宋史紀事本末蒙古、汴を取る(蒙古取汴)

宝慶三年(1227)の成吉思汗の遺策から紹定六年(1233)の汴京陥落まで、蒙古が漢中を迂回して唐州・鄧州から大梁を衝き、金の主力を三峯山で殲滅した経過。完顔哈達・伊喇莽阿・完顔陳華善ら金の名将は相次いで死に、潼関も守将の降伏で失われた。汴京は十六昼夜の砲撃と疫病・飢餓に苦しみ、金主は帰德へ逃れ、留守の崔立が二相を殺して蘇布特に降り、后妃と宗室は青城から和林へ送られた。

年表(24件)

理宗宝慶三年五月(1227年)

  • 蒙古が使者を遣って金に歳幣を求めた。

宝慶三年六月(1227年)

  • 金の使者が蒙古に和を請うた。
  • この月、蒙古が夏を滅ぼし、夏主の睍を連れ帰った。

宝慶三年十二月(1227年)

  • 蒙古が京兆に入り、関中は大いに震えた。さらに兵で関外の諸隘を破った。当時、金人は河北・山東・関中陝西をすべて棄て、ひたすら河南を守り潼関を保っていた。洛陽の三門析津から東は邳州の源雀鎮まで東西二千余里に四つの行省を立て、精兵二十万を率いて守っていた。
  • 蒙古主の特穆津が六盤山で薨じた。臨終に左右へ語った。金の精兵は潼関にあり、南は連山に拠り北は大河に限られていて急には破りがたい。もし宋に道を借りれば、宋と金は代々の讐だから必ず我に許すはずだ。そうすれば兵を唐州・鄧州へ下してまっすぐ大梁を衝ける。金は急いで潼関から兵を徴すが、数万の衆が千里を援けに赴けば人馬は疲弊し、着いても戦えない。破るのは必定だ、と。言い終えて没した。

紹定元年三月(1228年)

  • 蒙古兵が大昌原に入った。金の平章政事の完顔哈達は忠孝軍提控の完顔陳華善を先鋒とした。陳華善は甲を着けて馬に乗り、四百騎で蒙古の八千の衆を大破し、士気は倍した。蒙古の難が始まって二十年、初めてのこの勝利で、奏功は第一、名は国中に轟き、定遠大将軍・世襲謀克を授けられた。
  • 忠孝軍はみな回鶻・乃蛮・羌・渾および中原で捕虜となり罪を避けて帰属した者で、荒々しく制しがたかったが、陳華善は御し方に方があり、起居進退はみな規式に中り、通った州邑では秋毫も犯さなかった。戦えば必ず先に登って陣を陥れ、諸軍は頼みとした。

紹定二年冬十月(1229年)

  • 蒙古兵が金の慶陽を囲んだ。

紹定三年春正月(1230年)

  • 蒙古兵が金の大昌原に入り、金の将の伊喇莽阿が破って慶陽の囲みが解けた。

紹定三年八月(1230年)

  • 蒙古の史天沢が汲で金の武仙を攻めた。もと武仙は蒙古に降ってからまた蒙古の将の史天倪を殺して叛いた。天倪の弟の天沢がたびたび撃ち破って真定を回復し、仙は金に帰した。金は改めて恒山公に封じ、衛州に府を置かせた。史天沢が諸軍を合わせて囲むと、金の将の完顔哈達が衆を率いて援けに来て、蒙古兵はみな北した。天沢だけが千人で仙の背後に回り、仙は胡嶺関に走って駐屯した。

紹定三年冬十月(1230年)

  • 蒙古の諤格德依が衆を率いて陝西に入った。もと蒙古が諤爾根を陝西へ遣って和を議させたが、金の行省の伊喇莽阿と赫舎哩約赫德らは事機が漏れることを恐れて留めた。莽阿は慶陽の囲みを解いて志が驕り満ち、そこで諤爾根を帰し、我らはすでに軍馬を備えた、戦えるなら来いと言わせた。諤爾根は帰って蒙古主に告げた。蒙古主は怒り、ただちに弟の図類と衆を率いて陝西に入り、京兆と同州・華州の間を翔けて諸山の砦柵六十余か所を破り、そのまま鳳翔へ向かった。金は平章政事の完顔哈達と伊喇莽阿に閿郷で行省の事を執らせて潼関に備えさせた。

紹定四年夏四月(1231年)

  • 蒙古が鳳翔府を囲んだ。金の行省の哈達と莽阿はぐずついて進まなかった。金主は枢密判官の巴哈を遣って諭させたが、哈達と莽阿は北の兵が盛んで軽々に進めないと言った。巴哈が戻ると、金主はまた諭して、鳳翔は囲まれて久しく守る者が支えきれないかもしれない、軍を率いて関を出て渭北の軍と交戦してみよ、北の軍がそれを聞けば必ず駆けつけ、鳳翔の急も少しは緩む、と伝えさせた。哈達と莽阿はそこでようやく関を出、華陰の境で渭北の軍と交戦したが、夕方には軍を収めて関に入り、鳳翔を顧みなかった。蒙古はそのまま鳳翔を取り、哈達と莽阿は京兆の民を河南へ移し、完顔慶善努に守らせた。
  • 金の完顔陳華善が倒回谷で蒙古の将の蘇布特を破った。

紹定四年五月(1231年)

