宋史紀事本末孝宗朝の廷議(孝宗朝廷議)
隆興元年(1163年)の朱熹の入対から淳熙十五年(1188年)の封事まで、孝宗一代の主要な奏議を集める。朱熹は格物致知を帝王の学の本とし、和議の説を罷めなければ何事も成らないと説き、のちに側近の壟断と紀綱の頽廃を痛論して、大本たる君心と六つの急務を挙げた。呂祖謙は上下が職分を侵さない治道の体統を、陸九淵は人を知る明と漸をもってする治を、楊万里は地震に応じて金への備え十条を述べた。
年表(7件)
- 孝宗
- 隆興元年冬十月1163年朱熹が入対し格物致知と和議の罷免を説く
- 淳熙四年三月1177年呂祖謙が上下が侵し奪わない治道の体統を論じる
- 淳熙六年1179年旱魃を受けた朱熹の上疏が帝の怒りを買う
- 淳熙八年十一月1181年朱熹が延和殿で災異と任人を極言し社倉法が諸路に下る
- 淳熙十一年1184年陸九淵が輪対して五通の劄子を進める
- 淳熙十二年五月1185年地震に応じて楊万里が金への備え十事を上書する
- 淳熙十五年十二月1188年朱熹が封事を上って大本と六つの急務を述べる
孝宗隆興元年冬十月(1163年)
- 辛巳、朱熹を召して垂拱殿で入対させた。それ以前、帝は即位して中外の臣民に時政の欠失を述べさせる詔を出した。熹はそのころ南嶽廟を監していて封事を上った。 まず、帝王の学は必ず格物致知を先とし、事物の変を究めて、義理の存するところを細大漏らさず照らせば、自然に意は誠になり心は正しくなって天下の務めに応じられると述べた。 次に、恢復の計が定まらないのは講和の説がそれを誤らせているからだと述べた。金人は我らと不倶戴天の讐であり、和せないことは義理として明らかだ。それでもなおこの説を唱える者の意は、こうであろう。今は根本が固まらず形勢が成らず、進んでは中原を恢復する策がなく、退いては敵の突進を防ぐ方策がない、だからやむを得ずこうして、その間にゆるゆると立て直して大いに備えようというのだ、と。だが臣が考えるに、論者の言う「根本が固まらず形勢が成らず、進んで攻められず退いて守れない」のはなぜか。まさに講和の説があるからだ。この説を罷めなければ、天下の事に一つとして成る道理はない。なぜか。進んでは生死を一度に決する計がなく、退いてはずるずると自ら止める逃げ道があれば、人情は無理に努めて進もうとしても、その気はすでに散り沮んで応じないからだ。気は勢いに分たれ、志は気に奪われる。 だから今日、講和の説を罷めなければ、陛下の励志は必ず浅く、大臣の責任の負い方は必ず軽く、将士の功に赴くのは必ず緩く、百官の奉仕は必ず心力を尽くして上の意を聴くことができない。それでは根本はいつ固まり、形勢はいつ成り、恢復はいつ図られ、守備はいつ頼れるのか。望めないことは明らかだ。 臣は陛下が義理の公によって断じ、利害の実を参酌し、和議を罷めて使者を呼び戻し、今後は関を閉じて約を絶ち、賢を任じ能を使い、紀綱を立て風俗を励まし、治を制し邦を保ち辺を備えるほかには、ずるずると自ら止める拠りどころとなるものを一毫も残さず、片時も自ら安んじる意を抱かないようにされることを願う。そうすれば将相・軍民・遠近・中外はみな、陛下の志が必ず復讐と開土にあって歳月を弄ぶ心がないことを知り、互いに励まし合って功を図る。数年の後には志が定まり気が充ち、国は富み兵は強くなる。そのうえで我が力の強弱を見、彼の隙の浅深を観てゆっくり図れば、中原の故地が我が物とならずどこへ行こうか。 次に、四海の利病は民の休戚にかかり、民の休戚は守令の賢否にかかり、監司は守令の綱であり、朝廷は監司の本である。民に所を得させたいなら、その本源はやはり朝廷にある。今の監司には姦悪と貪汚が横行し、虐政をほしいままにして民を病ませる者がいるが、いずれも宰執や台諫の親戚旧知や賓客であり、ただ陛下がそれを知る手立てがないだけだ、と述べた。
- 上はその言を異とし、ここに至って熹を召して入対させた。熹は改めて三通の劄子を陳べた。 第一に、大学の道は格物に本づく、格物とは理を窮めることだと述べた。理と言えば形がなくて知りがたく、物と言えば跡があって見やすい。必ず物に因って理を求め、髪の毛ほどの差もないほど明らかにすれば、事に応じても自然に髪の毛ほどの誤りもない。だから意は誠になり心は正しくなり、身は修まり家は斉い、国は治まり天下は平らかになる。今、講義の臣が陛下に説くのは記誦と詞章の習いにすぎず、陛下もまた老子や仏書に求めておられる。だから生知の性と世に高い行いがあっても、事に随って理を観ることができず、天下の理には察していないところが多く、理に即して事に応じることができず、天下の事には明らかでないところが多い。それゆえ挙措のたびに疑いが生じ、聴納に際して欺かれることを免れない。これは大学の道を講じず、浅近と虚無に心を溺れさせた過ちである。真の儒でこの道を知る者を広く訪ねて講じ明らかにされたい。そうすれば今日の務めのうち、なすべきことはなさずにいられず、なすべきでないことはやめずにいられなくなる。 第二に、今、国計を論じる者には三つある。戦、守、和である。この三説は是非を攻め合い可否を奪い合い、語る者はそれぞれ私を飾り、聴く者はその眩さに堪えない。義理の根本で折衷せず、利害の末流に走るからである。君父の讐と天を共にしないというのは、天が覆い地が載せるかぎり、君臣父子の性を持つ者ならみな至痛から発してやむにやまれぬ同じ情であって、一己の私ではない。国家と北の敵が天を共にできないことは明らかだ。今日なすべきことは、戦わなければ讐を復せず、守らなければ勝ちを制せない。これはみな天理の自然であって、人欲の私憤ではない。 第三に、先王が治を制し邦を保った道は、その本が威力ではなく德業にあり、その備えが辺境ではなく朝廷にあり、その具が兵と食ではなく紀綱にある。諫諍を開いて容れ、邪佞を退けて遠ざけ、幸進の門を塞ぎ、邦本を安んじ固める。この四つを急務とされたい。そうすれば形勢は自ら強まり恢復も望める、と。
