宋史紀事本末宗澤、汴を守る(宗澤守汴)

靖康の変ののち、宗澤が東京留守として汴京を守り抜いた一年余りの経緯。盗賊を鎮めて城の守備を固め、王善・楊進ら群盗を招撫し、岳飛・王彦らを従えて黄河を渡る北伐を計画し、二十余通の還京の上疏を高宗に送り続けた。しかし黄潜善・汪伯彦に阻まれて志を果たせず、建炎二年七月、「渡河」と三度叫んで憤死し、後任の杜充がその施策をことごとく覆した。

年表(8件)

高宗建炎元年五月(1127年)

  • 庚戌、宗澤を知襄陽府とした。宗澤は応天で帝に見え、興復の大計を述べた。帝は宗澤を留めようとしたが、黄潜善らが妨げたため外任に出された。

建炎元年六月(1127年)

  • 乙酉、宗澤を東京留守とした。宗澤は襄陽にあって黄潜善がまた和議を唱えていると聞き、上疏した。金人が再び来て以来、朝廷は一人の将も命じず一師も出さず、聞こえてくるのは姦邪の臣が朝に和議を説き夕に盟を乞う言ばかりで、ついに二聖は北へ移され宗廟社稷は恥を受けた。陛下が激しく怒って賞罰を明らかにし王室を建て直されることを期待していたのに、即位から四十日たっても大号令は聞こえず、ただ刑部の指揮として、赦文を黄河の東西や陝州の蒲州・解州に写し伝えてはならぬというものを見た。これは天下の忠義の気を奪い、自ら民を見捨てるものだ。自分は鈍く臆病だが、身をもって矢石を冒し諸将の先頭に立ちたい、身を捧げて国恩に報いられれば十分だ、と。帝はその言を読んで壮とした。
  • 開封尹が欠けたとき、李綱が旧都を回復するには宗澤しかないと述べ、そこで東京留守・知開封府とした。当時、敵の騎兵が黄河のほとりに駐屯し、金鼓の音が日夕聞こえ、京城の櫓は残らず廃れ、兵と民が入り混じって住み、盗賊が横行し人心は騒然としていた。宗澤は威望がもともと高く、着任するとまず盗賊をかくまった者数人を捕らえて誅し、盗みを働いた者は贓物の軽重を問わずすべて軍法によると令を下した。これで盗賊は影をひそめた。そのうえで軍民を撫し、櫓を修理し、しばしば出撃して敵をくじいた。
  • 宗澤は上疏して帝に京師へ還るよう請うたが、まもなく荊州・襄陽・江淮でことごとく巡幸の備えをせよという詔が出た。宗澤はまた上疏し、開封の物価や商店はしだいに平時に戻りつつある、将士・農民・商旅・士大夫のうち忠義を抱く者はみな陛下が速やかに京師へ戻られて人心を慰められることを願っている、異議を唱える者は張邦昌の輩と同様、ひそかに金人のために地ならしをしているにすぎない、と述べた。
  • ほどなく金人が偽楚への使いと称して開封に来た。宗澤はその者を拘留し、斬るよう請うた。ところが別館に置いて丁重に扱えとの詔が出た。宗澤は、金人は偽楚への使いにかこつけて虚実を探りに来たのだから斬ってその奸計を破るべきなのに、陛下は人の言に惑わされて礼遇を加えられる、自分は詔を奉じて国の弱さを示すことはできない、と奏した。帝は手ずから書を下して宗澤を諭し、結局その使者は放って帰した。
  • 真定・懐州・衛州のあたりに敵兵が多く、密かに戦具を整えて侵攻の計を立てていた。宗澤はこれを憂え、黄河を渡って諸将と協議し回復を図った。京城の四方の壁ごとに使を置いて招集した兵を統べさせ、戦車千二百輛を造り、地の利に拠って城外に堅固な壁二十四か所を築き、黄河沿いに鱗のように連珠の砦を並べ、河東・河北の山水の砦や忠義の民兵と連結した。こうして陝西・京東西の諸路の人馬もみな宗澤の指揮を受けたいと願った。宗澤はまた五丈河を開いて西北の商旅を通わせた。守禦の備えが整うと、たびたび表を上げて帝に還京を請うたが、帝は黄潜善の計を用いて東南への行幸を決めており、返答はなかった。
  • 秉義郎の岳飛が法を犯して刑に処されようとしたとき、宗澤は一目見て非凡と見抜き、将材だと言った。折しも金人が汜水を攻めたので、五百騎を岳飛に与えて功を立てて罪を贖わせた。岳飛は金人を大いに破って帰り、統制に昇った。宗澤は岳飛に、お前の智勇と技量は古の名将にも劣らないが、野戦を好むのは万全の策ではないと言い、陣図を授けた。岳飛は、陣を組んでから戦うのは兵法の常道だが、その運用の妙は一心にあると答えた。宗澤はその言を是とし、岳飛はこれによって名を知られた。

