宋史紀事本末金との好の断絶(金好之絶)

嘉定四年(1211)から嘉定十七年(1224)まで、蒙古に押された金との和好が絶えるまでの経緯。真德秀が政和・宣和の十失を挙げて自立を説き、歳幣が罷められると金は淮西・京湖・四川に南侵した。趙方・孟宗政・扈再興が棗陽・襄陽で撃退し、李全が淮東で金軍を破って攻勢を挫き、安丙は夏人と結んで秦州・鞏州を攻めたが連携は崩れた。金は嘉定十五年の渡淮の大敗で力を失い、十七年に南侵中止を告げて通好を求めた。

年表(29件)

寧宗嘉定四年六月(1211年)

  • 金嶸を遣って金主の生辰を賀させた。当時、金は蒙古の難で応対する余裕がなく、使者は涿州まで来て戻った。

嘉定四年冬十月(1211年)

  • 金国に難があるので、江淮・京湖・四川の制置使に辺備を厳しく整えるよう命じた。

嘉定七年三月(1214年)

  • 金主の珣が使者を遣って歳幣を督促してきた。

嘉定七年五月(1214年)

  • 金主の珣が都を汴に遷し、使者を遣って告げてきた。

嘉定七年秋七月(1214年)

  • 起居舎人の真德秀が上疏して金への歳幣を罷めるよう請うた。その要旨は――女真が韃靼に侵され汴に移り住んだのは、我が国のきわめて憂うべきことだ。韃靼が女真を滅ぼそうと図るのは、猟師の志が鹿を得ることにあるのと同じで、鹿の走るところ猟師は必ず追う。三関の阻みを越えて燕に至れたのだから、黄河一筋の水を絶って汴に趨れないはずがない。韃靼がついに劉聡・石勒のように中原を盗み有てば、国境を接して隣国となり、まことに我が利ではない。あるいは耶律德光のように中土に安んじられなければ、奸雄が必ず隙に投じて取る。なおのこと我が福ではない。 今は彼の亡びようとするに乗じて速やかに自立の策を図るべきで、彼がまだ亡びていないことを幸いとして、しばらく自ら安んじる計を立てるべきではない。忠賢を用い政事を修め、群策を集め衆心を収めるのが自立の本であり、兵を訓え将帥を択び、城池を繕い守備を整えるのが自立の具である。恥を忍んで隣と和するのを福とし、兵を息めて戦を忘れるのを常とし、辺境を安んじる金と絹を積み、使者の玉帛を飾って、女真が存する間はそれに用い、女真が滅んで強敵が新たに生じればそれを強敵に施す――これはその場しのぎの計である。 陛下が自立を規模とされなければ、国勢は日々削られ人心は日々薄くなり、弱い敵がわずかに存していても外の憂いを免れない。安危存亡はみな自ら招くところだ。事変がまさに興ろうとするときに侮られうる形を示すのは、堂上に兵を招き戸内に敵を引き入れるようなものだ。微臣がひそかに深く憂えるところである――というもので、繰り返し数千言に及んだ。帝は容れ、そのまま金への歳幣を罷めた。

嘉定七年八月(1214年)

  • 癸卯、金国がまた歳幣を督促してきた。

嘉定八年十一月(1215年)

