした。権守の張晏然と都統の程鵬飛は守り切れないと察し、そのまま州の軍を挙げて降った。幕僚の張山翁だけは屈しなかった。元の諸将が殺そうとしたが、巴延は義士だと言って釈いた。
  • そこで檄を下して信陽の諸郡を降し、鵬飛を京湖宣撫使とし、宋兵を分けて諸将に属させ、寿昌の糧四十万斛を取って軍餉に充て、阿爾哈雅と賈居貞に四万人で鄂を守らせて荊湖を取ることを図らせ、自らは大衆を率いて阿珠とともに東下して臨安へ向かった。
  • 癸亥、賈似道に諸路の軍馬を都督させた。当時、鄂州が破れて朝廷は大いに恐れ、群臣が上疏して師相が自ら出るしかないと述べた。似道はやむなく初めて臨安に都督府を開き、孫虎臣に諸軍を総統させ、黄万石らを参賛軍事とし、招いた官属はみな先に任命して後から奏することとし、あわせて封樁庫から金十万両・銀五十万両・関子一千万貫を出して都督府の公用に充てた。詔して天下に勤王を命じた。
  • 庚午、元の巴延が程鵬飛を黄州へ遣って陳奕に招諭させ、沿江大都督を許した。奕は喜んでそのまま城を挙げて降り、あわせて書で知蘄州の管景模を招き、景模も降った。当時、沿江の諸郡はみな呂氏の旧部曲で、風を望んで帰属した。奕はまた書でその子の陳巌を誘い、安東州を挙げて元に降らせた。
  • このとき李庭芝が兵を遣って援けに入った。

帝㬎德祐元年春正月(1275年)

  • 壬午、元兵が蘄州に入った。
  • 己酉、呂師夔が江州を挙げて元に降った。もと師夔は提挙江州興国宮として兵を募って元を防ぐことを請い、詔して知州の銭真孫とともに募らせた。ここに至って賈似道が制を承けて都督参賛に召し、中流の調遣に当たらせようとした。師夔は命を受けず、真孫とともに人を遣って蘄州に請い、江州を挙げて元に降った。巴延は師夔を知江州とした。
  • 丙戌、元兵が江州を巡った。知安東州の陳巌は夜に逃げた。当時、知寿昌軍の胡夢麟は江州に仮に治所を置いていたが自殺し、知南康軍の葉閶、知德安府の来興国、知六安軍の曹明はみな江州で迎え降った。師夔は庾公楼に宴を設け、宗室の女二人を選んで盛装させて巴延に献じた。巴延は怒って、自分は天子の命を奉じて義師を興し宋に罪を問うのだ、どうして女色で志を移そうかと言い、斥けて帰した。
  • もと元人が南侵するにあたり、呂文煥と劉整が先導した。まもなく別に整に淮南へ出るよう命じた。整は勇んで渡江しようとし、大軍が襄陽・樊城から東下すれば宋は力を尽くして西を防ぐ、東方は手薄だ、まっすぐ臨安に至れば一鼓で勝てると述べた。巴延は不可として、自分は詔を受けて東の兵を繋いで西へ行かせないようにするだけだ、渡江は聞いていないと言った。
  • ここに至って整は騎兵を率いて無為軍を攻めたが長く落とせず、呂文煥が鄂に入った勝報が届くと、声を失って、主帥が自分を縛って功を失わせ人に後れさせた、善く作る者が必ずしも善く成すとは限らないとはこのことだと言い、そのまま憤死して無為の城下に果てた。
  • 知安慶府の范文虎が城を挙げて巴延に降った。通判の夏琦は毒を仰いで死んだ。
  • この月、賈似道が江上に出師し、夏貴が兵を率いて合流した。もと似道は出師しようとしながら劉整を畏れてあえて行かなかった。整が死んだと聞いて、自分は天の助けを得たと言い、そこで上表して出師し、諸路の精兵十三万を抽出して行った。金帛と輜重の舟は百余里に連なった。宰執に、小事は専断し大事は督府に上申して擅に行わないよう命じ、また親信の韓震を殿帥として禁兵を総べさせた。
  • 安吉に至って似道の乗る舟が浅瀬に乗り上げた。劉師勇が千人で水に入って引いたが動かず、そこで他の舟に替えて出、新安・池口を経て進み、蕪湖に泊まった。人を遣って呂師夔と通じて和を議したが、まもなく夏貴が兵を率いて合流し、袖から一通の書を出して似道に示した。そこには「宋の暦は三百二十年」とあった。似道は首を垂れるだけだった。

