宋史紀事本末金の完顔亮の悪行(金亮之惡)
紹興十八年(1148年)に完顔亮が平章政事となってから、紹興三十一年(1161年)に嫡母の図克坦太后を弑するまでの十四年間。亮は蕭裕・秉德らと結んで金主亶を弑して自立し、太宗・尼瑪哈の子孫や宗室・勲旧の大臣を数百人単位で誅殺した。叔母や従姉妹、臣下の妻を次々に宮に納れて淫乱をきわめ、南侵を諫めた太后まで殺して、その骨を水に棄てさせた。
年表(15件)
- 高宗
- 紹興十八年六月1148年完顔亮が平章政事となり蕭裕と弑逆を謀る
- 紹興十八年十二月1148年亮が右丞相となるが金主に疑われ恐れを深める
- 紹興十九年三月1149年金主が亮を太保・領三省事とする
- 紹興十九年五月1149年張鈞の詔をめぐる獄で亮が行台に出され、また召し戻される
- 紹興十九年冬十月1149年金主亶が弟の胙王常勝と費摩后を殺す
- 紹興十九年十二月1149年亮が寝殿に踏み入って金主亶を弑し、自ら即位する
- 紹興二十年春正月1150年嫡母の図克坦氏と実母の大氏をともに太后と尊ぶ
- 紹興二十年夏四月1150年太宗・尼瑪哈の子孫ら百五十余人を誅して後嗣を絶やす
- 紹興二十年冬十月1150年左副元帥の薩里罕ら一族百数十人を虚偽の告発で殺す
- 紹興二十一年五月1151年叔母の阿喇勒や誅した党人の妻たちを宮に納れる
- 紹興二十二年十二月1152年召された葛王烏禄の妻の烏凌阿氏が良郷で自殺する
- 紹興二十三年夏四月1153年燕に遷都したのち太后の大氏が没する
- 紹興二十四年十一月1154年従姉妹や姪らを召して私通し諸妃に分属させる
- 紹興二十五年冬十月1155年大房山を山陵とし図克坦后を燕へ迎えて至孝を装う
- 紹興三十一年八月1161年南侵を諫めた図克坦太后を弑し、布薩呼図らも殺す
高宗紹興十八年六月(1148年)
- 金が完顔亮を平章政事とした。亮はもとの名を都古嚕納といい、太祖の子の鄂特本の子である。人となりは激しく、猜疑深く残忍で謀を好んだ。自分も金主と同じく太祖の孫であるとして、常に望みを抱いていた。中京留守となると、もっぱら威を立てて衆を怖れさせ、蕭裕を腹心とし、いつも天下の事を論じ合った。裕は陰険でその意を察し、留守の亡父は太祖の長子であり德望もこの通り、人心も天意も帰すべきところがあるはずだ、本当に大事を挙げる志がおありなら力を尽くして従いたいと言った。亮は喜び、そのまま弑逆を謀った。ここに至って裕を兵部侍郎に引き立てた。
紹興十八年十二月(1148年)
- 金が完顔亮を右丞相とした。亮の誕生日に金主が近侍を遣り、司馬光の画像・玉の帯留め・厩の馬を賜り、金主の后の費摩氏も添えて礼物を贈った。金主はこれを聞いて怒り、近侍を杖打って賜り物を取り返した。亮はもともと反逆を謀っていたので、疑いと恐れはいっそう深まった。
紹興十九年三月(1149年)
- 金主が完顔亮を太保・領三省事とした。
紹興十九年五月(1149年)
- 金が天変によって大赦し、翰林学士の張鈞に詔を草させた。参知政事の蕭肄がその語句をあげつらって誹謗だとしたので、金主は鈞を殺し、誰にそう書かせたのかと問うた。左丞相の宗賢が、都古嚕納が実際にそうさせたと答えた。金主は不快になり、亮を行台に出した。亮は中原を通るとき留守の蕭裕と約を定めて去った。良郷まで来たところで召し戻され、理由が分からず大いに恐れたが、着いてみるとまた平章に任じられた。それ以後、逆謀はいっそう進んだ。
紹興十九年冬十月(1149年)
