宋史紀事本末真德秀・魏了翁ら諸賢の登用と罷免(真魏諸賢用罷)
宝慶元年(1225年)から端平三年(1236年)まで、真德秀・魏了翁ら名臣が用いられては退けられた十二年間。史弥遠が梁成大・莫沢・李知孝の「三凶」を使って両人を追い落とし、了翁は靖州に流されて『九経要義』を、德秀は蒲城で『読書記』を著した。理宗の親政後、洪咨夔・蒋重珍・徐僑の推挙で二人は召し返されたが、德秀は端平二年に没し、了翁も督視の任を経て排斥され、端平三年に没した。崔与之は再三の召しに応じなかった。
年表(13件)
- 理宗
- 宝慶元年八月1225年梁成大らが済王の贈典を口実に真德秀を弾劾し、洪咨夔も去る
- 宝慶元年冬十月1225年魏了翁が靖州に流され、真德秀は祠禄を罷められる
- 紹定六年十一月1233年了翁が召されて十弊を論じ、洪咨夔が三賢の登用を請うて御史となる
- 端平元年春正月1234年蒋重珍が五事を上り、真德秀・魏了翁の召用を請う
- 端平元年冬十月1234年德秀が翰林学士、了翁が直学士院に召され、徐僑も切諫する
- 端平二年三月1235年真德秀が参知政事に任じられたが病で辞す
- 端平二年五月1235年真德秀が没し、天下が登用の遅さを恨む
- 端平二年十一月1235年魏了翁が同僉書枢密院事となる
- 端平二年十二月1235年了翁が江淮・京湖の軍馬督視に出され、江州に幕府を開く
- 端平三年二月1236年督府設置を誤りとして了翁が召し還される
- 端平三年夏四月1236年了翁が罷められて知潭州となり、崔与之は召しを十三度辞す
- 端平三年九月1236年鄭清之と喬行簡が罷められ、崔与之は右丞相の召しにも応じない
- 端平三年十一月1236年了翁が知紹興兼浙東安撫使となり、まもなく没する
理宗宝慶元年八月(1225年)
- 直学士院の真德秀を罷めた。それ以前、嘉定年間に德秀は起居舎人兼東宮講官として事を論じ権貴を避けなかった。宰相の史弥遠が爵禄で天下の士を繋ごうとしていると知り、慨然として劉鑰に、我らは急ぎ身を引いて、廟堂に世には従官になろうとしない者がいると知らせるべきだと語り、そのまま力めて外任を請うた。
- 帝が即位したばかりのころ、知潭州から召されて礼部侍郎・直学士院となり、入対して、帝に直言を容れ賢臣を召し用い人心を固く結ぶことを本とするよう勧め、帝はかなり容れた。
- 当時、魏了翁も起居郎に召された。了翁は開禧の初め、武学博士として対策で辺境を開くことを諫め、知嘉定府として出された。まもなく白鶴山の下に室を築き、輔広と李燔から聞いたところを門を開いて授けた。士は競って笈を負って従い、蜀の人はみな義理の学を知るようになった。ここに至って德秀とともに召され、洪咨夔も入って考功員外郎となった。
- 咨夔は事を論じてとりわけ切実で、台諫が職を失っていることを論じて、月ごとの課が近づくと筆を執れず、議論の異同を量り、情分の厚薄を推し量って、可否も決せず、口ごもって物が言えない、こぞって勇んで顧みずに行うのは、聖駕が景霊宮に参拝されるのを恭しく請うことくらいだと述べた。台臣は深く恨んだ。
- 折しも上書して済王のことを言う者がきわめて多く、弥遠は憂いとした。梁成大という者が知県の任期を終えて昇進を待ち、弥遠の家の執事の万昕に諂って仕えていた。昕がある日、真德秀は逐うべきだと言うと、成大は、自分が台官に入れば必ずその事を果たせると言った。昕がその言葉を取り次ぎ、そこで監察御史に抜擢された。成大は莫沢・李知孝らとともに、德秀が主張した済王への贈典は不当だと論じ、そこで德秀は提挙玉隆宮に、咨夔も二秩を削られて去った。
- 成大・沢・知孝の三人はともに弥遠の鷹犬となり、弥遠の意に忤う者があれば三人が相次いで攻撃した。こうして名士賢人はほとんど排斥された。人は彼らを「三凶」と呼び、また成大を「成犬」と呼んだ。