  • また使者を金へ遣って元旦を賀させた。刑部侍郎の劉鑰らと太学の諸生が不可を述べたが、報いられなかった。
  • 真德秀が改めて上奏して述べた。金は南遷以来、勢いは日々狭まっている。韃靼と西夏が東は潼関に出て許州・鄭州に深く入り、都邑を攻め囲み、遊撃騎が山東に満ちている。それなのに金は河南数州の地で西北の勢い盛んな師に抗し、加えて群盗が横行し叛く者が四方に起こっている。これほど危急でどうして亡びずにいよう。 臣が国史に按ずるに、女真が遼に叛いたのは政和甲午、遼を滅ぼしたのは宣和己巳で、中原を犯したのはその年の冬である。今日の天下の勢いは政和・宣和のころと何が違おう。陛下も政和・宣和を鑑とされるべきだ。皇々たる大宋が八代にわたって光を重ねながら、政和・宣和に至って安逸に溺れた末に、紀綱は蕩然として一つも恃むに足りなくなった。根本が抜ければ枝葉も従う。そこで女真が鋒を逞しくして我が都城を攻め陥れ、我が社稷を傾け、我が二聖を奪い移し、我が民を苦しめた。開闢以来、強敵の禍でこれほど酷いものはなかった。 臣はかつて政和・宣和が禍を招いた由来を論じ、その失は十あるとした。 第一。蔡京が「豊亨豫大」の説を唱え、王黼が上に供奉する門を開き、もっぱら淫侈で上心を蠱惑し、奢靡で国用を蝕んだ。土木の功は華麗を極め、花石の貢は江南に毒を及ぼし、はなはだしくは内庭の宴に女楽を出して群臣を娯しませ、大臣が侍るのに白粉を塗って戯れの種を供した。こうして荒れ遊んで度なく、朝政は大いに壊れた。 第二。童貫と高俅が代わる代わる兵柄を主宰して以来、教練訓練の事はすべて廃れ、上下の階級の法は行われず、潰走した者を誅さずに金帛で招き、敵に死んだ者を恤まずに逃亡と誣いた。こうして賞罰に条理がなくなり、軍政は大いに壊れた。 第三。政和・宣和の失で災異はたびたび現れた。火星が月のようにゆっくり南行し、日は暗く光なく、騒然として動こうとし、赤い気が北斗を犯し、水が都城を覆った。当時の群臣は平然として警めを知らず、あまつさえ怪異を嘉祥とし変異を吉兆とした。これは上、天の戒めを畏れないものである。 第四。政和・宣和の際は言うことを憚らせた。張根が徴斂の煩わしさを論じて散官に安置され、李綱が大水の変を論じて遠く貶されて税監となった。こうして官人は物を言えなくなった。鄧肅は詩を奉って諷諫し太学から追われ、朱夢説は宦官を論じて偏遠の州に流された。こうして布衣も物を言えなくなった。締めつけが風をなしてついに禍敗に至った。これは下、人の言を恤まないものである。 第五。政和・宣和の政を執る臣はもっぱら忠を毀ち賢を忌むことを事とした。累朝の老成の望も当代の大才も、姦党として廃されるか邪等として斥けられ、曲学として貶されるか異論として逐われた。排斥と挫折の末に、国じゅうに君子がいなくなった。長く安んじようとしてできようか。 第六。国を開き家を承けるに小人を用いず、佞人を難んじ遠人を服させるものだ。政和・宣和の世は蔡京と王黼が相次いで宰相の柄を占め、蔡卞と王攸がみだりに枢庭に列した。台省を翺翔し館殿に列した者は、歌頌の書生でなければ膏粱の子弟、宦官に奴として仕えるのでなければ権臣に翼として付く者だった。互いに引き合い援け合って、朝廷はみな小人となった。危うくならずにいられようか。 第七。記に「四方に敗あれば必ずまずこれを知る、これを民の父母という」とある。政和・宣和の小人はもっぱら覆い隠して上聴を欺いた。劉法が西辺で敗死したのに童貫は勝報として奏し、方臘が東南六郡を破ったのに王黼は隠して告げず、郭薬師の反意はすでに露わなのに辺臣は外で覆い隠し、女真が期を定めて侵入しようとしているのに大臣は内で秘した。上下が欺き合って大患を熟れさせ、敵兵が河を渡ってもなお朝廷は気づかなかった。 