德祐元年二月(1275年)

  • 汪立信を江淮招討使として江淮で兵を募り江上の州郡を援けさせた。立信は詔を受けるとその日のうちに道に就き、妻子を愛将の金明に託し、その手を執って、自分は国家に背かない、お前もまた必ず自分に背くなと言って出発した。
  • 蕪湖で賈似道に遭った。似道は立信の背を撫でて哭し、公の言を用いずここまで来たと言った。立信は、平章、平章、片目の賊は今日はもう一言も言えませんと言った。似道がどこへ向かうのかと問うと、立信は、今、江南に一寸の清らかな地もない、自分は趙家の地を一片探してそこで死ぬ、ただ死に方をはっきりさせたいだけだと答えた。
  • 建康に着くと守兵はすべて潰え、四面はみな北の軍だった。立信は事が成らないと知り、嘆じて、自分は生きて宋の臣、死して宋の鬼、ついに国のために一死するが、いたずらに死んでも益はないと言い、部下数千人を率いて高郵に至り、淮水・漢水を押さえて後図としようとした。
  • 賈似道は蕪湖から元の俘の曾安撫を返し、あわせて茘枝と黄柑を巴延に贈り、改めて宋京を元の軍へ遣って臣と称し歳幣を開慶の約どおり奉ることを請うた。阿珠は巴延に、宋人に信はない、進兵すべきだ、似道を避けて撃たなければ、すでに降った州郡は今夏、守りにくくなりますと述べた。
  • 巴延はそこで囊嘉特を遣って返書させ、江を渡らないうちなら和を議し貢を納れるのもよかったが、今は沿江の州郡がみな内属した、和したいなら来て面と向かって議せと言わせた。似道は答えず、囊嘉特は帰って報せ、京も戻った。
  • 庚戌、元兵が池州を侵した。知州事の王起宗は逃げ去り、通判の趙卯発が州事を代行し、城壁を修め糧を集めて固守の計を立てた。元の遊撃騎が季陽河に至ると、都統の張林がたびたび降を勧めた。卯発は憤りが胸に満ち、目を見開いて林を睨み、林は二度と言えなかった。まもなく林は兵を率いて江陰を巡ると称して人を遣って降を納れ、表向きは卯発を助けて守る形にした。兵はみな林に帰し、卯発は事が済せないと知り、そこで酒を置いて友を集めて訣別し、妻の雍氏に、城は破れる、自分は守臣として去れない、お前は先に出て逃げよと言った。雍は、君が忠臣なら、自分だけ忠臣の妻になれないのかと言った。卯発は笑って、これは婦人女子にできることではないと言った。雍は、では自分が先に死にたいと言い、卯発は笑って止めた。
  • 翌日、家財を散じて弟・甥・僕婢に分け、みな去らせた。元兵が城に迫ると、卯発は朝、起きて机上に書いた。曰く、国は背けず、城は降せず、夫婦ともに死んで節義は双つながら成る、と。そのまま雍氏とともに従容堂で縊れて死んだ。林は門を開いて降った。巴延は入城して太守はどこかと問い、左右が死んだと答えると、深く嘆息し、棺と衾を用意して池のほとりに合葬させ、その墓を祭って去った。
  • 賈似道は精鋭七万余をすべて孫虎臣に属し、池州の下流の丁家洲に軍した。夏貴は戦艦二千五百艘で江中に横たわり、似道は自ら後軍を率いて魯港に軍した。
  • 貴はかつて鄂で不利を蒙り、督府が功を成せば罪を逃れられないと恐れ、また虎臣が新参で自分の上に出たことから、まったく闘志がなかった。折しも巴延が軍中に大きな筏を数多く作らせ、薪と秣をその上に置いて、舟を焼くつもりだと言い触らした。諸軍はただ昼夜、厳しく備えるだけで戦う心はやや緩んだ。