- 金主の亶がその弟の胙王常勝を殺し、続いてその后の費摩氏を殺した。もと金の宰臣が遼陽・渤海の民を燕南へ移すことを議し、移される側の近侍の高寿星らが費摩后に訴えた。后が金主に告げたので金主は怒り、平章政事の秉德と右丞の唐古辨を杖打ち、左司郎中の薩哈を殺し、寿星らはついに移されなかった。秉德と辨の二人は怨み、大理卿の烏格岱と廃立を謀った。烏格岱がこれを完顔亮に告げた。
- ある日、亮は辨と語らい、もし大事を挙げるとして誰を立てられるかと問うた。辨は、胙王常勝か、と答えた。その次はと問うと、鄧王の子の阿克凌と答えた。亮は、阿克凌は血筋が遠くて立てられないと言った。辨が、公にお考えがあるのかと問うと、亮は、やむを得ないとなれば自分をおいて誰がいるかと答えた。こうして二人は朝夕密かに謀った。
- 護衛将軍の塔斯がこれを疑って費摩后に告げ、后が金主に告げた。金主は怒って辨を召し、お前は亮と何を謀っている、朕をどうするつもりかと言って杖打った。亮はこれによって常勝と阿克凌を忌み、塔斯を憎んだ。
- 折しも河南の兵士の孫進が乱を起こし、自ら皇弟按察大王と称した。金主の弟は常勝と察喇しかいなかったので、亮はこれに乗じて常勝を陥れ、阿克凌・察喇・達蘭・塔斯をみな殺させた。金主は后への怒りを積もらせて后も殺し、胙王の妃の薩滿を宮に召して后に代えた。さらに德妃の烏庫哩氏および瓜爾佳氏・張氏らも殺した。
紹興十九年十二月(1149年)
- 金の完顔亮がその主の亶を弑して自ら立った。当時、護衛十人長の布薩呼図はかつて鄂特本の恩を受けており、図克坦阿齊呼は亮の姻戚だったので、亮はいずれも内応させた。大興国はかつて李老僧を亮に取りなして尚書省令史とさせたことがあり、亮は興国が杖打たれて怨んでいると見て、老僧を通じて興国と結び内応させた。興国は寝殿に仕え、夜には符と鍵を持ち帰る習わしだった。
- この月の丁巳、呼図と阿齊呼が宿直するのに乗じて事を起こした。夜の二更、興国が符と鍵で門を開き、亮は妹婿の図克坦津および平章政事の秉德、左丞の唐古辨、大理卿の烏格岱、李老僧らと、刀を衣の下に隠して入った。門の者は、辨が国の婿であり亮もごく近い親族なので疑わずに通した。殿門に至って衛士がようやく異変に気づいたが、亮らは刀を抜いて脅し、誰も動けなかった。
- そのまま寝殿に入った。金主は常に佩刀を寝台に置いていたが、この夜、興国が先に刀を取って寝台の下に投げていたので、金主は刀を求めても得られなかった。阿齊呼がまず刃を進め、呼図が続き、金主は倒れた。亮が前へ出て手ずから斬り、血がその顔と衣に飛び散った。
- 金主が没したあと、秉德らはまだ立てる相手を決めていなかった。呼図が、初めから平章を立てる議だった、今さら何を疑うかと言い、秉德はそこで群臣とともに亮を奉じて即位させた。金主が后を立てることを議したいと言って大臣を召したと偽り、そのうえで曹国王の宗敏と左丞相の宗賢を殺した。秉德を左丞相、唐古辨を右丞相、烏格岱を平章政事とし、費摩后に悼平皇后と諡し、亶を廃して東昏王とし、大赦して改元した。
紹興二十年春正月(1150年)
- 金主が嫡母の図克坦氏と実母の大氏をともに太后と尊んだ。図克坦氏と大氏はきわめて仲がよかった。金主が亶を弑したとき、図克坦氏は、帝に失道があったとしても人臣としてここまでするものかと言い、金主は含むところがあった。
- ここに至って鄂特本を追尊して帝とし廟号を德宗とし、二人の母をともに皇太后とした。図克坦氏は東宮に居って永寿宮と号し、大氏は西宮に居って永寧宮と号した。