第八。書に「民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し」とある。政和・宣和の小人はもっぱら聚斂を務めて根本を揺るがした。朱勔は貢奉で浙右を騒がせ、李彦は田を括って京東を困らせ、蔡京は塩鈔の法を改めて家々に嘆息させ、王黼は免夫銭を創って諸路を騒がせた。人は生を頼めず散じて盗賊となった。外患がなくとも必ず内輪の憂いがあったろう。 第九。詩に「人を競うことなくんば、四方それを訓えん」とある。古は一つの事で敵の謀を止め、片言で外侮を折った。政和の初め、使者を遣って国を覗かせるのに童貫を行かせたので、遼の君臣は顔を見合わせてひそかに笑い、すでに南朝に人なしという譏りがあった。北の事が起こると軍律を委ねたが、僕隷の器で元帥の任に当たり、節制は明らかでなく諸将は畏れるところがなく、凡庸怯懦で武ならず、敵の師は思うままに凌いだ。まもなく蔡攸を副とし、譚稹に替えたが、その駑鈍と怯懦はいっそう甚だしかった。こうして女真は中国に人なきを知って異心を起こした。これは任に非才を授けたものである。 第十。昔、子産は小さな鄭をもって強国の間に苦しんだが、たかが一つの環くらい晋に惜しむこともあるまいと思われたのに、子産は、大国の人が小邦に令して求めるものをみな得るなら、何をもって足りようか、一つは応じ一つは応じないとすれば罪はいっそう大きくなる、大国の求めは無礼だから斥けるのだ、応じてどこに満足があろうと言い、ついに与えなかった。秦が趙に地を求め、趙が与えようとしたとき、虞卿は、王の地には限りがあり秦の求めには際限がない、限りある地で際限のない求めに応じれば、その勢いは必ず趙をなくすと言った。趙はその計を用い、秦は手を出せなかった。国を有つ者が不幸にも強敵と隣り合ったなら、その心を服させるべきで、その欲に従うべきではない。 女真が遼と交戦していたころ、戦うたびに勝てたとはいえ、我が中国の尊さを高山大海のように見て容易にその深さを測れず、どうしてすぐに他心を抱けたか。不幸にも姦臣と凡庸の徒が功を求めて謀に乏しく、その意に順わないことばかりを恐れた。彼が歳幣を求めれば契丹への旧額どおり与えて辞さず、燕の地の税賦を求めれば銀絹百万を与えて惜しまず、犒軍を求めれば犒軍を許し、糧を貸せと言えば貸すと許した。一つが済むうちに次が生じ、前の請いがまだ塞がらぬうちに後の請いが起こる。すべて順い承けてあえて逆らわないうちに、南下の師はもう境に迫っていた。強敵の要求はもとより飽くことがない。ただその欲に従うばかりでその心を服させなければ、その禍は当然そうなる。 ある者はただ張㲄を受け入れ伊都と結んだことを釁の由来とするが、侮りを招き軽んじられる兆しが一つではなかったことを知らない。結納の事がなくとも盟約が寒くならずにいられたか。これは処置が宜しきを失ったものである。 今、ご一人は憂え勤め恭倹で仁宗の風に恥じないが、群臣は遊楽に耽って怠り傲り、宣和の習いがある。東南の民力は軍餉に十のうち八を耗されているのに、士卒は窮乏して飽かない嘆きがある。災異は頻りに重なるのに修省の実は見えず、言路は塞がって直言の士は容れられない。君子が参用されていないわけではないが正論は伸ばされず、小人を遠ざけたくないわけではないが讒諂はなお志を得ている。覆い隠す風は日々熾んになり、聚斂の政は日々増える。この失を除かなければ、後の世が今を見ることは、今が昔を見るのと同じになると恐れる。 とはいえ臣は外の有司であり、内の事は言い尽くせない。ただ陛下のために外国に対する道を深く申し上げたい。臣が見るに、韃靼の今日は、昔の女真の興ろうとしたときと変わらない。