宋史紀事本末南遷して都を定める(南遷定都)

建炎元年から紹興八年まで、高宗が金軍に追われて南へ逃れ、最後に臨安を都と定めるまでの十一年余り。揚州から鎮江・杭州・建康へ移り、建炎三年末には海上に逃れて温州に至った。呂頤浩・張浚・韓世忠・李綱・張守らが建康や中原恢復を説いたが、帝は臨安へ還り、紹興八年にここが都と定まった。

年表(26件)

高宗建炎元年秋七月(1127年)

  • 帝は京師へは行けないとして、手詔で東南への巡幸を告げた。
  • 丁未、元祐太后が揚州へ向かった。帝は汪伯彦・黄潜善の言に従い、揚州へ行幸して敵を避けると決め、副都指揮使の郭仲荀に太后を奉じて先行させ、六宮と衛士の家族もみな従わせた。使者を汴京に遣って太廟の神主を行在へ移させた。

建炎元年九月(1127年)

  • 壬辰、金人が河陽・汜水を侵したので、日を択んで淮甸へ巡幸する詔を出し、淮南・浙江の沿海諸州に城堡を増修し民兵を招いて訓練するよう命じた。

建炎元年冬十月(1127年)

  • 丁巳朔、帝が揚州へ向かった。当時、金兵は日々迫っており、許景衡も建康は天険で拠るに足ると述べ、帝はこれに従って揚州守臣の呂頤浩に城池を修繕させた。ここに至って諜者が金人は江浙を侵そうとしていると告げたので、しばらく淮甸に駐まって防ぎ、やや落ち着けば京闕に還るという詔を出し、みだりに議して衆を惑わし巡幸を妨げる者があれば告発を許して罪に問い、告発しない者は斬るとした。

建炎二年春正月(1128年)

  • 丙戌朔、帝は揚州にあった。
  • 葉夢得を戸部尚書とした。夢得は敵に備える計を述べ、形・勢・気の三つに尽きるとした。形は地理山川を本とし、勢は城池・秣・器械を重んじ、気は将帥・士卒を急とする。形が固ければ守りに恃め、勢が強ければ立つ資となり、気が振るえば奮って用いられる。そうなれば敵はみなこちらの掌中に入る、と。あわせて帝に南巡して長江を険として不虞に備えるよう請い、また重臣を宣撫総使とし、一人は泗州に置いて両淮と東方の兵を統べ敵を待ち、一人は金陵に置いて江浙の路を統べて退いて保つ備えとするよう請うたが、疏は届いても返答がなかった。

建炎二年冬十月(1128年)

  • 甲子、侍御史の張浚が、まず六宮の居所を定めるよう請うた。詔して孟忠厚に太后と六宮・皇子を奉じて杭州へ向かわせ、苗傅と劉正彦を扈従の都統制・副統制とした。

建炎二年十一月(1128年)

  • 庚子朔、寿寧寺で祖宗の神主を祀った。壬寅、天を郊祀して祖宗を配した。東京から大楽・登歌・法物などを運ばせて行在所に届け、揚州の江都に壇を築いて行事した。鹵簿や楽舞のたぐいは多く未備で、警蹕の場では軍中の金鼓を借りて一時の用に充てた。この日、大赦した。

建炎二年十二月(1128年)

  • 乙卯、太后が杭州に着いた。扈従統制の苗傅は八千の兵を率いて奉国寺に駐屯した。
  • 己巳、黄潜善と汪伯彦を尚書左僕射・右僕射兼門下侍郎・中書侍郎とした。入って謝すると、帝は、潜善が左相、伯彦が右相なら国事が成らぬ心配はないと述べた。当時、金兵は山東を横行し群盗が蜂起していたが、潜善・伯彦には謀略がなく権を専らにして恣にし、東京は御史に委ね、南京は留台に委ね、泗州は郡守に委ね、意見を述べる者の説は容れず、兵を請う者のことは上聞しなかった。金兵は日々南下していたのに、潜善らは李成の残党で憂うるに足りないと考えていた。
  • 戊寅、張浚を参賛御営事とした。張浚は金人が必ず来ると極言し、あらかじめ備えるよう請うたが、黄潜善・汪伯彦は考えすぎだと笑った。

建炎三年春正月(1129年)

  • 帝は揚州にあった。
  • 丙午、金の尼瑪哈が徐州を陥れ、知州の王復が戦死した。当時、韓世忠は淮揚に駐屯し、山東の兵と合流して濮州を援けようとしていた。尼瑪哈はこれを聞き、一万の兵を分けて揚州へ向かわせ、自ら大軍を率いて迎え撃った。世忠は衆寡敵せず夜に軍を退いたが、尼瑪哈が追って沭陽に至ると、世忠は軍を棄てて塩城へ走り、その衆は潰えた。尼瑪哈は淮陽に入り、騎兵三千で彭城を取り、間道から淮東を取って泗州に入った。

