宋史紀事本末金の河北・山東の喪失(金河北山東之沒)

嘉定八年(1215)から嘉定十六年(1223)まで、蒙古の穆呼哩が太行以南を経略し、金が河北・河東・山東を失っていく過程を追う。珠格高琪が重兵を汴京に集めて河北を度外に置いたため州郡は次々に孤立し、苗道潤・烏庫哩德升・李革・靖安民らは戦死し、張柔・武仙・厳実・胡天作は蒙古に降った。和議は蒙古の割地要求で成らず、穆呼哩は汴京を落とせぬまま聞喜県で没した。

年表(25件)

寧宗嘉定八年冬十月(1215年)

  • 蒙古主が魚児濼に駐軍し、僧格巴図に一万騎を率いさせて西夏から京兆へ向かい金を攻めさせた。潼関は落とせなかったので蒿山の小路から汝州へ向かった。山の谷に出会うたび鉄の槍を鎖で連ねて橋として渡り、そのまま汴京へ赴いた。金主は急ぎ山東から花帽軍を召した。蒙古兵が杏花営に至り、汴京まで二十里に迫ったが、花帽軍が撃退した。蒙古兵は戻って陝州に至り、折しも河が凍っていたのでそのまま渡って北した。金人はもっぱら関中を守った。
  • 当時、蒙古兵は向かうところみな下した。金主が使者を遣って和を求め、蒙古は許そうとして徹爾瑪哈に、譬えば狩り場の中の獐や鹿はもう取ったようなもの、群れを囲むにも作法がある、そろそろ放してやってはどうかと言った。徹爾瑪哈は功のないことを恥じて従わず、人を遣って金主に、お前の主が河北・山東でまだ下らない諸城を献じ、帝号を去って臣と称するなら、お前を王に封じようと言わせた。議はついに成らなかった。

嘉定八年十二月(1215年)

  • 蒙古は張鯨に北京の十提控の兵を統べさせ、図埒訥・色伯特に従って南征させた。鯨に叛意があり、穆呼哩は察して蕭額森にその軍を監させた。平州に至って鯨は病と称してぐずついて進まず、額森は捕らえて殺した。鯨の弟の張致は兄を害されたことに憤り、長史を殺してまた錦州に拠り、自ら瀛王と称して興隆と改元し、平州・灤州・瑞州・利州・義州・懿州・広寧などの州を掠めて下した。穆呼哩は先鋒の蒙古巴哈と権帥の烏葉爾らの軍を率いて討ち、州郡はみな蒙古に降った。
  • この年、蒙古が取った金の城邑は八百六十二に上った。

嘉定九年夏四月(1216年)

  • 金の知平陽府の胥鼎は蒙古兵が潼関を渡ったと聞き、必拉克・阿嚕台・図克坦伯嘉に一万五千の兵を率いさせ、間道から河を渡って関中・陝西へ向かわせ、自らは精兵で汴京を援けた。また布薩繅古に出師させて諸将と合わせ、関から東へ来る蒙古兵を防がせた。金主はその忠を認めて鼎を尚書左丞に拝し、平陽に戻した。

嘉定九年冬十月(1216年)

  • 蒙古兵が嵩山と汝州の間に泊まった。金の御史台が言上した。敵兵は潼関・崤山・沔水を越えて重地に深く入り、近ごろは西郊に迫っている。彼は京師に重兵が駐屯していると知って、もう城を叩いて戦いを求めず、ただ遊撃騎で道路を遮り、別の兵で州県を攻めている。これも京師を困らせる段取りだ。もっぱら城を守ることだけを事とすれば、中都の危機がまた今日に現れる。まして公私の蓄えは中都の百分の一にも及ばない。臣らが寒心するゆえんである。陛下は陝西の兵に潼関を扼させ阿里布色と犄角の勢いを成させ、在京の勇敢な将十数人を選んでそれぞれ精兵を付け、宜しきに従って伺察させ、戦いつつ守らせ、あわせて河北にも同じく備えさせられたい、と。
  • 金主は奏を尚書省に下した。平章の珠格高琪は、台官はもともと兵に習わない、防禦の方略は知るところではないと言い、そこでやめとなった。高琪は蒙古兵が日々迫ることから、重兵を汴京に屯して自らを固めようとし、州郡の残破は顧みなかった。金主は惑わされ、国勢はいよいよ衰えた。

嘉定九年十一月(1216年)