ひとたび我らと隣り合えば、女真がすでに行った故智を祖述するだろう。女真はかつて燕城を我らに返した。今、どうして河南の地を返して我らの出方を見ないと言えようか。受ければ虚名を享けて実禍を招き、受けなければ彼は陵寝を口実に大義を仗して攻めてくる。女真はかつて我らと好を通じた。今、どうして言葉を低くして使者を遣り、我らの出方を見ないと言えようか。従えば要求は際限なく、その谷のような欲を満たせようか。従わなければ彼は口実を得て釁端を開く。彼の情を測るに必ずここから出る。あらかじめ図って応じずにいられない。 昔、晋の末の乱で江左がまがりなりにも安んじたのは、諸雄が並び争って統一できなかったからで、それゆえ我らは朝夕の安を偸めた。苻堅が慕容を滅ぼすや晋を呑む謀を起こし、元魏が拓跋を併せるや江に飲む志を萌した。今、新しい敵は鴟のように張って河朔をすべて有し、楊・劉の群盗も人がみな服している。臣は、今日の形勢はもはや晋の世の江左のその場しのぎの計では済まないと恐れる。 昔、孫氏は小さな呉で強大な魏に当たれたが、それはその君臣が互いに励まし合えたからだ。今、国家は幅員万里、甲を帯びる者は百万、江と漢を池とする。どうして呉に劣ろう。陛下は九廟の託を負われた以上、安危を度外に置いて深い患いを育てるべきではない。 そこで五つの「不可」を献じたい。 第一、宗社の恥は忘れられない。国家にとって金国は万世必ず報いるべき讐である。高宗と孝宗はその強盛のときに遭ってやむを得ず太王の立場に身を置き、勾践の志を後人に望まれた。今、天が我が讐を亡ぼそうとし、それは朝夕に迫っている。まことに敵を待つ礼で天下の豪傑を遇し、敵に遺る費用で天下の兵を励ませば、人心は奮い張り士気は倍する。何を彼に憚って仕える必要があろう。彼と絶つことを重く見るのは怨みを招いて釁を開くのを畏れるからだ。しかし亡びゆく敵に怨みを招かずにいられても、新しい敵に釁を開かずにはいられない。その利害を量ればどちらが重いか。陛下が勾践の良図に勉め、謝玄の失策に懲りられれば、王業の興隆は望める。 第二、隣り合う患いは軽んじられない。韃靼と山東の盗が志を得て我らと隣り合えば、これに勝る憂いはない。朝廷がこの二つの患いを軽んじず、日夜、攻守の策を講じ求めてうかがう心をあらかじめ杜ぐことを願う。 第三、僥倖の安を頼む謀は恃めない。今の議者はおおむね金国の存亡を我が喜憂とする。危迫の報を聞けばそれが事実でないことを願い、安静の報を得ればそれが本当だと幸いとする。これは朽ちた土で垣を作って藩屏が固いことを望むようなものだ。陛下が自強の志を励まし武を立てる筋道を広げ、敵が存することを喜ばず敵が亡ぶことを畏れられなければ、大勢は挙がる。 第四、導き諂う言は聴けない。今、辺事はまさに切迫し、君臣が戒め懼れるべき日なのに、縉紳大夫は諂いの説を巧みにし、五福が恃むに足りるなどと言う者がある。天象は咎を告げ、近ごろはとりわけ甚だしい。讖緯の不経の説を恃んで明らかな戒めを忽せにしてよいものか。陛下が天と人の相因ることを鑑み、諂い佞る者の害を察し、いっそう本を修めて天の休みを致されれば、宗社の慶びとなる。 第五、至公の論は忽せにできない。公論は国の元気である。元気が滞れば人たりえず、公論が塞がれば国たりえない。深く思うに、今日はまさに公論が伸びるか屈するかの機である。朝廷の上で、言う者を君を愛し国に報いるものとし、猜疑の意なく聴き用いる誠があれば、公論はこれよりいっそう伸びる。もし言う者を事を沮み名を求めるものとし、聴き用いる誠がなく猜疑の意があれば、公論はこれよりまた屈する。公論の伸屈こそ治乱存亡の分かれるところだ。だから臣は篇の終わりに繰り返し極言する。陛下が臣の愚忠をご了察くださることを、と。返答はなかった。