- 当時、朝廷は王之望を金へ遣って和を約させ、まだ戻っていなかった。宰臣の湯思退らはみな和議を主張し、側近の曾覿と龍大淵が権を招いていたので、奏はそこにも及んだ。三通の劄子で述べたところは封事の趣旨を出ないが、いっそう痛切だった。熹が第一の劄子を読み上げると上は顔色を動かして聴き入ったが、第二の劄子で復讐の義を論じると、上はそのまま黙り込んだ。
淳熙四年三月(1177年)
- 己酉、呂祖謙が入対して述べた。治道の体統は、上下内外が互いに侵し奪わないでこそ安らかである。先ごろ陛下は大臣が任に堪えないとしてその事を兼ね行われ、大臣もみな細務に自ら当たって有司の事を行った。外は監司・守令に至るまで、職任はおおむね上に侵されて下に令することができない。だから豪猾は官府を侮り、郡県は省部を軽んじ、掾属は長吏を凌ぎ、賤しい者が権柄を軽んじる。平生は害が見えなくとも、ひとたび急があれば誰と指揮を執って伸縮させるのか。 臣下の権任が重すぎて私を免れないことを恐れられるなら、給事中・中書舎人がいて出納を掌り、台諫がいて糾正し、侍従がいて諮問に応じる。端正で偏らない人を得て分け置けば、専断の懸念は自ずとない。どうして至尊を屈してその労に代わられる必要があろう。 人の関節や脈絡は少しでも滞りがあれば、長じて病を生ずる。陛下は左右に対して操縦の労を執られないが、なおざりにして慮られなければ、声勢はしだいに長じ、擦り寄る者はしだいに増え、過ちはしだいに積もる。内には陛下に譴責されることを恐れていっそう覆い隠そうとし、外には公論に憎まれることを恐れていっそう激しく人を排斥する。 陛下には虚心で天下の士を求め、要を執って万事の機を統べ、任用を誤ることがあったからといって人は疑わしいと思われず、聡明が独り高いからといって智で遍く察せられると思われず、小事に詳しくて遠大の計を忘れられず、近きを忽せにして覆い隠される兆しを忘れられないようにと願う、と。
- あわせて述べた。本朝の治体には前代をはるかに越えるものもあれば、前代に比べて未熟なものもある。寛大忠厚をもって規模を建て、礼譲と節義をもって風俗を成した。これが前代をはるかに越えるところだ。だから騒乱と艱危の後、東南に駐蹕して五十年を越え、少しの憂いもない。根本の深さが知れる。しかし文治は見るべきだが武績は振るわず、名望ある人は相望むが実務の才は優れない。だから昌んで盛んなときにさえこの病はすでに現れていた。元昊の難に范仲淹や韓琦という一時の選が揃いながら平定しきれなかった。事功が振るわないことが知れる。臣は、今日の事体で前代に比べて未熟なところは奮い立たせるべきであり、前代をはるかに越えるところはとりわけ愛護し支えるべきだと考える、と。帝はこれを善しとした。
淳熙六年(1179年)
- 夏の旱魃で直言を求める詔が出た。知南康軍の朱熹が上疏した。要旨は――天下の務めで民を恤むより大きいものはなく、民を恤む本は人君が心術を正して紀綱を立てることにある。紀綱は自ら立つものではなく、必ず人主の心術が公平正大で、偏りや党や裏表の私がなくて初めて繋がって立つ。君心も自ら正しくなるものではなく、必ず賢臣に親しみ小人を遠ざけ、義理を講じ明らかにして私邪を閉ざしてこそ正しくなる。 今、宰相・台省・師傅・賓友・諫諍の臣はみなその職を失い、陛下が親しく密かに議しておられるのは二、三の側近の臣にすぎない。上は陛下の心志を蠱惑し、先王の大道を信じさせず功利の卑しい説を悦ばせ、荘重な士の直言を楽しませず私的で卑しい態度に安んじさせる。下は士大夫のうち利を好み恥を知らぬ者を集め、文武それぞれの門に入れ、気に入れば密かに引き立てて要職に据え、憎めば密かに誹謗して公然と排斥する。賄賂を通じて盗むのはみな陛下の財、卿を任じ将を置いて窃むのはみな陛下の権柄である。 陛下が宰相・師傅・賓友・諫諍の臣とされる者さえ、かえってその門に出入りしてその意向をうかがう。かろうじて自立できる者もせいぜい小さく身を守るだけで、一言も斥けようとしない。公論をとりわけ畏れる者がその徒党の一、二をわずかに追い払える程度で、深く傷つけることもできず、結局、正面から言ってその巣穴の在り処を衝くこともできない。勢いが成り威が立って中外はなびき、陛下の号令と黜陟はもはや朝廷から出ず一、二人の門から出る。名は陛下の独断でも実はこの一、二人が密かに柄を執っている。彼らの抱くところは陛下の紀綱を壊すだけでなく、陛下が紀綱を立てるその拠りどころまで壊す。天下の忠臣賢士は深く憂え長く嘆いて生を楽しまず、利を貪り恥を知らず悪を敢えてする者が四方から袖をまくって起こり、欲するところを遂げようとする。それでどうして民を恤み財を理し、軍政を修め領土を回復し、宗社の讐と恥を雪げようか――というものだった。