  • 蒙古の穆呼哩は張致の兵が精強で険に拠っているので、奇策で取ろうとした。烏葉爾らを別に遣って溜石山堡を攻めさせ、あわせて、お前たちが溜石を急攻すれば賊は必ず兵を援けに遣る、我は不意を突いてその帰路を断ち、一戦で捕らえられると諭した。また蒙古巴哈に永德県の西十里に別に駐屯させてうかがわせた。
  • 致は溜石が囲まれたと聞いて兵で救おうとした。蒙古巴哈は騎兵を遣って帰路を扼し、あわせて馳せて穆呼哩に報せた。穆呼哩は夜半に軍を率いて疾駆し、夜明けに神水に至って致と遭遇し、蒙古巴哈の兵も合流して前後から挟撃して大破した。致は潰走した。進んで錦州を囲み、致はたびたび戦って不利になり、門を閉ざして守った。一か月余りで監軍の高益が致を縛って出て降り、穆呼哩は致を殺した。
  • 金の胥鼎は蒙古兵が黄河を扼することを慮り、絳州・解州・隰州・吉州・孟州の五州の経略司に檄して軍を合わせ挟撃の勢いを作らせた。蒙古が三門の析津から北へ渡って平陽に至ると、鼎は兵を遣って防戦し、蒙古兵は敗れ去り、金人は潼関を回復した。
  • 金は苗道潤を中都経略使とした。道潤は勇と謀があり戦いを敢えてし、前後に五十余城を撫定し、保定の張柔を元帥左監軍に任じた。

嘉定十年三月(1217年)

  • 金主は山東の兵を徴して苗道潤に応じさせ、ともに中都を回復させようとしたが、石海が真定に拠って叛いており、妨げられることを慮った。そこで鈕祜禄珍・郭文振および威州刺史の武仙の部下の精鋭を集め、東平と犄角の勢いを作って図らせた。武仙はそこで兵を率いて石海とその党二百余人を斬った。金は武仙を同知真定府事とした。

嘉定十年十二月(1217年)

  • 蒙古主は穆呼哩に佐命の功があるとして太師・国王に拝し、制を承けて事を行わせ、誓券と金印を賜り、鴻吉哩など十軍および蕃漢の諸軍を分けて麾下に属させ、燕雲に行省を建てさせ、あわせて、太行の北は朕が自ら経略する、太行の南は卿が努めよと語った。
  • 穆呼哩はそこで中都から南を攻め、遂城と蠡州をみな下した。初め蠡州は拒んで守り、力尽きて降った。穆呼哩は怒ってその城を屠ろうとした。当時、州の人の趙瑨が穆呼哩に従って百戸に署されており、泣いて、母と兄が城中にいる、一身で一城の命を贖いたいと言い、その哀願は切実だった。穆呼哩は義として許した。そのまま東して斉州・定州・益都・臨淄・登州・莱州・濰州・密州などの州を撃って去った。

嘉定十一年五月(1218年)

  • 金の将の苗道潤がその副の賈瑀に殺された。張柔は道潤の部曲に檄してともに瑀を討たせようとした。折しも蒙古兵が紫荊関から出て来て遭遇し、狼牙嶺で戦った。柔は馬が躓いて蒙古に捕らえられた。軍前に至って主帥の明安に会ったが、立ったまま跪かなかった。左右が強いると、柔は叱って、彼も帥なら自分も帥だ、大丈夫は死ぬなら死ぬまで、生を偸んで他人に屈することはないと言った。明安は壮として釈いた。蒙古は柔を河北都元帥とした。

嘉定十一年八月(1218年)

  • 蒙古の穆呼哩が太原を囲み、幾重にも取り巻いた。金の元帥の烏庫哩德升が力めて防いだ。城の西北の隅が崩れると、德升は車を連ねて塞ぎ、三度退けられて三度登った。矢石が雨のようで城壁を守る者は立てなかった。城が破れると、德升は府の役所に至って姑と妻に別れを告げ、自分はここを数年守ったが、不幸にも力が尽きたと言い、自ら縊れて死んだ。
  • 行省参政の李革は平陽を守っていたが、兵が少なく援けが絶えて城は陥ちた。ある者が革に馬に乗って囲みを破って出るよう勧めた。革は嘆じて、自分はここを保てなかった、どの顔で天子に見えられよう、お前たちは去れと言い、そのまま自殺した。
  • 節度使の完顔鄂爾多は汾州を守り、元帥右監軍の納哈塔布拉克図は潞州を守ったが、城が破れるといずれも力戦して死んだ。

