宋史紀事本末李綱の輔政(李綱輔政)

高宗の即位直後に召されて右相となった李綱が、姚崇の故事に倣って国是・巡幸・僭逆・偽命など十事を建言し、張邦昌と偽命を受けた臣を処断し、李若水・霍安国・劉韐を追贈して士風を励まし、軍法を定め、募兵・買馬・括財を行い、張所を河北招撫使、王𤫉を河東経制使として両河を保とうとした過程を記す。だが東南への行幸を主張する黄潜善・汪伯彦と対立して七十七日で罷免され、招撫司・経制司は廃され、陳東・欧陽澈も殺された。建炎元年(1127年)五月から八月までを扱う。

年表(4件)

高宗建炎元年五月(1127年)

  • 甲午、李綱を召して尚書右僕射兼中書侍郎とした。もと李綱は再び貶されて寧江にいたが、金兵が再来したとき欽宗が和議の誤りを悟って召し出し、開封尹に任じた。長沙まで来たところで命を受け、そのまま湖南の勤王の軍を率いて救援に向かったが、到着しないうちに京城が陥落した。ここに至って召され右相に拝され、行在所へ急ぎ赴くよう促された。
  • 中丞の顔岐が上奏し、張邦昌は金人に好かれているのだから三公郡王に封じたうえさらに同平章事を加えて礼を重くすべきであり、李綱は金人に憎まれているのだから宰相に命じたとはいえ到着前に罷めるべきだと述べた。同じ趣旨の章を五度も上げたので、帝は、それなら朕が立ったことも金人の喜ぶところではあるまい、と応じた。顔岐は言葉に詰まって退いた。顔岐はさらに人を遣ってその章を封じて李綱に見せ、赴任を思いとどまらせようと図った。右諫議大夫の范宗尹も、李綱は名が実に過ぎ主君を圧する威があると論じたが、帝は聴かなかった。
  • 汪伯彦と黄潜善は自分たちに擁立の功があると考え、宰相になるものと踏んでいたので、外から李綱が召されると面白くなく、以後、李綱と対立した。
  • 李綱は太平まで来て上疏した。衰えを興し乱を収める君主は英明でなければ務まらない。英であれば心の用い方が剛毅で大事に臨んで小事に揺るがず、哲であれば善を見分ける目が明らかで君子を用いて小人に離間されない。漢の高祖・光武、唐の太宗、本朝の太祖・太宗を手本とされたい、と。

建炎元年六月(1127年)