嘉定十年二月(1217年)

  • 陳伯震が金から帰った。金主は彼に、息州の南の境に盗賊があると聞くが、これはそちらの境の飢えた民が淮沿いで乱を起こしているだけだ、宋人はなぜ我を攻めるのか、用兵の口実にしようというのだろうと語った。

嘉定十年夏四月(1217年)

  • 金人が道を分けて侵入した。もと金に王世安という者があり、盱眙と楚州を取る策を献じた。金主は彼を淮南招撫使とし、そこで南侵の謀ができた。珠格高琪もまた金主に宋を侵して疆土を広げるよう勧めた。金主は初めそう思わなかったが、ここに至って烏庫哩慶寿と完顔薩布に軍を率いて南侵させた。淮を渡って光州の中渡鎮を侵し、榷場の官の盛允升を捕らえて殺した。慶寿は兵を分けて樊城を侵し、棗陽と光化軍を囲み、別に完顔阿林を大散関に入れて西和州・階州・成州を攻めさせた。
  • 朝廷はこれを聞き、京湖・江淮・四川の制置使の趙方・李珏・董居誼にそれぞれ便宜に従って防がせた。
  • それ以前、金の右司諫の許古が上疏し、使者を遣って宋と和を議すれば、韃靼もこれを聞いて跡を潜めるだろう、兵を用いて敵を利するべきでないと請うた。金主はただちに古に和議の牒文を草させ、できると参政の高汝礪に示した。汝礪が、哀願の意があって弱さを示すだけで取るに足りないと述べたので、議はやんだ。平章政事の胥鼎もまた南侵に六つの不可があると切に諫めたが、高琪は従わなかった。金主は南北に兵を用い、西夏がまた騒ぎ、財は乏しく兵は弱いことを憂え、百官を集めて守禦の策を議したが、高琪は内心これを忌み、述べられたことはみな用いられなかった。

嘉定十年五月(1217年)

  • 金人が襄陽と棗陽を侵した。趙方は子の趙范・趙葵に、朝廷は和と戦が定まらない、これを見ると人の意をいっそう乱すだけだ、自分の策は決した、ただ兵を率いて辺に臨み決戦して国に報いるのみだと語り、そのまま抗疏して主戦を唱えた。
  • 方は自ら襄陽へ赴き、扈再興・陳祥・鈐轄の孟宗政らに檄して防がせ、あわせて光化・信陽・均州の守備を増して声勢を連ねた。金人が団山から来て風雨のような勢いだったので、再興らは三陣に分かれて伏兵を置いて待った。金人が至ると再興は退くふりをし、金人が追った。宗政と祥が左右の翼を合わせて挟み撃ち、金人は三面から敵を受けて大敗し、血肉が谷間に折り重なった。
  • まもなく棗陽の囲みが急だと報せがあり、宗政は昼に峴首を発ち、夜明けに棗陽に着いた。神のように駆け入り、金人は大いに驚いて夜のうちに逃げた。方は捷報を聞いて大いに喜び、宗政を権知棗陽軍とした。まもなく京湖の将の王辛と劉世興も光山と随州で金兵を破り、金人は去った。

嘉定十年六月(1217年)

  • 趙方が金討伐を天下に詔するよう請い、詔が下った。要旨は――朕は精を励まして政を改め、ひたすら民を休めることを念じた。鄭の蛇に妖のあることを知り、天が厭うて久しい。秦の鹿がすでに失われ、人が競って追っている。機会に乗ずべきこと、讐と恥がまだ復されていないことを、どうして知らずにいよう。誓いを申べたばかりであることを思い、兵端を起こすことを重く見てきた。だが非常の勲を立てられるなら、序列によらぬ賞もある――というものだった。そのまま檄を伝えて中原の官吏と軍民に諭した。

嘉定十年十二月(1217年)

  • 金の完顔贇が歩騎一万で四川を侵し、天水軍を破った。守臣の黄炎孫は逃げた。金人は白環堡を攻めて破り、統制の劉雄は大散関を棄てて逃げた。

嘉定十一年二月(1218年)

  • 甲辰、金人が大散関を焼き、さらに皂郊を破り、死者は五万人に上った。
  • 戊辰、金人が随州と棗陽軍を囲んだ。孟宗政は権棗陽として着任すると、寵愛する僕が新令を犯したのですぐ斬った。軍民は震え上がった。そこで堤を築いて水を溜め、城壁を修理し、軍士を点検した。
  • 完顔薩布が歩騎を擁して城を囲み、宗政は扈再興と兵を合わせて敵に当たった。三か月にわたって大小七十余戦、宗政は士卒に先んじたので、金人は戦うたびに敗れた。ひどく憤って城の周りに濠を掘り、兵を濠の外に並べ、鋒鏑を飛ばし、鈴を縄に付けて自ら警戒した。鈴が鳴れば犬が吠える仕掛けだった。宗政は厚く壮士を募って隙を見て突撃させ、金人は支えられなかった。兵を盛んにして城に迫っても、宗政は臨機に力めて防いだ。随州の守の許国の援軍が白水に至って鼓の音が聞こえると、宗政は諸将を率いて出撃し、金人は潰走した。