建炎元年秋七月(1127年)

  • 宗澤はまた表を上げた。今、敵の気勢はなお盛んで群盗も起こっている。近ごろ遠近で驚きが伝わり、東南への巡幸があると聞くが、これでは四海の疑心を増し、両河を度外に置いて士心の解体を招くと思われる。聖慮を測りかねる、と。返答はなかった。さらに上疏して、陛下が汴京に還御されるのは人心の望むところ、みだりに巡幸を議するのは人心の憎むところだ、と述べたが、これも返答がなかった。
  • 宗澤はさらに疏を抗して極言した。祖宗二百年の基業をどうして棄てて狂敵に与えるのか。今、陛下が王室に帰られれば、中興の業は再び成る。もし自分を無謀と思われるなら、左右の将士を集めて一度諮ってみられたい。一、二の大臣とだけ謀るのでなければ、天下の幸いだ、と。当時、宗澤の上疏はそのつど中書省に回されたが、潜善・伯彦は狂気とみなした。ただ張慤だけが、宗澤のような忠義の者があと数人いれば天下は定まると言い、二人は言葉に詰まった。

建炎元年冬十月(1127年)

  • 帝が揚州に行幸した。宗澤は上疏して諫めた。京師は天下の腹心であり棄ててはならない。昔、景德年間に契丹が澶淵に攻め寄せたとき、江南出身の王欽若は金陵への行幸を勧め、閬中出身の陳堯叟は成都への行幸を勧めたが、ただ寇準だけが毅然として親征を請い、ついに功を成した、と。あわせて五か条を挙げ、黄潜善・汪伯彦が南への行幸に賛成するのは誤りだと極言した。
  • 当時、両河の多くは金に陥ちていたが、その民は朝廷の旧恩を慕い、各地で紅巾を結んで城邑を攻め、いずれも建炎の年号を用いていた。金人はしだいに引き揚げていたが、帝の南幸を聞くと民心はみな離れた。
  • 宗澤はまた上疏し、閭勍と王彦にそれぞれ大軍を統べさせて敵の塁をことごとく平らげたい、陛下には早く京闕へ還っていただきたい、この挙は万全を保証できる、もし姦計に妨げられて還御が叶わないとしても、自分の計画に従い、姦臣に妨げさせて社稷の大計を誤らせないでいただきたい、軍を整えて敵の気配を一掃し、そのうえで鑾輿を京へ迎え、姦臣の口を塞ぎ天下の心を晴らしたい、と述べた。帝は手厚い詔で答えた。

建炎元年十二月(1127年)

  • 宗澤は金人が汴を侵す謀ありと聞き、劉衍を滑州へ、劉達を鄭州へ向かわせて敵の勢いを分け、諸将に河の橋を保護して大軍の集結を待つよう戒めた。烏珠は汴へ向かうことができず、夜のうちに河の橋を断って去った。

建炎二年春正月(1128年)