嘉定十二年五月(1219年)

  • 金が汴京の裏城を築いた。もと珠格高琪が南京の裏城の修築を請うたとき、金主は、この役をひとたび興せば民はいっそう疲れる、堅固にしたところで独り安んじられようかと言った。高琪は固く請うて築いた。
  • まもなく金主は民を煩わせることを慮り、瓦五十万枚を献じられる者には一官、百万枚なら一等昇進させると募った。そこで平陽判官の完顔阿拉と左廂譏察の霍定が、蔡京の旧宅から瓦二百万余りを掘り出し、格に照らして賞遷を受けた。
  • 金主が突然、人はこの役は成らないだろうと言っているがと問うと、高琪は、防城に法がありさえすれば、たとえ兵が来ても臣らはいっそう力を尽くせますと答えた。金主は、城に迫られるより、ここまで来させないほうがよいと言い、高琪は答えられなかった。城が成ると高琪は金の鼎を賞され、会朝門に碑を建てて功を記した。
  • 蒙古は張柔に兵を率いて南下させ、雄州・易州・保安の諸州を落とし、賈瑀を殺し、兵を進めて満城に泊まった。金の将の武仙が鎮定・深州・冀州の兵数万を集めて攻めた。柔の全軍はちょうど出払っていて帳下は数百人しかいなかった。柔は老弱と婦女に城に上らせ、自ら壮士を率いて突出して仙の軍の背後に出、その攻城具を毀ち、馬を駆り槊を杖いて大喝して囲みに入った。仙の兵はみな靡いた。柔は山沿いに多くの旗を立てて援軍が来たと言い触らし、柴を引きずって塵を揚げ、鼓を打ち喊声を上げて進んだ。仙の兵は大潰し、柔は追撃して屍は数十里に並んだ。勝ちに乗じて完州を攻め落とし、さらに新楽で仙の将の葛鉄槍を破り、そのまま南して深沢・寧晋の諸県を掠めた。これによって深州・冀州以北、鎮定以東の三十余城は風を望んで降り、柔の威名は河朔に轟いた。

嘉定十二年十二月(1219年)

  • 金が右丞相の珠格高琪を殺した。高琪は執政となってから権と寵を固く占め、擅に威福を行い、平章政事の高汝礪と唱和した。高琪は機務を主宰し、汝礪は財権を掌り、自分に付く者を用い付かない者を斥けた。事を言って意に忤う者、才力を負う者、自分と肩を並べる者は、金主の前では表向きその才を称えて河北へ派遣させ、密かに死地に置いた。
  • また自分が宰相なので枢密や元帥を兼ねて兵柄を握れないことから、汝礪とともに力めて金主に南侵を勧め、河北を度外に置いた。精兵はみな河南に集め、その場しのぎで歳月を過ごし、方面の急にも一兵たりとも出そうとしなかった。
  • ここに至って奴の薩布にその妻を殺させ、そのうえで罪を薩布に帰して殺し、口を封じた。事が露見した。金主は久しくその姦を知っていたので、そのまま高琪を獄に下して殺した。
  • もと金主が汴へ移ろうとしたとき、乣軍を平州に置こうとしたが高琪が難色を示した。中都を発つとき、金主は搏多に乣軍を厚く撫するよう戒めたのに、搏多はたちまち人を殺し、しかも金主に元の支給の器具を取り上げるよう勧めた。だから多木達の難が起こり、中都は失われた。金主はかつて、天下を壊したのは高琪と搏多の二人だと嘆じた。

嘉定十三年夏四月(1220年)

  • 金が経略使の王福ら九人を郡公に封じ、河北・山東の地を分けて属させた。
  • もと太原が蒙古のものとなり、河北の州県は自立できなくなった。金主は百官に長久の計を議させた。図克坦鎬らは、兵を制するに三つある、戦・和・守だ、今、戦おうとしても兵力が足りず、和そうとしても彼が肯じない、守るしかない、河朔の州郡はすでに残壊してひとしなみには守れない、移住を望む者を取って河西・陝西に屯させ、望まない者にはその長を自ら推させ、険阻に拠って集まらせるべきだと述べた。宣徽使の伊喇光祖らは、土地の人で威望が衆を服させる者を募り、方面の重権を仮し、一道を回復できればその道の総管を授け、州郡を守れればその長佐を授ければ、必ずそれぞれ一方を保てると述べた。
  • 宰臣は公府を置こうとした。金主の意はまだ決しなかったが、中丞の完顔伯嘉が、宋人は虚名で李全を釣って山東を得た、まことに衆を統べ土を守れるなら、万鍾の禄も三公の位も何を惜しみましょうと言った。金主が、後日、事が定まったら公府が多すぎることにならないかと言うと、伯嘉は、事が定まったら三公のまま節鎮に就ければよいと答えた。金主は従った。同時に九府が置かれたが、武仙だけが富強と称された。

