宋史紀事本末李璮の帰属(李璮之納)
李全の子で蒙古の山東行省となっていた李璮が、孟克の死と呼必賚の即位を機に南帰の志を起こし、景定三年(1262)に京東の州県を挙げて宋に帰属した事件。宋は斉郡王に封じて応じたが、史天沢・哈必齊・張弘範・董文炳らの包囲で益都・済南に追い詰められ、援軍の蘿炎も進まず、璮は妻妾を斬って自殺を図り捕らえられて殺された。事後、蒙古は大藩子弟の兵民権を削る契機ともなった。
年表(5件)
- 理宗
- 景定三年二月1262年李璮が京東を挙げて宋に帰属し斉郡王に封じられる
- 景定三年夏四月1262年李璮が兵を返して益都を攻め取りそのまま淄州に入る
- 景定三年五月1262年史天沢が持久策を取り張弘範は伏兵と壕で璮の攻撃を破る
- 景定三年六月1262年宋が銀五万両を送り蘿炎を援軍としたが進まず戻る
- 景定三年八月1262年済南が陥ちて李璮は捕らえられ殺され三斉は蒙古に復す
理宗景定三年二月(1262年)
- 蒙古の江淮大都督の李璮が京東を挙げて帰属した。璮は李全の子で、蒙古に降って山東行省となり、旧来の海城を修めて海路をうかがおうとした。まもなく海州と漣水軍を陥れて四城を抜き、官軍をほとんど殺し尽くし、淮・揚は大いに震えた。
- 蒙古主の孟克が没して呼必賚が立ってから、璮は南へ帰る志を萌した。前後に奏したおよそ数十事はみな脅しと虚言で蒙古を動かすもので、自らは修繕を整え兵を増やす計を立てた。
- ここに至って子の李彦簡を開平に召し寄せ、済南・益都などの城壁を修築し、蒙古の守備兵を殲滅し、漣水・海州の三城を挙げて帰属した。京東の州県を献じて父の過ちを贖うことを請い、あわせて総管の李毅らを遣って諸郡に檄を伝えた。詔して璮に保信・寧武軍節度使を授け、京東・河北路の軍馬を督視させ、斉郡王に封じ、その父の李全の官爵を復し、漣水を安東州と改めた。
景定三年夏四月(1262年)
- 李璮が兵を率いて戻って益都を攻めて入り、そのまま淄州に入った。
景定三年五月(1262年)
- 蒙古主が諸王の哈必齊に諸道の兵を統べて李璮を撃たせた。璮の兵勢はきわめて盛んだったので、改めて丞相の史天沢を遣り、あわせて諸将にみな天沢の節制を受けるよう詔した。
- 天沢は済南に至って哈必齊に、璮は謀が多く兵は精しい、力で角を突き合わせるべきではない、歳月をかけて斃すべきだと言い、そこで溝を深くし塁を高くしてその侵入を遏いだ。
- もと行軍総管の張弘範が出発するとき、父の張柔は、城を囲むのに険しい地を避けるな、険しければ自ら緩む心がなく、兵は必ず死力を尽くす、主帥はその険しさを慮って必ず救援に来る、それで功を立てられると告げた。ここに至って弘範は城の西に営を置いた。璮が兵を出して諸将を衝いたが、弘範にだけは向かわなかった。弘範は、我が営は険しい地にある、璮は自分に弱く見せかけ、必ず奇兵で襲い、自分が悟らないと思っているのだと言い、そこで長い塁を築いて内に甲兵を伏せ、外は壕として東門を開いて待ち、夜に濠をさらに深く広く浚えた。璮は知らなかった。翌日、璮は果たして飛橋を擁して攻めに来たが、岸に着く前に軍は壕に落ち、壕を越えた者は塁の門に突入して伏兵に遭ってみな死んだ。
景定三年六月(1262年)
- 朝廷は李璮が囲まれたと聞き、銀五万両を給して益都府に下して軍を労い、青陽の蘿炎を遣って軍を率いて援けさせた。蘿炎は山東に至ったがあえて進まずに戻った。
景定三年八月(1262年)
- 蒙古主が史枢と阿珠にそれぞれ兵を率いて済南へ赴かせた。李璮は衆を率いて出て輜重を掠めようとしたが、城の北に至ろうとしたところで蒙古兵が迎え撃って大破した。璮は退いて城を保った。史天沢は環状の囲みを築かせ、璮はこれ以後、出られなくなった。
- 董文炳はその勢いが窮したと知り、城下に至って璮の愛将の田都帥を呼び、叛いたのは璮だけだ、他の者は来ればこちらの人だ、自ら死を招くなと言った。田は縄で城を下りて降った。
- 璮はなお日夜、防ぎ守り、軍を分けて民家で食を取り、その蓄えを暴いて充て、足りなければ家ごとに塩を賦し、人を食とさせた。璮は城が破れることを知り、そこで手ずから妻妾を斬り、舟に乗って大明湖に入って身を投げたが、水が浅くて死ねず、蒙古に捕らえられた。史天沢は殺してその体を解いて晒した。
- 翌日、軍を率いて東へ行くと、益都に着く前に城中の人がすでに門を開いて降を迎えた。三斉は再び蒙古の有となった。事が伝わり、璮に検校太師を贈り、廟額に「顕忠」を賜った。
- もと璮の兵には沂州・漣水の両軍二万余人があり、勇にして戦に長けていた。哈必齊は蒙古の諸軍に配属して密かに殺そうとした。文炳は二千人を殺す担当だったが、哈必齊に、彼らは璮に脅されただけだ、先に天子が南伐されたとき、みだりに人を殺せば大将でも罪とされた、殺すべきではないと述べ、哈必齊は従った。しかし他に殺された者はすでに多く、みな大いに悔いた。
- 当時、山東はまだ鎮まっていなかった。蒙古主は文炳を経略使とした。文炳は益都に至り、数騎を従え平服で入り、府に着いても警衛を置かず、璮の旧将吏を召して庭下で撫し諭した。管内は大いに喜び、山東は安んじた。
- もと天沢が璮を征するにあたり、蒙古主は軒に臨んで詔を授け、専征の責を託した。天沢は軍に至ってもその詔を人に示さなかった。帰ると蒙古主は慰労した。
- 当時、論者は、璮の変は大藩の子弟が兵と民の権を専らにしているために起こったと言った。天沢はその是正を行うことを奏し、あわせて臣の家から始めることを請うた。こうして史氏および張柔・厳忠済の子弟はみな私邸に戻った。