  • 金の烏珠が鄭州から白沙に至り、汴京にきわめて近づいたので、都の人々は震え上がった。僚属が策を問いに来ると、宗澤は、何を慌てるのか、劉衍らが外にいるのだから必ず敵を防ぐと言い、精鋭数千を選んで敵の背後に回らせ帰路に伏せさせた。金人が劉衍と戦っているところへ伏兵が起こって前後から挟撃し、金人は果たして敗れた。
  • 尼瑪哈が西京に拠って宗澤と対峙した。宗澤は部将の閻中立・郭俊民・李景良らに兵を率いて鄭州へ向かわせたが、敵と遭遇して大戦のすえ敗れ、閻中立は戦死、郭俊民は降り、李景良は逃げた。宗澤は景良を捕らえて斬った。まもなく郭俊民が金の将とともに書を持って宗澤を招きに来たが、宗澤はいずれも斬った。
  • 劉衍が戻ると金人はまた滑州に入った。宗澤の部将の張撝が救援に向かった。滑州に着くと衆寡敵せず、少し退いてはと勧める者もあったが、張撝は、避けて生き延びてどんな顔で宗公に会えようかと言い、力戦して死んだ。宗澤はこれを聞いて急ぎ王宣を援けに遣ったが間に合わず、そこで金人と大いに戦って敗走させ、王宣を知滑州とした。金はこれ以後、東京を侵さなくなった。
  • 宗澤は黄河のほとりで金の将である遼の旧臣・王策を捕らえ、縄を解いて金人の虚実を問い、詳細を得た。そこで大挙の計を決め、諸将を召して、お前たちに忠義の心があるなら謀を合わせて敵を討ち、二聖を還して大功を立てようと言った。言い終えて涙を流し、諸将はみな奮い立った。
  • 宗澤はまた上疏して帝に還京を請い、陛下のために京城を守り、去年の秋から今年の春までさらに三月になる、陛下が早く還られなければ天下の民は誰を頼りに戴くのか、と述べたが、返答はなかった。
  • 宗澤の威名は日ごとに高まり、敵はその名を聞いて憚り、南人に対しては必ず「宗爺爺」と呼んだ。

建炎二年二月(1128年)

  • 乙丑、河北の盗賊の楊進らが宗澤に降った。楊進は三十万を集め、丁進・王再興・李貴・王大郎らもそれぞれ数万を擁して、京西・淮南・河南北を往来して掠奪していた。宗澤は人を遣って禍福を諭し、ことごとく招いて降らせた。
  • 王善という河東の大賊がいた。七十万の衆と一万輛の車を擁して京城を占拠しようとした。宗澤は単騎で王善の陣営へ駆けつけ、泣いて、朝廷が危難のとき、公のような者が一、二人いれば敵の患いなどあるものか、今日こそお前が功を立てる好機で逃してはならぬと言った。王善は感じ入って涙を流し、力を尽くさぬはずがないと言い、甲を解いて降った。
  • このころ宗澤は群盗を招撫して城下に集め、さらに兵を募り糧を蓄え、諸将を召して渡河の日を約した。諸将はみな涙を隠して命を聴いた。宗澤はそこで上疏した。要旨は――祖宗の基業は惜しむべきであり、陛下の父母兄弟は砂漠に塵をかぶって日々救援の兵を待っている。西京の陵寝は敵に占められ、今年の寒食節には祭る場所さえない。両河・二京・陝西・淮甸の百万の生霊が塗炭に陥っているのに、湖外へ南幸しようとされるのは、姦邪の臣が一つには金人に都合のよい計を立て、二つには自分の親族をすでに南へ移してあるからだ。今、京城の守りは固まり、兵器は備わり、士気は鋭い。万民の敵愾の気を挫き、東晋が覆った轍を踏まれることのないよう願う――というものだった。奏が届くと帝は日を択んで還京する詔を下したが、結局実行されなかった。
  • 宗澤は王彦の兵を汴に呼び戻し、滑州に駐屯させた。それ以前、王彦は岳飛ら十人の将と七千の兵を率いて黄河を渡り新郷に至ったが、金兵が多く進めずにいた。岳飛だけが自分の部隊を率いて激戦し、敵の旗を奪って舞ったので、諸軍は競って奮い立ち、新郷を回復した。翌日、侯兆川で戦い、岳飛は身に十余の傷を負い、士卒もみな決死で戦って、また敵を破った。糧が尽きたので王彦の陣に糧を乞うたが、王彦は許さなかった。岳飛はさらに北へ兵を進め、太行山で金人と戦って将の圖卜烏哩を捕らえた。数日後にまた敵と遭い、岳飛は単騎で丈八の鉄槍を持って敵将の黒風大王を刺し殺し、金人は退いた。岳飛は王彦が自分を快く思わないと知り、部隊を率いて宗澤のもとへ戻り、宗澤は再び留守司統制とした。
  • 王彦はたびたび勝ったので州郡に檄を伝えた。金人は大軍が来たと思い、数万騎で王彦の塁に迫って幾重にも囲んだ。王彦は衆寡敵せず囲みを破って脱出し、諸将は敗れて散り、王彦だけが共城の西山に拠った。腹心を遣って両河の豪傑と結び再挙を図った。金人が懸賞をかけて王彦を厳しく追ったので、王彦は変事を警戒して夜ごと寝所を移した。部下はそれと察し、そろって顔に「赤心報国、誓殺国賊」の八字を刺して他意のないことを示した。王彦はいっそう感じ入って励み、士卒を慈しんで苦楽をともにした。まもなく両河が呼応し、忠義の民兵の首領である傅選・孟德・劉澤・焦文通らがみな付き従い、衆は十余万、数百里に連なってみな王彦の統制を受けた。金人はこれを憂え、配下の首領を召して大兵で王彦の塁を破らせようとしたが、首領は跪いて泣き、王都統の砦は鉄石のように堅く容易には図れないと述べた。金人はそこで騎兵を密かに遣って糧道を妨げたが、王彦は兵を整えて待ち受け、多くを斬り捕らえた。
  • ここに至って宗澤は、王彦の孤軍だけで進ませるわけにはいかないと考え、彦を召して事を計った。王彦は諸砦をことごとく召して方略を授け、合流の時を待たせ、まず一万余を率いて出発した。金人は重兵で後をつけたが撃つことはできなかった。汴に着くと宗澤は近郊に兵を置いて根本の地を守らせ、王彦は滑州の沙店に駐屯した。
  • 宗澤は上疏した。この暑い時季に乗じて、王彦らを滑州から渡河させて懐州・衛州・濬州・相州などを取り、王再興らを鄭州から西京の陵寝の守りに向かわせ、馬擴らを大名から洺州・相州・真定に向かわせ、楊進・王善・丁進らはそれぞれ率いる兵で道を分けて並び進ませたい。渡河すれば山寨の忠義の民で呼応する者は百万を下らない。陛下には早く京師へ還っていただきたい。自分は身をもって矢石を冒し諸将の先頭に立つ。中興の業は必ず成る、と。しかし疏が届くと、黄潜善らは宗澤の成功を妬み、内側からこれを妨げた。