  • 金の降人の李昌国が蒙古の図類に、金が汴に遷ってまもなく二十年、その安んじる頼みは潼関と黄河だけだ、宝鶏に出て漢中を侵せば一月もかからず唐州・鄧州に達し、大事は成ると述べた。図類はもっともとして蒙古主に告げた。蒙古主はそこで諸将を集め、翌年正月に南北の軍を合わせて汴を攻めることを期し、図類を先に宝鶏へ向かわせ、蘇布特を遣って淮東に道を借りて河南へ向かい、あわせて兵を合わせることを請わせた。

紹定四年秋七月(1231年)

  • 蘇布特が沔州の青野原に至り、統制の張宣が殺した。托壘は蘇布特の死を聞いて、宋は自ら言を食んで盟に背き好を棄てた、今日の事は曲直の帰するところが定まったと言った。

紹定四年八月(1231年)

  • 蒙古の図類が騎兵三万を分けて大散関に入り、鳳州を攻め破り、まっすぐ華陽へ向かい、洋州を屠り、武休を攻め、生山を開き、焦崖を截ち、武休の東南に出て興元を囲んだ。軍民は散り走り、沙窩で死んだ者は数十万に上った。
  • 軍を分けて西へ向かわせ、西の軍は別路から沔州に入り、大安軍の路を取り、魚鱉山を開き、家を壊して筏とし、嘉陵江を渡って関堡に入り、江に沿って葭萌へ向かい、西水県まで地を掠め、城砦百四十を破って帰った。東の軍は興元と洋州の間に駐屯して饒風関へ向かった。

紹定四年九月(1231年)

  • 蒙古主が兵を率いて河中を急に囲んだ。金の完顔慶善努は京兆を棄てて東へ帰った。僉枢の草火額爾克と元帥の板子額爾克は兵力の不足を恐れ、旧城の半ばを截って守った。蒙古は松の楼を高さ二百尺に築いて城中を見下ろし、土山と地道を百通り並べ進め、昼夜、力戦した。楼櫓はみな尽き、素手の戦いがまた半月続き、力尽きて城は陥ちた。草火額爾克はなお自ら数十合搏戦してようやく捕らえられ死んだ。板子額爾克は敗兵三千で船を奪って閿郷へ逃げた。
  • もと板子額爾克は鳳翔で監戦だったころ、奉御の六児に制せられて隙があった。河中総帥に改められてともに召しに応じたとき、六児は、額爾克は秋の防備の旨を奉じながら怯えて避けていると讒言した。金主は信じ、ここに至って節に死ねなかったことに怒り、そのまま杖殺した。二人の額爾克はいずれも皇族で、一人は賊を得ると草の火で焼くのが好きだったから、一人はかつて宮中の牙牌を「板子」と誤って呼んだから、当時の人はそう呼び分けたのである。

紹定四年十一月(1231年)

  • 蒙古の図類が饒風関を攻めて入り、金州から東して汴京へ向かおうとした。民はみな城や険阻に入って避けた。
  • 金主は宰執・台諫を召して議した。みな、北の軍は万里の険を冒し二年を経てようやく武休に入った、その労苦はすでに極まっている、我らの計としては、兵を睢州・鄭州・昌武・帰德および京畿の諸県に屯し、大将に洛陽・潼関・懐州・孟州などを守らせて厳しく備え、京師に数百万斛の糧を蓄え、河南の州郡に堅壁清野させれば、彼は攻めようとしてできず戦おうとしてできず、軍は疲れ食は尽きて、撃たずとも自ら帰ると述べた。
  • 金主は嘆息して、南渡から二十年、各地の民は田宅を潰し妻子を売って軍士を養ってきた。今、敵が来ても迎え撃てず、ただ自ら保つばかりで、京城が存しても何をもって国とするのか、天下は自分を何と言うか。朕はよく考えた。存亡には天命がある、ただ我が民に背かなければよいと言い、そこで諸将に襄陽・鄧州へ駐屯するよう詔した。

紹定四年十二月(1231年)

  • 哈達と莽阿が諸軍を率いて鄧州に入り、楊沃衍・陳華善・武仙の兵もみな合流し、そのまま順陽に駐屯した。図類が兵を率いて漢江を渡った。哈達と莽阿は諸将を集めて、光化から江を截って戦うのと、渡らせてから戦うのとどちらがよいかを議した。張恵と額德木はみな、江を截つのが便だ、渡らせれば我が腹中が空になって必ず潰されると言った。莽阿は、彼が砂漠にいてさえこちらから求めて行くべきだ、まして自ら来るのだと言った。
  • まもなく蒙古兵はすべて渡った。哈達と莽阿はようやく進んで禹山に至り、地勢を分け占め、歩兵を山前に、騎兵を山後に並べた。蒙古兵は見て前へ出ず、陣を雁の翼のように散じ、山裾を回って金の騎兵の背後に出、三隊に分かれて来た。哈達は、今日の勢いでは戦えないと言った。
  • ほどなく蒙古の騎兵が突進し、金兵はやむなく戦った。短兵で三合交え、蒙古兵はやや退いた。西にいた蒙古兵が莽阿の親軍が甲騎の後ろを巡っているのを望み見て突いたが、金の富察鼎珠が力戦してようやく退けた。
  • 哈達は、彼の衆は三万と号するが輜重がその三分の一を占める、今、二、三日相持すれば彼は食を得られない、その退くところに乗じて押せば必ず勝てると言った。莽阿は、江の路はすでに絶たれ黄河は凍っていない、彼は重地に入ってどこへ帰れよう、なぜ急ぐのかと言い、追わなかった。
  • 翌日、蒙古兵は突然、姿を消した。偵騎が戻って、光化の対岸の棗の林の中にいて、昼に食事を作り夜は馬を下りないと分かった。四日たっても林の外に物音がしなかった。哈達と莽阿は鄧州に入って糧を得ることを議した。辰から巳の刻に林の後ろに着くと、蒙古が突然、現れた。哈達と莽阿は迎え撃ったが、交える際に蒙古は百騎で両行省の輜重を奪って去り、金兵はほとんど列を成せなかった。夜の二更にようやく鄧州城に入ったが、軍士が道に迷うことを恐れて鐘を鳴らして招いた。
  • 哈達と莽阿はその敗北を隠して大勝と報告した。百官が表で祝賀し、諸相は省中に酒を置いた。左丞の李蹊は喜びかつ泣いて、今日の勝利がなければ生霊の禍は言い尽くせなかったと言った。本当だと思っていたのである。そこで城堡に籠もっていた民はみな散じて郷里に帰ったが、数日もせず蒙古の遊撃騎が突然、現れて多くが捕らわれた。