嘉定十三年秋七月(1220年)

  • 金が烏庫哩仲端を蒙古へ遣って和を求め、蒙古主を兄と呼ばせたが、蒙古主は許さなかった。

嘉定十三年八月(1220年)

  • 蒙古の穆呼哩が満城に至り、蒙古巴哈に軽騎三千で倒馬関に出させた。折しも金の恒山公の武仙が葛鉄槍を遣って戦って敗れ、仙はそのまま城を挙げて降った。
  • 史天倪が穆呼哩に説いて、今、中原はしだいに定まってきたのに、大軍の通るところではなお掠奪をほしいままにしている、王者が民を弔い罪を伐つ意ではない、しかも王は天下のために暴を除かれるのに、どうして他の軍のすることを真似られようかと述べた。穆呼哩は善しとし、ただちに令を下して掠奪を禁じ、捕らえた老幼を帰した。軍中は粛然とした。

嘉定十三年冬十月(1220年)

  • 蒙古主が達呼を遣って金に返答し、烏庫哩仲端に、先にお前の主に河朔の地を渡して互いに兵を罷めるよう求めたのに、お前の主は従わなかった、今、お前が遠来したことに免じて言う、河朔はすでに我が有だ、関西でまだ下らない数城を割いて我に付し、お前の主を河南王とする、二度と違えるなと言わせた。

嘉定十三年十一月(1220年)

  • 蒙古の穆呼哩が済南に入った。金の厳実は所属の三府六州、戸三十万を挙げて軍門に詣でて降った。穆呼哩は制を承けて実を行尚書省事に拝した。実の将の李信は実が出た隙にその家族を殺し、たびたび朝廷に帰することを謀った。実は信を攻めて殺し、また青崖崓を取り、魏州・博州などの郡を蒙古に帰した。
  • 当時、金兵二十万が黄陵岡に駐屯し、歩兵二万を遣って済南の穆呼哩を襲わせた。穆呼哩は迎え撃って破り、そのまま黄陵岡に迫った。金兵は河の南岸に陣を敷いた。穆呼哩は騎兵に馬を下りて短兵で接戦させ、金兵は大敗して溺死する者が多かった。穆呼哩はそのまま進んで楚丘を陥れ、単州から東平へ向かって囲んだ。

嘉定十三年十二月(1220年)

  • 蒙古の穆呼哩は金兵が東平を固守して落ちないので、厳実に、東平は糧が尽きれば必ず城を棄てて去る、そうなればお前がすぐ入城して安撫せよ、郡県を苦しめて事を敗るなと言った。そこで索隆噶図に蒙古兵で駐屯して守らせ、厳実に権行省させ、千戸の薩里台に、東平が破れたら厳実と石珪に城の内の南北を分けて守らせよと命じ、そのまま北へ帰った。
  • 金の易水公の靖安民が兵を出して礬山に至り担車寨を取った。折しも蒙古兵が安民の住む山寨を囲み、寨を守る者が安民の妻子と老弱を出して降った。安民の軍中はこれを聞いて騒然とし、衆は降って妻子を守ろうと議した。安民は従わず、そのまま殺された。

嘉定十四年夏四月(1221年)

  • 金の東莒公の燕寧が蒙古兵と戦って敗死した。

嘉定十四年五月(1221年)

  • 蒙古兵が東平を囲んで久しく、糧道もまた絶えた。行省の蒙古綱と監軍の王庭玉は守り切れず、衆を率いて南の邳州へ向かった。蒙古の索隆噶図が迎え撃って七千の首を斬った。厳実はそのまま入城して府の邸に行省を建てた。薩里台は穆呼哩の命でその城を二分し、厳実に東平以北の恩州・博州などの州を撫安させ、石珪は治所を曹州に移した。

嘉定十四年冬十月(1221年)