- のち図克坦后の誕生日に、酒が進んだころ大氏が立って寿を祝った。図克坦后がちょうど諸公主や宗室の婦人と話していたので、大氏は長く跪いたままだった。金主は怒って出て行き、翌日、図克坦后と話していた者をみな召して杖打った。大氏がそれはいけないと言うと、金主は、今日の事がどうして以前と同じでいられようかと言った。
紹興二十年夏四月(1150年)
- 金主の亮が宗室を大量に殺した。もと亮は熙宗の代に太宗の諸子が強盛なのを見て忌んでおり、即位すると蕭裕と謀って殺すことにした。また前の左丞相の秉德が廃立を先に謀りながらすぐには即位を勧めなかったことを含んでおり、みな誅そうとした。そこであらかじめ尚書省令史の蕭玉に謀反を告発させ、領三省事の阿嚕、左丞相の唐古辨、判大宗正事の呼爾察を撃鞠に召して、来たところを殺した。あわせて使者を東京へ遣って留守の阿林を、北京留守の呼拉布を、南京では領行台事の秉德を殺し、その親族も誅した。さらに太宗の子孫七十余人、尼瑪哈の子孫三十余人、諸宗室五十余人を殺し、太宗と尼瑪哈の後嗣は絶えた。烏格岱・蕭裕・蕭玉らはみな重い賞を受けた。亮はさらに蕭玉の子に公主を娶らせ、朕には卿に報いるものがない、朕の娘を卿の子の嫁として朕に代わって卿に仕えさせようと言った。
紹興二十年冬十月(1150年)
- 金主の亮がその左副元帥の薩里罕らを殺し、一族を滅ぼした。亮はさらに舎音の諸子の強盛と宗室の勲旧の大臣を忌み、ことごとく除こうとした。そこで都元帥府令史の約蘇に虚偽の告発をさせ、薩里罕および景祖の孫の穆稜、舎音の子の伯竒とその一族百数十人を殺した。魏王斡台の孫の呼爾察も身なりを飾るのを好んだというだけで一族を滅ぼした。
紹興二十一年五月(1151年)
- 金主の亮が叔母の阿喇勒および宗室の婦人を宮に納れた。阿喇勒は亮の叔父の曹王鄂勒博の妻である。亮は鄂勒博を殺して納れ、昭妃に封じた。
- さらに図克坦津に宰相へ、朕は嗣が広くない、先に誅した党人の妻の多くは朕の中表の親だから選んで納れたいと伝えさせた。宰相はそこで実行を奏請し、阿嚕の子の蘇嚕克図、呼嚕の子の和囉羅、和碩台、秉德の弟の吉里の四人の妻を宮に納れた。まもなく吉里の妻の高氏を修儀に封じた。
- 崇義節度使の烏格岱の妻の唐古鼎格は以前から亮と通じており、亮が帝になると鼎格は侍女を遣って挨拶させた。亮は烏格岱を殺すようそそのかし、后にしようとした。鼎格は初め忍びなかったが、亮は、お前の夫を殺さなければお前の一族を滅ぼすと脅した。鼎格は大いに恐れて烏格岱を縊り殺し、亮はそのまま宮中に納れて貴妃に封じ、大いに寵愛した。のち古くからの家奴と姦通して死を賜った。
- さらに秘書監の完顔文に妻の唐古実格を出させて麗妃とし、伊里布に妻の富察徹辰を出させて納れた。徹辰は亮の姉の娘である。
紹興二十二年十二月(1152年)
- 金主の亮は済南尹の葛王烏禄の妻の烏凌阿氏の容儀が整っていると聞いて召した。烏凌阿氏は烏禄に、自分が行かなければ上は必ず王を殺す、自分で始末をつけるからあなたに累は及ばないと言い、王府の臣僕を呼んで、自分のために東岳に祈り、皇天后土に自分の心を明らかに照らしていただきたいと言った。良郷まで来て隙を見て自殺した。
紹興二十三年夏四月(1153年)
- 金の太后の大氏が没した。金主は都を燕へ遷し、親族はみな従ったが、図克坦太后だけは会寧に留められた。図克坦后は常に憂え恐れ、勅使が来るたびに必ず衣を改めて命を待った。大氏は燕にあって常に図克坦后を思い、病が篤くなると、図克坦后に一目会えないことを恨みとし、死に臨んで金主に、お前が自分のために永寿宮を一緒に来させなかったのだ、自分が死んだら必ず迎え寄せ、自分に仕えたように仕えよと言った。