紹定五年春正月(1232年)

  • 金主は蒙古兵が汴へ向かうと聞いて群臣を召して議した。尚書令史の楊居仁は、その遠来に乗じて撃つことを請うたが、平章の巴薩は従わず、瑪爾沁楚らを遣って民の丁壮一万人で短い堤を開き黄河の水を決して京城を衛らせ、瓜爾佳薩哈に歩騎三万を率いて河を巡らせ、京の近くの諸軍の家族五十万口を京城に入れさせた。
  • 蒙古主は西夏の人の恤可の計を用い、河中から河清県の白坡を経て河を渡り、人を馳せて図類に軍を率いて合流するよう報せた。瓜爾佳薩哈は封丘まで来て戻り、蒙古兵が突然、至って瑪爾沁楚らはみな死に、丁壮で免れた者はわずか三百だった。
  • 蒙古主は鄭州に入り、蘇布特を遣って汴を攻めさせた。金主は群臣を召して守りを議した。ある者が、珠格高琪の築いた裏城は決して守れず、外城は決して棄てられないと言った。そこで外城を守ることに決し、楼櫓と器具の修繕を命じた。
  • 当時、京城の諸軍は四万に満たず、城の周囲は百二十里で隅々まで守れなかったので、避難してきた民を軍に充てることを議した。また在京の軍官を上清宮に召し、平素の防城で功のあった者を長短を補い合わせて用い、百余人を得た。さらに京東西の黄河沿いに旧来駐屯していた両都尉と衛州の義軍、合わせて四万に丁壮二万を併せ、四面に分け置き、面ごとに千名の飛虎軍を選んで救応に専らにあたらせた。それでも軍らしい軍にはならなかった。
  • 金主は翰林学士の趙秉文に赦文を作らせて改元し、悔悟と哀痛の意を布いた。事を指し義を陳べて言葉も情も尽くしており、聞く者で感動しない者はなく、洛陽の人は痛哭するに至った。
  • 蒙古兵は禹山の戦い以来、散り広がって北し、通った州県はみな降るか破られた。そのまま唐州から汴京へ向かった。金の完顔哈達と伊喇莽阿は鄧州から歩騎十五万を率いて援けに赴いた。蒙古は三千騎で後を尾けた。哈達らは、敵兵は三千なのに我らが戦わなければ弱さを示すことになると謀った。
  • 金軍が鈞州の沙河に至ると、蒙古兵は戦わずに退いた。金軍が営を構えていると蒙古兵がまた襲い、金軍は休息も飲食もできず、行きつ戦いつして黄楡店に至った。鈞州まで二十五里の所で雨と雪のため進めなかった。突然、両省の軍は急ぎ京師へ赴けという旨が届き、哈達らは発した。
  • 蒙古兵で北から渡った者がすべて集まり、前後の道を大木で塞いだ。金の将の楊沃衍が道を奪って通した。金軍は進んで三峯山に泊まった。軍士には三日も食べていない者があった。蒙古兵は河北の兵を合わせて四面から囲み、薪を熾んに焚いて肉を炙り、代わる代わる休息して、金の困憊に乗じ、鈞州への路を開いて逃がしておいて、新手の兵で撃った。金軍はついに潰え、その音は山が崩れるようだった。
  • 武仙は三十騎を率いて竹林に入り、そのまま密県へ逃げた。楊沃衍・樊沢・張恵は歩いて大槍を持って奮戦して死んだ。哈達は大事すでに去ったと知り、馬を下りて戦おうとしたが、莽阿はすでに行方が知れず、哈達は陳華善らと数百騎で鈞州に逃げ込んだ。
  • 蒙古主は鄭州にあって図類が金と対峙していると聞き、扣肯・布哈齊・黙衮らを遣ったが、着いたときには金軍はすでに潰えていた。そこで合わせて鈞州を攻め、その城に塹を掘った。哈達は地下室に隠れていたが、城が破れると掘り出されて殺された。そこで、お前たちの頼みは黄河と哈達だけだった、今、哈達は我らが殺し黄河は我らのものとなった、降らずに何を待つのかと言い触らした。
  • 陳華善は隠れた所へ避け、殺戮と掠奪がやや収まってから出て、自分は金国の大将だ、申し上げたいことがあると言った。蒙古の兵士が数騎で挟んで図類のもとへ連れて行った。姓名を問われると、自分は忠孝軍総領の陳華善だ、大昌原・衛州・倒回谷の勝はみな自分のものだ、乱軍の中で死ねば人は自分が国家に背いたと言うだろう、今日、明白に死ねば天下に必ず自分を知る者があると答えた。蒙古兵は降らせようとしたが肯じなかった。そこで足と脛を斬って折り、口を耳まで裂いた。血を吐きながら叫び、死ぬまで屈しなかった。蒙古の将で義とする者があり、馬乳酒を注いで、よき男子よ、いつか生まれ変わったら自分の手に入るようにと祈った。
  • 莽阿は逃げたが蒙古兵が追って捕らえ、枷をはめて官山へ送った。図類は降らせようとしたが従わず、自分は金国の大臣だ、ただ金国の境内で死ぬのみだと言い、そのまま殺された。金の強い将と鋭い兵はこれですべて尽き、二度と為すところがなくなった。