  • 巴延は歩騎を分けて岸を挟んで進み、戦艦を指揮して勢いを合わせ虎臣の軍を衝いた。当時、阿珠は虎臣と対陣していた。巴延は巨砲を挙げて虎臣の中堅を撃たせ、虎臣の軍は動揺した。阿珠は划船数千艘で風に乗ってまっすぐ進み、喊声は天地を動かした。虎臣の前鋒将の姜才がちょうど交戦していたとき、虎臣が急にその妾の乗る舟へ移った。衆はこれを見て、歩軍の帥が逃げたと騒ぎ、軍はそのまま乱れた。夏貴は戦わずに逃げ、小舟で似道の船をかすめて、彼は多く我らは少ない、勢いは支えられぬと叫んだ。
  • 似道は聞いて驚き慌ててなす術を失い、たちまち鉦を鳴らして軍を収めた。舳艫は揺れ動き、分かれては合わさった。阿珠が小旗で将校を指揮し、軽鋭を率いて横から深く衝き入ると、諸軍は棹を返して逃げた。巴延は歩騎で左右から挟み、殺され溺れ死ぬ者は数え切れず、水は赤く染まり、軍資と器械はすべて元の手に落ちた。
  • 似道は夜に珠金沙に泊まって貴を召して計を議した。ほどなく虎臣が至り、胸を打って哭し、我が兵に命を尽くす者は一人もいなかったと言った。貴は微笑して、自分はかつて血戦して当たったと言った。似道が、計はどこから出るかと問うと、貴は、諸軍はすでに胆を落とした、何をもって戦えようか、師相はただ揚州に入って潰兵を集め海上で駕を迎えるほかない、自分は死をもって淮西を守ると言い、そのまま舟を解いて去った。
  • 似道はそこで虎臣と一艘の舟で揚州へ逃げ帰った。翌日、潰兵が江を覆って下った。似道が人を岸に登らせて旗を振って招かせたが、みな応じず、悪態をついて罵る者さえあった。江漢の守臣はみな城を棄てて逃げ、太平・和州・無為はみな相次いで元に降った。
  • 壬戌、元軍が饒州を掠めた。知州の唐震は州の民を発して城を守った。当時、元が使者を遣って降を求めてきた。通判の万道同は密かに部下に白金と牛酒を集めさせて降の礼を備え、それとなく震に降を勧めた。震は叱って、自分が生を偸んで国に背くに忍びようかと言った。城中の少年は震の言に感じて元の使者を殺した。まもなく元軍が城壁に登り、衆はみな散じた。震は入って府中に坐した。元軍が牘を執って降に署名させようとすると、震は筆を地に投げて屈せず、そのまま死んだ。郴州の守の趙崇榞は城中に寓居していたが、これも死んだ。万道同は城を挙げて降った。
  • もと江万里は襄陽・樊城が破れたと聞き、芝山の後園に池を鑿ってその亭に「止水」と扁した。人はその意を解しなかった。警報を聞くと門人の陳偉器の手を執って、大勢は支えられない、自分は位にないが国と存亡をともにすると言った。ここに至って元軍がその弟の知南剣州の江万頃を捕らえ、金銀を求めて得られず八つ裂きにした。万里は止水に赴いて死に、左右と子の江鎬も相次いで池に身を投げ、屍が折り重なった。翌日、万里の屍だけが水上に浮かび出、従者が収めて葬った。
