宋史紀事本末史弥遠の廃立(史彌逺廢立)
慶元四年(1198)の皇嗣選定から端平元年(1234)の済王復官まで、史弥遠が寧宗の皇子竑を廃して貴誠(理宗)を立てた廃立事件の顛末。竑が弥遠の専権を憎んだことから、弥遠は余天錫・鄭清之を使って貴誠を養成し、寧宗の崩御に乗じて詔を矯め、楊后を説き伏せて昀を即位させた。湖州の潘壬の変を口実に竑は縊死させられ、真德秀・鄧若水・胡夢昱らの弁護は退けられた。
年表(14件)
- 寧宗
- 慶元四年八月1198年嗣がないため趙与愿を宮中に養育し、曮と名を賜って衛国公とする
- 開禧元年五月1205年衛国公曮を皇子に立て栄王に進封する
- 開禧二年五月1206年宗室の趙均を沂靖恵王の嗣とし、貴和の名を賜う
- 開禧三年十一月1207年栄王曮を皇太子に立て、名を詢と改める
- 嘉定十三年八月1220年皇太子詢が没し、景献と諡する
- 嘉定十四年六月1221年貴和を皇子として竑と改名し、余天錫の見出した貴誠を秉義郎とする
- 嘉定十五年夏四月1222年弥遠が美人を納れて竑を探らせ、鄭清之に貴誠を訓導させる
- 嘉定十七年八月1224年寧宗が崩じ、弥遠が詔を矯めて昀を即位させ、竑を済王として出す
- 嘉定十七年九月1224年生父の希瓐を栄王、生母の全氏を国夫人に追封する
- 理宗
- 宝慶元年春正月1225年湖州の潘壬が済王を擁立して敗れ、竑は縊死させられる
- 宝慶元年五月1225年鄧若水が大義・大権・大姦の三策を上るが、弥遠が抹消する
- 宝慶元年秋七月1225年済王の冤を論じた陳德剛・洪咨夔を罷め、胡夢昱を象州に流す
- 宝慶二年八月1226年李知孝の請いにより巴陵郡公の竑を県公に追降する
- 端平元年1234年徐僑の講説により故済王竑の官爵を復する
寧宗慶元四年八月(1198年)
- 京鏜らが、帝に嗣がないので宗室の子を択んで養育するよう請うた。詔して太祖の後裔である燕懿王德昭の九世の孫の趙与愿を宮中で養育した。六歳だった。まもなく福州観察使とし、曮の名を賜って衛国公に封じた。
開禧元年五月(1205年)
- 乙亥、詔して衛国公の曮を皇子に立て、栄王に進封した。
開禧二年五月(1206年)
- 詔して宗室の子の趙均を沂靖恵王柄の嗣とし、貴和の名を賜った。柄は孝宗の孫で魏恵献王愷の子、均の父は趙希瞿で、太祖の九世の孫である。
開禧三年十一月(1207年)
- 丁亥、詔して栄王曮を皇太子に立て、名を懤と改め、さらに詢と改めた。
嘉定十三年八月(1220年)
- 癸亥、皇太子の詢が没し、景献と諡した。
嘉定十四年六月(1221年)
- 沂王の嗣子の貴和を皇子に立て、名を竑と改めた。まもなく宗室の子の貴誠を秉義郎とした。貴誠はもとの名を与莒といい、燕懿王德昭の後裔である趙希瓐の子で、母の全氏とともに紹興の山陰に住んでいた。
- もと慶元年間、余天錫が史弥遠の府の子どもの師で、性が謹厚だったので弥遠は器量を重んじた。弥遠は宰相の位に久しく、帝に儲嗣がなく、沂王も帝の近い親族でありながら後嗣がないことから、沂王に後を置くことを名目に、宗室のうち立てられる者を択んで皇子の候補に備えようとした。折しも天錫が郷里の秋試のため帰るというので、弥遠は密かに、今、沂王に後がない、宗室の子で賢く篤実な者があれば連れて来てほしいと語った。