紹定五年二月(1232年)

  • 金は蒙古が饒風関に入ったと聞き、図克坦烏勒登に閿郷で行省の事を執らせて潼関に備えさせ、図克坦伯嘉を関陝総帥として便宜に従わせた。百官は馳せて陝に入り、県と鎮に榜を掲げて大城へ移らせ、糧と輜重を陝州に集め、山に近い者は山寨に入って兵を避けさせた。
  • 折しも阿里哈が旨を伝えて烏勒登に汴の援けを命じた。烏勒登はそこで潼関総帥の納哈塔和碩、秦・藍総帥の完顔重喜らと軍十一万・騎五千を率い、秦州・藍田の諸関の備えをすべて撤し、虢州から陝に入った。同州・華州・閿郷一帯の軍糧数十万斛と関の備えの船二百余艘はみな流れを下って東した。ほどなく蒙古兵が近いと聞き、糧はみな積み込めず船は空のまま下り、さらに州の民を総動員して霊宝と硤石の倉の粟を運ばせた。折しも蒙古の遊撃騎が至り、殺され掠められた者は数え切れなかった。金の守将の李平が潼関を挙げて蒙古に降り、蒙古兵はそのまま長駆して陝に至った。
  • 烏勒登は閿郷を発し、軍士はそれぞれ老幼を連れ、西南から山中へ入った。氷雪の中で部将の多くは叛き去った。蒙古はこれを聞いて盧氏から数百騎で追いついた。山路の積雪は昼に解けて泥は脛に及び、随軍の婦女は老幼を棄て、哀号が道に満ちた。鉄嶺に至って戦おうとしたが飢えて疲れており、そこで重喜がまず降った。蒙古は馬前で斬り、金兵は大潰した。烏勒登と和碩は数十騎で山谷を逃げたが、追撃の騎に捕らえられ、みな殺された。
  • 蒙古が金の睢州を取り、帰德府を囲んだ。金の行省の持嘉紐勒歓は経歴の冀禹錫に守禦させ、禹錫が才知を尽くしたので陥ちずに済んだ。
  • 金がまた完顔薩布を左丞相とした。薩布は先に致仕を請うていたが、ここに至って蒙古の汴攻めが日に急になり、財は乏しく援けは絶えた。金主は大いに恐れた。平章政事の巴薩は、勢いとして必ず講和になる、和議が定まれば首相が人質に行くべきだと考え、力めて金主に薩布の復職を請い、あわせて汴京の民から二十万の兵を括り出して諸帥に分け属させた。

紹定五年三月(1232年)

