宋史紀事本末張邦昌の僭逆(張邦昌僣逆)

金が呉幵・莫儔を通じて趙氏以外の擁立を迫り、王時雍・范瓊らが百官を囲んで張邦昌を推立し、大楚の帝位に即けた顛末を記す。馬伸・呉給・秦檜は皇太子擁立を主張し、呉革は挙兵を謀って殺された。邦昌は自ら「予」と称して詔を手書と呼び、呂好問・馬伸・趙子崧の諫めを受けて元祐皇后を迎え、康王に位を返した。靖康二年(1127年)二月から三月までを扱う。

年表(2件)

欽宗靖康二年二月(1127年)

  • 金は翰林承旨の呉幵と吏部尚書の莫儔を城内に送り込み、趙氏以外から君主にふさわしい者を推立せよと命じた。
  • 呉幵・莫儔が再び百官を集めて協議させたが、誰も口を開かず、互いに顔を見合わせるばかりで案が出なかった。王時雍が二人に問うと、金側の意中は張邦昌にあるとほのめかされたが、王時雍はまだ半信半疑だった。そこへ金の陣営から戻った尚書員外郎の宋齊愈が、紙片に「張邦昌」と三字書いて示したため、王時雍は意を決し、邦昌の姓名を議状に書き入れた。
  • 張叔夜は署名を拒み、金人に捕らえられて軍中に留め置かれた。太常寺簿の張浚、開封士曹の趙鼎、司門員外郎の胡寅はいずれも太学へ逃げ込んで署名せず、唐恪は名を書いたのち毒を仰いで死んだ。
  • 同じ日、王時雍は改めて百官を秘書省に集め、着くやいなや門を閉ざして兵で取り囲み、范瓊に邦昌擁立の意向を伝えさせた。一同がただ従うなか、御史の馬伸だけが奮い立ち、諫官の職にある者が座視できるかと言い、御史の呉給、中丞の秦檜と申し合わせて議状を作り、皇太子を立てて四方を安んじるよう願い出た。あわせて邦昌が上皇の代に国を蝕み政を乱して社稷を傾けた張本人だと論じたため、金人は怒って秦檜を連行した。

靖康二年三月(1127年)