  • 己未朔、李綱が行在に着いて拝謁し、涙を流した。帝も顔色を動かした。李綱は、金人は道義を欠き詐術ばかりで勝ちを取り、中国はそれと悟らず一切その計に落ちた、幸い天命はまだ改まらず、陛下が外にあって軍を統べ天下の臣民に推戴された、内を修め外を攘って二聖を還し万邦を安んじる責めは陛下と宰相にある、しかし自分は力量が足りず委任に応えられない、と述べ、さらに道中で顔岐が自分を弾劾する章を封じて示し、金人に憎まれる者は宰相にすべきでないと言っていたことを挙げて、強く辞退した。
  • 帝は顔岐を祠禄の職に出し、あわせて范宗尹も外へ出した。それでも李綱が辞退すると、帝は、卿の忠義と智略は久しく知っている、敵国を畏服させ四方を安んじるには卿を宰相にするほかない、辞するなと述べた。
  • 李綱は頓首して泣きながら謝し、かつて唐の明皇が姚崇を宰相にしようとしたとき姚崇が十事を条件に説き、いずれも当時の病弊に的中した故事を引き、自分も十事を申し上げるので、実行できるものを施行していただけるなら命を受けたいと言った。
  • 第一に国是を議す。中国が外侮を防ぐには、守れてこそ戦え、戦えてこそ和せる。靖康の末はそのすべてを失った。今は戦うには足りず和は不可であるから、まず自らを治め、もっぱら守りを策とし、政事が整い士気が振るってから大挙を議すべきだ。
  • 第二に巡幸を議す。車駕は一度は京師に至って宗廟に見え、都の人心を慰めねばならない。そこに居られぬと判断すれば巡幸の計を立てる。天下の形勢から見れば長安が上、襄陽が次、建康がその次で、いずれも有司に命じてあらかじめ備えさせるべきだ。
  • 第三に赦令を議す。祖宗の即位に伴う赦令には常式がある。先日の赦書は張邦昌の偽赦を手本としており、悪逆の徒を赦し罪で廃された官を残らず復官させるなど、みだりで実行できない。すべて改めるべきだ。
  • 第四に僭逆を議す。張邦昌は国の大臣でありながら難に臨んで節に死ねず、金人の勢いを笠に着て姓を易え号を改めた。刑を正して万世への戒めとすべきだ。
  • 第五に偽命を議す。国家の大変に際して節を守り義に死んだ士はまれで、偽の官を受けてその庭に膝を屈した者は数えきれない。かつて肅宗が賊を平らげたとき偽命に汚れた者を六等に分けて罪を定めた。それに倣って士風を励ますべきだ。
  • 第六に戦を議す。軍政が久しく廃れ士気は怯み惰っている。紀律を一新し賞罰を確かにして気を奮い立たせるべきだ。
  • 第七に守を議す。敵は狡猾で必ず再来する。黄河沿いおよび江淮に防禦の措置を講じ、要衝を扼すべきだ。
  • 第八に本政を議す。政令が多方から出て綱紀が乱れている。中書に一元化すれば朝廷は尊ばれる。
  • 第九に久任を議す。靖康年間は大臣の進退が速すぎて功績が現れなかった。慎重に選んで長く任せ、成果を責めるべきだ。
  • 第十に修德を議す。上は初めて天命を受けたのだから、いっそう孝弟恭倹を修めて四海の望みに応え、中興を致すべきだ。
  • 翌日、李綱の議を朝廷に布告したが、僭逆と偽命の二件だけは留め置かれて公にされなかった。
  • 李綱は留め置かれた二件について帝に言上した。この二つは今日の刑政の大事である。邦昌は道君皇帝の朝に十年も政府にあり、欽宗が即位すると真っ先に宰相に抜擢された。国家が禍難に遭い金人が姓を易える謀を立てたとき、邦昌が死をもって節を守り、天下が宋を戴く道理を明らかにしてその心を動かしていれば、金人も禍を悔いて趙氏を存したかもしれない。ところが邦昌は得たりとばかりに位号に就き、宮禁に居を構え、勝手に偽の詔を下して四方の勤王の師を止めた。天下が味方しないと知って初めて、やむなく元祐太后の垂簾聴政を請い、奉迎を議した。邦昌の僭逆の顛末はこの通りなのに、議論する者の見方は一致しない。臣は春秋の法で断じたい。春秋の法では人臣に謀反の萌しがあれば必ず誅し、趙盾が賊を討たなかったことを君を弑したと書いた。今の邦昌は位号を僭しただけでなく、敵が退いた後に勤王の師を止めたのだから、萌しや不討賊どころではない。劉盆子は漢の宗室として赤眉に立てられ、のち十万の衆を率いて光武に降ったが、それでも死を免じられただけだった。邦昌は臣として君に取って代わったのだから罪は盆子より大きい。やむを得ず自ら帰順したからといって、朝廷がその罪を正さないばかりか尊崇するとは、どういう道理か。陛下が中興の業を建てようとしながら僭逆の臣を尊んで四方に示せば、誰が心を離さずにいられよう。また偽命を受けた臣僚を一切問わずに済ませては、天下の士大夫の節をどう励ますのか、と。