  • 蒙古の穆呼哩が東勝州から河を渡って兵を率いて西し、西夏の兵五万と合流し、また東して葭州に入った。金の将の王公佐は逃げ、穆呼哩は石天応に葭を守らせ、自ら兵を率いて綏德を攻めた。

嘉定十四年十一月(1221年)

  • 蒙古の穆呼哩が延安を攻め、金の元帥の哈達が納哈塔敏珠爾とともに防いだ。哈達は三万の兵で城の東に陣を敷いた。蒙古の将の蒙古巴哈が騎士三千で向かい、夜半に伏兵を起こすことを約した。穆呼哩は軍士に枚を含ませて密かに進み、城の東の二つの谷の間に伏せた。
  • 翌日、蒙古巴哈は金兵を望み見て、偽って旗と鼓を棄てて逃げた。金兵が追うと、穆呼哩が伏兵から出てその背後に乗じた。鼓と鼙が天を震わせ、金兵は大いに乱れ、穆呼哩は七千余人を追い殺した。哈達は延安城に逃げ込み、壁を堅くして出なかった。穆呼哩は城が堅くて急には抜けないと見て、軍を留めて囲ませ、自ら兵を率いて南の鄜州・坊州などの州を攻めた。

嘉定十五年秋七月(1222年)

  • 金の平陽公の胡天作が蒙古に降った。当時、穆呼哩が青龍堡を攻めたので、天作はそのまま降った。

嘉定十五年冬十月(1222年)

  • 蒙古の穆呼哩が金の河中を取り、通った州県はみな下った。当時、金は牛心寨で仮に吉州の事を治めていた。穆呼哩は隰州から攻め、知州の楊貞は妻子を先に崖から落とさせ、自らも続いてみな死んだ。穆呼哩は寨に入って兵を留めて守らせ、あわせて蒙古巴哈に遊撃騎を率いて秦州・隴州へ出させて後押しとし、山川の険易を見たうえで自ら兵を率いて孟州・晋陽・霍邑などの寨を下した。石天応に権行台として平陽・太原・吉州・隰州などの帥をすべて節制させた。穆呼哩はそのまま長安へ向かい、烏古納台と哈布哈に駐屯して守らせ、安赤に兵を率いて潼関を断たせた。
  • この年、蒙古主は西域の諸国に入り、進んで痕都斯坦国の鉄門関に泊まった。侍衛が一頭の獣を見た。鹿の形に馬の尾、緑色で一角があり、人の言葉を話して、お前の君は早く帰るがよいと言った。蒙古主は怪しんで耶律楚材に問うた。楚材は、この獣は角端といい、四方の言葉を解し、殺を憎む象です、今、大軍が西を征してすでに四年、思うに上天が殺を憎んでこれを遣わし陛下に告げさせたのです、天心を承けてこれらの国の人命を宥されれば、まことに無窮の福ですと答えた。蒙古はそのまま痕都斯坦を大いに掠めて帰った。

嘉定十六年春正月(1223年)

  • 蒙古の穆呼哩が鳳翔府を攻め、昼夜、苦戦すること四十余日、落とせず、河中から北へ帰ろうとした。金の元帥右都監の侯孝順が河中を襲って破り、石天応を殺し、浮橋を焼いて退いた。穆呼哩は天応の子の鄂特に代わってその衆を率いさせた。
  • もと金主は元帥都監の阿嚕岱に河中を守らせたが、阿嚕岱は臆病で軍を率いられず、民の膏血を絞って浚渫と築城を計った。絳州が破れると阿嚕岱は恐れ、馳せて、河中は孤城で守れないと奏した。上は、本当に守れないなら棄てよ、敵の資とするなと言った。阿嚕岱はそのまま河中を棄て、民家と官舎を焼いて一、二日で焼き尽くした。
  • まもなく、河中は重鎮で国家の基本のある所だ、もし敵に拠られれば大河の険を我らだけの頼みにできなくなると言う者があった。金主は有司に改めて修繕を命じたが、ついに成らず、だから守るたびに陥ちた。

嘉定十六年三月(1223年)

  • 蒙古の穆呼哩が河中から軍を率いて帰り、解州の聞喜県に至って病が篤くなり、弟の岱遜に、自分は国家のために大業の成就を助け、干戈をとって四十年近く、もはや思い残すことはない、ただ汴京を落とせなかったのが恨みだ、お前たちは努めよと言い、言い終えて没した。
  • この年、金主の珣が薨じ、太子の守緒が立った。