  • 乙丑、賈似道が揚州に至り、諸郡に檄して海上で駕を迎えることとし、上書して遷都を請うたが、太皇太后は許さなかった。詔を下して公卿に合議させると、左丞相の王爚は駐蹕を堅持することを請うたが決しなかった。爚は自分が大計に与れないとして政を罷めることを乞い、返答を待たずまっすぐ去った。まもなく宗学生が上言して、陛下が蹕を移されるのは慶元でなければ平江、事勢が危急なら海路で閩へ行幸ということでしょうが、我らが行けるなら彼も行けることをお考えにならない、いたずらに驚き騒がせて益はありませんと述べ、そこで取りやめとなった。
  • 当時、まさに危急で諸将に勤王を徴したが多くは来ず、ただ郢州の守将の張世傑だけが兵を率いて入衛し、饒州を回復した。陳宜中は世傑が元から帰った者だと疑い、その部下の軍を替えた。
  • 丙寅、文天祥を江西安撫副使・知贛州とした。勤王の詔が贛に届くと、天祥は捧げて涙を流し、郡中の豪傑を発し、あわせて渓洞の山蛮を結んで一万人の衆を得、そのまま入衛した。
  • 友がこれを止めて、今、元兵は三道から鼓を打って進み、郊畿を破り内地に迫っている、君は烏合の一万余でそこへ赴く、羊の群れを駆って猛虎を打つのと何が違うのかと言った。天祥は、自分もそれは知っている、ただ国家が臣民を養育して三百余年、ひとたび急があって天下に兵を徴しても一人一騎として関に入る者がない、自分はこれを深く恨む、だから力を量らず身をもって殉じるのだ、天下の忠臣義士が風を聞いて義に起ち、勝つ者が謀を立て人が集まって功が済されることを望む、そうなれば社稷はまだ保てると答えた。
  • 天祥は生来、豪奢で平生の自奉は厚く、歌妓が前に満ちていたが、ここに至って痛切に自ら抑え削り、家財をすべて軍費に充てた。賓客や僚佐と時事を語るたび、机を撫でて、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂え、人の食を食む者は人の事に死すと言った。聞く者は感動した。
  • 戊辰、湖南提刑の李芾が兵を率いて勤王した。芾は性が剛直で賈似道に忤って官を貶され、長く家居していた。ここに至って湖南の提刑となり、壮士三千人を発して将に率いさせて勤王した。
  • 当時、元の使者の郝経はなお儀真に留められていた。元主は改めて礼部尚書の中都哈雅および経の弟の行枢密院都事の郝庸らを遣って使者を捕らえた罪を問わせた。賈似道は震え恐れ、そこで総管の段佑を遣って礼をもって経を送り帰した。経は道中で病んだ。元主は枢密院と尚医・近侍に迎えて労うよう勅した。通る先々の父老は経を望み見て涙を流した。
  • 江淮招討使の汪立信が軍中で没した。立信は賈似道の軍が潰え、江漢の守臣が風を望んで降り逃げたと聞き、嘆じて、自分は今日なお宋の土で死ねると言い、そこで酒を置いて賓僚を召して訣別し、手ずから表を作って三宮に起居を伺い、甥に書を送って家事を託した。夜半に起きて庭を歩き、慷慨して悲歌し、拳を握り机を撫でること三度、それで声を失うこと三日、喉を扼して没した。
  • 後に元軍が建康に至ったとき、金明はその家人のおかげで免れた。ある者が立信の二策と死を巴延に告げ、その妻子を戮すことを請うた。巴延は長く嘆息して、宋にこういう人があり、こういう言葉があったのかと言い、その家を求めて厚く恤み、忠臣の家だと言った。
  • 元の博囉歓の軍が邳州を下し、清河・漣水・海州を取った。守臣はみな城を挙げて降った。