- 帝は読んで大いに怒り、これでは朕を亡国の君と言っているようなものだと言った。熹は病と称して祠禄を請うたが返答はなく、趙雄に釈明させようとした。雄は帝に、名を好む士は陛下が憎まれるほど誉める者が増える、かえって彼を高くするようなものだ、その長所に因って用いるほうがよい、彼が任に当たれば能否は自ずと現れると述べ、帝は同意した。熹は元どおり職に留まった。
淳熙八年十一月(1181年)
- 己亥、朱熹が延和殿で奏事した。熹は都を去って二十年ぶりに上に見え、災異の由来と德を修め人を任じる説を極言した。二通の劄子で、おおむねこう述べた。 陛下が位に臨まれて二十年、水旱と盗賊で安らかな年がない。思うに、德の崇きが天に至らないのか、業の広きが地に及ばないのか、政の大なるものが挙げられず小なるものが繋がっていないのか、刑が遠い者には当たらず近い者は幸いに免れているのか、君子がまだ用いられず小人がまだ除かれていないのか、大臣がその職を失い賤しい者が柄を窃んでいるのか、直諒の言はまれで諂諛の者が多いのか、德義の風が著れず汚賤の者が走り回っているのか、賄賂が上へ流れて恩沢が下へ届かないのか、人を責めることは詳しくて自ら省みることが至らないのか。これらがあってこそ災いを招き異変を致すのに、陛下は悟られない。 また述べた。陛下は即政の初め、豪英を選び建てて政事を任された。不幸にもその間に適任を得きれなかったので、二度と広く賢哲を求めず、しばらく軟らかで御しやすい人を取って位を埋められた。そこで身近な卑しい使い走りの者が初めて閑暇に侍り駆使に備えるようになり、宰相の権は日々軽くなった。さらにその勢いが偏って自分を覆い隠すことを慮り、時に外朝の議論を聴いて彼らの過ちを密かに探って締め付けられた。 陛下はまだ天理に循い聖心を公にして朝廷の大体を正されないのだから、すでに本を失っている。そのうえ士大夫の公言を兼ね聴いて御術としようとされる。だが士大夫の拝謁には時があり、側近の出入りには隔てがない。士大夫の礼貌は荘重で親しみにくく、その議論は苦くて受け入れにくい。側近のへつらい媚びる態度は心志を蠱惑するに足り、その胥吏の狡猾な術は聡明を眩ますに足りる。馴染みと疎さ、甘さと苦さがすでに分かれている以上、陛下が御術を施される前に、すでにその計中に落ちておられることを恐れる。 だから彼らをわずかに抑えようとしても彼らの勢いは日々重くなり、公論を兼ね採ろうとしても士大夫の勢いは日々軽くなる。重い者はその重さを笠に着て陛下の権を窃み、軽い者はその重い者の力を借りて位を窃み寵を固める計とする。中外が呼応して互いの私を助け、日が往き月が来て浸み込んで蝕み、陛下の德業は日々崩れ紀綱は日々壊れ、邪佞が満ちて賄賂が公然と行われ、兵は愁い民は怨み、盗賊が時に起こり、災異がしばしば現れ、飢饉が続いて群小が互いに引き立て合い、人ごとに欲するところを満たしている。ただ陛下だけが何一つ得るところがなく、国家だけがその弊を受けている、と。上は顔色を動かし襟を正して聴いた。
- 熹はそこで救荒の策を条陳し、七か条に整えて進め、上はみな容れた。また熹の社倉法を諸路に下した。
- 社倉法とは、それ以前の乾道年間、熹が郷里にあって飢饉で民が食に窮したとき、府に請うて常平米六百石を得て賑貸し、夏に倉から穀を受け、冬に利息を加え米に換算して償わせたものである。以後、年に応じて出し入れし、不作の年には利息を半減し、大飢饉には全免した。十四年で元の六百石を官に返し、手元の三千百石を社倉として利息を取らず、一石につき耗米三升だけを取ることとした。そのため一郷四、五十里の間は不作の年でも民は食に欠かなかった。 その法は、十家を一甲とし甲ごとに一人を首とし、五十家ごとに事情に通じた一人を社首とする。逃亡兵や品行の悪い者、税糧があって衣食に欠けない者は甲に入れない。甲に入るべき者にも入る意思の有無を問い、望む者には一家の大小の人数を書き出させ、大人は一石、子どもは五斗、五歳以下は与えず、帳簿を作って貸す。湿って傷んだ不良の米で返した者には罰がある。
淳熙十一年(1184年)
- 删定官の陸九淵が殿上で輪対し、五通の劄子を進めた。 第一に述べた。臣は典謨の大訓を読み、君臣の間で賛同も異議も互いに論じ弁じて意を尽くし、まったく忌諱や嫌疑がないのを見た。ここから、君に仕える義とは情を尽くさないところがあってはならないと知った。唐の太宗が即位したばかりのころ、魏徴が尚書右丞だった。徴が親戚に阿り党しているという中傷があり、太宗は温彦博に調べさせたが事実ではなかった。彦博は、徴は人臣として形跡を明らかにせず嫌疑を遠ざけなかった、心に私がなくとも責めるべき点はあると述べた。太宗は彦博に徴を責めさせ、今後は形跡を存すべきだと言わせた。徴は拝謁して、臣は君臣が德を同じくするのを一体というと聞く、互いに誠を尽くすべきだ、上下がただ形跡を存するだけなら、国の興衰は分からないと述べた。太宗ははっとして、自分はすでに悔いていると言った。数年のうちに蛮夷の君長が刀を帯びて宿衛し、外の戸を閉じず、商人が野に宿るようになったのは、偶然ではない。 唐の太宗はもとより陛下に語るに足りない。