建炎三年二月(1129年)

  • 庚戌、士民が便宜に従って兵を避けることを許す詔を出した。劉正彦が部隊を率いて皇子と六宮を護衛して杭州へ向かった。
  • 壬子、金の尼瑪哈が楚州に至り、守臣の朱琳が降った。そのまま勝ちに乗じて南下し天長軍を陥れた。内侍の鄺詢が金兵の到来を報せると、帝はただちに甲を着けて馬に乗り、瓜州へ駆けつけ、歩いて小舟を見つけて長江を渡った。従ったのは護聖軍の兵数人と王淵・張浚・内侍の康履らだけだった。日暮れに鎮江府に着いた。
  • 汪伯彦・黄潜善はそのとき同僚を率いて僧の説法を聴き終えて食堂に集まっていた。吏が大声で車駕はもう行かれたと告げると、二人は顔を見合わせて慌てふためき、戎服で馬を駆って南へ走った。住民は門を争って逃げ出し、折り重なって死ぬ者が出て、怨み憤らぬ者はなかった。司農卿の黄諤が江のほとりに来たとき、軍士は黄潜善だと思い込み、国を誤り民を誤ったのはすべてお前の罪だと罵った。諤が人違いだと弁じているうちに、首はすでに斬り落とされていた。
  • 金の将の馬五が五百騎を率いて先に揚州城下へ駆けつけ、帝がすでに南へ去ったと聞いて楊子橋まで追った。事が急に起こったので朝廷の儀物はみな棄てられた。太常少卿の季陵が急ぎ九廟の神主を取って出たが、城を出て数里もしないうちに城中は煙と炎が天を焦がしていた。季陵は金人に追われ、道中で太祖の神主を失った。
  • 帝は鎮江に至り府治に泊まった。翌日、従臣を召して去就を問うた。呂頤浩は駐蹕して江北の後ろ盾とするよう請い、群臣もみな同意した。ただ王淵だけが、鎮江は一方を守れるだけで、金人が通州から長江を渡って姑蘇を押さえたらどうするのか、二重の江の険がある銭塘に及ばないと述べ、帝の意はそれで決した。
  • 張邵が上疏し、中原の形勢と東南の形勢がある、今すぐ中原を争えないとしても金陵に都を進め、江淮・蜀漢・閩広の資力によって恢復を図るべきだと述べたが、返答はなかった。
  • その夕、帝は鎮江を発ち、四日を経て平江に泊まった。朱勝非に平江・秀州の軍馬の節制を命じ、張浚をその副とし、また勝非に御営副使を兼ねさせ、王淵を留めて平江を守らせた。さらに二日で崇德に泊まった。当時、呂頤浩が随行しており、その場で同僉書枢密院事・江淮両浙制置使に拝され、二千の兵を率いて京口に戻って駐屯した。また張浚に八千の兵で呉江を守らせた。
  • 朱勝非の計を用い、張邦昌の親族を登用する詔を出し、閤門祗候の劉俊民を金軍に遣わし、あわせて邦昌が金人に宛てた和議の書の草案を持たせて行かせた。
  • 壬戌、帝は杭州に駐蹕し、州治を行宮とした。詔を下して自らを責め言論を求め、死罪以下を赦し、流された士大夫を帰した。ただし李綱だけは赦さず帰らせなかった。これは黄潜善の計を用い、李綱を罪して金に詫びるためだった。
  • 和州防禦使の馬擴が詔に応じて上書し、先ごろの事には四つの誤りと六つの失があると述べたうえで、次のように説いた。今、陛下が西へ巴蜀に行幸して陝西の兵を用い、重臣を留めて江南を鎮めさせ淮甸を撫すれば、金人の計を破り天下の心を取り戻せる。これが上策。武昌に都を守れば、荊湖を襟帯とし川広を引き寄せ、義兵を招いて上流に布陣して要地を扼し、密かに河南諸路の豪傑と約して得た地の世襲を許せる。これが中策。金陵に駐蹕して江口を防ぎ、漕運を通わせ、水軍を練り、将士を厚く励まして一勝を頼み、敵の動向を見て移転を備える。これが下策。長江を恃みとし金人が来ないのを頼みに、ぐずぐず引き延ばして秋の終わりを待ち、金人が再挙して舟を集め淮南千里を数道から並び進んできて、そのとき初めて悔いるのは、策なしというものだ、と。擴の数千言はいずれも事の機微を突いていた。
  • 戊辰、金人が揚州を焼いて去った。呂頤浩は陳彦を長江の対岸へ遣って金の残兵を襲わせ、揚州を回復した。
  • 己巳、黄潜善と汪伯彦が罷められた。中丞の張徴が二人の大罪二十を挙げ、陛下に塵をかぶらせ天下を怨嗟させたとして処罰を請うたので、潜善を知江寧府、伯彦を知洪州とした。潜善は国柄をほしいままにして忠良を妬み害し、李綱を逐い、宗澤を妨げ、台諫や内侍で意見を述べる者は次々に思わぬ禍に陥れた。中外は歯噛みしたが、帝は気づかなかった。