  • 蒙古が砲を立てて洛陽を攻めた。洛陽城中には三峯の潰兵三、四千と忠孝軍百余りしか守る者がなかった。留守の薩哈連は背に疽を発して軍を率いられず、そのまま濠の水に身を投げて死んだ。まもなく元帥の任守貞が府事を再興したが、守貞が汴を援けに行くと、河南の人はともに斉克紳を府僉事に推し、あるだけの軍二千五百人を率いさせた。
  • わずか三日で蒙古軍が三面を囲んだ。紳は衣の絹を裂いて旗とし城上に立て、士卒を率いて裸で戦い、壮士数百人で往来して救応し、大声で「憨子軍」と号した。その声勢は万の衆と変わらなかった。兵器が尽きると銭を鏃とし、蒙古兵の矢一本を得ると四つに切り、銅の鞭で発した。また遏砲を創り、数人で百歩の外へ大石を発して当たらぬことがなかった。紳は駆け回って四方に応じ、至るところ必ず勝った。蒙古は兵を増して力めて攻めること三か月余り、抜けずに退いた。
  • 蒙古主は北へ帰ろうとし、使者を鄭州から汴へ遣って金主に降を諭し、あわせて翰林学士の趙秉文、衍聖公の孔元宜ら二十七家および帰順した者の家族、伊喇莽阿の妻子ならびに刺繍の女工や鷹匠などを求めた。
  • 金主はそこで荊王守純の子の額爾克を曹王に封じ、尚書左丞の李蹊に送らせて蒙古への人質として和を請い、諫議大夫の費摩阿呼岱を講和使とした。まだ発たないうちに、蒙古の蘇布特はこれを聞いて、自分は城を攻める命を受けている、他は知らないと言い、そのまま攻城具を立て、濠に沿って木柵を並べ、漢の捕虜と婦女・老弱を駆り立てて薪と草を背負わせて濠を埋め、たちまち十余歩を平らげた。平章の巴薩は和を議しているとしてあえて戦わせなかった。
  • 城中が騒然となった。金主は聞いて六、七騎を従えて端門を出、舟橋に至った。折しも降ったばかりの雨で泥濘だった。車駕が突然、出たので都の人は驚いてなす術を知らず、ただ道端に跪き、老幼が寄り集まって、誤って金主の衣に触れる者さえあった。ほどなく宰相と従官がみな至り、笠を進めたが受けず、軍中は雨露に晒されている、自分がなぜこれを用いようかと言った。
  • 西南の軍士五、六十人が進み出て、北の兵が濠を半ば以上埋めているのに、平章は矢一本も放つなと令している、和事を壊すことを恐れてだというが、そんな計がありましょうかと言った。金主は、朕は生霊のために臣と称し進奉して順わぬことはなかった、ただ一人の子があるが成長を待たずに今、人質に遣った、お前たちはしばらく忍べ、曹王が出て韃靼が退かなければ、お前たちが死戦しても遅くないと言った。
  • この日、曹王が出発し、蒙古兵は力を合わせて攻めた。金は龍德宮で砲石を作り、艮嶽の太湖石や霊璧の築山を用い、大小それぞれ目方を定め、その丸さは灯毬のようだった。蒙古兵の砲はそうではなく、大きな石臼や碌碡を二つ三つに割ってみな用い、竹を束ねた砲は十三の梢のものまであり、他の砲もこれに準じた。城の一隅ごとに砲百余門を置き、代わる代わる上下して昼夜やまなかった。数日で石はほとんど裏城と同じ高さに積もった。
  • 城上の楼櫓は旧宮および芳華・玉溪を壊した大木で作ってあったが、ひと抱えの木も撃たれるや砕けた。馬糞と麦藁をその上に敷き、綱と索と毛氈で覆って護り、風板の外はみな牛の皮で障とした。蒙古兵が火砲で撃つとたちまち燃え広がり、消し止められなかった。
  • 父老の伝えるところ、周の世宗が京城を築いたとき虎牢の土を用い、鉄のように堅く密で、砲を受けても凹むだけだった。蒙古兵は濠の外に囲みの城を築くこと百五十里、城に北口を設け、楼櫓と壕は深さも幅も一丈ほど、三、四十歩ごとに一つの舗を置き、舗ごとに百人ばかりを置いて守らせた。
  • もと巴薩は門外に短い墻を築かせ、曲がりくねって狭く二、三人が通れるだけにして、蒙古兵が門を奪うのを防いだ。攻められると、諸将は夜に陣営を襲うことを請うたが、軍は急には出られず、出るころには蒙古に気づかれていた。後にまた決死の士千人を募って城に穴を開け濠をまっすぐ渡って砲座を焼こうとし、城上に紅い紙の灯を掲げて合図とし、灯が上がれば濠を渡ることにしたが、これも蒙古に気づかれた。また紙鳶を放って文書を載せ、蒙古の陣営に至ると糸を断って捕虜となった者を誘おうとした。識者は、宰相が紙鳶と紙灯で敵を退けようとは難しいと言った。
  • 当時、震天雷という火砲があった。鉄の缶に火薬を詰めて火を点じ、砲が発すると火が起こり、その音は雷のようで百里の外まで聞こえ、焼く範囲は半畝以上、火が付けば鉄の甲も貫いた。蒙古はまた牛皮の洞を作って城の下まで至り、城を掘って龕とし、人が入れるほどにしたので、城上からは手が出せなくなった。ある人が策を献じ、鉄の縄で震天雷を吊るして城に沿って下ろし、掘っている所で火を発させると、人も牛皮も破れて跡形もなくなった。また飛火槍があり、薬を注いで火で発すると十余歩先まで焼き、人も近づけなかった。蒙古はただこの二つだけを畏れた。
  • 蒙古は城を攻めること十六昼夜、内外の死者は百万を数えた。そこで金主の母の明恵皇后の陵が暴かれた。蘇布特は取れないと知り、うまいことを言って、両国はすでに講和した、なお攻め合うのかと言った。金人はそこで応じ、戸部侍郎の楊居仁を宜秋門から出して酒と炙り肉で蒙古兵を労い、あわせて金帛と珍宝を贈った。蘇布特はそこで退兵を許し、河洛の間に分屯した。
  • 参政の持嘉喀齊喀は城を守ったのを自分の功として百官を率いて祝賀に入ろうとした。参政で皇族の色哩が、城下の盟は春秋が恥とするところだ、まして攻撃がやんだのを賀とするのかと言った。喀齊喀は怒り、社稷が亡びず君と后が難を免れたのに、お前たちは喜ばないのかと言い、趙秉文に表を作らせようとした。秉文は、春秋に新宮の火災で三日哭したとある、今、園陵がこの有様だ、礼に酌めば慰めるべきで賀すべきではないと言い、取りやめた。
  • 金主は端門に出て大赦し、天興と改元し、内外の官民で州郡を完うし回復できた者に功に応じて賞すると詔した。金帛と酒炙を出して軍士を労い、御膳を減じ、冗員を罷め、宮女を放ち、上書に「聖」の字を用いることを禁じ、「聖旨」を「制旨」と改め、衛紹王の一族の禁錮を解いた。汴京の戒厳が解け、歩兵が初めて封丘門の外へ出て野菜と薪を採った。

紹定五年五月(1232年)

  • 金の汴京で大疫が起こり、五十日にわたって諸門から出た棺は九十余万、貧しくて葬れなかった者はこの数に入らない。まもなく疫の後、園主・僧道・医師・棺を売る者がほしいままに厚い利を得ているとして、有司に倍の税を課させて国用を助けた。

紹定五年秋七月(1232年)