德祐元年三月(1275年)

  • 癸酉、元の巴延が建康に入って居った。当時、江東は大疫で住民は食に乏しかった。巴延は倉を開いて賑わせ、あわせて医者を遣って病を治させ、民は大いに喜んだ。
  • 折しも元主が、今は暑くて行軍に不利だ、秋を待って再び挙げよと詔した。巴延は上言して、百年の逃れた敵はすでにその喉を扼している、少しでも遅れれば海島へ逃げ散り、後悔しても及びませんと述べ、元主は従い、巴延に行中書省として建康に駐まるよう詔した。
  • 阿珠は兵を分けて揚州に駐まり、博囉歓・托爾楚とともに宋の淮南の援けを絶った。巴延は兵を四方に分け出し、鎮江統制の石祖忠が降を請うた。
  • 朝廷は元兵がしだいに臨安に迫っているので、浙西提刑の劉経に呉江を守らせ、両浙転運の羅林と浙西安撫の張濡に独松関を守らせ、山陰県丞の徐垓と正将の郁天興に西安鎮を守らせ、趙淮を寺丞に起用して銀樹の東壩を守らせた。
  • 甲戌、元兵が無錫県を侵し、知県の阮応得が出て戦い、一軍はみな没し、応得は水に赴いて死んだ。
  • 乙亥、元兵が常州に入り、知常州の趙与鑑は逃げ、州人の銭訔が城を挙げて降った。
  • 甲申、元兵が西海州に至り、安撫の丁順が降った。
  • 丙戌、知広德軍の令狐槩が城を挙げて元に降った。張世傑は将の閻順・李存に軍を広德へ進めさせ、謝洪永に平江へ、李山に常州へ進ませ、順はそのまま広德軍を回復した。
  • 庚寅、元兵が臨安に近づいて戒厳した。同知枢密院の曾淵子、左司諫の潘文卿、右正言の季可、両浙転運副使の許自、浙東安撫の王霖龍、侍従の陳堅・何夢桂・曾希顔ら数十人がみな逃げ、朝中は寂然とした。僉書枢密院事の文及翁と同僉書事の倪普は台諫をそそのかして自分を弾劾させようとしたが、章がまだ上がらないうちに急いで関を出て逃げた。
  • 太皇太后はこれを聞き、詔して朝堂に榜を掲げた。曰く――我が朝は三百余年、士大夫を礼で待遇してきた。吾と嗣君は家の多難に遭ったのに、お前たち大小の臣工に一言でも国を救う言葉を出した者がない。内では百僚が官に背き列を離れ、外では守令が印を委ねて城を棄てる。耳目の司はすでに吾のために糾弾できず、二、三の執政もまた百僚を率いることができない。あまつさえ表裏で謀を合わせ、踵を接して夜に逃げる。平日、聖賢の書を読んで何と自負していたのか。それがこの時にこの挙に及ぶ。生きて何の面目あって人に対し、死んで何をもって先帝に見えるのか。天命はまだ改まらず国法はなお存する。文武に留まる者は二階級を進め、国に背いて予を棄てた者は御史台に察して報告させる、と。しかし禁じきれなかった。
  • 辛卯、元主が礼部尚書の廉希賢と工部侍郎の厳忠範に国書を奉じて来させ、建康に至った。希賢が自衛の兵を請うと、巴延は、行人は言をもってし兵をもってしない、兵が多ければかえって疑いを招くと言った。希賢が固く請うので兵五百で送った。巴延はあわせて諸将に令して、各々営塁を守りみだりに侵し掠めるなと命じた。
  • 希賢らが独松関に至ると、張濡の部曲が忠範を殺し、希賢を捕らえて臨安へ送った。希賢は傷が元で死んだ。濡は張俊の曾孫である。
  • 朝廷は人を遣って元の軍に書を送り、使者を殺したのは辺将の仕業で、太后と嗣君は実に知らない、罪を調べて誅すべきだ、幣を輸するので兵を罷めて好を通じたいと述べた。巴延は、彼は詐りの計で我が虚実を見ているだけだ、人を択んでともに行かせてその事体を観、彼に速やかに降らせようと言い、そこで議事官の張羽を使者とともに臨安へ帰らせた。羽は平江に至って殺された。
  • 壬辰、元の阿爾哈雅が岳州に入った。岳州安撫使の高世傑は郢州・岳州の二州の兵を集め、あわせて上流の諸軍の戦船数千艘で荊江の口を扼した。阿爾哈雅は諸翼の水軍を督して東岸に駐屯した。世傑は夜に乗じて洞庭湖の中に陣を敷いた。阿爾哈雅が道を分けて撃ち、世傑は敗走し、力尽きて降った。阿爾哈雅は世傑を斬って晒し、岳州総制の孟之紹は城を挙げて降った。