建炎三年夏四月(1129年)

  • 丁卯、帝は杭州を発ち、鄭㲄を留めて太后を守らせた。

建炎三年五月(1129年)

  • 戊寅朔、帝は常州に泊まった。辛巳、鎮江に泊まった。乙酉、江寧府に至り、府の名を建康と改めた。

建炎三年六月(1129年)

  • 戊午、江淮に命じて池沼の水を引き溝を開かせ、金兵を阻ませた。
  • 庚申、皇太后が建康府に着いた。
  • 乙亥、中外に諭した。秋の防備が迫っているので、太后には宗室を率い神主を奉じて江南へ迎え移っていただき、百司諸府のうち軍事に関わらない者は皆これに従わせる、朕は輔臣・宿将とともに敵を防ぐ、士民の家族で南へ移る者を有司は禁じるな、と。

建炎三年八月(1129年)

  • 己未、太后が建康を発った。
  • 帝は金兵が迫っていると聞き、進軍を緩めさせる使者を求め、京東転運判官の杜時亮と修武郎の宋汝為を金軍へ遣り、和を請うて尼瑪哈に書を送った。その趣旨は――古来、国を有ちながら危亡に迫られた者は、守るか逃げるかのどちらかだった。今、守ろうにも人がなく、逃げようにも地がない。だからびくびくしながらただ閣下の憐れみだけを頼りにしている。先には続けて書を奉り旧号を削ることを願った。天地の間はすべて大金の国であり、尊きに二上はないのだから、わざわざ軍を労して遠征する必要もあるまい――というものだった。

建炎三年閏八月(1129年)

  • 庚寅、起居郎の胡寅が上疏した。陛下は親王・弟として欽宗の命を受けて河北に出兵された。二帝が移された以上、義兵を糾合して北へ向かい迎え請うべきだったのに、急いで尊位に就き太子を立て、宮闕に帰って参らず陵寝を省みず、歳月を偸安して防ぎ守ることをしない。敵の騎兵が虚に乗じて一騎で南へ渡ってからは、ひたすら縮こまって遠くへ逃げることばかりを務め、軍民は怨んでいる。これでは身を全うする計ではない、と。あわせて七策を進めた。第一に和議を罷めて戦略を修めること、第二に行台を置いて緩急の務めを分けること、第三に実効を務めて虚文を去ること、第四に天下の兵を大いに起こして自ら強くすること、第五に荊州・襄陽に都して根本を定めること、第六に宗室の賢才を選んで封建し任用すること、第七に紀綱を保って国体を定めること。書は数千言に及んだ。呂頤浩はその率直さを嫌い、胡寅を罷めた。
  • 辛卯、帝は諸将を召して駐蹕の地を議した。張浚と辛企宗は鄂州・岳州から長沙へ行幸するよう請うた。韓世忠は、国家はすでに河北・山東を失った、そのうえ江淮まで棄てたらどこが残るのかと言った。呂頤浩は、金人の謀は陛下のおられる所を国境とするものだ、今は戦いつつ避け、陛下を万全の地にお移しすべきだ、自分は常州・潤州に留まって死守したいと述べた。帝は、朕の左右に宰相がいなくては困ると言い、杜充に建康、韓世忠に鎮江、劉光世に太平州・池州を守らせた。
  • 丁卯、太后が洪州に着いた。
  • 壬寅、帝は建康を発って臨安へ向かおうとした。考功員外郎の婁炤が上疏し、今日の計は古人の力を量るという言葉を思い、兵家の己を知る計を察するべきだ、淮南を保つ力があるなら淮南を屏蔽として建康に仮の都を置き、しだいに恢復を図る、淮南を保つ力がないなら長江を険阻として呉会に仮の都を置き国力を養う、と述べた。こうして帝はひたすら臨安へ還る方針となり、もはや淮の防備は顧みなくなった。