- 天錫は浙江を渡り、舟が越の西門に着いた。折しも大雨で全保長の家に立ち寄って雨宿りした。保長は彼が丞相の客だと知って鶏と黍を用意して手厚くもてなした。しばらくして二人の子が侍って立っていた。天錫が不思議に思って問うと、保長は、これは自分の外孫だ、占い師がかつて二人はのちきわめて貴くなると言ったと語った。姓名を問うと、兄は趙与莒、弟は与芮といった。天錫は弥遠の言葉を思い出し、臨安に戻って告げた。
- 弥遠は二人を召すよう命じた。保長は大いに喜び、田を売って衣冠を整え、姻戚を集めて送り出し、あわせて厚遇を頼んだ。ところが弥遠は会ってみると人相を見るのが巧みで大いに異としたが、事が漏れて不都合になることを恐れ、急いで帰らせた。保長はひどく恥じ、その郷の人もひそかに笑った。
- 一年余りして弥遠は突然、天錫に、あの二人をまた来させられるかと言った。天錫が召すと保長は辞して遣らなかった。弥遠はそこで天錫を遣って密かに保長に諭させ、二人のうち兄が最も貴くなる、父の家に戻して養うべきだと伝え、そのまま臨安へ連れて来た。貴和が皇子に立てられると、与莒を秉義郎に補し、貴誠の名を賜った。十七歳だった。
嘉定十五年夏四月(1222年)
- 丁巳、子の竑を済国公に進封し、貴誠を邵州防禦使とした。
- 竑は琴を好んだ。史弥遠は琴の上手な美人を買って竑に納れ、その家を手厚く遇して竑の動静を探らせた。美人は書を知り才知に長けており、竑は寵愛した。
- 当時、楊皇后が国政を専らにし、弥遠が権を執って久しく、宰執・侍従・台諫・辺境の帥はみな彼の推薦した者で、誰も咎められなかった。権勢は重く盛んで、竑は内心これに堪えられなかった。かつて楊后と弥遠のことを机の上に書き、弥遠は八千里の配流に処すべきだと記した。また宮の壁の地図の瓊州・崖州を指して、自分がいつか志を得たら史弥遠をここに置くと言った。また弥遠を「新恩」と呼び、いずれ新州でなければ恩州へ流すという意味だと言った。
- 弥遠はこれを聞いて大いに恐れ、竑をどう処するかを考えたが、竑は知らなかった。真德秀はそのころ宮教の任にあり、竑を諫めて、皇子が慈母に孝であり大臣を敬われれば天命は帰します、そうでなければ深く慮るべきことになりますと言ったが、竑は聴かなかった。
- ある日、弥遠は父の史浩のために浄慈寺で僧に斎を施し、国子学録の鄭清之と慧日閣に登り、人を退けて語った。皇子は重荷を負うに堪えない、後に沂邸を継いだ者はきわめて賢いと聞く、今、講官を択びたい、君がよく訓導してくれ、事が成れば弥遠の座はそのまま君の座だ、ただしこの言葉は弥遠の口から出て君の耳に入るだけだ、一言でも漏れれば自分も君も一族滅ぼされる、と。清之は、決していたしませんと答えた。
- そこで清之に魏恵憲王府学教授を兼ねさせた。清之は日々、貴誠に文を教え、また高宗の御筆を購って習わせた。清之は弥遠に会うたびに貴誠の詩文と筆跡を示し、口を極めて誉めた。弥遠がかつて清之に、自分は皇姪の賢いことをよく聞いているが、要するに実際はどうかと問うと、清之は、その人の賢さは僕を代えても数え切れませんが、一言で断ずれば「凡ならず」ですと答えた。弥遠は再三うなずき、立てる意はいよいよ固まった。
- そこで日々、竑の失を帝に讒し、帝が竑を廃して貴誠を立てることを期待したが、帝はその意を悟らなかった。真德秀はその事を聞いて力めて宮教を辞して官を去った。
嘉定十七年八月(1224年)
- 丙戌、帝が病んだ。史弥遠は鄭清之を沂王府へ遣って貴誠に立てる意を告げさせた。貴誠は黙って答えなかった。清之が、丞相は清之が長く従学したので腹心を打ち明けさせたのです、一言も答えていただけなければ清之は丞相に何と答えればよいのですと言うと、貴誠は初めて手を拱いてゆっくり、紹興に老母がおりますと言った。清之が弥遠に告げると、ともにその凡ならぬことをいっそう嘆じた。