だがその君臣の間がひとたびこうであれば、たちまち成果が現れた。陛下は天から勇と智を賜り、寛容で下を尽くされる。遠く堯舜を追うのも難しくないはずなのに、位に臨まれて二十余年、太宗の数年の成果さえない。版図は戻らず、仇と恥は復せず、民を殖やし教える実は寒心すべきものだ。執事の者はゆったりと、帳簿や期日の合間に、伺候して憐れみを乞う者と相手をして倦まず、雨と晴れは時に適っているなどと太平を詠じている。臣はひそかに惑う。因循と慣れが長く続き、薫染が深くなれば、陛下が剛健であっても蝕まれずにはいられない。鳳凰が高く飛べるのは六つの羽根による。臣は、陛下が今日進んだところをこれで十分とせず、天下の俊秀を広く求めてともに道を講じ邦を経める職に当たらせられれば、唐虞の治朝に恥じないものが見られ、唐の太宗などまことに陛下に語るに足りなくなると考える。 第二に述べた。臣は若いころ漢の武帝が賢良を策した詔を読み、「任は大にして守は重し」という語に至って、ひそかに嘆じた。漢の武帝がどうして任の大にして守の重いことを知ろう、と。秦以来、治を語る者は漢唐を称するが、漢唐の治はその賢君でさえ陋に因り簡に就くにすぎず、卓然として道に志した者はいない。陋に因り簡に就いて何が大で何が重いのか。今、陛下は卓然として道に志しておられる。まことにいわゆる「任は大にして守は重し」である。道は天下にあってもとより磨滅しないが、人が道を弘めるのであって道が人を弘めるのではない。今、陛下の羽翼がまだ成らないなら、この志も自ら遂げられないことを恐れる。志が遂げられなければ治功は立たず、月日は過ぎてかえって漢唐の賢君の下に落ちてしまう。神龍が滄海を棄て風雲を離れて、鯢や鰍と浅い沢で技を競えば、道理として勝てるはずがない。臣は陛下がいっそう德を尊び道を楽しむ誠を致して初志を遂げられることを願う。そうすれば今の天下の幸いだけでなく千古に光がある。 第三に述べた。臣はかねて、事の至難は人を知ることに及ぶものはない、人主がまことに人を知れば天下に余計な事はなくなると考えてきた。管仲は三度戦って三度逃げ、三度仕えて三度君に逐われた。鮑叔は何を見て小白に弓を引いた怨みを措かせ、囚われを解いて宰相とさせたのか。韓信は家が貧しく行いも悪く、吏に推挙されず自活もできず人に棄てられ、食を寄せ股をくぐった。蕭何は何を見て漢王に逃亡兵の中から抜擢させ、斎戒し壇を設けて拝させたのか。陸遜は呉中の年若い書生にすぎない。呂蒙は何を見て孫権に諸老将を越えて用いさせたのか。諸葛孔明は隆中で耕していた。徐庶は何を見て先主に駕を枉げて三顧させたのか。この四人は成った後の効から見れば童子でも非凡の士と分かる。だが窮困して機を得ない時に、常人の識で知りうる道理はない。人の知識は梯子を登るようなもので、一段進めば見えるものが広がる。上にいる者は下の見るものを兼ねられるが、下にいる者は上の見るものを見られない。陛下がまことに坐してこの道を進め、古今の人品を心目に明らかにされれば、四人の事など陛下に語るに足りない。もしなお鳳の翼を鶏や鴨の群れに屈し、日々つまらぬ者と事をともにし、その俗な耳と凡庸な目に古今を是非させ人物を評させるなら、それは臣の敢えて知るところではない。 第四に述べた。臣はかねて、天下の事には即座に致せるものと、しだいに致すべきものがあると考えてきた。趣旨の誤りや議論の失は、悟らなければそれまでだが、悟れば即座に正せる。しかし積年の弊風を救い、久しく崩れた法度を正すのは、大舜や周公が生き返っても一朝で思いどおりにはできない。ただ趨向が定まり規模が立ってから、ゆっくり図って徐々に治め、歳月をかけてこそ大きく変わることが望める。これがしだいに致すべきものである。冬至の時に陽気がただちに応じるのが即座に致る証、真冬が一日で真夏になれないのがしだいに致る証だ。 およそ事が天理に合わず人心に当たらなければ必ず天下を害し、その現れが著しくなれば智者も愚者もその非を知る。しかし理を照らす明がなく物を容れる量がない者は、一朝、憤りに堪えず急に変更し、その禍と敗はしばしば前日よりひどい。後の人はそれに懲りて、変更しうる道理はないと言う。まさに羹に懲りて韲を吹き、噎せて食を廃するというものだ。秦漢以来、治道が雑駁で古を懐かしみながら甘んじているのは、この病による。 壬辰の年、臣は省試の対策の第一篇で、おおむね、古の事の是非は初めから論じ難くないが、今日について論じれば多くは空言に類し、事体はかけ離れ形勢は隔たって施行できないと述べ、末章で、それでは三代の政はついに復せないのか、ただ漸をもってなすべきで急にすべきでないだけだ、荒れたものを包む量があり、河を渡る勇があり、遠きを遺さぬ明があり、党を亡くす公があれば、三代を復すことに何の難しさがあろう、と書いた。臣は今日、これを改めて陛下に申し上げる。 第五に述べた。臣は、人主は細事に自ら当たらないと聞く。だから皋陶は歌に和して「叢脞」の戒めを致し、周公は立政を作って文王が庶言・庶獄・庶事を兼ねなかったことを称えた。唐の德宗が自ら吏を選んで畿内の邑を宰させたとき、柳渾は、陛下は臣らを択んで聖德を輔けさせるべきで、臣は京兆尹を選んで大化を承けさせるべきで、尹は令長を求めて細事に当たらせるべきだ、尹に代わって令を択ぶのは陛下のなさることではないと述べた。