  • 金の飛虎軍の卒の申福らが蒙古の使者の唐慶ら三十余人を館で殺した。金主は問わず、和議はついに絶えた。
  • 金の恒山公の武仙らが兵を合わせて汴を救おうとした。もと三峯の敗北で仙は南陽へ逃げ、潰兵を収めて十万を得、留山に駐屯していた。汴京が囲まれると、金主は仙と鄧州行省の完顔思烈、鞏昌総帥の完顔呼沙呼に兵を合わせて援けに入るよう詔した。仙は密県の東で蒙古兵に遭い、そのまま眉山店に兵を按じ、思烈に、間を置いて営を結び、仙が着いてからともに進もうと報せた。思烈は急いで汴に至ろうとして聴かなかった。
  • 金主はさらに枢密使の持嘉喀齊喀に兵を率いて仙に応じさせた。思烈らが京水に至ると、蒙古が乗じて戦わずして潰え、仙の衆も散り走って留山に戻った。喀齊喀は中牟に三日駐屯したが、思烈の軍が潰えたと聞くとその夜、輜重を棄てて駆け戻った。

紹定五年八月(1232年)

  • 金主は和議が絶えて兵がまた来ることを恐れ、改めて民兵を徴発して守禦に備え、そこで汴京の粟を括り、完顔珠赫らに主管させ、局を置いて「推挙」を名目とした。珠赫は民に、お前たちは実のとおり申し出よ、いざ糧が尽きてお前たちの妻子を軍の食にせよと言われたら、また惜しめるかと諭した。
  • まもなく粟の徴発をやめ、改めて進奉として取り、あわせて官を売り、民に進士の第を買わせた。前の御史大夫で皇族の哈周が登用を望んで建言し、京城で粟を括ればなお百万石は得られると述べた。金主はそこで哈周を参知政事とし、左丞の李蹊とともに改めて括らせた。
  • 哈周はまず各家に自ら申告させ、壮者には一石三斗、幼者にはその半分を残させ、その数を門口に書かせ、隠す者があれば升斗を単位に罪を論じた。京城の三十六坊にそれぞれ厳格な者を選んで主管させた。完顔玖珠はとりわけ酷薄だった。ある寡婦の二口で豆六斗を申告したが、その中に蓬の実が三升ばかり混じっていた。玖珠は笑って、見つけたぞと言い、寡婦を捕らえて衆に示した。婦は泣いて訴え、妾の夫は戦で死に、姑は老いて養えないので蓬や糠を混ぜて自ら食べているだけです、軍の蓄えにしようというのではありません、しかも三升は六斗の余りですと言った。玖珠は聴かず、ついに杖殺した。聞く者は震え上がり、残りをみな糞尿の中に棄てた。
  • ある者が李蹊に告げると、蹊は眉をひそめて、参政に申せと言った。哈周に告げると、哈周は、花を損なわずにどうして蜜ができようか、しかも京城は危急だ、今は社稷を存するのか百姓を存するのかと言い、衆はあえて物を言えなかった。括り取れたのは三万斛にも足りず、満城は荒涼として死者が折り重なり、貧富ともに手をこまねいて死を待つばかりで、ついに人が人を食うに至った。金主はこれを聞いて太倉の米を出して粥を作り飢えた者に食わせた。翰林直学士の錫黙愛実は、食わせるくらいなら奪わないほうがよいと嘆じ、奉御の博諾に告げられた。金主は怒って愛実を有司に送ったが、近侍の李大節が救って免れた。

紹定五年十二月(1232年)