嘉定十一年三月(1218年)

  • 利州統制の王逸が官軍と忠義の人十万を率いて大散関と皂郊堡を回復し、金の統軍の完顔贇を追って斬った。進んで秦州を攻め、赤谷口に至ったが、沔州都統の劉昌祖が退軍を命じ、あわせて忠義の人を解散させたので、軍は大潰した。

嘉定十一年夏四月(1218年)

  • 金兵が長安・鳳翔の衆を合わせて再び皂郊を攻め、そのまま西和州へ向かった。劉昌祖は城を焼いて逃げ帰った。当時、西和の守臣の楊克家、成州の守臣の羅仲甲、階州の守臣の侯頤は、昌祖が逃げたので城を棄てて逃げた。金兵はそのまま諸州に入り、前後に糧九万斛、銭数千万を得、軍需品は数え切れなかった。さらに大散関を侵し、守将の王立も逃げた。また黄牛堡を侵したが、興元都統の呉政が撃退した。政は大散関に至って王立を捕らえて斬って晒した。事が伝わると政は三官を進められ、昌祖は官を奪われて韶州に流され、克家らもみな遠州に流された。

嘉定十一年十二月(1218年)

  • 金主が勝ちに乗じて和を議そうとし、開封府治中の呂子羽を詳問使とした。淮に至ったが、川の中ほどで受け入れられず引き返した。これによって和好はついに絶えた。金主は布薩安貞を左副元帥として太子の守緒を輔けさせ、軍を集めて南侵させた。

嘉定十二年春正月(1219年)

  • 辛卯、金が再び西和州を侵した。守将の趙彦呐が伏兵を置いて待ち、その衆を殲滅して帰した。
  • 乙未、興元都統の呉政が黄牛堡で金人と戦って戦死した。

嘉定十二年二月(1219年)

  • 癸卯、金人が勝ちに乗じて武林関を攻め、都統の李貴は逃げ帰った。
  • 丁未、金人が興元府を破り、権府の趙希旨は城を棄てて逃げた。
  • 辛亥、金人が大安軍を破り、続いて洋州を破った。
  • 壬子、四川制置使の董居誼が逃げた。都統の張威が石宣に大安軍で金人を迎え撃たせて大破し、その精兵三千を殲滅し、将の巴図魯安を捕らえ、金人は逃げ去った。
  • 金の完顔額爾克がまた大挙して棗陽を囲み、外に塹を掘って土城を巡らせた。趙方は、敵は本拠を空にして来ている、その虚を衝けば棗陽の囲みは自ずと解けると計り、知随州の許国と扈再興に三万余の兵を率いさせ、二道に分けて唐州・鄧州を攻めさせ、あわせて子の趙范に監軍させ、趙葵を殿軍とした。

嘉定十二年閏三月(1219年)

  • 癸亥、金人が安豊軍および滁州・濠州・光州の三州を囲んだ。江淮制置使の李珏は巴州都統制の武師道と忠義軍都統制の陳孝忠に救援させたが、いずれも進めなかった。金人はそのまま兵を分け、光州から黄州の麻城を、濠州から和州の石磧を、盱眙から滁州の全椒・来安および揚州の天長・真州の六合を侵した。淮南の流民が江を渡って乱を避け、諸城はみな門を閉ざした。金の遊撃騎数百が采石の楊林渡に至り、建康は大いに震えた。
  • 当時、賈渉は淮東提刑・知楚州として京東の忠義軍を節制していた。忠義の人兵が金に用いられることを慮り、陳孝忠を滁州へ、石珪・夏全・時青を濠州へ、季先・葛平・楊德広を滁州・濠州へ向かわせ、李全と李福にその帰路を遮らせた。李全は進んで渦口に至り、金の左都監の赫舎哩薩古察と駙馬の阿海と化湖陂で連戦して金の将数人を殺し、その金牌を得た。金人はそこで諸州の囲みを解いて去った。全は追撃して曹家荘でまた破って戻った。金人はこれ以来、淮東をうかがえなくなった。
  • もと賈渉は、金の太子を殺せる者には節度使、親王を殺した者には承宣使、駙馬を殺した者には観察使を賞すると募っていた。李全はそこで得た金牌を渉に届け、駙馬の阿海を殺して得たものだと言った。渉は朝廷に約束どおり賞を授けるよう請い、全は広州観察使を授けられた。だが阿海は実は死んでいなかった。