この言はまことに皋陶と周公の趣旨に適う。 今、陛下は米や塩のような細かい事務までしばしば聖聴を煩わせておられる。臣は、陛下が皋陶や周公を得られても、ともに道を論じ邦を経める暇があろうかと考える。荀卿子は、主が要を好めば百事は詳らかになり、主が詳らかを好めば百事は荒れると言った。 臣が今日の事を見るに、県令に責めるべき事があると県令は自分の裁量では行えないと言い、州守に責めるべき事があると州守もまた自分の裁量では行えないと言う。上へ推していけばみなそうである。文書は往復して互いに牽制する。その理由は、私を防ぐためだというが、私を行う者はまさにこれを利用して姦悪を隠し、人に問い詰めさせない。忠を尽くし力を竭くす人が職を果たそうとしても、隔てられて志を遂げられずに苦しむ。陛下の英明をもって上で焦り労されながら、天下の事勢がみな陛下の志どおりにならないのは、詳らかを好まれる過ちではないか。これが臣の言う趣旨の誤り、議論の失で、しかも即座に変えられるものである。臣は、この失を深く懲らして初めて道を求める志を遂げ人を知る明を致せると考える。そうなれば陛下は垂拱無為でも百事は治まる、と。上は繰り返し賛嘆した。
淳熙十二年五月(1185年)
- 庚寅、地震があった。尚書左郎官の楊万里が詔に応じて上書した。 臣は、事のない時に事があると言うのは忠を損なわないが、事のある時に事がないと言うのは大きな姦だと聞く。 南北の和好は二十年を越えたが、一朝にして使者が絶えた。敵情は測りがたいのに、ある者は彼に五単于が立位を争ったような禍があると言い、またある者は匈奴が東胡に苦しめられたような禍があると言った。しかしいずれも実証されなかった。道中の伝聞では、汴京の城池を修め、海州の漕渠を開き、さらに河南北で民兵を徴発し、駅の馬を増やし、馬の秣桶を作り、井泉を登録しているという。そのうえ我が間諜は入り込めない。これは何をしているのか。これが事のない時に事があると言う第一である。 ある者は、金主が北へ帰ったのは中国の慶賀だと言う。臣は中国の憂いはまさにここにあると考える。この人が北へ帰るのは、金の亮が国を空にして南侵したことに懲りたからだ。南しようとするなら必ずまず北する。自ら北を鎮撫し、その子と婿に南を経営させるのだろう。これが第二である。 論者はひそかに、緩急の際に淮が守れなければ淮を棄てて江を守ればよいと言う。そうではない。昔、呉は魏と力を尽くして争って合肥を得、そこで初めて安んじた。李煜は滁州・揚州を失い、それから南唐は縮まった。今日、淮を棄てて江を保とうとしても、淮がなければ江は保てようか。これが第三である。 今、淮東西は十五郡ある。その守と帥は、陛下は宰相に択ばせておられるのか、枢密府に択ばせておられるのか。宰相に択ばせるなら、宰相は必ずしも枢密府のために慮らない。枢密府に択ばせるなら、任命は宰相から出ない。一方は慮らず、一方は自分から出ない。緩急に事を誤れば、みな自分のせいではないと言うだろう。陛下は誰を責められるのか。これが第四である。 南北にはそれぞれ長技がある。騎と射は北の長技、舟と歩は南の長技である。今、北のために計る者は日々その海船を修めているのに、南で海船を修めるとは聞かない。ある者は我が舟はもとより備わっていると言い、ある者は舟は備わっていないが民を煩わせるのを憚ると言う。紹興辛巳の戦いで、山東と采石の功は騎によらず射によらず歩によらず、ただ舟によった。当時の舟が今また使えるのか。まして民の一日の煩わしさと社稷百世の安危と、どちらが軽くどちらが重いか。事には憂えることより大きいものがある。これが第五である。 陛下は今日を何の時とお考えか。金人は日々迫り国境は日々騒がしいのに、金人を防ぐ策も国境を保つ道も聞かない。ただ、某日に某の礼文を修め、某日に某の書史を進めたと聞くだけだ。これでは郷飲酒で軍を治め、干羽の舞で囲みを解くようなものだ。これが第六である。 臣は、古は人君を人が悟らせられなければ天地が悟らせたと聞く。今、国家の事は敵情がこれほど測りがたいのに、君臣上下は太平無事の時のように構えている。人が悟らせられないのだ。だから上天が災異を現す。先には熒惑が南斗を犯し、近ごろは鎮星が端門を犯し熒惑が羽林を守った。臣は書生で天文に暗く、必ずそうだとは言えない。しかし春正月に日が翳って光を失い、二つの日が擦れ合うようだったのは、大異と言わずにいられようか。それでも天は陛下が信じられないことを恐れ、春の暖かい日にまた雨雪があって物を殺した。これも大異ではないか。それでも天は陛下がまだ信じられないことを恐れ、五月庚寅にまた地震があった。これも大異ではないか。天変は遠くにあれば臣子が奏さないので信じられなくても仕方ない。地震も外の州郡なら奏聞されないので信じられなくても仕方ない。だが今は天変が頻りに重なり地震は都に起こったのに、君臣は警戒を聞かず朝廷は諮問を聞かない。人が悟らせられなければ天地が悟らせる。臣は陛下がここで悟られたかどうか分からない。これが第七である。 近年、両浙が最も近いのにまず旱し、江淮もまた旱し、湖広もまた旱した。流亡が相次ぎ道に餓死者が並ぶのに、常平の蓄えは名ばかりで実がなく、穀を納めさせる令は上で行われて下でなおざりにされる。