  • 執政のなかに異議を唱える者があり、帝が黄潜善らを召して問うと、潜善は強く邦昌を庇った。帝が呂好問に、卿は囲城のなかにいて事情を知っているがどう思うかと尋ねると、好問は潜善に付いて両端を持した。李綱は、邦昌の僭逆をどうして朝廷に留め、道行く人に「あれも一人の天子だ」と指ささせてよいのかと言い、泣いて拝し、自分は邦昌と同列にはなれない、笏で打ちのめすほかない、どうしても邦昌をお用いになるなら自分を罷めていただきたい、と述べた。帝はかなり心を動かされ、汪伯彦も、李綱の気骨は自分たちの及ばぬところだと言った。
  • 帝はそこで李綱の奏を採り、邦昌を保化軍副使に落として潭州に安置し、あわせて王時雍・徐秉哲・呉幵・莫儔・李擢・孫覿を高州・梅州・永州・全州・柳州・帰州に安置し、顔博文・王紹以下も罪の軽重に応じて処断した。邦昌はのちに潭州で処刑された。
  • 李若水・霍安国・劉韐に官を贈った。李綱が、近ごろの士大夫は廉恥に乏しく君臣の義を知らない、靖康の禍で節を守り義に死んだのは、内では李若水、外では霍安国だけであり、追贈と恩恤を加えられたいと述べた。帝はこれに従い、若水に観文殿学士を贈って忠愍と諡し、安国に延康殿学士、劉韐に資政殿学士を贈った。あわせて詔して、節に死んだ者を諸路に尋ね訪ねて報告させることとした。
  • 甲子、李綱に御営使を兼ねさせた。李綱は対して言った。今の国勢は靖康のころに遠く及ばない。それでもなしうるのは、陛下が上で英断され群臣が下で睦み合えば中興も図れるからだ。ただし規模を定め先後緩急の順序を知らなければ功は成らない。外は強敵を防ぎ、内は盗賊を鎮め、軍政を修め士風を改め、国財を豊かにし民力を寛くし、弊法を改め冗官を省き、号令を誠にして人心を動かし、賞罰を信にして士気を奮い、帥臣を択んで方面を任せ、監司・郡守を選んで新政を奉行させる。そうして自らを治める政事が整ってから、金人の罪を問い二聖を迎え還す。これが規模である。急いで先にすべきことは河北・河東の経営だ。両地は国の屏蔽であり、それが整って初めて中原は保て東南も安んじられる。今、河東で失ったのは恒州・代州・太原・沢州・潞州・汾州・晋州で、残る郡はなお健在だ。河北で失ったのは真定・懐州・衛州・濬州の四州にすぎず、残る三十余郡はみな朝廷のために守っている。両路の士民や兵将が宋を戴く心はきわめて堅く、それぞれ豪傑を推して首領とし、多い者は数万、少なくとも一万を下らない。この時に司を置き使を遣って大いに慰撫し、兵を分けて危急を援けなければ、糧が尽き力が疲れて座して金人の困窮を受けるだけになる。忠義の心を抱いていても援軍が来ず、危迫して訴える先がなければ、必ず朝廷を怨む。金人はそこに付け入って撫して用いるだろう。いずれも精兵である。それより、河北に招撫司、河東に経制司を置き、才略ある者を選んで任じ、天子の恩德と両河を敵国に棄てるに忍びない意を宣諭させるがよい。一州を全うし一郡を回復した者は節度使・防禦使・団練使とし、唐の方鎮の制のように自ら守らせる。そうすれば敵に従う心を絶つだけでなく、その敵を防ぐ力を活かせて、朝廷は永く北を顧みる憂いがなくなる。これが今日の最優先の務めだ、と。帝はその言を善しとし、誰が適任かと尋ねた。李綱は張所と傅亮を薦めた。
  • 李綱はまた軍法を定めた。五人を伍とし伍長は牌に同伍四人の姓名を書く。二十五人を甲とし甲正は牌に伍長五人の姓名を書く。百人を隊とし隊将は牌に甲正四人の姓名を書く。五百人を部とし部将は牌に隊将の正副十人の姓名を書く。二千五百人を軍とし統制官は牌に部将の正副十人の姓名を書く。新たに募る軍と御営司の兵はすべてこの法で編制させ、さらに陝西・山東の諸路の帥臣にもこの法に依って互いに応援し、呼び出しや指令は牌に照らして行うよう詔した。
  • 辛未、皇子の趙旉が生まれ、大赦が行われた。李綱は、陛下の即位に伴う広大な恩が河北・河東と勤王の師にだけ及んでいないと述べた。両河は朝廷のために堅く守っているのに赦令が及ばなければ、人々はもう棄てられたと思う。それでどうして忠臣義士の心を慰められよう。勤王の師は道中に半年もあり、甲を着け戈を担いで霜露を犯した。まだ功を立てていないとはいえ労苦は大きく、病や死も出ている。恩恤が及ばなければ、後日の急難に誰を使えるのか。この赦を機に広く德意を示されたい、と。帝はこれに従い、人心は一斉に和らいだ。折しも敵を破ったという捷報も届くようになり、諸郡を囲んでいた金の兵はしばしば引き揚げた。