德祐元年夏四月(1275年)

  • 元兵が広德県に入った。知県の王汝翼と寓居の官の趙時晦が義兵を率いて戦い、孟唐老とその二子はみな死んだ。汝翼は捕らえられて建康に至って死んだ。
  • 丙午、元兵が沙市城を破り、都統の孟紀が戦死し、監鎮の司馬夢求は縊れて死んだ。
  • 戊申、京湖宣撫の朱禩孫と湖北制置副使の高達が江陵を挙げて元に降った。もと高達は鄂州の囲みを解いたとき、賈似道に節を建てることを許されながら、後に忌まれて与えられず、達は怨んでいた。ここに至って元の阿爾哈雅が鄂州から江陵を攻め、達はたびたび戦って敗れた。元が沙市を屠ると、達は禩孫および提刑の青陽夢炎らとともに出て降った。
  • 阿爾哈雅は入城して禩孫にその部下へ檄して帰属させた。こうして帰州・岐州・郢州・復州・鼎州・澧州・辰州・沅州・靖州・随州・常德・均州・房州・施州・荊門の諸郡は相次いでみな降った。阿爾哈雅は制を承けてみな官を復し、江陵を守った。
  • 勝報が届くと元主は喜んで近臣に、巴延が東下し、阿爾哈雅は孤軍で鄂を守っていたので、朕は常に憂えていた。今、荊南が定まった以上、我が東の兵に後患はないと語り、そこで自ら手詔を作って褒め、高達に参知政事を授けた。禩孫は上都に至って死んだ。
  • 庚申、知金壇県の李成大が義勇の兵を率いて元兵と戦い、捕らえられたが屈せず、二子とともに死んだ。
  • 当時、元兵が東下して通る先々が降を迎える中、李庭芝は部下を励まして揚州を固守した。阿珠が李虎に降榜を持たせて城に入れると、庭芝は虎を殺してその榜を焼いた。総制の張俊が出て戦い、降臣の孟之縉の書を持って降を招きに来ると、庭芝はまたその書を焼き、俊の首を市に晒した。時に金帛と牛酒を出して将士を饗して労い、人ごとに感激して自ら奮った。
  • 壬戌、阿珠が真州を攻めた。知州の苗再成と宗子の趙孟錦が兵を率いて老鸛觜で大いに戦ったが敗れた。
  • 庚午、阿珠が勝ちに乗じて揚州へ向かった。姜才が三重の陣を敷いて三里溝で迎え撃って破った。阿珠が退くふりをすると才は追い、阿珠は反転して戦い、揚子橋に至った。揚州撥発官の雷大震が出て戦って死んだ。
  • 両軍は水を挟んで陣を敷いた。元の張弘範が十二騎で渡って才の軍を衝いたが、才の軍は堅くて動かなかった。弘範が退いて誘うと、才の将の回回が馬を躍らせて衆から出、大刀を振るってまっすぐ弘範に向かった。弘範は轡を返して迎え刺し、回回は手に応じて倒れ、才の軍はそのまま潰えた。阿珠と弘範が追い、互いに踏み合って壕の水に落ちて死ぬ者が多かった。流れ矢が才の肩に当たったが、才は矢を抜き刀を振るって前へ出、元軍は退いて迫れず、そのまま身をもって死んだ。元軍は進んで揚州の南門に迫った。