静かに事のないうちに賑救の手立てを講じなければ、動いて事が起こったときに何を頼りとするのか。これが第八である。 古は国を足らし民を裕かにするのはただ食と貨だった。今、銭というものは富商・大賈・宦官・権貴がみな家に満たして蔵している。百姓と三軍の用は破れた紙幣だけである。万一、唐の涇原の兵が粗末な食に怒って蹴り覆し、不遜の語を発して朱泚の乱が起こったようなことになれば、寒心せずにいられようか。これが第九である。 古は国を立てるには必ず畏れられるものがあった。国を畏れるのではなく人を畏れるのだ。だから苻堅が晋を図ろうとしたとき、王猛は不可とし、謝安と桓沖が江左の望だと言った。晋を存したのはこの二人だけである。かつては名相に趙鼎・張浚があり、名将に岳飛・韓世忠があった。金人が憚ったのはこれである。近ごろ劉珙は用いるべきだったのに早く死に、張栻も用いるべきだったのに妨げられて死んだ。万一、緩急があれば、諸軍を督せるのは誰か、一方に当たれるのは誰か、金人が平素から畏れるのは誰か。 ある者は、人は用いてから現れると言う。臣は、記に「車があれば必ずその軾が見え、言があれば必ずその声が聞こえる」とあると聞く。今、その人がいると言いながら将となり相となるべき者が聞こえないのは、車があって軾がなく、言があって声がないのと同じだ。まして用いてから現れるというなら、大きな安危に臨ませ大きな勝負に試さなければ、その用は現れない。平生からその人を知れず、大安危・大勝負を待って現れるようでは、事が成れば幸いだが、万一事を誤れば悔いても及ばない。昔、謝玄が北で苻堅を防いだとき、郗超はその必勝を知った。桓温が西で李勢を伐ったとき、劉惔はその必ず取るのを知った。玄は履や下駄の扱いにも任に当たらぬことがなく、温は博打でも必ず勝てなければしなかったからだ。二人は平生無事の日に、小さなところを察して大きなところを信じた。どうして大用してから現れるものか。これが第十である。 陛下が超然と遠く見、明らかに早く悟られ、聖德の崇高を恃んでできないことを増やされず、中国の民の多さを恃んで備えのないことを厳しくされず、天地の変異を当然として宣王が災いを畏れたことに倣われないことなく、臣下の苦言を耳に逆らうとして太宗が諫めを導いたことに倣われないことなく、女の口利きや側近が政を害することを些事とせず漢唐末世の乱の由来を鑑とされ、仇讐の包み隠しを他意なしとせず宣和・政和末年の受けた酷い禍に懲りられることを願う。大臣には富弼が請うたように辺事と軍務を通じて知らせ、東西二府に心を異にさせず、大臣には蕭何が奇としたように謀将の推薦を委ね、文武二途で轍を分けないでいただきたい。唐の大暦の弊のように宦官に賄賂して旄節を得ることを許さず、梁の段凝の敗のように寵臣に賄賂して招討を得ることを許されないように。蜀を治める心で荊襄を治め、東西の形勢を接続させ、江を保つ心で両淮を保ち、表裏唇歯を相依らせられたい。海道を無事と思わず、大江を頼めると思わず、屯を増し糧を集め艦を整え険を扼す。君臣の諮問し朝夕講究するところは、しばらく急でない務めを措いて、ひとえに敵に備える策に専らにされたい。そうすれば上は天変を消し、下は敵の姦計に落ちずにすむ。 ただ天下の事には本根と枝葉がある。臣が先に述べたのは枝葉にすぎない。本根とは、人主は自ら決めてはならないということだ。人主が自ら決めれば人臣は責を負わない。それでもまだ害はない。だが軍事についてまで、誰がこれを憂えようか、自分がやるほかないと言われるようでは、今日の事はこれに類しないだろうか。伝に、水と木には本原があるという。聖学は高明であられる。本原となるところに心を留めていただきたい、と。
淳熙十五年十二月(1188年)
- 朱熹が封事を上って大本と急務を述べた。大本とは陛下の心であり、急務とは、太子を輔翼すること、大臣を選任すること、紀綱を振るい起こすこと、風俗を変化させること、民力を愛養すること、軍政を修め明らかにすることの六つである。 臣が陛下の心を天下の大本とするのはなぜか。天下の事は千変万化して端は尽きないが、一つとして人主の心に本づかないものはない。これは自然の理である。人主の心が正しければ、視ることは明らかに聴くことは聡く、立ち居振る舞いは礼に中り、身に正しくないところがない。だから行うことに過不足がなく、ただ中を執る。天下は大きくとも、我が仁に帰さない者は一人もいなくなる。 邪正の証が外に現れるのは、まず家人であり、次いで左右に及び、そのうえで朝廷に達して天下に及ぶ。宮闈の内が端荘で慎ましく、后妃に関雎の德があり、後宮に色を盛んにする譏りがなく、魚を貫くように順序が保たれて、一人も恩を恃んで典常を乱し賄賂を納れて請託を行う者がない。これが家の正しさである。貴戚・近臣・従僕・宦官が左右に侍って各々その職に恭しく、上は憎まれずとも厳を憚り、下は覆った盆の戒めを謹み、一人も内外を通じて威福を窃み権を招き寵を売って朝政を乱す者がない。これが左右の正しさである。内は禁中から外は朝廷まで、その間に髪の毛ほどの私邪も挟まらず、そのうえで号令を発すれば衆は疑わず、賢を進め姦を退ければ衆志は服する。紀綱は振るって侵され撓む患いがなく、政事は修まって私に阿る失がない。こうして朝廷・百官・六軍・万民は正しさから出ないものがなくなり、治道は完うされる。 