宋史紀事本末両河・中原の陥落(兩河中原之陷)

建炎元年から四年にかけて、金軍が道を分けて南侵し、河北・河東・陝西・山東の諸州が次々に陥落していく経緯。尼瑪哈・羅索・鄂爾多らが河中・永興軍・延安・大名・濮州などを抜き、劉汲・唐重・郭永・徐徽言ら守臣が屈せず死んだ。宋側は王庶と曲端の不和、王似・席貢の非協力で反撃が組めず、杜充が東京を棄てたことで建炎四年には四京すべてが金の手に落ちた。

年表(14件)

高宗建炎元年五月(1127年)

  • 金人が河中府を陥れた。それ以前、尼瑪哈らは北へ去るにあたり、万戸の尼楚赫を太原に、副統の碩格を真定に駐屯させ、羅索に河中を囲ませ、蒙格を磁州・相州に進駐させ、渤海の大托卜嘉に河間を囲ませていた。帝は馬忠と忻州観察使の張換に、それぞれの部隊合わせて一万を率いて恩州・冀州から河間へ向かい襲わせた。ところがまもなく黄潜善らが再び和議を主張したため、追撃の兵は黄河の南に駐屯して機に応じて進退せよという詔が出た。
  • ここに至って羅索が重兵で河中に迫ると、守臣の席益は逃げ去った。府事を代行していた郝仲連は力戦したが外からの援軍が来ず、守り切れないと見て先に自ら家族を殺し、まもなく城が陥ちると子の郝致厚とともに屈せず死んだ。

建炎元年十二月(1127年)

  • 金人が道を分けて南侵した。尼瑪哈は雲中から太行を下り、河陽から黄河を渡って河南を攻め、尼楚赫らを分けて漢水一帯を攻めさせた。鄂爾多と烏珠は燕山から滄州を経て黄河を渡り山東を攻め、阿里・富勒琿の軍を分けて淮南へ向かわせた。羅索は薩里罕・哈富とともに同州から黄河を渡って陝西を攻めた。
  • 尼瑪哈が汜水関に至り、留守の孫昭遠は逃げて死んだ。
  • 羅索が河中に至ったとき、官軍が黄河の西岸を扼して渡らせなかったので、韓城から氷を踏んで渡り、同州を陥れた。華州安撫使の鄭驤が戦死した。金兵はそのまま潼関を破り、王𤫉は陝州を棄てて蜀へ逃げ込み、中原は大いに震えた。

建炎二年春正月(1128年)

  • 戊子、金人が鄧州を陥れた。尼瑪哈は鄧州が行在所となると諜報で知り、尼楚赫に急攻させた。知州の范致虚は逃げ去り、安撫使の劉汲は兵を分けて要害を守らせ、自らは牙兵四百を率いて城壁に登り決死で戦い、城が陥ちて死んだ。もと南陽を巡幸の備えとする議があって蓄えが多くあったが、すべて金の手に落ちた。
  • 乙未、金の羅索は同州・華州の諸州を陥れたのち永興軍を囲んだ。当時、京兆の兵はみな経制使の銭蓋が行在へ召し寄せていた。経略使の唐重は守臣とともに死守を誓ったが、経制副使の傅亮が兵を率いて門を奪って出て降り、唐重は戦死した。
  • 金人が均州を陥れ、さらに房州を陥れた。
  • 辛丑、金人が鄭州を陥れ、通判の趙伯振が戦死した。
  • 癸卯、金の将の額爾袞が濰州を陥れ、知州の韓浩と通判の朱廷傑がともに力戦して死んだ。金人はさらに青州を陥れた。

建炎二年二月(1128年)

  • 丙子、金人が淮寧府を陥れ、守臣の向子韶が戦死した。
  • 金の羅索は永興を陥れたのち意気揚々と西へ向かい、秦州の帥臣の李積が降ったので、敵の勢いはいよいよ張った。兵を率いて熙州・河州を侵したので、経略使の張深は都監の劉惟輔に精騎二千を与えて防がせた。夜に新店へ急行すると、金人は勝ちに驕って備えがなかった。夜明けに軍を進め、惟輔は矟を振るって敵の帥の哈富を刺し、胸を貫かれた哈富は落馬して死に、敵は気勢を削がれた。張深はさらに右都護の張厳に檄して追撃させた。厳は鳳翔の境で羅索に追いつき、意気込んで攻めたが、五里坡で羅索が坂の下に伏兵を置いていた。厳は曲端と期日を約していたのに曲端が来ず、そのまま前進して伏兵に遭い、敗れて戦死した。
  • 丁酉、尼瑪哈は張厳が東へ出たと聞き、河南から西へ関中に入って羅索を援けようとし、西京の家屋をことごとく焼き、その民を捕らえて北へ去った。当時、韓世忠が一万の兵を率いて西京へ盗賊討伐に赴いていたので、尼瑪哈は烏珠を河陽に留めてこれを待たせた。
  • 金人が中山府を陥れた。中山は三年にわたって囲まれ、城中の糧は尽きた。知府の陳遘が城中の人をすべて徴発して兵にし力戦しようとしたところ、部将の沙振がひそかに陳遘を殺害し、城はついに陥ちた。
  • 庚子、河南統制官の翟進が西京を回復した。