  • 丁亥、諸路に兵を募り馬を買い、民に財を出させるよう詔した。李綱の建言による。李綱は三議を上げた。第一に募兵、第二に買馬、第三に民から財を募って軍費を助けること。あわせて、熙寧・元豊のころ内外の禁軍は五十九万いたが、今の禁軍は手薄で、これでどうして強敵を防ぎ四方を鎮められよう、財を東南に取り兵を西北に募り、数十万を得て諸将に付けて時をかけて練れば、久しからずしてみな精兵になる、これが最も急務だと述べた。そこで陝西・河北・京東西路に十万の兵を募って交替で入衛させ、河北西路では官民の馬を買い上げ、民に財を出させて国を助けさせることとした。李綱はさらに、歩は騎に勝てず騎は車に勝てないとして、戦車の制を京東西路に頒布して製造と教習をさせるよう請うた。
  • 丁亥、張所を河北招撫使とした。もと靖康年間、張所は蠟書で包囲を冒して河北の兵を募った。士民は書を得て喜び、朝廷は自分たちを棄てたが、まだ張察院ひとりが引き立てて用いてくれると言い、応募する者が十七万人に上った。これにより張所の名声は河北に響いた。
  • 帝の即位後、張所は陵寝の視察に遣わされ、帰って上言した。河東・河北は天下の根本であるのに、先に姦臣の謀を誤って用い、まず三鎮を割き、続いて両河を割いた。その民の怨みは骨髄に入り、今も腕を握りしめて憤らぬ者はない。これを用いれば守りの力に借りられるが、そうしなければ両河の兵民は望みをかける先を失い、陛下の事業は去ってしまう、と。あわせて帝が速やかに京城へ還るよう請い、五つの利を挙げた。宗廟を奉じ陵寝を保つのが一、人心を慰め安んじるのが二、四海の望みをつなぐのが三、河北割地の疑いを解くのが四、早く居所を定めて辺防に専心できるのが五である。国の安危は兵の強弱と将相の賢愚にあって、都を遷すか否かにはない。兵が弱く将士が愚かなら、江を渡って南へ行っても身を保てない、と述べた。さらに黄潜善が姦邪で新政を害するだろうと言った。帝はそのころ潜善を信任していたので、張所を江州に貶した。ここに至って李綱の推薦で河北招撫使に用いられ、内府の銭百万緡を賜り、姓名を空けた告身千余通を渡され、京西の兵三千で身を守らせ、将佐や官属は自ら任用でき、一切を臨機に処置してよいとされた。
  • 張所は入対して利害を条陳し、司を北京に置き、態勢が整ってから黄河を渡りたいと願い出た。河北転運副使の張益謙は黄潜善の意を汲み、招撫使が騒ぎのもとだと奏し、河北に司を置いてから盗賊がいっそう盛んになったと述べた。李綱は、張所はまだ京師に留まっているのに益謙はどうしてその騒ぎを知るのか、河北の民は帰る所がなくて集まり盗賊となるのであって司を置いたせいではない、益謙が道理に外れてこう妨げるからには裏で誰かに言わせている者がいる、と論じた。帝は益謙に釈明を命じた。命が枢密院に下ると、汪伯彦はなおその奏を用いて招撫司を詰責した。李綱と伯彦は激しく争い、伯彦は言葉に詰まった。
  • 張所は豪傑を招き寄せ、王彦を統制に抜擢した。当時、岳飛が上書して言った。陛下はすでに大宝に即かれ社稷に主があり、敵を伐つ謀を立てるに足り、勤王の師も日々集まっている。敵はこちらを弱いと侮っているのだから、その怠りに乗じて撃つべきだ。黄潜善と汪伯彦は聖意を承けて恢復を図らず、日々南への行幸を謀っており、中原の望みをつなぐには足りない。陛下は敵の巣穴が固まらぬうちに親しく六軍を率いて北へ渡られたい。そうすれば将士は気を奮い、中原は回復できる、と。岳飛は職を越えて事を言ったとして官を奪われ、河北に帰って張所のもとを訪ねた。
  • 張所は岳飛を中軍統領とし、お前はどれほどの敵に当たれるかと問うた。飛は、勇は頼みにならない、用兵はまず謀を定めることにある、欒枝が柴を引きずって荊を破り、莫敖が薪を採るふりをして絞を陥れたのは、いずれも謀が定まっていたからだと答えた。張所は驚き、君は行伍の人ではあるまいと言った。飛はそこで張所に説いた。国家が汴に都したのは河北を頼んで固めとしたからだ。要衝に拠って重鎮を並べ置けば、一城が囲まれても諸城が敵を掻き乱すか救援するかし、金人は河南をうかがえず、京師という根本の地は固まる。招撫使が本当に兵を率いて国境に迫るなら、飛はその命に従うのみだ、と。張所は大いに喜び、飛を武経郎に借補した。