心がひとたび正しくなければ、これらが正しさを得られる道理はない。これらのどれかが正しくないのに心が正しいなどということが、どうしてあろう。 宮中の事は禁じられていて臣の知りえないところもあるが、形を見ずに影を見れば、爵賞の濫発、賄賂の横行は、巷の噂に久しく取り沙汰されている。ひそかにこれで推すに、陛下が家を修められたところは、古の聖王には及ばないと恐れる。 左右の寵臣への私的な厚遇は度を過ぎている。かつての龍大淵・曾覿・王抃らの勢いは一時を傾けたが、今はもう言うまでもない。ただ先日、臣が面と向かって奏したことについては、陛下がこまやかにお諭しくださったとはいえ、臣の愚見ではやはり、この輩には門を守り令を伝え掃除の役を務めさせるだけにすべきで、引き立て高くして、内では邪媚をほしいままにし技巧を弄して上の心を蕩かせ、外では門庭を立て権勢を招いて聖政に累を及ぼさせるべきではない。その者に才があるかないか、罪があるかないかは論じるまでもない。まして才があればなおのこと姦をなす手立てとなり、罪があればなおさら用いられない。 臣が心を痛めるのは、初めはここにあった。だが都に来てみると、この輩で事を執っている者はこの一人だけではなく、侍従の臣にもすでにその門から出た者があると知った。財を納れる道に至っては、士大夫からではなくもっぱら将帥から取っている。陛下が生霊の膏血を絞って軍士を養われるのはもとよりやむを得ないことだが、将帥となる者は巧みに名目を立てて掻き集め、密かにその糧と賜りを奪い、側近に賄賂して昇進を図る。それで満足したうえで、時に僅かなものを余剰と称して密かに私的な費用に充て、士卒の怨怒の毒を陛下に嫁している。それなのに陛下は悟られず、かえって寵愛して自分の私人とされる。ついには宰相がその配置の得失を議せず、給事中・諫官がその任命の是非を論じられないまでになった。これで見れば、陛下が左右を正されたところが古の帝王に及ばないこともまた明らかだ。 そもそも「私」という名は何によるのか。自分の分として独り有し、外に通じないものを言う。匹夫は一家を私とし、諸侯は一国を私とする。天子に至っては、天が覆い地が載せるかぎりすべて自分の分に属し、通じない外はない。何をもって私とするのか。今、一念の邪に勝てず私心を持ち、家人と近習を正せずに私人を持つ。私心で私人を用いれば私費が生じ、内には経費の収入を減らし外には余剰の献上を納れて、私財を持つに至る。陛下は上には皇天の子とされ、覆うところをすべて託され、私にして公でないところがないようにされている。天が我に与えたものは小さくない。それを大きく満たすことができず、自ら切り裂いて狭め、天下万事の弊がすべてここから出るようにされる。惜しむべきではないか。 時勢の利害で言えば、天下の勢いは合すれば強く分かれれば弱い。だから諸葛亮はその君に、宮中も府中もともに一体で、賞罰や善悪の判断に違いがあってはならない、姦をなし法を犯す者や忠善をなす者があれば有司に付して刑賞を論じ、陛下の公明の理を明らかにすべきで、偏り私して内外で法を異にしてはならないと告げた。当時、昭烈父子は僅かな蜀をもって天下の十分の九と抗し、中原を取って漢室を興そうとした。亮の忠と智で深く謀っても、その策はこれに過ぎなかった。蜀の小ささでさえ、その中でまた公私を分け彼此を二国のようにすれば、梁州と益州の半分で呉と魏の全部を図ることになる。そのうえ小人を内にし君子を外にし、法令を廃して姦邪を庇えば、この二国がまた互いに攻め合い、内の私なるものが常に勝ち、外の公なるものが常に負ける。外に隣敵の憂いがあり内に陰邪の賊があって日夜挟み撃ちにするのでは、国家はすでに危うい。 義理で言えばあの通り、利害で言えばこの通りである。今日の事を早く正されなければ、陛下の心が賢を求めるのに労されても賢人はついに用いられず、用いられるのはみな凡庸で偽り巧む者ばかりとなり、政を立てるのに勤められても善政は立たず、行われるのはみな私に阿るその場しのぎの政ばかりとなる。日が往き月が来て禍の本を育てる。臣はひそかに寒心し、陛下がどうその後を善くされるのか分からない。であれば、臣の言う天下の大本がひとえに陛下の一心にあることを、急ぎ求めて正されずにいられようか。 太子を輔翼する説について。臣は、陛下が東宮を調え護られる仕方がなぜこれほど疎略なのかを怪しむ。太子を立てて師傅・賓客を置かなければ、師を隆んじ友に親しみ德を尊び義を楽しむ心を発せない。ただ春坊の使臣だけを左右に侍らせては、戯れと侮り、なれなれしさ、奇矯や邪なものが雑然と入り込む害を防げない。まして皇孫は德性がまだ定まらず、皇太子の比ではない。大臣に詔して前代の典故を検討させ、東宮に別に師傅・賓客の官を置いて朝夕ともに過ごさせ、春坊の使臣を廃して詹事・庶子にそれぞれの職を復させ、さらに賛善大夫を置いて諫官に擬して過失を箴めさせるべきだ。王府にはやや六典の親王の制に倣って傅・友・諮議を置いて訓導を掌らせ、長史・司馬を置いて諸職を統べさせ、老練で德のある者を精選して他の才を混ぜず、みな正員として兼職とせず、職掌を明らかにして功効を責める。これが今日の急務の一つである。 大臣を選任する説について。陛下の聡明をもってすれば、天下の事は必ず剛明公正の人を得て初めて任せられると知らないはずがない。