宝慶元年冬十月(1225年)
- 魏了翁の官を貶し、真德秀の祠禄を罷めた。もと胡夢昱が済王のことを論じて逐われたとき、了翁が関を出て餞した。李知孝はそこで了翁が議論を唱え出したと指して攻撃しようとした。弥遠はなお公議を畏れ、表向きは優礼を示して権工部侍郎に改めた。了翁は病と称して力めて辞し、知常德府として出た。
- 諫議大夫の朱端常が、了翁は世を欺き名を盗み邪と党して国を謗り、德秀の奏劄は誹謗の誣いだと弾劾した。詔して了翁は職を落とされ三秩を奪われて靖州に居住させられ、德秀は煥章閣待制を落とされ祠禄を罷められた。
- 李知孝は上書して德秀を追削し流竄して刑を正すことを請うた。梁成大もまた奏して、大いなる佞は忠に似、大いなる弁は訥に似る、あるいは名を好んで自らを売り、あるいは異を立てて自ら装い、あるいは高尚の節に仮託して名を求め、あるいは矯偽の学を飾って世を欺く、言は忠鯁のようで心は実は邪だ、ひとたび察しなければ香草と臭草が同じ器に入り、涇水と渭水が混じる、言は変に達せず謀は機に中らず、あるいは強弁を能とし、あるいは詭弁で正直を売り、あるいは奇矯険峻の説を設けて衆の耳を驚かせ、あるいは詭誕の論をほしいままにして士心を惑わす、行うところは言うところと違い、守るところは学ぶところと違う、ひとたび弁じなければ、ほぞと穴が合わず矛と盾が激し合う、魏了翁は流竄されたが人はなお罪が大きく罰が軽いとする、真德秀の狂僭と悖謬は了翁に劣らない、家で禄を食んでいるのだから秩を削り貶竄を一等下げて行うべきだと述べた。
- 弥遠が帝にその章を下すよう勧めると、帝は、仲尼は行き過ぎたことをしなかったと言い、それでやめた。成大は親しい者に、真德秀は真の小人、魏了翁は偽の君子だ、この処置はまことに痛快だと書き送った。公論の識者は笑った。
- 了翁が靖州に至ると、湖湘・江浙の士が千里を遠しとせず書を負って学びに来た。そこで『九経要義』百巻を著した。訂定は精密で先儒にないものだった。德秀は蒲城に帰って『読書記』を修め、門人に、これは人君が治を行う門だ、自分を用いる者があればこれを持って行くと語った。
紹定六年十一月(1233年)
- 魏了翁を召して文華閣待制とした。了翁は詔に応じて上章し、十の弊を論じ、旧典を復して新しい教化を彰らかにすることを請うた。第一に三省の典を復して六卿を重んじる。第二に二府の典を復して衆議を集める。第三に都堂の典を復して省府を重んじる。第四に侍従の典を復して忠告を招く。第五に経筵の典を復して聖学を明らかにする。第六に台諫の典を復して黜陟を公にする。第七に制誥の典を復して命令を謹む。第八に聴言の典を復して下情を通じる。第九に三衙の典を復して主の威を強くする。第十に制閫の典を復して私意を退ける。疏は万言に及び、まず故実を引き、次に時弊を陳べ、利害を分けて白黒のように鮮やかだった。上は読んで感動した。
- 戊辰、礼部郎中の洪咨夔が進対した。帝が今日の急務を問うと、咨夔は君子を進め小人を退け、誠心を開き公道を布くことを述べ、あわせて崔与之・真德秀・魏了翁を召し用いることを請うた。帝は容れ、咨夔と王遂をともに御史に拝した。
- 咨夔は遂に、朝廷に台諫がなくなって久しい、根本を極めてまず論じるべきだと言い、そこで上疏した。臣が古の治乱の源を歴考するに、権が人主に帰し政が中書から出て天下が治まらなかったことはない。権が人主に帰さなければ簾と階の分がなく綱常も立たない、どうして政を問えよう。政が中書から出なければ腹心が寄る所なく、必ず転じて他に属する、どうして権を握れよう。だから八政をもって群臣を御することを王に独り帰し、それを詔するのは必ず天官の冢宰である。 陛下は親政以来、威福の権を掌中に収め、廷に揚げて令を出し海内を震わせた。天下は初めて我が君があると知った。元首が明らかであれば股肱は自ら怠れない。副封を撤し先行を罷め、政事堂に坐して事を治めた。天下は初めて朝廷があると知った。この大権と大政はすでにたびたび挙がっている。 しかし中書の弊にはその大なるもの四つがある。第一に自ら用いること、第二に自ら専らにすること、第三に自ら私すること、第四に自ら固めること。陛下が道を論じられるゆとりのときに臣の言を宣示し、大臣に初志を全うさせ定力を加えさせ、往轍に懲りて将来を図らせ、精を励まして始めを改める意に応えられたい、と。