建炎二年夏四月(1128年)

  • 乙丑、翟進が兵を率いて河南の金の烏珠を襲ったが敗れ、子の翟亮が戦死した。翟進はさらに韓世忠らの兵を率いて文家寺で戦ったが、また敗れ、世忠は南へ帰った。烏珠は再び西京に入ったが、まもなく棄てて去った。

建炎二年五月(1128年)

  • 金の羅索が大いに掠奪しながら東へ向かい、絳州を陥れた。もと宗澤は制命を承けて王庶を陝西制置使、曲端を河東経制使としていた。まもなく銭蓋が敵の長安陥落を聞き、王庶に懐慶・涇原の兵の節制を兼ねさせた。
  • やがて金人が東へ帰るとき、王庶は金人が重い荷を積んでいるので襲えば勝てると見て、両路に文を回して協力し交互に戦うよう求めた。ところが環慶の帥の王似と涇原の帥の席貢は王庶の節度を受けたくなかったので、文書だけ整えて報告し、実際には兵を出さなかった。
  • 金人は清渓に至って呉玠に扼され、咸陽に至って渭南に義兵が野に満ちているのを見て渡れず、渭水沿いに東へ向かった。その支隊が鄜延に入って康定を攻めたので、王庶は急ぎ兵を遣って河の橋を断ち、また劉延亮を神水峡に駐屯させて帰路を断ち、敵は去った。
  • 曲端は敵の退却に乗じて秦州を回復した。曲端はもともと王庶に属したくなかった。折しも劉延亮が鳳翔から戻ったので、曲端はこれを斬った。王庶はなお書で王似・席貢に呼びかけ、残る敵を渡河に追い込んだうえで黄河を境として守ろうとしたが、二人はついに応じなかった。当時、絳州はまだ国のために守りを固めていたが、羅索が軍を返してこれを陥れた。

建炎二年六月(1128年)

  • 王庶に陝西六路の軍馬の節制をさせ、曲端を都統制とした。当時、陝西撫諭使の謝亮が詔を持って夏国に赴くところだった。王庶は書を送り、大夫は国境を出れば社稷を安んじ国家を利する事は独断でよい、今、敵は同州・華州を占拠して暑さを避けて兵を休めているが、秋が深まれば必ず大挙する、節を仗いて諸路を督し、義挙をともにして先を争い並び進み、駆逐して渡河させ、ゆっくり恢復を図るべきだと述べた。だが謝亮は従わなかった。

建炎二年八月(1128年)

  • 癸巳、金人が冀州を陥れ、将官の李政が戦死した。
  • 甲午、金人が再び永興軍を侵した。辛丑、陝西節制司の賀師範が八公原で金人と戦って戦死した。

建炎二年九月(1128年)

  • 金の将の鄂爾多が五馬山で信王趙榛を襲って破った。もと和州防禦使の馬擴は真定の五馬山に兵を集め、上皇の子である信王趙榛を民間で見つけ出して奉じ、諸砦を統べさせた。両河の遺民は聞き伝えて呼応した。王は馬擴を行在に遣って奏事させ、その帰途、大名まで来たところで、鄂爾多は擴が援兵を連れて来るのを恐れ、急ぎ兵を出して五馬山の諸砦を攻め、諸砦はみな陥ちた。
  • 当時、韓世忠に部隊を率いて彭城から東平へ、張俊に東京から開德へ向かうよう詔し、馬擴を河北応援使として備えさせていた。鄂爾多は五馬山を破ったのち、擴の兵が南から来ると探知して人を馳せて尼瑪哈に報せた。尼瑪哈は懐州・衛州を経て東へ向かおうとしていたが、鄂爾多がすでに清平で擴の軍を破ったと聞き、黎陽から黄河を渡って兵を合わせ澶州・濮州を攻めた。趙榛は逃げ、その後の行方は知れなかった。

建炎二年十一月(1128年)