それなのに常にそういう人を得られず、かえって鄙しい者が位を窃むのを容れられるのは、ほかでもない。ただ一念の間に私邪の蔽いを取り除けず、私的な楽しみと寵臣の類がことごとく法度に従えないので、剛明公正の人を輔相とすれば我が事を妨げ我が人を害して思うようにできなくなると恐れられるからだ。だから選任のたびにまずこの種の者を排して度外に置き、そのうえで疲れて軟弱で扱いやすく、平生あえて直言し顔色を正さない者を取って値踏みし、そのなかから最も凡庸で最も陋く、決して妨げにならないと請け合える者を挙げて位に加えられる。だから任命の文書が出る前から人物は決まっており、姓名が明らかになる前から中外はそれが決して天下第一流でないと察している。 取り方がこうだから任せ方も重くできず、当人の自任も軽い。最も凡庸な材が最も軽い任に当たれば、名は大臣でも実は伺候して唯々諾々と文書を奉行するだけで、吏卒と変わらない。聖德を輔け朝政を修め紀綱を振るうことを求めても、智者を待つまでもなくできないと分かる。陛下は試みにこの心を反して求められよ。喜ばしい者を求めず畏るべき者を求め、我が意に適う者を求めず我が德を輔けうる者を求め、彼の自任が重くないことを憂えず、常に我が任せ方が至らないことを恐れ、私的な楽しみや寵臣のための一時の計とせず、宗社と生霊の万世無窮の計とされよ。そうしてなお適任が得られないというのは、道理であろうか。 紀綱を振るい風俗を変える説について。陛下の一念がまだ私邪の蔽いを去れないため、宮省の間や禁中の地では、公正でない者がその間に巣を作って盤踞できる。露見しても私愛を断ち切って外庭の議論に付し有司の法に委ねることができない。だから紀綱は撓み敗れずにいられず、外に対する処置もそのために深く究めようとしなくなる。 紀綱が上で壊れ風俗が下で頽れて、その患いは久しい。とりわけ浙中がひどい。おおむね軟らかで媚びる態度と曖昧な言葉を習いとし、是非を問わず曲直を弁じないことを得策としている。下が上に仕えるにはあえて少しもその意に逆らわず、上が下を御するにもあえてその情に少しも逆らわない。ただ私意の在るところには千の道、万の轍を経営し計較して、得ることだけを求め、もはや廉恥がない。父は子に教え兄は弟に勧めてひたすらこの術を用い、忠義や名節の貴ぶべきことを知らない。ひとたび剛毅正直で道を守り理に循う士がその間に出れば、群議は寄ってたかって排斥し「道学の人」と指して矯激の罪を加える。朝廷から巷まで十数年、この二字で天下の賢人君子を禁錮するさまは、崇寧・宣和の間のいわゆる「元祐学術」と同じである。ああ、これが盛世の事であろうか、なお口にするに忍びない。 さらにひどいのは、公然と衆に向かって、陛下がかつて、今日は幸い変故がない、節に仗り義に死ぬ士がいても何の用があるかと言われたと吹聴する者がいることだ。節に仗り義に死ぬ士は、平生無事のときはまことに用のないように見える。しかし古の人君が急いでこれを求めたのは、こういう人は患難に臨んで死生を度外に置ける以上、平世では必ず爵禄を軽んじられ、患難に臨んで忠節を尽くせる以上、平世では必ず阿り随わないからだ。平生無事のときにこれを得て用いれば、君心は上で正しく風俗は下で美しくなり、姦の萌しを折り禍の本を消して、自然に本当に節に仗り義に死ぬ事態に至らない。後日に必ず変故があると知って、あらかじめこの人を蓄えて備えるという意味ではない。 ただ平生の安寧を恃んで、こういう人材は用いようがないと決めつけ、もっぱら道理も学識もなく爵禄を重んじ名義を軽んじる者を取って、矯激でないとして尊び寵する。だから紀綱は日々壊れ風俗は日々薄くなり、非常の禍が暗がりに伏して一朝に発する。平日に用いた人は腕を組んで降り叛き、患難をともにできる者は一人もいない。そこでようやく、かつて排斥され流落した士が、不幸にもその忠義を著すことになる。唐の天宝の乱では、将相や貴戚はみなすでに賊の庭に額づき、兵を起こして賊を討ち、身を殺され一族を沈められても悔いなかった張巡・許遠・顔杲卿のような者は、遠方の小さな邑にいて人主が顔も知らぬ人だった。明皇が早く張巡らを得て用いていれば、患いを未萌に消せたはずで、張巡らが早く明皇に用いられていれば、本当に節に仗り義に死ぬ挙に及ばずにすんだはずだ。他人の轍は遠くない。識者が例の言葉を深く恨むゆえんである。 民力を愛養し軍政を修め明らかにする説について。民力が裕かでないのは私心に克てないために宰相と台諫が職を失うことから生じ、軍政が修まらないのは私心に克てないために側近が帥を謀ることができるようになったことから生じる。いずれもすでに前に極言した。 この六事はいずれも緩められないが、その本はみな陛下の一心にある。心が正しければ六事は正しくならないことがなく、ひとたび人心の私欲がその間に挟まれば、精を憊れさせ力を竭くして六事を正そうとしても、いたずらに形だけのものとなり、ますますなしえなくなる。だから天下の大本というものは、急務のなかで最も急であり、とりわけ少しも緩められないものである。陛下が深く聖意を留めて速やかに図られんことを、と。
- 疏が入ったのは夜も更けた七刻で、帝はすでに床に就いていたが、急ぎ起きて燭を執って最後まで読んだ。だがついに用いられなかった。