宋史紀事本末高宗、統を嗣ぐ(高宗嗣統)

金への使者として北へ向かった康王構が、磁州で宗澤に諫められ民が王雲を殺したことで難を免れ、相州で蠟詔を受けて兵馬大元帥となり、大元帥府を開いて河北の兵を集める経緯を記す。宗澤は単独で開德・衛南に転戦して金軍を破ったが、汪伯彦・耿南仲らが進軍を渋って京城は救えず、二帝は北へ去った。元祐皇后が宝を奉じて即位を勧め、康王は応天府で即位して建炎と改元した。靖康元年(1126年)十月から建炎元年(1127年)五月までを扱う。

年表(7件)

欽宗靖康元年冬十月(1126年)

  • 詔が下り、馮澥が康王の副使として金の斡里雅布の軍へ赴くことになった。先に王雲が真定の斡里雅布軍に至ったとき、金側は従吏を先に帰して、康王が軍に来れば和議を議すると言い、あわせて金使の王汭らも来ていたため、帝は馮澥を康王の副とした。王雲が戻ると、重ねて詔して王雲を資政殿学士として王の副とした。
  • 康王は滑・濬を経て磁州に至った。守臣の宗澤が出迎え、肅王は一度行ったきり戻らず、今また敵は言葉を飾って大王を招いている、その兵はすでに迫っているのだから、行ったところで何の益もない、と行かぬよう願った。王が嘉応神祠に参拝に出たとき、王雲は後方にいた。民が道をふさいで北へ行かぬよう諫め、声を張り上げて王雲を真の姦賊だと指さし、そのまま王雲を捕らえて殺した。
  • このころ斡里雅布は黄河を渡り、遊撃の兵が日々磁州城下に現れて王の所在を探った。相州にいた汪伯彦はこれを知り、急ぎ帛に書いた書で王に相州へ来るよう請い、武装して兵を率い黄河の北で迎えた。王は相州に着いて伯彦を労い、いずれ主上にお会いしたら真っ先に京兆の任に推挙しようと言った。伯彦はこれによって知遇を得た。
  • 相州の人の岳飛も劉韐を通じて王に見えた。王は賊の吉倩を招くよう命じ、吉倩が降ったので飛を承信郎とした。この一件について、王雲が死ななければ王は必ず金に至り帰る道理はなかった、と論ずる者があった。

靖康元年閏十一月(1126年)

  • 殿中侍御史の胡唐老が、康王が使いとして磁州に至り士民に引き留められたのは天意である、その場で大元帥に任じ天下の兵を率いて救援に入らせるべきだと言上した。何㮚も同意し、密かに詔の草案を作って上奏した。
  • 帝は決死の士を募って秦仔ら四人を得、蠟丸の詔を持たせて相州へ遣り、王を兵馬大元帥・知中山府とし、陳遘を元帥、汪伯彦と宗澤を副元帥として、河北の兵をことごとく起こし急ぎ京を守らせることとした。秦仔は相州に至り、髪の中から詔を取り出した。王はこれを読んで咽び、軍民も心を動かされた。

靖康元年十二月(1126年)

  • 康王は相州に大元帥府を開いた。兵は一万人あり、五軍に分けて進み、大名に駐屯した。宗澤は二千人で金人と力戦して三十余の砦を破り、氷を踏んで河を渡って王に見え、京城が包囲されて久しく救援は緩められないと述べ、王もこれを容れた。
  • ほどなく知信德府の梁揚祖が三千人を率いて到着し、張俊・苗傅・楊沂中もみな麾下に加わって、軍威はやや振るった。
  • そこへ帝が曹輔に蠟詔を持たせて遣わし、金人が城に登ったが下らず、和議を議しているところなので、近郊に兵を屯して動くなと伝えた。汪伯彦らはみなこれを信じたが、宗澤ひとりが、金人は狡猾でこちらの軍を足止めしたいだけだ、君父が救援を待つ思いは飢渇どころではない、急ぎ軍を澶淵へ直進させ順に塁を築いて京城の囲みを解くべきで、万一敵に別の企みがあってもこちらの兵はすでに城下にいる、と論じた。伯彦は難色を示し、宗澤だけを先行させるよう王に勧めた。王は宗澤に澶淵へ向かうよう命じ、これ以後、宗澤は帥府の事に与れなくなった。
  • 耿南仲と汪伯彦が軍を東平へ移すよう請い、王はこれに従った。

靖康二年春正月(1127年)

  • 宗澤は大名から開德に至り、金人と十三度戦っていずれも勝った。そこで書を送って康王に諸道の兵を京城に集めるよう勧め、さらに北道総管の趙野、河東北路宣撫の范訥、知興仁府の曽懋にも書を送って兵を合わせ救援に入るよう促した。だが三人とも宗澤を狂人と見て答えなかった。
  • 宗澤は孤軍のまま進んで衛南に至った。先駆けが前方に敵営があると告げると、宗澤は兵を指揮して真っ直ぐ進み、戦ってこれを破った。転戦して東へ向かうと敵は新手を繰り出し、部将の王孝忠が戦死し、前後はすべて敵の塁となった。宗澤は、今日は進んでも退いても死ぬ、死中に活を求めるほかないと令を下した。士卒は必死を悟り、一人が百人に当たらぬ者はなく、数千を斬って金人は大敗し数十里退いた。
  • 宗澤は敵が必ず再来すると読んで日暮れに陣を移した。金人が夜に至って空の陣を見て大いに驚き、これ以後は宗澤を憚って出て来なくなった。宗澤は不意を突いて兵を大河の向こうへ渡らせ、襲撃して破った。