- 当時、枢密院編修官の陳塤も上言して、天下の安危は宰相にある、南渡以来たびたび機会を失った、秦檜が死んでも任じられたのは万俟卨と沈該にすぎず、韓侂胄が死んでも任じられたのは史弥遠にすぎない、これが今日、謹むべきことだと述べ、次いで内庭では宦官の禁を厳しくし、外庭では台諫の選を厳しくすべきだと述べた。そこで宦者の陳洵益が密かに中傷し、監察御史の王定が塤を弾劾して知常州として出した。
- 塤は史弥遠の甥である。紹定の初め、かつて君側の蠱毒と媚びを除いて主の德を正し、天下の公論に従って庶政を新たにすることを請うた。賈妃と弥遠を指したものである。弥遠が塤に、我が甥はよほど名を好むのかと言うと、塤は、名を好むのは孔孟が取るところです、士を三代の上に求めるときは名を好むことだけを恐れ、三代の下に求めるときは名を好まないことだけを恐れるのですと答え、そのまま力めて職を辞した。その率直な名声は一時を動かした。
端平元年春正月(1234年)
- 秘書郎の蒋重珍が五事を上り、あわせて、君德を覆い隠すのはかつて故宰相の咎だったので故臣は権臣を専ら詆れた、君德を明らかにするのは今は陛下にあるので故臣は君父に難きを責められると述べ、真德秀と魏了翁を召して用いることを請うた。
- 帝が、人主の職は他にない、ただ君子と小人を弁じることだと言うと、重珍は、君子は小人を小人と指し、小人もまた君子を小人と指します、これが弁じがたいところです、人主は人望ある者を精選して要職に置き、正論が日々聞こえるようにされれば、必ず君子の姓名と小人の実情が分かりますと答えた。重珍は奏を草すたびに必ず心を斎え衣服を整え、密啓は手ずから書いて草稿を削った。帝はその忠実を嘉した。
端平元年冬十月(1234年)
- 真德秀を翰林学士、魏了翁を直学士院に召した。当時、江淮の帥府に中原へ進取する議があった。德秀は封事を上げて、江淮の兵甲を移して無用の空城を守り、江淮の金穀を運んで耕されない荒地を治めるのは、富庶の効はまだ期しがたく根本の弊がたちまち現れる、陛下はよく審らかに重く考えられたいと述べた。
- 德秀を戸部尚書に進め、拝謁すると帝は、卿が都を去って十年、常に賢を思っていたと語った。德秀は『大学衍義』を進め、そこで帝に、天の助けるものは順、人の助けるものは信です、陛下が天に永き命を祈られるなら、ただ敬にあるだけです、敬は德の集まるところ、儀狄の酒、南威の色、遊猟や射の娯しみ、禽獣や狗馬の玩び、この一つでもあれば敬を害するに足ります、今、天心が乱を厭って久しい、陛下がまことに德を敬んで休命を承け続けられれば、中原はついに我が有となります、ただ力で求めて本に返らなければ、天意は測りがたく、臣は実に憂えますと述べた。
- 了翁は入対して、まず君子と小人の弁を明らかにして人材進退の本とし、姦邪がうかがう端を塞ぐことを請い、次に故宰相の十の失がなお残っていることを論じ、次に修身・斉家・宗室の賢の選抜・内小学の設置などに及び、いずれも上の身に切実なものだった。また、和議は信じられず、北の軍は保証できず、軍需と財用は恃めないと、およそ十余条を述べ、さらに口頭で利害を奏し、昼の水時計が四十刻を下ってから退いた。帝はみな嘉して容れた。