  • 金の汴京は糧が尽き援けが絶えて情勢はいよいよ危急となり、諸臣を召して議した。ある者は帰德は四面が水で自ら保てると言い、ある者は西山沿いに鄧州へ入るべきだと言い、ある者は鄧州へ入ろうにも蒙古の蘇布特が汝州にいる、陳州・蔡州の路を取って鄧州の下へ回るほうがよいと言った。金主は決しかね、院判の巴哈を起用して右司郎中とし、これを問うた。
  • 巴哈は述べた。帰德は城こそ堅いが久しければ食が尽き、座して死を待つことになる、決して行くべきでない。汝州に蘇布特がいる以上、鄧州へも行けない。今の事勢としてはまっすぐ汝州へ赴いて一戦を決すべきだ。汝州で戦うより途中で戦うほうがよく、途中で戦うより城を出て戦うほうがよい。我が軍にはまだ食の力が残っているからだ。京を出て遠ざかるほど軍の食は減り、馬は野草を食うことになって事はいっそう難しくなる。我が軍が戦えるうちに戦えば、存亡はこの一挙で決し、外には三軍の気を励まし、内には都の人の心を慰められる。ただ避難のための遷都の計としてなら、人心は家業を顧み惜しんで必ずしも毅然と従わない。よくお考えいただきたい、と。
  • 金主は従わず、軍士を大慶殿に集めて、京城の食が尽きたので自ら出るつもりだと諭した。諸将佐は声を揃えて、聖主は自ら出られてはならない、将に命じられるべきですと奏した。金主は富察古納を馬軍帥、高顕を歩軍帥、劉益をその副とした。三人が命を奉じようとすると、参政で皇族の恩楚が、お前たちは鋤を握って高下も知らぬ身で、国家の大事をたやすく引き受けるのかと言い、衆は黙った。古納は、将相で済むなら、なぜ我らを煩わせるのかと言い、事はまた沙汰やみとなった。
  • そこで右丞相の薩布、平章の巴薩、右副元帥の恩楚、左丞相の李蹊、元帥左監軍の図克坦伯嘉らに諸軍を率いて扈従させ、参政の努申、枢副兼知開封の錫琳阿巴に裏城四面の都総領、珠赫に外城、元帥の東面は博斯和、南面は持嘉約爾珠、西面は崔立、北面は富珠哩瑪努勒らを留守とした。
  • 府庫と内府の器皿・宮人の衣物を出して将士に賜った。民間では、車駕が帰德へ行けば軍士の家族は汴に残る、今でも食は尽きているのに、城中がみな飢え死にするのを座視することになる、たとえ帰德に至れても軍馬の費用でどれほど持ちこたえられようかと騒ぎ立てた。金主は人を遣って布告させ、先日の巡狩の議は巴哈が改めさせた、今は汝州へ行って戦いを求めるのだと言わせた。
  • 金主は汴京を発つにあたり太后・皇后・妃主と別れて大いに慟き、開陽門に至って留守の兵士に詔して、社稷と宗廟はここにある、お前たち壮士は進発の数に入らなかったからといって功がないと思うな、将来の功賞がどうして戦士に劣ろうかと諭した。聞く者はみな涙を流した。
  • この日、鞏昌元帥の呼沙呼の援兵が至り、金主に、京西三百里の間には井も竈もない、行くべきではない、秦州・鞏州へ行幸されるほうがよいと述べた。金主は東行を決意し、進んで黄陵岡に泊まった。巴薩が蒙古を撃ってその二寨を降し、河朔の降将を得た。金主は赦して印と符を授けた。群臣は固く、河朔の諸将を先導として鼓を打ちながら開州に入り、大名・東平を取れば豪傑に呼応する者があるはずだと請うた。
  • 鄂敦察遜は、太后と中宮はみな南京にいる、北行して万一意に沿わなければ、聖主は孤身で何をなさるのか、まず衛州を取って京に還るのが便だと言った。巴薩は、京師さえ守れないのに衛州を得てどうするのかと言った。金主は惑わされ、ひたすら河朔へ向かった。
  • 蒙古の蘇布特は金主が汴を棄てたと聞き、改めて進んで囲んだ。

紹定六年春正月(1233年)

  • 金主が使者を遣って帰德に糧を徴した。総帥の持嘉紐勒歓が糧千五百石を蒲城の東へ送り、六軍への支給で尽きたので、船二百艘を留めて布で幄とした。金主はそこでこれに乗って河を渡ろうとしたが、折しも大風で後軍は渡れなかった。蒙古の呼爾古納が南岸で追撃し、金の元帥の賀德喜は力戦して死に、金兵で溺れた者は千人近かった。金主は北岸に泊まってこれを望み、震え恐れた。
  • 漚麻岡に泊まり、巴薩に軍を率いて衛州を攻めさせた。城下に至って御旗で招いたが城中は応じなかった。蒙古はこれを聞いて河南から渡河し、巴薩は退軍した。蒙古の史天沢が騎兵でその後を追い、白公廟で戦って金の軍は敗れた。巴薩は軍を棄てて東へ逃げ、元帥の劉益と上党公の張開はみな民家に殺された。
  • 金主は進んで魏楼村に泊まり、なお蒙古兵の到来を待って決戦しようとした。ほどなく巴薩が至り、慌てて、軍はすでに潰えた、北の兵は堤の外まで来ている、帰德へ行幸されたいと言った。金主はそこで副元帥の哈喇齊ら六、七人と夜に舟に乗って密かに河を渡り帰德へ逃げた。翌日、諸軍は初めて金主が軍を棄てたと聞いて大潰した。
  • 金主は帰德に入り、奉御の持嘉達実布を汴京へ遣って太后と后妃を迎えさせた。諸軍が怨み憤ったので、金主は巴薩の罪を暴いて殺した。
  • もと河沿いの住民は金主の北渡を聞いて垣を築き戸を塞ぎ、洞穴に潜んでいた。富察古納の一軍は号令が明らかで厳粛、通っても少しも犯さないのを見て、老幼婦女ももう畏れ避けなかった。ところが巴薩が衛州へ向かうと軍を放って四方を掠め、哭する声が野に満ち、通ったところは丘墟となり、一食の費用が数十金にもなった。公私ともに慌てふためき、民は初めて叛くことを思った。だから衛州は堅く守り、蒙古の追撃に救援に来る者がなく、敗北に至ったのである。
  • もと汴の人は金主が自ら出師したことから、日々、捷報を聞こうとしていたが、軍が敗れたと聞いて初めて大いに恐れた。当時、蘇布特の攻城は日に急で内外は通じず、米一升が銀二両に達し、餓死者が相望んだ。縉紳や士女の多くが市で物乞いし、自ら妻子を食う者さえあった。あらゆる革の器物を煮て飢えを凌ぎ、名家の邸宅・市の楼・店・館はみな壊して薪にした。
  • 金主が使者を汴へ遣って両宮を迎えさせると、人情はいっそう不安になった。西南元帥の崔立は淫らで狡猾な性で、民の騒然としているのに乗じて密かに乱を謀った。左司都事の元好問が錫琳阿巴に、車駕が京を出て二十日ばかり、また使者を遣って両宮を迎えている、民間ではみな国家が京城を棄てるつもりだと言っている、相公はどう処されるのかと言った。錫琳阿巴は、自分たち二人にはただ死あるのみだと答えた。好問は、死ぬのは難しくない、まことに社稷を安んじ生霊を救えるなら死んでもよい、そうでなければいたずらに一身で五十人の紅袍の兵を飽かせるだけだ、それも死と言えるのかと言った。錫琳阿巴は答えなかった。
  • 当時、両宮はすでに出て陳留に至っていたが、城外の二、三か所に火が上がるのを見て兵があるのではと疑い、汴京へ駆け戻った。
  • 翌日、崔立が剣を抜いて完顔納紳と錫琳阿巴を指し、京城の危困は極まっている、二公は座視されるのかと言った。二相が、事があるなら善く議すべきだ、なぜ急にこうするのかと言うと、立はその党を指揮して、まず錫琳阿巴を殺し、次いで納紳および左司郎中の納哈塔輝ら十余人を殺した。そのうえで百姓に、自分は二相が門を閉ざして謀のないことを責めて殺した、お前たち一城の生霊のために命乞いをするのだと諭し、衆はみな快哉を叫んだ。
  • 立はそのまま兵を率いて宮に入り、百官を集めて立てる者を議した。立は、衛紹王の太子の従恪、その妹の公主が北の兵の中にいる、これを立てればよいと言い、そこでその党の韓鐸を遣って太后の命で従恪を召し、太后の誥命として梁王を監国とした。百官は拝舞した。立は自ら太師・都元帥・尚書令・鄭王となり、弟の倚を平章政事、侃を殿前都点検とし、その党はみな官に拝された。元好問も左右司員外郎となった。
  • そのまま蘇布特の軍に降を通じた。蘇布特が青城に至ると、立は御衣を着け儀衛を連ねて会いに行った。蘇布特は喜んで酒を飲ませ、立は父として仕えた。城に戻って楼櫓をすべて焼いたので、蘇布特はいっそう喜び、初めて本当に降ったと信じた。
  • 立は軍前の求めにかこつけて、随駕の官吏の家族と軍民の子女を省中に集め、自ら検分した。日に数人を乱し、なお足りないとして民間の婚礼を禁じたので、一人の娘のために数人が死ぬこともあった。まもなく梁王と宗族の近親を宮中へ移して腹心に守らせ、その出入りを制限した。荊王府を自分の私邸とし、内府の珍玩を運んで満たした。
  • 多くの小人が同調して功德の碑を建てることを請うた。翟奕が尚書省の命で翰林学士の王若虚に文を作らせようとした。若虚はひそかに好問に、今、自分を召して碑を作らせようという、従わなければ死に、作れば名節が地に落ちる、死ぬほうがましだが、まずは理を説いてみようと語り、そこで奕に、丞相の功德の碑は何を指して述べるのかと問うた。奕は、丞相は京城を挙げて降り、百万の生霊を生かした、功德ではないかと言った。若虚は、学士は王の言に代わるものだ、功德の碑を王の言に代わるものと言えようか、しかも丞相が城を挙げて降った以上、朝官はみなその門下から出ることになる、古来、門下の人が主帥の功德を頌えて後世に信を得られた例があろうかと言った。奕は残虐だったが、聞いて答えられずに去り、事はそのまま沙汰やみとなった。