靖康二年二月(1127年)

  • 康王が済州に至った。当時、王のもとには八万の兵があり、済州・濮州の諸州に分屯していた。高陽関路安撫使の黄潜善、総管の楊惟忠も部下の兵数千を率いて東平に至った。王は真定総管の王淵に三千人を与えて救援に入らせた。
  • 金人はこれを聞き、甲士と中書舎人の張澂に、汴京から帝の蠟詔を持たせて遣り、王に兵を副帥に預けて京へ帰るよう命じさせた。王が左右に諮ると、後軍統制の張俊が、これは金人の詐術にすぎない、いま大王が外におられるのは天の授けたものであり、むざむざ出向くべきではないと述べ、進兵を請うた。王はそのまま済州へ向かった。
  • ほどなく金人が五千騎で康王を捕らえる謀があると呂好問が聞きつけ、人を遣って書を届け、大王の兵で撃てると見れば迎え撃ち、無理なら遠くへ避けるべきだと申し上げた。

靖康二年夏四月(1127年)

  • 金人が二帝を伴って北へ去った。宗澤は衛にあってこれを聞き、ただちに軍を率いて滑へ向かい、黎陽を経て大名に至り、そのまま黄河を渡って金人の帰路を押さえ、二帝を奪い返そうとした。しかし勤王の兵はついに一つも到着せず、果たせなかった。
  • このころ張邦昌は元祐皇后孟氏を禁中に迎えて垂簾聴政を請うていた。皇后は馮澥を奉迎使とし、謝克家および康王の舅である忠州防禦使の韋淵とともに、大宋受命の宝を奉じて済州に赴き即位を勧めさせた。到着すると王は慟哭して宝を受け、克家を京に帰して即位の儀式や器物の手配に当たらせた。
  • 皇后は自ら書を記して中外に告げた。その趣旨は――敵国が兵を起こして都城が陥り、妖気が宮闕をおおって二帝は塵をかぶる身となり、宗廟にまで誣いが及んで天下の命運が改まるかと言われた。人々は中原に主のないことを恐れ、やむなく旧臣に朝に臨ませたが、当人は色に義を表して死をもって辞した。だが事は危急に迫り、権道によらねば救えなかった。内には民の絶えなんとする命を拯い、外には隣国の迫る威を緩め、こうして九廟の安泰を成し一城の惨禍を免れた。そのうえで老い衰えたわが身を閑居のうちから起こして宮闈に迎え、位号を進め、欽聖以来の典礼に倣い、靖康に復そうとした心を成そうとしたのである。国運の困難を思い、国家の傾覆を座視し、身を撫しては独りあって涙をどこへ向けようもない。太祖が基を開いたのはまことに天の眷命によるもので、二百年のあいだ人は戦を知らず、九代の君に位を伝えて世に失德はなかった。一族こそ北へ運ばれる災いに遭ったが、天下はこぞって漢の諸呂を討ったときのように王室に心を寄せている。そこで賢王に眼を向ければ、すでに近く服する地にあり、人々の請いに従って神器の帰するところを担わせる。康邸の旧藩から宋朝の大統を嗣ぐのである。漢家が十代で厄に遭い光武の中興を得たように、献公の子九人のうち重耳ひとりが残ったように、これは天意であって人の謀ではない。なお中外が心を協せ、ともに安危を定める計を立て、しばしの休息を経て太平に至ることを期す。この意をよく汲んでほしい――というものだった。
  • 済州の父老が軍門に詣で、四方から城中に天を衝く火光が見えると告げ、王に即位を請うた。宗澤と権応天府の朱勝非も来て、南京は太祖が王業を興した地であり、四方の中心を取って漕運もことに容易だと述べた。王はそこで応天府へ向かう決意を固めた。
  • 滑州を発つと、鄜延副総管の劉光世、西道都総管の王襄、宣撫司統制官の韓世忠がいずれも軍を率いて合流した。王は応天に至り、府門の左に壇を築かせ、五月庚寅朔の即位を期し、靖康二年を建炎元年と改めた。

高宗建炎元年五月(1127年)

  • 庚寅朔、帝は壇に登って天命を受け、終わると慟哭して遥かに二帝に謝し、応天府の府治で即位して大赦を行った。張邦昌および金国への供奉に関わった者は一切問わず、ただし蔡京・童貫・朱勔・李彦・孟昌齢・梁師成・譚稹の子孫だけは今後も採用しないとした。この日、元祐皇后は東京で簾を撤した。
  • 辛卯、遥かに靖康帝に尊号を奉り、孝慈淵聖皇帝とした。
  • 黄潜善を中書侍郎、汪伯彦を同知枢密院事とした。
  • 元祐皇后を尊んで元祐太后とした。
  • 遥かに生母の韋氏を尊んで宣和皇后とし、遥かに夫人の邢氏を皇后に立てた。
  • 乙未、呂好問を尚書右丞とした。もと元祐太后が好問に手書を奉じて応天へ遣わしたとき、帝は彼を労って、宗廟が全きを得たのは卿の力だと述べており、この任命はそれによる。
  • 当時、王淵と楊惟忠は河北の兵を、劉光世は陝西の兵を、張俊と苗傅は帥府の兵と降った賊の兵を率いて、いずれも行朝にあったが統一が取れていなかった。そこで御営司を置いて行幸を掌り軍政を統一させ、黄潜善に御営使を兼ねさせ、汪伯彦をその副とした。王淵を都統制、劉光世を提挙一行事務、韓世忠を左軍統制、張俊を前軍統制、楊惟忠を主管殿前公事とした。