嘉定十二年秋七月(1219年)

  • 孟宗政と扈再興が棗陽で金人を挟撃した。当時、金の帥の完顔額爾克が歩騎を擁して城に迫った。宗政は袋に糠と砂を詰めて楼と棚を覆い、甕を並べて水を溜めて火を防ぎ、砲手を募って撃たせ、一砲で数人を殺した。
  • 金人は精騎二千を選んで弩手と号し、雲梯と天橋を擁して先登し、また銀鉱を掘る石工を募って昼夜、城を攻め、茅と葦を運んで丸い楼の下まで運んで焼こうとした。宗政は先に楼を毀ち、深い坑を掘って地道を防ぎ、戦棚を作って城の損壊に備えた。穴が貫通するや毒煙と烈火を仕掛け、鞴で煽って燻した。金人は湿った氈で塞ぎ、道を分けて土を掘った。城が崩れ楼が落ちると、宗政は楼を撤して薪を足し火の山を築いてその道を絶ち、勇士を並べて長槍と強弩でその衝突に備えた。楼の落ちた所から数丈のところに偃月城を築いて正城の翼とした。
  • 金人は強兵を選んで厚い鎧と氈の衫、鉄の面をつけて前進し、さらに湿った氈と濡らした革で火の山を覆い、雲梯を擁してまっすぐ西北の丸い楼に至って城に登った。城中の軍が長い戈でその喉を突いて殺し、敢勇軍が下から挟み撃つと、金兵は落ちて死に、炎に焼かれた。
  • 金人は続けて思いを遂げられなかった。折しも扈再興と許国が二道から並び進んで唐州・鄧州の境を掠め、その城柵と糧を焼いた。金は棗陽の城下に八十余日も兵を止めた。趙方はその気がすでに尽きたと知り、国と再興を呼び戻して東の軍を合わせて再興に属させ、期日を定めて合戦させた。再興は瀼河で金人を破り、また城の南で破った。宗政は城から出て撃ち、内外が勢いを合わせて士気は大いに振るった。勇を奮って金の陣営に入り、夕方から三更まで戦ってその衆三万を殺し、金人は大潰し、額爾克は単騎で逃げた。得た財貨・糧・器甲は数え切れなかった。金人を馬磴寨まで追ってその城を焼き、鄧州に入って戻った。金人はこれ以来、襄陽・漢水をうかがえなくなった。
  • 棗陽には中原の遺民が万を数えて帰属した。宗政は倉を開いて養い、田を給し家を建てて住まわせ、勇壮な者を登録して忠順軍と号し、唐州・鄧州の間に出没させた。宗政はこれによって威が境外に振るい、金人は「孟爺爺」と呼んだ。

嘉定十二年冬十月(1219年)

  • 己丑、京湖制置使の趙方は、金人がたびたび敗れた以上、必ず同時に一斉に攻めてくると考え、先に発して制すべきだとして、扈再興・許国・孟宗政に六万の軍を率いさせ三道に分けて金を伐たせた。あわせて、深入りするな、城を攻めるな、ただその保甲を潰し城砦を毀ち財貨と糧を空にするだけにせよと戒めた。

嘉定十三年春正月(1220年)

  • 丁酉、扈再興が鄧州を攻め、許国が唐州を攻めたが、いずれも落とせずに戻った。金人が追ってきて樊城を攻めたが、趙方が諸州を督して撃退した。孟宗政がまた湖陽で金人を破った。

嘉定十三年八月(1220年)

  • 安丙が夏人に書を送り、金を挟撃する議を定めた。夏の兵が野戦し、我が師が城を攻めることとし、そこで利州統制の王仕信に軍を率いて熙州・秦州・鞏州・鳳翔へ赴かせ、丁焴に節制を委ね、あわせて檄を伝えて陝西五路の官吏と軍民に招諭した。
  • もと夏人は金と連和して八十余年、兵を交えなかったが、蒙古に攻められて金に救いを求めたところ、金人が出兵できなかったので、夏人は怨んで和好は絶えていた。