建炎二年秋七月(1128年)

  • 宗澤が没した。宗澤は群盗を招き集め、兵を集めて糧を蓄え、諸路の義兵を結び、燕・趙の豪傑と連携し、渡河しての克復は日を指して数えられると自負していた。前後二十余通の還京を請う奏はすべて黄潜善・汪伯彦に抑えられた。潜善・伯彦はさらに宗澤が変事を起こすのではないかと疑い、郭仲荀を副留守として監視させた。
  • 宗澤は憂憤して病になり、背に疽ができた。諸将が見舞うと、宗澤ははっと起き上がり、自分は二帝が塵をかぶられたことに憤ってこうなった、お前たちが敵を殲滅できるなら死んでも恨みはないと言った。一同は涙を流して力を尽くさぬはずがないと答えた。諸将が退くと、宗澤は「出師未だ捷たざるに身先ず死し、長く英雄をして涙襟に満たしむ」と嘆じた。家のことは一言も口にせず、ただ「河を渡れ」と三度続けて叫んで没した。年七十。都の人々は号泣した。
  • 訃報が届くと観文殿学士を贈り、忠簡と諡した。宗澤の子の宗頴は幕僚として士心を得ていたので、都の人々は頴に父の任を継がせるよう請うたが、すでに杜充を宗澤の後任に命じており許されなかった。杜充は苛酷で謀がなく、汴に着くと宗澤のしたことをことごとく覆した。そのため豪傑は心を離し、城下に集まっていた群盗はまた去って掠奪を働くようになった。

史論(史臣曰)

  • 二帝が北へ連れ去られ宗廟社稷が主を失ったとき、宗澤がひと声呼ばわると河北の義勇数十万が声に応える響きのように集まった。これはまさに宗澤の忠義が人を動かしたのである。当時、齟齬や掣肘がなければ、二帝を還し旧都を回復するのは指呼のあいだのことだった。黄潜善・汪伯彦は才を妬み功を忌み、高宗は姦邪の口に惑わされ、善を善と知りながら用いることができず、宗澤に志を遂げさせないまま憤死させた。悲しいことだ。

  • 宗澤の没後、王彦は率いる兵馬を東京留守司に預け、親兵を率いて行在に赴き、黄潜善・汪伯彦に会って両河の忠義の民が首を伸ばして王師を待っていることを力説し、人心に乗じて大挙北伐すべきだと憤激の言葉で述べた。二人は大いに怒り、拝謁を免ずる旨の御旨を請い、御営平寇統領に充てた。王彦はそこで病と称して官を退いた。