史論(史臣曰)

  • 崔立は時に乗じて位を僭し、淫虐をほしいままにした。その罪は誅しても余りある。ただ金は人の主を俘とし人の臣を臣としながら、百年の後、まさに崔立の狂謀を招いて青城の惨禍を成した。曾子は、戒めよ戒めよ、爾より出るものは爾に返ると言った。まことにそのとおりではないか。

紹定六年夏四月(1233年)

  • 金の崔立が天子の衮冕と后の服を蘇布特に進めた。さらに城中の金銀を括り、家捜しし、煙で燻し水を注ぎ、拷問は惨酷を極めた。貴族と富人はその毒に堪えず、ひそかに、攻城の後の七、八日で諸門から出た葬りは百万人に上った、早くその数に入っておけばよかった、こんな目に遭うとはと語り合った。
  • 立は妻とともに宮に入り、両宮からの賜り物は数え切れなかった。立はそこで太后をそそのかして書を作らせ、天時と人事を陳べ、金主の乳母を帰德へ遣って降を招かせた。
  • 立はそのまま太后王氏、皇后図克坦氏、梁王および荊王守純、諸妃嬪を車三十七輛、宗室の男女五百余人、衍聖公の孔元措、名儒の梁陟および三教・医者・工匠・刺繍の女工とともに青城へ送った。蘇布特は二王と宗族を殺し、后妃らを和林へ送った。道中の苦しみは万状で、徽宗・欽宗のときよりなお甚だしかった。
  • 蘇布特が汴城に入ったとき、立は城外にいた。兵が先にその家に入って妻妾と宝玉を取って出た。立は帰って大いに慟哭するばかりだった。
  • もと蒙古の制では、城を攻めて降らず矢石を一度でも放てば屠ることになっていた。汴京が陥ちると蘇布特は使者を遣って蒙古主に、この城は長く抗して士卒に負傷が多い、その城を屠りたいと請うた。耶律楚材は聞いて馳せて蒙古主に見え、将士が数十年、風雨に晒されて争ってきたのは土地と人民だ、地を得ても民がなければ何に用いるのかと述べた。蒙古主が許さないと、楚材はさらに、およそ弓矢・甲仗・金玉の工匠および官民の富貴の家はみなこの城に集まっている、殺せば何一つ得られず、いたずらに労するだけですと述べた。そこで詔して完顔氏の一族を除くほかはみな赦した。当時、兵を避けて汴にいた者はなお百四十万戸あり、みな保全された。以後、これが定制となった。