- 壬辰、帝の病が篤くなり、弥遠は詔と称して貴誠を皇子とし、昀と改名を賜り、武泰軍節度使を授けて成国公に封じた。
- 閏八月丁酉、帝が崩じた。弥遠は皇后の兄の子の楊谷・楊石を遣って廃立の事を后に告げさせた。后は不可として、皇子の竑は先帝が立てられた、どうして擅に変えられようかと言った。谷らは一夜に七度も往復したが、后はついに許さなかった。谷らはそこで拝して泣き、内外の軍民はみな彼に心を寄せている、立てなければ必ず禍変が生じ、楊氏に生き残る者はなくなりますと言った。后は長く黙り、その人はどこにいるかと言った。
- 弥遠はただちに禁中から急使を遣って昀を宣召させ、今宣ずるのは沂靖恵王府の皇子であって万歳巷の皇子ではない、誤ればお前たちはみな斬罪だと命じた。
- 皇子の竑はそのころ帝の崩御を聞き、爪先立って宣召を待っていたが、長く来ない。壁の間から目を凝らすと、急使が自分の府を通り過ぎて入らないのが見え、不審に思った。まもなく一人を擁してまっすぐ過ぎるのが見えたが、暗くて誰か分からず、ひどく訝しんだ。
- 昀が宮に入って后に会うと、后はその背を撫でて、お前は今から我が子だと言った。弥遠は昀を柩の前へ導いて挙哀させ、そのうえで竑を召した。竑は命を聞くとすぐ赴いたが、宮門を過ぎるたびに禁衛が従者を拒んだ。弥遠は竑も柩の前へ導いて挙哀させ、帷殿へ導き出し、殿帥の夏震に守らせた。
- そのうえで百官を召して列に立たせ遺制を聴かせるにあたり、竑を旧来の列へ導いた。竑は驚いて、今日の事で自分がなおこの列にいるべきかと言った。震は欺いて、制を宣ずる前はここに、制を宣じた後で即位されるのですと言い、竑はそう思った。まもなく遠く殿上の燭の影の中に御座に人がいるのが見えた。昀がすでに即位していたのである。
- 制の宣下が終わり、閤門宣賛が百官に拝賀を呼ばわった。竑が拝そうとしないと、震はその首をつかんで下げさせ拝させた。そのまま遺詔と称して竑を開府儀同三司・済陽郡王・判寧国府とし、楊皇后を皇太后と尊んで垂簾して同聴政させ、詔して孝宗の故事に遵い宮中では自ら三年の喪に服することとした。まもなく竑を済王に進封して湖州に出て居らせた。
史論(史臣曰)
- 寧宗は恭倹で守成の君だった。初年は旧学の輔導の功で宿儒を召し用い、善良な人々を引き立て、その政は見るべきものがあった。中ごろ韓侂胄を経て多くの姦を養い、正を偽と指し、外は強隣を挑発して淮甸に毒を流し、首を函にして和を求め、国体は損なわれた。史弥遠が権を擅にするに及んでは、帝の老耄に乗じて威福を弄び、皇儲と国統までも機に乗じ隙をうかがってその廃立の私を遂げた。他は推して知るべきである。
嘉定十七年九月(1224年)
- 帝は生父の希瓐を栄王、生母の全氏を国夫人に追封し、弟の与芮に嗣がせた。
理宗宝慶元年春正月(1225年)
- 庚午、湖州の人の潘壬がその従兄の潘甫、弟の潘丙とともに、史弥遠の廃立を不平として、甫を遣って密かに済王を立てる謀を李全に告げさせた。全は座して成敗を得ようとして、表向きは日を約して進兵し応接すると言いながら、実は意がなかった。壬らは信じ、そのまま衆を配置して待った。期日になっても全の兵は来ず、壬らは事が漏れることを恐れ、その党と塩の密売や盗賊千余人を全の軍のように装わせ、山東から来たと言い触らして夜、州城に入って済王を求めた。