建炎元年秋七月(1127年)

  • 己丑朔、王𤫉を河東経制使とし、傅亮をその副とした。また銭蓋を陝西経制使とした。
  • 甲辰、右諫議大夫の宋齊愈を市中で処刑した。もと齊愈は李綱の募兵・買馬・括財の三事を非として論じたが、取り上げられなかった。折しも僭逆と偽命の罪が議されていた際、邦昌の姓名を紙に書いて衆に示したのはまさに齊愈だったため、獄に逮えられた。齊愈は罪を認め、東市で戮された。
  • このころ帝は手詔で東南への巡幸の日を択ばせた。李綱は、車駕の巡幸先は関中が上、襄陽が次、建康が下であり、たとえ上策を行えなくとも、せめて襄陽・鄧州に赴いて故都を忘れぬ姿勢を示し天下の心をつなぐべきだ、そうしなければ中原は我が有でなくなり、車駕が闕に還る日はなくなる、と述べた。帝はそこで両京に還都の意を諭し、読んだ者は感激して涙した。
  • ところがほどなく帝の意はまた変わった。李綱は不可であることを極言した。古来、中興の主が西北に起これば中原を押さえて東南を保てるが、東南に起これば中原を回復して西北を保つことはできない。天下の精兵と健馬はみな西北にある。中原を委ねて棄てれば、金人が隙に乗じて内地を騒がすだけでなく、盗賊も蜂起して乱をなし、州や邑にまたがるだろう。そうなれば陛下が闕に還ろうとしても叶わない。まして兵を治め敵に勝って二聖を還すなど望むべくもない。南陽は光武の興った地であり、高山峻嶺があって扼するに足り、広い城と平野があって兵を屯するに足り、西は関陝に隣して将士を召せ、東は江淮に達して穀物を運べ、南は荊湖・巴蜀に通じて財貨を取れ、北は三都に対して救援を遣れる。しばらくそこに駐蹕を議し、そのうえで汴都に還る。これに勝る策はない。今、舟に乗って流れに順い東南へ行くのはまことに安楽だが、ひとたび中原を失えば東南も無事とは限らず、一隅に退いて保とうとしても叶うまい。まして中原に留まると詔を降して人心が悦服したばかりだ。詔の墨も乾かぬうちに大信を失ってどうするのか、と。帝はもっともとした。
  • 丙午、南陽への巡幸を定める詔が下り、范致虚を知鄧州として城池を修め宮室を繕い銭穀を運んで充実させることとした。だが汪伯彦と黄潜善は密かに揚州の議を主張していた。ある人が李綱に、世論は騒然としていて東への行幸はもう決まったと言っている、と告げた。李綱は、国の存亡はここで分かれる、自分は進退を賭けて争うと答えた。