德祐元年五月(1275年)

  • 劉師勇が常州を回復し、和州防禦使を加えられ、姚訔を助けて常州を守り、張彦に呂城を守らせた。兵威はやや振るい、これによって浙右の諸城で元に降っていた者もまた張世傑の軍と合流した。

德祐元年秋七月(1275年)

  • 辛未、張世傑が劉師勇・孫虎臣らと大いに水軍一万余艘を出して焦山に泊まり、十艘ごとに碇を下ろして江の中流に据え、号令がなければ碇を上げてはならないとして必死の構えを示した。
  • 元の阿珠は石公山に登って望み見て、焼いて走らせられると言い、そこで健卒で射の上手な者千人を選んで巨艦に載せ、両翼に分けて挟み射させ、阿珠は中央にあって勢いを合わせて進み戦い、続いて火矢を放った。帆柱はみな焼け、煙と炎が江を蔽った。諸軍は死戦し、逃げようにも前へ進めず、多くが江に赴いて死んだ。
  • 張弘範と董文炳がさらに鋭卒で横から衝き、世傑はもはや軍をなせず圌山へ逃げた。弘範が追って白鷂子船七百余艘を獲た。師勇は常州へ、虎臣は真州へ戻った。世傑は援軍を請うたが、ついに返答はなかった。
  • この月、元主が巴延を召し還した。上都に至って形勢を面と向かって陳べ、ただちに進兵することを乞うた。そこで右丞相に拝された。巴延は辞して、阿珠のほうが功が多い、臣は後に居るべきですと述べ、そこで阿珠を左丞相に進め、あわせて巴延にまっすぐ臨安へ向かうよう詔し、阿珠にはそのまま淮南を攻めさせ、阿爾哈雅に湖南を取らせ、万戸の宋都䚟および呂師夔・李恒らに江西を取らせた。

德祐元年八月(1275年)

  • 文天祥が臨安に至って上疏した。本朝は五季の乱に懲りて藩鎮を削り都邑を建てた。一時は尾大の弊を矯めるに足りたが、国はそれで弱まった。だから敵が一州に至れば一州が破れ、一県に至れば一県が残われ、中原は沈んで痛悔しても及ばない。 今、境内を四鎮に分け、都統を建てて中央に居らせるべきだ。広西を湖南に加えて長沙に閫を建て、広東を江西に加えて隆興に閫を建て、福建を江東に加えて番陽に閫を建て、淮西を淮東に加えて揚州に閫を建てる。長沙には鄂を取らせ、隆興には蘄を取らせ、番陽には江東を取らせ、揚州には両淮を取らせる。地は大きく力は多く、そうしてこそ敵に抗える。日を約して一斉に奮い、進むのみで退かず、日夜これを図る。彼は備えが多く力が分かれて奔命に疲れ、我が民の豪傑もその間に隙をうかがって出る。そうすれば敵を退けるのは難しくない、と。当時の議は迂闊として取り上げなかった。

德祐元年九月(1275年)

  • 鄭虎臣が漳州で賈似道を殺した。それ以前、台諫と三学の学生がみな上書して似道の誅殺を請うた。詔して似道を高州団練副使に謫して循州に安置し、使者を遣って監送させた。会稽県尉の鄭虎臣はその父がかつて似道に流されたことがあり、報いようとして喜んで行くことを請うた。
  • 舟が南剣州の黯淡灘に泊まったとき、虎臣は、水がきわめて清い、なぜここで死なないのかと言った。似道は、太皇が自分に死なせないと許された、詔があればすぐ死ぬと言った。漳州の木綿菴に至ったとき、虎臣は、自分は天下のために似道を殺す、死んでも何の恨みがあろうと言い、そのままその子と妾を別館に拘え、厠でその胸を締めて殺した。後に虎臣は陳宜中に殺された。