- 当時、徐僑も太常少卿に召され、急ぎ参内した。手ずから書いた疏は数千言、いずれも感憤して切実だった。帝は慰め諭し、僑の衣と履が垢づき破れているのを見て、憂わしげに、卿は清貧というべきだと言った。僑は、臣は貧しくありません、陛下こそ貧しいのですと答えた。帝が、朕がなぜ貧しいのかと問うと、僑は、陛下は国本がまだ定まらず、疆域は日々狭まり、権臣と寵臣が事を執り、将帥は才でなく、旱と蝗が続き、盗賊が並び起こり、経費に限りがなく、府庫は空虚で、民は横暴な徴収に困り、軍は搾取を怨み、群臣は交わりを養って天子は孤立し、国勢は危うい淵にありながら陛下は悟られない、臣は貧しくありません、陛下こそ貧しいのですと答えた。
- また、今、女の口利きと宦官が互いに袋となり、二人の童子(病魔)となって国の膏肓を蝕んでいるのに、執政の大臣にはそれを和らげる術がない、陛下はそれを慮らずに享楽に耽っておられる、世に扁鵲があれば望み見て逃げ出すでしょうと述べた。当時、貴妃の閻氏が寵を受け、内侍の董宋臣が表裏をなして事を執っていたので、僑はそこに及んだのである。
- 帝は感動し、翌日、手詔で辺境の帥のとりわけ不始末な者を罷め、群臣を戒めて朋党を戒めとし、有司に中外の無駄な費用を裁減させ、僑には金帛を厚く賜った。僑は固辞して受けなかった。
端平二年三月(1235年)
- 真德秀を参知政事としたが、病で辞し、資政殿大学士・提挙万寿宮とした。德秀は民を息め武を講じることを奏し、上は嘉して容れた。
端平二年五月(1235年)
- 真德秀が没した。德秀は朝に立って十年に満たなかったが、奏疏はまさに数十万言、いずれも当世の要務に切実で、その率直な名声は朝廷を震わせた。四方の人士はその文を誦えてその風采を想い、仕えた先々では惠政が深く行き渡り、その言に恥じなかった。それゆえ中外がみな頌え、都の人は騒然として関の外へ押しかけ、真直院が来たと言い合った。実際に来ると、また埋め尽くして見物して已まなかった。史弥遠はそれで忌み、退けて用いなかったが、その名声はいっそう著れた。しかも慨然と斯文を自らの任とし、学禁の余であることによって疑いためらうことがなく、後学は宗とした。晩年、帝がようやく登用しようとしたところで德秀は急逝し、天下は恨みとした。
端平二年十一月(1235年)
- 魏了翁を同僉書枢密院事とした。
端平二年十二月(1235年)
- 魏了翁を江淮・京湖へ遣って軍馬を督視させた。了翁は朝にあること六か月、前後二十余通の疏はみな当世の急務だった。帝は引き立ててともに政を執らせようとしたが、忌む者がともに謀って排斥し、あわせて了翁は兵の体を知っていると述べたので、そこで出て軍を視察するよう命じ、便宜の詔書を張浚の故事のように賜った。辞去の際、唐の厳武の詩と「鶴山書院」の四大字を御筆で賜った。了翁は江州に幕府を開き、呉潜を参謀官、趙善瀚と馬光祖を参議官とした。
端平三年二月(1236年)
- 魏了翁を召し還した。当時、廷臣の多くが了翁を忌み、督視に出すことにかこつけて外へやったのだが、二十日ほどでまた督府の設置は誤りだとして召し還した。帝は悟らず、そこで了翁は固辞して去ることを求めた。
端平三年夏四月(1236年)
- 魏了翁が罷められた。了翁は田里へ帰ることを乞うたが許されず、資政殿学士・知潭州とされた。殿中侍御史の李韶が上疏して、了翁は志を刻んで学問すること四十年近く、忠言と正論は国史に載っている、近ごろ枢密の詔が下ったかと思えばまもなく鎮所へ改められ、いくらもたたぬうちに祠禄を与える旨が出た、国家の人材で了翁のように輝かしく称される者が何人あるか、速やかに召し還して台輔に据えられたいと述べたが、返答はなかった。