建炎元年八月(1127年)

  • 壬戌、李綱と黄潜善を尚書左右僕射兼門下侍郎・中書侍郎とした。李綱がつねに帝に侍して靖康のころのことに話が及んだとき、帝が、欽宗は政事に勤め章奏を読んで夜通し眠らないほどだったのに、ついに播遷に至ったのはなぜかと尋ねた。李綱は、人主の職は人を知ることにあり、君子を進め小人を退ければ大功は成る、そうでなければ書類を秤で量るほど読んでも益はないと答え、あわせて、明察と寛恕をもって人の言を尽くさせ、恭倹をもって国用を足し、英断果決をもって大事を断ずるよう帝に勧めた。帝はこれを嘉して受け入れた。李綱の論諫は言葉が切実で率直だったが、帝は当初これをすべて容れていた。ところがこのころには黄潜善・汪伯彦の言に惑わされ、しばしば奏を留め置いて返答しなくなった。

史論(呂中曰)

  • 李綱が宰相となって以来、英明にして德を全うすることを人主に勧め、政を修め夷を攘うことを自らの任とした。忠を尽くした数々の上疏はいずれも時弊の急所を突いた。和すべきか守るべきかの議が決して国是が明らかとなり、僭逆の罪が正されて士気が奮い立ち、行幸先の謀が定まって人心が安んじた。ほかにも軍政を修め、士風を改め、経制を定め、弊法を改め、兵を募り馬を買い、要害に兵を配し、張所を遣って河北を招撫させ、王𤫉に河東を経制させ、宗澤を京城の留守とし、西は関陝を顧み、南は襄陽・鄧州を修繕し、さらに要地に拠って必ず中原を守り抜く計を立てようとした。朱子が、李綱が入って初めて朝廷らしくなったと言ったのは、まさにこのことを指している。

  • 乙亥、河東経制副使の傅亮を行在に召し戻し、李綱が罷免された。当時、傅亮の軍が進発して十余日たったところで、黄潜善らはぐずついていると見なし、東京留守に亮の軍を節制させ、その日のうちに黄河を渡らせようとした。亮は、態勢が整わないうちに渡河しては国事を誤ると述べ、李綱もそのために取りなしたが、潜善らは受け入れなかった。李綱は、招撫・経制の二司は自分が建議したもので、張所・傅亮もまた自分が薦めて用いた者だ、今、黄潜善と汪伯彦が所と亮を妨げるのは自分を妨げるためだ、自分は靖康の大臣不和の失敗をつねに戒めとし、事はかならず潜善・伯彦と議してから行ってきたのに、二人の心構えはこの通りだ、陛下には虚心にご覧いただきたい、と述べた。