德祐元年冬十月(1275年)

  • 壬戌、元兵が建康を発して三道に分かれた。阿勒哈と鄂囉齊が右軍を率いて四安鎮に出て独松関へ向かい、董文炳と范文虎が左軍を率いて江に出て江陰軍に入り、巴延が中軍を率いて常州に入った。

德祐元年十一月(1275年)

  • 甲申、元の巴延が常州に至り、兵を集めて城を囲んだ。知州の姚訔、通判の陳炤、都統の王安節・劉師勇が力戦して固く守った。巴延が人を遣って招いたが聴かなかった。
  • 巴延は怒って降人の王良臣に城外の住民を使役して土を運んで塁とさせ、土が至ると人ごと築き込ませ、あわせて民を殺して脂を煎じて油を取り砲を作らせ、その牌と楯を焼き、昼夜、攻めてやまなかった。城中はきわめて急だったが、訔らの守る志はいよいよ堅かった。
  • 巴延は帳前の諸軍を叱咤して勇を奮い先を争わせ、四面から並び進んで二日攻め、城は破れた。訔は戦死した。炤と安節はなお市街戦をした。ある者が炤に、城の東北の門はまだ塞がっていない、逃げられると言った。炤は、ここを一歩去れば死に場所ではないと言い、日中に兵が至って死んだ。
  • 巴延はその民をすべて屠るよう命じ、安節を捕らえて軍前に至らせたが屈せず、これも死んだ。師勇は八騎で潰え走って平江へ逃げた。

史論(丘濬曰)

  • 元史を作る者は、巴延が江南を下すのに一人も殺さなかったと言う。ああ、常州は江南の地ではないのか。元の号令では、およそ城を攻め敵に臨むにあたり、矢の一本でも射掛けた者があれば、その場で屠ってよいことになっていた。巴延はこれ以前、密かに兵を渡らせて沙洋をすでに屠っている。ここに至って常州を攻め、長く落ちないことに憤り、招いても従わないので、城外の住民を使役して土を運ばせて塁とし、人ごと築き込み、人を殺して脂を煎じ油を取って砲を作り、城が陥ちた日にはすべて屠戮した。一城の人口はどれほどか、千万にもなろう。斬り払われた後、橋の坎に伏して免れた者はわずか七人。生来の残忍はここまでか。
  • 巴延が兵を統べて国を伐つ以上、人を殺すのはもとより免れないが、後の人が史筆を執りながら曲げてこれを諱み、曹彬に比べるとは、同類であろうか。ある者は、殺さなかったというのは臨安に入ったときのことだと言う。ああ、巴延が皋亭に至ると謝太后はすぐ使者を遣って璽を奉じて降を迎え、あえて一言を発する者もなかった。そのとき、人の心ある者なら誰でも殺さない。どうして巴延だけのことであろうか。

  • 己丑、元軍が独松関を破り、馮驥が戦死した。守将の張濡は逃げた。独松が破れると隣の邑は風を望んでみな逃げ、朝廷は大いに恐れた。

  • 当時、勤王の師はなお三、四万あった。文天祥は張世傑と議し、淮東で壁を堅くし閩・広で城を全うし、敵と血戦して万一勝てば、淮の軍に命じてその後ろを截らせれば、国事はまだ為すところがあると考えた。世傑は大いに喜んだが、陳宜中が太后に申し上げて詔を降し、王師は重厚に構えるべきだとしたので、議は取りやめとなった。
  • この年、元軍が江西の諸郡県をすべて陥れ、都統の密祐が戦死した。