- 王は変を聞いて水路の穴に隠れた。壬はまもなく見つけ出し、擁して州の役所に至り、黄袍を王の身に着せた。王は号泣して従わなかったが、壬らは強いた。王はやむなく約して、お前たちは太后と官家を傷つけずにいられるかと言い、衆は承諾した。そこで軍資庫の金帛と会子を出して軍を労った。知州の謝周卿が没し、官属が祝賀に入った。
- 壬は偽って李全の榜を作って門に掲げ、史弥遠の廃立の罪を数え、あわせて、今、精兵二十万を率いて水陸から並び進むと記した。人々はみな沸き立ったが、夜が明けて見ると、みな太湖の漁民と巡尉の兵卒にすぎなかった。王は事が成らないと知り、王元春を遣って朝廷に告げ、自ら州の兵を率いて壬を討った。壬は姓名を変えて楚州へ逃げ、甫と丙はみな死んだ。
- 元春が行在に至ると、史弥遠はひどく恐れ、急ぎ殿司の将の彭任を召して軍を率いて赴かせたが、着いたときにはもう平定されていた。壬は楚に至って淮を渡ろうとしたところを小校の明亮に捕らえられ、臨安へ送られて斬られた。
- 弥遠は竑を忌み、竑が病んでいると偽って余天錫に医者を伴わせ湖州へ入って診させた。天錫は着くと旨を伝えて竑を迫り、州の役所で縊れさせ、病で薨じたと報告した。まもなく詔して追貶して巴陵郡公とし、さらに県公に降し、湖州を安吉州と改めた。
- 起居郎の魏了翁と考功員外郎の洪咨夔が相次いで竑の冤を述べた。礼部侍郎・直学士院の真德秀も拝謁して奏した。三綱五常は宇宙を支える棟であり、生民を安んじる柱石である。晋が三綱を廃して劉曜・石勒の変が起こり、唐が三綱を廃して安禄山の難が起こった。我が朝は国を立てる根本として仁義を先とし名分を正した。陛下は初めて大宝に即かれたが、不幸にも人倫の変に処して尽くされないところがあり、四方に伝わって損なわれるところは浅くない。霅川の変は済王の本意ではなく、前には避けて隠れた跡があり、後には捕らえ討つ謀があった。情状の本末は明らかに考えられる。有司に詔して雍熙の秦邸を追封し罪を措いて遺児を恤んだ故事を検討させ、斟酌して行われたい。済王に子がなくとも、滅びを興し絶えたるを継ぐのは陛下次第です、と。
- 帝は、朝廷は済王に対して至れり尽くせりだと言った。德秀は、この事の処置を万全と論じられるなら、臣はまだそう思えません、舜が象を処した仕方から見れば、陛下が舜に及ばないことは明らかです、人主はただ二帝三王を師とすべきで、秦漢以下の人君の挙動はみな理に合っておらず法とはしがたいと述べた。帝は、あれも一時の倉卒のことだと言った。德秀は、それは過ぎたことです、陛下がこの失があったと知られ、いっそう学を講じ德を進めて前の過ちを贖い人心を収められることですと述べた。
宝慶元年五月(1225年)
- 鄧若水が封事を上って述べた。大義を行ってこそ大きな謗りを鎮められ、大権を収めてこそ大位を固められ、大姦を除いてこそ大難を息められる。 寧宗が崩じられたとき、済王こそ大位を継ぐべき方だった。廃黜は先帝から聞こえず、過失は天下に聞こえなかった。史弥遠は済王が立つのを不利とし、夜に先帝の命を矯めて済王を棄て逐い、あわせて王の孫を殺して陛下を迎え奉った。半年もたたぬうちに済王はついに湖州で不幸にも死なれた。春秋の法で量れば、弑ではないか、簒ではないか、奪ではないか。 悖逆の初め、天下がみな弥遠に罪を帰してあえて陛下に過ちを帰さなかったのはなぜか。天下はみな倉卒の間のことで陛下の与り知るところでないと知り、また陛下に必ずそんな心はないと信じ、しかも陛下が必ず妖しい気を掃き清め、先帝と済王父子の永遠の憤りを雪がれると見込んだからだ。