  • 金人が延安府を陥れ、通判の魏彦明が戦死した。それ以前、王庶が京兆に至っても曲端は属したがらず、命が下ってもたいてい口実をつけて動かなかった。王庶はどうしようもなく、曲端を涇原に戻した。
  • そのころ金の羅索が黄河を渡り、王庶と曲端の不和を諜知して、兵を合わせて鄜延を攻めた。王庶は兵を調えて河沿いから馮翊まで険に拠って守らせたが、金人はすでに氷に乗じて渡河し、晋寧を侵し丹州を侵し、さらに清水河を渡って潼関を破ったので、秦州・隴州はみな震えた。王庶は諸路に檄を伝えて兵を合わせ防ごうとした。当時、曲端は涇原の精兵をすべて統べて淳化に駐屯していた。王庶は日々文を送って進軍を促したが、曲端は聴かず、副将の呉玠を遣って華州を回復させ、自らは兵を率いてぐずぐずと遠回りし、邠州の三水から襄楽で呉玠と合流した。
  • 金が延安を急攻したので、王庶は坊州から散った兵を集めて救援に向かい、知興元府の王𤫉も部隊を率いて赴いた。だが王庶が甘泉に着いたときには延安はすでに陥ちていた。王庶は行き場を失い、兵を王𤫉に預け、自ら百騎と官属を率いて襄楽へ駆けつけ軍を労った。曲端は王庶に会って延安失守の顛末を問い、殺そうとしたが果たさず、節制使の印を奪った。王庶は自ら弾劾し、詔によって京兆の守りを罷められて去った。
  • 乙未、金の尼瑪哈と鄂爾多が兵を合わせて濮州を囲んだ。濮州は小さいので容易と見たが、知州の楊粹中が固く守り、将の姚端に命じて夜襲をかけさせた。尼瑪哈は裸足で逃げ、辛うじて身一つで免れた。そこで攻撃はいっそう激しくなり、三十三日たって城は陥ちた。粹中は捕らえられたが屈せず死んだ。
  • 金人はまた開德府を陥れ、守臣の王棣が戦死した。
  • 庚子、金人が相州を陥れ、守臣の趙不試が戦死した。不試は太宗の六世の孫である。
  • 甲辰、金人が德州を陥れ、兵馬都監の趙叔昄が戦死した。
  • 金人が晋寧軍を侵したが、知軍事の徐徽言が撃退した。知府州の折可求が叛いて金に降った。それ以前、徐徽言はひそかに汾州・晋州の土豪と結び、故地を回復すれば官を奏して守長とし世襲を認めると約束していた。ところが朝廷の議が金との和議に傾き、その請いは抑えられた。敵は徐徽言を憚り、早く晋寧を抜いて患いを除こうとし、延安を破ると綏德から黄河を渡って三か月囲んだが、徽言はたびたび撃退した。
  • ここに至って徽言は折可求と出兵して挟撃する約束をした。金の羅索はこれを聞いて可求の子の彦文を捕らえ、書を書かせて可求を招いたので、可求は所属の麟州・府州・豊州の三州を挙げて金に降った。可求は徽言と兵を連ねていたが、金人は可求に城下から徽言を招かせた。徽言が弓を引いて射かけると可求は逃げ、徽言は兵を率いて敵を撃って大いに破り、羅索の子を斬った。

建炎二年十二月(1128年)

  • 庚申、金人が東平府を陥れ、さらに済南府を陥れた。
  • 甲子、金の鄂爾多が大名府を攻めた。守臣の張益謙が逃げようとすると、提点刑獄の郭永が、北の門は梁・宋を遮るためのもので、敵が思いを遂げれば朝廷が危うくなると言い、自ら兵を率いて昼夜城壁に拠り、決死の士を縄で城外に下ろして行在に急を告げた。折しも濃霧が四方を塞ぎ、城はついに陥ちた。益謙と転運判官は出迎えて降った。鄂爾多が、城が破れてから降るとはどういうことかと問うと、二人は郭永が従わなかったせいだと言い逃れた。鄂爾多は騎兵を遣って永を召し、降伏を妨げたのは誰かと問うた。永は、降らないのは自分だと答えた。鄂爾多が富貴で釣ろうとすると、永は、自分はお前を醢にして国に報いられないのが恨みだ、降伏など何を言うかと罵った。鄂爾多は怒り、その家族もろとも殺した。
  • 己巳、金の尼瑪哈が襲慶府を陥れた。軍士に孔子の墓を暴こうとする者があった。尼瑪哈が通訳の高慶裔に孔子とは何者かと問うと、古の大聖人だと答えた。尼瑪哈は、大聖人の墓をどうして暴けようかと言い、その軍士を殺した。

建炎三年二月(1129年)

  • 金の羅索が晋寧軍を破った。徐徽言は子城に拠って戦い、囲みを破って逃れたが捕らえられた。拝礼を求められても拝さず、兵器を突きつけられても動じなかった。折可求に降伏を勧めさせると、徽言は大いに罵り、羅索は徽言とその子の徐岡をともに殺した。統制の孫昂および士卒もみな屈せず死んだ。これが伝わると徽言に晋州観察使を贈り、忠壮と諡した。徽言の父の徐翊は宣和の末に太原の救援で戦死しており、代々忠義で知られた家だった。

建炎三年秋七月(1129年)

  • 留守の杜充が東京を棄てて行在に帰った。杜充が汴を発とうとしたとき、岳飛が諫めて、中原の地は寸尺たりとも棄ててはならない、今ひとたび足を上げればこの地は我が有でなくなり、後日取り返すには数十万の兵が要ると述べた。杜充は聴かず、岳飛を伴って帰った。朝廷は郭仲荀と程昌寓を相次いで杜充の後任としたが、留守司はもはや名ばかりのものとなった。

建炎四年二月(1130年)

  • 金人が東京に入り、権留守の上官悟は逃れたが盗賊に殺された。これ以後、四京はすべて金の手に落ちた。