建炎三年九月(1129年)

  • 辛亥、帝は平江府に泊まった。

建炎三年冬十月(1129年)

  • 癸未、帝は臨安に至り、そのまま越州へ向かった。
  • 丁卯、詔を下した。その趣旨は――国家は近ごろ金人の侵逼に遭い、兵のない年がない。朕が位を継いで以来、深く心を痛めてきた。父兄が難にあり、わが民もまだ安んじていないのに、これを刃の下に陥れたくない。だから恥を忍んで退避の計を立て、敵が志を遂げて帰れば少しは休息できると期待した。南京から淮甸へ移り、淮甸から建康へ移り、会稽まで流離して海のほとりに極まった。言葉を低くし礼を厚くして使者を絶やさず、尊号を去ることまで願い出て甘んじて身を屈し、金の正朔を用いて藩臣に列することを請い、使者を遣って哀願し尽くさぬことはなかった。金石でさえ情がなくとも少しは動くはずのところ、年来の卑屈もついに聞き入れられず、民は嘆き、いつ安らげるのか。今、諸路の兵は江浙の間に集まっている。朕は自ら赴いてその要害に拠ることを厭わない。金人がなお朕をお前たち兵民の主とすることを容れるなら、朕は大国に事える礼を欠くまい。だがもし兵を用いて我が行在をうかがい、我が宗室を傾け、生霊を塗炭に落とし、東南の金帛と子女を奪い尽くすなら、朕もどうして一身を惜しんで陣に臨まず、先の言葉を実行せず、民を保たずにいられよう。朕はすでに十一月二十五日に浙西へ移って敵を迎える計とした。将士人民よ、国家の涵養の恩と二聖の拘囚の辱めを念い、殺戮と掠奪の禍を憚るなら、手をこまねいて死を待つより、計を合わせ謀を同じくし心を一つにして力を尽くし、奮い立って進み国家を存せよ――というものだった。この日、金人は吉州を陥れ、さらに六安軍を陥れた。
  • 己巳、帝は越州を発って銭清鎮に泊まり、浙西へ向かって敵を迎え親征しようとした。百司には曹娥江まで来た者も銭清鎮まで来た者もあった。侍御史の趙鼎が、衆寡敵せず、敵を避ける計に及ばないと力説して諫めた。庚午、そこで百司を召し戻して越州へ帰らせた。

建炎三年十二月(1129年)

  • 丙子、帝は明州に着いた。
  • 壬午、海路に出て兵を避ける議が定まった。
  • 庚子、帝は温州・台州へ移った。

建炎四年春正月(1130年)

  • 甲辰朔、帝は舟にあって海上に居た。

建炎四年三月(1130年)

  • 帝は温州を発った。

建炎四年夏四月(1130年)

  • 癸未、帝は越州に戻った。もと金人が退き、帝が温州から西へ還ろうとしたとき、群臣を召して駐蹕の地を議した。呂頤浩は、当面は浙西に駐まり、ゆっくり蜀に入るべきだと述べた。范宗尹は、すぐ蜀に入れば両方を失う恐れがあり、江南に拠って関中・陝西を図れば両方を得ると述べた。帝はこれを善しとした。ここに至って越州に駐まり、まもなく越州を紹興府に昇格させた。

建炎四年八月(1130年)

  • 隆祐太后が越州に着いた。

建炎四年十一月(1130年)

  • 壬子の冬至、帝は百官を率いて遥かに二帝を拝した。渡江以来この礼が初めて行われ、以後は元日にも同じくした。

紹興元年春正月(1131年)

  • 己亥朔、帝は越州にあった。

紹興元年夏四月(1131年)

  • 隆祐太后が崩じた。

紹興元年九月(1131年)

  • 辛亥、明堂で天地を合祭し、太祖・太宗をともに配した。当時、会稽に駐まったばかりで、渡江に際して旧来の楽器はみな焼失散逸していたので、太常は仮に望祭の礼を用いることを奏した。

紹興二年春正月(1132年)

  • 丙午、帝は紹興から臨安へ移った。呂頤浩の請いによる。

紹興三年春正月(1133年)

  • 丁巳朔、帝は臨安にあった。

紹興四年(1134年)

  • 春正月辛巳朔、帝は臨安にあった。
  • 九月辛酉、明堂で天地を合祭し、国子丞の王普の議を用いて楽舞を正した。それ以前、帝は時勢が困難で器物を備えにくいことから、礼には便宜に従うところがあるとして、有司に斟酌し増減して簡素を旨とするよう戒め、あわせて仮に建炎元年の例により登歌をすべて宮架で演奏させ、押楽・挙麾の官や楽工の器物・衣服はかなり省いていた。やがて国情がしだいに落ち着くと、境を保ち民を休めることを務めるようになり、礼楽の事もようやく興った。
  • 冬十月、劉豫が侵入したので、帝は親征の詔を出した。戊戌、臨安を発ち、壬寅、平江に泊まった。