  • 金人は張邦昌を城内に入れ、尚書省に住まわせ、百官に列を作って迎え即位を勧めさせた。
  • 閣門宣贊舎人の呉革は、まず范瓊の一党を誅殺し、二帝を奪って移し、邦昌を討つ計画を立て、三月八日の挙兵を期した。同志は呂好問・馬伸・張所・呉倫ら数人。ほかに内親事官数百人が、異姓を君主に立てることに屈するのを忍びえず、妻子を殺し住居を焼いて義挙に加わった。しかし期日の二日前、甲冑の兵数百人が扉を押し開けて入り、邦昌が七月に冊命を受けるので急ぎ挙兵をと告げた。呉革は甲を着けて馬に乗り咸豊門に至ったが、四方は范瓊の一党で、だまされて帳中に入ったところを捕らえられた。逆党に従えと脅されたが、口を極めて罵り、首を伸ばして刃を受け、顔色ひとつ変えなかった。配下の百人もみな死んだ。
  • 金人が冊書と宝を奉じて到り、邦昌を帝に立て、国号を大楚とした。邦昌は北に向かって拝舞して冊を受け即位し、文德殿に上って御床の西に席を設けて賀を受け、閣門を通じて拝礼を無用と伝えさせた。王時雍が百官を率いて拝そうとしたのに対し、邦昌は東を向いて手を拱くだけだった。この日は砂塵が舞い、日は暈をかぶって光を失い、百官はみな沈痛な面持ちで、邦昌自身も顔色を変えた。喜色を浮かべて佐命の功があると思ったのは王時雍・呉幵・莫儔・范瓊らだけだった。
  • 邦昌は内心落ち着かず、百官の官名にすべて「権」の字を加えて任じた。王時雍を知枢密院事・領尚書省、呉幵を権同知枢密院事、莫儔を権僉書院事、呂好問を権領門下省、徐秉哲を権領中書省とした。百官に対しては自らを「予」と称し、詔は「手書」と呼び、改元はしなかったが公文書からは年号を除かせた。ただし呂好問の発する文書だけは靖康二年と記していた。
  • 百官もまだ邦昌を天子として遇さなかったが、王時雍だけは事を奏するたび「臣、陛下に啓す」と称し、さらに紫宸殿・垂拱殿に坐して金の使者に会うよう勧めた。呂好問が争ってこれを止めさせた。王時雍が大赦を行おうと言い出したときも、好問が四方の外はもはや我が有ではない、誰を赦すのかと論じ、城中だけの赦にとどめ、郎官を選んで四方への密諭使とした。
  • 金人が引き揚げるにあたり、邦昌は陣営に出向いて送別の礼を行った。赭袍を着し紅蓋を張り、行く先々で香案を設けて起居の礼を受け、時雍・秉哲・幵・儔らも随行した。これを見た士庶で心を痛めない者はなく、都の人々は王時雍を「売国の周旋屋」と呼んだ。
  • 当時、上皇は金の軍中にあって邦昌の僭位を聞き、邦昌が節を守って死ねば社稷の重みは増したろうに、君位を奪った以上は自分の行く末も決したと嘆き、涙が襟を濡らした。
  • 金人が邦昌護衛のため兵を残そうと議したとき、呂好問は南北で風土が違い北の兵は馴染めず不和になると説いた。金人が貝勒一人に統率させればよいと言うと、好問は貴人に万一のことがあれば罪はいっそう重くなると答え、金人は兵を残さず去った。
  • そこで好問は邦昌に、本気で帝位に即くつもりか、それとも一時しのぎに敵意を塞いで機を待つのかと問うた。邦昌がとぼけると、好問は中国の人心の向かうところを説いた。人々はただ女真の兵威を恐れているだけで、女真が去った今も同じ状態が続く保証はない。大元帥は外にあり、元祐皇后は内にある、これは天意であり、速やかに政を返せば禍を福に転じられる。あわせて、尚書省は臣下の居るべき所ではないから殿廬に仮住まいし、衛士に階を挟ませてはならない、金から贈られた袍帯は戎の物だから着てはならない、下す文書に聖旨と称してはならない、今なすべきは元祐皇后を迎え、康王に早く大位に即いていただくことで、そうしてこそ身を全うできる、と説いた。
  • 監察御史の馬伸も書を呈して邦昌に言った。国境を犯した敵に迫られて相公を立て国事を定めたが、相公が死を忍んで尊位に就いたのは、敵が退けば必ず復辟できると信じたからだろう。忠臣義士がすぐに死なず、城中の人々が変を起こさなかったのも、相公が趙氏の遺孤を守れると考えたからだ。今や敵が退いて久しく、我が君の子の所在も知れているのに、なお禁中にあって元の身なりに戻らず臣列に就かないのは、外に強敵の威を頼み、人を遣って康王に南へ逃れるよう説かせ、そのうえで位を返さぬ算段をしているように見える。ひとたび騒動が起これば初心に背くことになる。速やかに改め、服を替えて省に帰り、諸事は太后の命を受けて行い、急ぎ康王を京に迎え、その日のうちに門を開いて勤王の師を労い、隔てのないことを示すべきだ。内外への赦書や恩恵で人心を収めるたぐいの措置は差し止めておき、趙氏が立った日に施行すればよい。そうすれば中外の疑いは解け禍は福に転じる。さもなければ自分は死ぬだけで、相公を輔けて叛臣となる気はない、と。
  • 邦昌の僭立以来、意見を述べる者はみな君臣の礼を用いていたが、馬伸が初めて「太宰相公」と呼びかける書を寄せた。これが届くと邦昌は気勢を削がれた。
  • 邦昌は元祐皇后を尊んで宋太后とし、延福宮に迎え入れ、人を済州に遣って康王の所在を尋ねさせた。その策文にある太后への言葉には「宋氏の初め、まず西宮の礼を崇めたことを念う」とあり、これは太祖即位のとき周の太后を西宮に迎え入れた故事を用いたものだった。識者はみな、邦昌の意が本心から趙氏のためではないと見抜いた。
  • 宗室の趙子崧は知淮寧府として二帝の北遷を聞き、江淮経制使の翁彦国らと壇に登って血をすすり、ともに王室を助けると誓った。書を送って邦昌を叱責し正統に復するよう責め、王時雍らにも激しい語調で諭した。
  • そこで邦昌は改めて謝克家を遣って康王を迎え奉らせた。王時雍は、虎に乗った者は途中で降りられない、よく考えないと後日臍を噬んでも悔いが及ばないと言い、徐秉哲も脇からこれに同調した。だが邦昌は人心が従わないのを知り、時雍の言を聴かなかった。克家は済州に至って即位を勧めたが、康王は許さなかった。
  • 邦昌はさらに蔣師愈らに書を持たせて済州に遣り、金人の推立に従ったのは一時の権宜で国難を和らげるためであり、他意はないと自ら弁明した。康王は返書を与えたうえで宗澤らに、邦昌は偽命を受けた者で道義上は誅討すべきだが、事は権宜から出たかもしれず軽々に動けない、都の近くに軍を進めて甲を按じ変を観るべきだと諭した。宗澤は返書で、邦昌の僭乱は形跡すでに疑う余地がなく、大王は速やかに天討を行い社稷を興復すべきで、決断を欠いてはならないと述べた。
  • 康王は済州から応天府へ向かった。邦昌は拝謁して地に伏し慟哭して死を請い、康王はこれを慰撫した。
  • 王が即位したのち、邦昌の処遇を宰執に問うと、黄潜善らは、邦昌の罪は許されないが金人に脅されたもので、今は自ら帰順したのだから陛下のお決め次第だと答えた。帝は、王爵で遇しておけば後日金人が言いがかりをつけてきたとき、邦昌が天下を挙げて本朝を忘れず宝を返して位を避けた意を告げられる、と述べ、邦昌を太保とし同安郡王に封じた。ほどなく詔して、文彦博の故事にならい月に二度都堂に出て大事の裁決に参与させることとした。