- 帝はこのころ崔与之を召して参知政事としようとしたが、来なかった。与之は成都から広州へ帰ることを乞い、任命があるたびに力めて辞して起たなかった。広東安撫に拝されたとき、折しも摧鋒軍の兵士が乱を起こし、恵陽郡に火を放って長駆して広州城まで至り、連帥と幕僚を得て思いを晴らすと言い触らした。与之は輿で城に登った。叛兵は望み見て伏して命を聴き、散じた。そこで自宅で事を執った。
- 帝の思いはいよいよ切で、召して大政に参与させようとしたが、与之は力めて辞した。帝はそこで使者を遣って促し、あわせて行うべき政事・罷めるべき政事、用いるべき人材・棄てるべき人材を諮った。与之は上疏して述べた。 天は人材を生んでもとより一代の用に足りる。ただ君子と小人を弁じるだけだ。忠実で才ある者が上、才は高くなくとも忠実で守る者がその次である。人を用いる道はこれに勝るものがない。忠実の才とは德があって才もある者を言う。君子には才がないとして必ず才ある者を求めて用いようとすれば、意向が誤って名実の別がなくなり、君子と小人の消長の勢いはここに基づく。 陛下は精を励まして始めを改め、老成を抜擢して用いられた。しかし正しい人を迂闊として事を済しにくいと疑い、忠言を矯激として名を好むに近いと疑い、任せることが専らでなく信じることが篤くない。ある人は、世の教えが衰えれば人材が先に凋むと言う。真德秀・洪咨夔・魏了翁が要職に進んだかと思うと相次いで去った。天意はまことに測りがたい。 諫めを敢えてする臣が国のために忠を尽くしても、言葉が口を離れないうちに斥け逐われ、一度去ればもう留められない。人材は得やすいものではないのに、こう軽々に棄ててよいのか。陛下は過ぎたことを悟って将来を図られ、先ごろ直言で位を去った者は速やかに抜擢し、外に補された者は早く召し還されたい。天下に、陛下が正しい人を疎んじ遠ざけたのでも忠言を憎み厭われたのでもないことを明らかに知らせるのは、ひと転じるだけの力である。 陛下は大権を収攬してすべて独断に帰された。独断というのは、是非と利害が胸中に卓然と定見としてあって、そのうえで独断して行うことだ。近ごろ独断以来、朝廷の事体はいっそう軽くなり、宰相の進める人事は多く阻まれて行われず、あるいは任命が中から出て宰相が与り知らない。政を立て命を作る本源は要を失っている。おおむね独断は兼ね聴くことを先とすべきだ。兼ね聴かずに独断すれば、その勢いは必ず偏聴に至り、まことに乱の階となる。威令は上で行われても権柄は下へ移る。 また、辺臣が和を主張していることを朝廷は知りながら、明らかに処置したことがない。辺を憂える士が切実に献言すれば、一声上げるたびに斥けられる。朝廷もまた密かにこれを主としているのではないか。かりに和して保てるとしても、議して行うべきだ。 また、近年、変故が層をなして起こり、盗賊は跳梁し、雷と雹が震え、星辰は乱れている。みな些細なことではない。京城の災いは七年で二度あった。どうして数万戸の生霊がみな天に罪を得たのか。百姓に過ちがあれば我一人にあるという。ここは陛下が慄然とされるべきところで、ただ直言を求めることが君德を助け天心を感じさせられる。 また、外戚や旧臣で少しでも縁のある者は、誰しも隙をうかがって大望を求めずにいない。側近の臣は朝夕、傍らにあって親しみやすく防ぎにくい。司馬光は、内臣に外の事を採訪させ群臣の能否を問うてはならないと言った。干預の門はここから始まるからだ。その問いが無心から出たとしても、愛憎の私がこれによって入り込むことを知らずにいられようか。聖德に瑕がつかずにいられようか、と。
- 帝は奏を読んで嘉し嘆じ、召しをいっそう急がせた。与之は十三度も辞退の疏を上げたが、許されなかった。
端平三年九月(1236年)
- 鄭清之と喬行簡が罷められ、崔与之を右丞相兼枢密使に召したが、また辞して来なかった。
端平三年十一月(1236年)
- 魏了翁を知紹興兼浙東安撫使とした。まもなく了翁は没した。