それから一年余りたつのに、乾の剛は決せず威断は行われず、天下の望みを大いに慰めるものがない。かつて陛下に必ずそんな心はないと信じた者が、今はあるのではと疑い、かつて陛下は知らなかったと信じた者が、今は知っていたのではと疑う。陛下はどうして清明な天日の身でこの汚辱を受けるに忍びられよう。天下にその心を明らかにし、千古に言い分を残されるべきではないか。 陛下のために計るなら、泰伯の至德、伯夷の清名、季子の高節に遵われるのが最上で、そうしてこそ陛下の本心は天下に明らかになる。これが臣の言う大義を行って大きな謗りを鎮める上策である。 かの廃立の際、その威は天下を動かした。立ててからは人主を眇めて見ている。だから強臣は恩を挟んで上を凌ぎ、小人は強きを恃んで上を無みする。久しければ内外が一体となり、上たる者は黙ってそのなすままを聴き、日々月々削られて、人臣として言うに忍びないことにまで至る。威権が人主から去れば、その位を固め身を保とうとしてもできない。 宣繒は弥遠の腹心、王愈はその耳目、盛章と李知孝はその鷹犬、馮榯はその爪牙である。弥遠がある事を行いある人を害そうとすれば、この数人がともに謀る。そこに陛下の意が行われたことがあろうか。臣は、この数人の凶徒を除かなければ、陛下は謗りを鎮められないばかりか、その位を安んじることもできないと考える。であれば陛下は何を憚って久しく行われないのか。これが臣の言う大権を収めて大位を定める次善の策である。 それも行われないなら、さらに一つある。大姦を除いてこそ大難を息められる。李全は一介の流民にすぎず、我らに食を寄せている。兵が増えたわけでも土地が広がったわけでも勢いがことに盛んなわけでもない。賈渉が帥だったころは凡庸な人だったが、全はあえてみだりに動かなかった。なぜか。名が正しく言が順だったからだ。陛下の即位から強情になったのはなぜか。彼にその衆を用いる言い分ができたからだ。その意は必ず、済王は先皇帝の子なのに弥遠が放逐し弑した、皇孫は先皇帝の孫なのに弥遠が殺した、と言うだろう。その辞は正しく勢いは壮んで、それゆえ淮沿いの数十万の帥もその鋒を睨めない。今しばらく事はないとはいえ、いつか急使が飛び交い、済王を口実に君側の悪を討つと称しないと言い切れようか。弥遠の徒は死んでも罪は余りあり惜しむに足りないが、宗社と生霊に何の罪があろう。陛下が今日、弥遠の徒を誅されれば、全はその文を用いる言い分を失う。 上策が得られなければ次を思い、次も得られなければ下を思う。悲しいことだ――と。奏が上がると、弥遠は筆で横線を引いて抹消した。
宝慶元年秋七月(1225年)
- 工部尚書の陳德剛と金部員外郎の洪咨夔を罷めた。済王の冤を論じて史弥遠に忤ったためである。
- 大理評事の胡夢昱を象州に流した。夢昱は上言して済王を廃すべきでないとし、晋の太子申生、漢の戻太子、秦王廷美の事を証に引いた。言葉はきわめて切実で率直だった。史弥遠は御史の李知孝をそそのかして弾劾させ、それゆえ流された。
宝慶二年八月(1226年)
- 巴陵郡公の竑を追降して県公とした。李知孝の請いによる。
端平元年(1234年)
- 詔して故済王竑の官爵を復した。太常少卿の徐僑が常に侍講で友愛の大義を説き開いたので、帝は悟ってそこで竑の官爵を復するよう命じ、有司に墓域を検分させ時に応じて祭らせた。当時、竑の妻の呉氏が自ら尼となることを願い出たので、特に慧静法空大師の号を賜り、紹興府から月ごとに衣料と緡銭を給した。