嘉定十三年九月(1220年)

  • 辛卯、夏人が枢密使の寧子寧に二十万の衆を率いさせて鞏州を囲み、あわせて出兵を促してきた。王仕信は軍を率いて宕昌を発った。
  • この月、安丙は諸将に道を分けて進兵させた。統制の質俊と李実は下城を発し、都統制の張威は天水に出、程信は長道に出、陳立は大散関に出、田冒は子午谷に出、陳昱は上津に出た。庚子、質俊らが来遠鎮を落とし、定辺城で金人を破った。辛丑、王仕信が塩川鎮を落とした。乙巳、鞏州の城下で夏人と合流して城を攻めたが落とせず、そのまま秦州へ向かった。丙辰、夏人は安遠から石へ退いた。

嘉定十三年冬十月(1220年)

  • 丁巳、程信が改めて夏人にともに秦州を攻めることを求めたが、夏人は従わず、伏羌城から兵を率いて帰った。諸将はみな兵を罷めた。安丙は信に王仕信を西和で斬らせ、張威の官を罷めた。

嘉定十四年二月(1221年)

  • 戊辰、金人が光州を囲んだ。己巳、金人が五関を侵した。壬申、金人が黄州を囲み、また将を遣って漢陽軍を囲んだ。

嘉定十四年三月(1221年)

  • 丙戌、鄂州副都統の扈再興が兵を率いて唐州を攻めた。
  • 金人の黄州攻めが急だったので、詔して馮榯に蘄州・黄州を援けさせたが、榯はぐずついて進まなかった。黄州の守の何大節は郡の印を取って佩び、死守を誓った。ある夕、輿兵が突然、駆けつけて城が陥ちたと告げ、大節を車に乗せた。門を出たばかりで敵兵が集まっており、大節はついに江に身を投げて死んだ。金人はさらに蘄州を陥れ、知州事の李誠之は自殺し、家族はみな水に赴いて死んだ。
  • 癸丑、金兵が退き、扈再興が天長で迎え撃って破った。

嘉定十四年夏四月(1221年)

  • 戊辰、金人が淮を渡って北へ去った。李全が兵を遣って迎え撃ち、また大破した。

嘉定十四年冬十月(1221年)

  • 夏人がまた軍を合わせて金を伐つことを乞うた。

嘉定十五年夏四月(1222年)

  • 金主は朝廷が歳幣を絶ったので国用が窮乏し、そこで元帥左監軍の額爾克に行元帥府事として三路の軍馬を節制させ、同僉書枢密院事の時全をその副として、潁州・寿州から進んで淮を渡らせた。高塘市で官軍を破り、固始県を攻め、廬州の将の焦思忠の兵を破った。
  • まもなく捕虜を得て、時全の甥の時青が宋の詔を受けて全の兵と対峙していると知れた。全はその事を隠していた。
  • 五月、額爾克が引き揚げて淮まで二十里に至り、諸軍が渡ろうとしたとき、全は密詔があると偽って、諸軍はしばらく留まって淮南の麦を収めよと言い、そのまま一人三石を得て軍に給する令を下した。衆は惑わされて三日留まった。額爾克は全に、今は淮の水が浅く狭いから速やかに渡れる、もし急に増水して宋がその後ろに乗じれば、無事に帰れなくなると言ったが、全は強く拒んだ。その夕、大雨となり、翌日、淮の水は急に増した。そこで橋を架けて軍を渡したが、官軍が襲って全の兵は大敗し、橋は壊れた。全は軽舟で先に渡り、士卒はみな溺れた。金の兵と財はこれによって大いに尽きた。金主は詔して全の罪を数えて誅した。

嘉定十七年三月(1224年)

  • 金主が尚書令史の李唐英を滁州へ遣って好を通じ、まもなくまた枢密判官の伊喇莽阿に兵を率いて光州へ至らせ、二度と南侵しないと軍民に榜で諭した。