  • やがて傅亮を行在に召すことになると、李綱は、聖意がどうしても亮を罷めるおつもりなら、黄潜善に施行を委ね、自分は身を退いて田里に帰らせていただきたいと述べた。李綱が退出したのち、亮はついに罷められた。李綱は重ねて疏を上げて去ることを求めた。帝が、卿の争っているのは細かな事なのに、なぜそこまで言うのかと問うと、李綱は、今は人材と将帥こそ急務であり、小事ではない、先に行幸のことで潜善・伯彦と意見を異にしたので彼らに憎まれているのだろう、しかし自分は東南の人であり、陛下が東へ行幸されて安楽になるのを願わぬはずがない、ただ一度中原を去れば後患は言い尽くせないのだ、と答えた。そして、宗廟社稷を心に、生民を意に、二聖がまだ還らぬことを念頭に置き、自分が去ったからといって議を改めないでいただきたい、自分は左右を離れても一日たりとも陛下を忘れない、と泣いて辞して退いた。
  • ある人が、公は進退の決断において義にかなっているが、讒言する者はどうするのかと言った。李綱は、自分は君に仕える道を尽くすことを知っており、それが叶わなければ進退の節を全うするだけだ、禍患は顧みるところではない、と答えた。
  • 折しも侍御史の張浚が、李綱は私意で宋齊愈を殺したと弾劾し、あわせてその募兵・買馬を非として論じた。潜善・伯彦らも重ねて李綱を排斥し、帝に去らせるよう請うた。そこで李綱は罷められて観文殿大学士とされた。張浚の弾劾がやまなかったので、職を落とされて提挙洞霄宮とされた。宰相の位にあったのは通算七十七日だった。
  • 李綱が罷められると招撫司・経制司は廃され、車駕はついに東へ行幸し、両河の郡県は相次いで陥落した。李綱の立てた軍民の政策はすべて廃止され、金兵はいよいよ勢いを増し、関中・京兆一帯は荒廃し、中原には盗賊が蜂起した。
  • 壬午、太学生の陳東と布衣の欧陽澈が殺された。陳東は丹陽から召されて来たがまだ拝謁を得ておらず、李綱の罷免に際して上書して、李綱を留め黄潜善・汪伯彦を罷めるよう請うたが返答がなかった。さらに上疏して、帝が親征して二聖を還し、進軍しない諸将の罪を正して士気を奮い立たせ、車駕は京師に還って金陵へ行幸すべきではない、と請うたが、これも返答がなかった。
  • 折しも撫州の布衣の欧陽澈が徒歩で行在に赴き、闕下に伏して上書し、政権を握る大臣を激しく詆った。潜善はすぐさま言葉巧みに帝の怒りを煽り、速やかに誅さなければまた衆を煽って闕下に伏させると述べた。上書は潜善のもとにだけ下された。
  • 府尹の孟庾が陳東を召して事を議すると言うと、東は食事をしてから行くと請い、自ら家事の処置を書いたが、筆跡は平生のままだった。書き終えて従者に渡し、自分が死んだらこれを親に届けよと言った。食べ終えて厠に立つと、吏が困った顔をした。東は笑って、自分は陳東だ、死を畏れるなら初めから言わない、言った以上どうして死から逃げようかと言った。吏は、自分も承知しているが強いるほかないのだと答えた。まもなく東は冠と帯を整え、同宿の者に別れを告げ、欧陽澈とともに市中で斬られた。四明の李猷が遺体を買い取って葬った。東はもともと李綱と面識がなく、ただ国事のために死んだのであり、知る者も知らぬ者もみな涙を流した。
  • 乙酉、許翰が罷められた。翰は、李綱は忠義が抜きん出ており、これを捨てては中興を輔ける者がない、その李綱が罷められた以上、自分が留まっても益はないと述べ、しきりに辞任を求めたが、帝は許さなかった。陳東が殺されると、翰は、自分も陳東もともに李綱のために争った者だ、東が市中で戮されたのに自分が廟堂にいられようかと言い、八度も章を上げて罷免を求め、ついに資政殿大学士・提挙洞霄宮となった。