紹興五年(1135年)

  • 春正月乙巳朔、帝は平江府にあった。
  • 二月壬午、帝は臨安に戻った。
  • 己丑、臨安に太廟を建てた。当時、太廟の神主は温州に仮に安置され、年ごとの祭祀は守臣に委ねられていた。司封郎中の林待聘が、神主は礼として都にあるべきだが、今は新しい都がまだ定まっていない、古の軍行に神主を載せた意に倣って行在の宮闕に移し聖孝を明らかにされたいと述べた。そこで臨安に太廟を建て、太常少卿を遣って神主を迎え安置し、帝は参拝の礼を行った。侍御史の張致遠は、太廟を新造するのは興復の大計を大いに損なうと述べ、殿中侍御史の張絢も、去年は明堂を建て今年は太廟を立てるとは、臨安を長く住む地とするつもりで、もはや中原に意がないのだと述べたが、返答はなかった。

紹興六年七月(1136年)

  • 建康府に行営を置いた。当時、張浚が奏して、東南の形勝で建康より重い地はなく、まさに中興の根本である、人主がここに居れば北に中原を望んで常に憤りと戒めを抱き、安逸を貪らずにいられる、臨安は一隅に偏り、内には気の緩みを生みやすく、外には遠近に呼びかけて中原の心をつなぐには足りない、建康に臨んで三軍を撫し恢復を図られたいと述べた。帝はこれに従い、秦檜を行営留守、孟庾をその副とする詔を出した。

紹興六年九月(1136年)

  • 丙寅、帝は臨安を発った。劉豫が侵入しようとしていたためである。
  • 癸酉、帝は平江に泊まった。

紹興七年春正月(1137年)

  • 癸亥朔、帝は平江にあり、建康へ移る詔を出した。

紹興八年春正月(1138年)

  • 戊子朔、帝は建康にあった。車駕が平江へ行幸しようとしたとき、李綱は、平江は建康からさほど遠くなく、いたずらに退避の名を負うだけで軽々に動くべきではないとして上奏した。その趣旨は――昔から兵を用いて大業を成した者は、必ずまず人心を固め士気を奮い地の利に拠って、先に退こうとせず、人事を尽くして先に屈しなかった。楚と漢が滎陽・成皋の間で対峙したとき、高祖はたびたび敗れても一尺一寸の地も退かなかった。鴻溝で天下を分けたのち項羽が東へ引いて、垓下の変が起こった。曹操と袁紹が官渡で戦ったとき、操は兵が弱く糧に乏しかったが荀彧がその退避を止めた。紹の輜重を焼くと紹は引き揚げ、そのまま河北を失った。これを見れば、今日の事とて一人の叛将のために風に怯えて敵を恐れ、たちまち自ら退き屈してよいはずがない。この計を採って車駕が引き返せば、人心は動揺して定まる志がなくなり、士気は萎えて闘う心がなくなる。こちらが退けば敵が進み、敵の馬が南へ渡って一邑を得れば一邑を守り、一州を得れば一州を守り、一路を得れば一路を守る。乱臣賊子や狡い吏・奸しい民がそれに付き従い、虎のように蹲り鴟のように張って、先日のように車駕を返して荊棘と瓦礫のなかに朝廷を立て直そうとしても、もう叶わなくなる。敵の騎兵が突入してやむを得ず一時避けるならまだ言い分もあろうが、今は国境に急を告げる報もなく、兵将にも不利な失もない。朝廷はまさに過去を懲りて軍政を修め、号令を審らかにし賞罰を明らかにして、いよいよ固く守るべきときだ。それなのにこんな騒動を起こし、これまでの功を棄て後の患いを招いて自ら禍敗へ向かうのは、返す返すも惜しいことではないか――と。
  • 戊戌、帝が臨安へ還ることを議したとき、張守は、建康は六朝以来の帝王の都で気象が雄大であり、都会に拠って中原を経略し、険阻に依って強敵を防げる、陛下は席の温まる間もないのにまた巡幸されては、百司や六軍には労苦、民力と国用には煩費の憂いがある、しばらくここに落ち着いて中原の民心をつなぎとめられたいと述べた。
  • 癸亥、帝は建康を発った。戊寅、臨安に着いた。これ以後、ここが都と定まった。