紹興二十四年十一月(1154年)
- 金主が従姉妹たちを宮に納れた。寿寧県主の実庫は斡里雅布の娘、静楽県主の布拉克および実訥は烏珠の娘、実庫爾は鄂勒歓の娘、混同県君の蘇哷和卓とその妹の伊都は阿嚕の娘で、いずれも亮の従姉妹である。郕国夫人の重節は富勒呼の孫娘で亮の姪、張定安の妻の納爾琿は太后大氏の兄嫁、富魯和卓は実格の妹で、いずれも夫があった。亮は憚りも恥もなく、みな召して私通し、それぞれ諸妃の下に分属させた。蘇哷和卓が最も寵を得て、召すたびに自ら廊下で待ち、長く立っていると実庫爾の膝の上に坐った。
- 宮人で外に夫のある者は、初めは交替で出入りしていたが、のちにはその夫をすべて会寧へ遣って外へ出さなかった。婦人のもとへ行くたびに必ず楽を奏させ帳を取り払い、あるいは妃嬪を並べ坐らせ、気の向くまま淫乱にふけって共に見せた。常に寝所いっぱいに敷物を敷き、裸で追いかけ合って戯れた。
紹興二十五年冬十月(1155年)
- 金主の亮は大房山の雲峰寺を山陵とすることを命じ、右丞相の布薩思恭らを会寧へ遣って太祖・太宗の梓宮を奉じて還らせ、あわせて図克坦后を燕へ迎えさせた。后が流沙河まで来ると、亮は自ら出迎え、左右に杖二束を持たせ、后の前に跪いて、亮は不孝で長らく朝夕のご機嫌伺いを欠いた、どうか打っていただきたいと言った。后は助け起こして、今、庶民でも家を継げる子があれば愛して打つには忍びない、自分にこのような子があってどうして打てようと言い、杖を持つ者を叱って退けさせた。着いてからは寿康宮に住み、亮は外向きにはきわめて恭順に仕えた。后が立てば自ら助け、輿に従って歩き、后の使う物を自ら持つこともあった。見る者は至孝だと思い、太后さえその誠を信じた。
紹興三十一年八月(1161年)
- 金主の亮がその太后の図克坦氏を弑した。もと図克坦后は亮が南侵しようとしていると聞き、たびたび言葉を尽くして諫めた。亮は不快で、謁見して宮に戻るたびに憤ったが、人はその理由を知らなかった。
- 汴に至ると后は寧德宮に住み、侍女の高福娘を遣って亮の起居を伺わせた。亮は福娘と通じ、そのついでに后の動静を探らせた。后のすることは大小を問わず、福娘の夫の特黙格が福娘に言葉を飾って伝えるよう教えた。
- 契丹が叛き、枢密使の布薩呼図が討伐に赴くにあたって后に暇乞いをした。后は、国家は代々上京にあったのに中都へ移り、今また汴に至り、さらに兵を起こして江淮を渡り宋を伐って中国を疲弊させようとしている、自分はたびたび諫めて止めようとしたが聴かれない、契丹の事までこうなってはどうしようもないと語った。福娘がこれを亮に告げた。
- 亮は、后がかつて鄭王充を自分の子として育て、充の四人の子がみな成人していることから、呼図が兵を率いて外にあれば異図があるかもしれないと考え、点検の大懐忠らを召して后を弑させ、あわせて后の側近数人の名を挙げてみな殺させた。后はちょうど樗蒲に興じていた。懐忠らが至って后に跪いて詔を受けよと言うと、后は驚いて跪いた。尚衣局使の呼特黙が後ろから撃ち、后は倒れてはまた起き上がることが二度、高福娘らが縊り殺した。側近数人も殺された。亮は后を宮中で焼かせ、骨を水に棄てさせ、あわせて鄭王充の子の塔納・阿勒班ら三人を殺した。そのうえで呼図らを召してみな殺した。高福娘を勲国夫人に封じ、特黙格を沢州刺史とした。