宋史紀事本末蔡京、国を擅にする(蔡京擅國)

建中靖国元年(1101)に童貫らの手引きで召し還された蔡京が、鄧洵武の「愛莫助之図」を機に宰相となり、紹述の名を借りて講議司を置き、党人碑を立てて司馬光以下三百余人を姦党として禁錮した。当十銭の鋳造、御筆手詔、官名改定と、四度にわたる罷免と復相を重ねて権を擅にし、宣和七年(1125)に子の攸との内訌の末、致仕を強いられるまでのおよそ25年間。

年表(11件)

徽宗建中靖国元年十一月(1101年)・蔡京の召還

  • あらためて蔡京を翰林学士承旨とする詔が出た。
  • もともと供奉官の童貫は性が巧みで媚びるのが上手く、人主の微妙な意向を測って先回りして順い承けたので、寵を得た。三呉に赴いて書画や珍奇な品を探し、杭州に幾月も留まったとき、蔡京は昼夜を分かたず彼と交わった。描いた屏風・障子・扇・帯の類はみな貫が日ごとに禁中に届け、あわせて言葉を添えて帝のところで論奏した。これにより帝は京を用いることに意を向けた。
  • 左階道録の徐知常は符水で元符皇后の所に出入りし、太学博士の范致虚と厚かった。そこで致虚が京の才は宰相にできると薦め、知常が宮に入って言った。これにより宮妾も宦官も口を揃えて京を誉めた。
  • そこで京を起こして知定州とし、大名に改めた。折しも韓忠彦と曽布が仲違いし、布は京を引いて自分の助けにしようと謀り、そこでこの召しがあった。
  • 京はまず二事を論じた。第一は「神宗一代の史は、紹聖でなければ元祐の誹謗を正すことができません。今、あらためて詔して修撰に参加させるのは、紛れに改めるものです。史官に、紹聖が掩い蔽ったところを条ごとに具えて天下に示させたい」というもの。第二は「元祐が訴理所を置いて先朝で罪を得た人を雪ぎ、紹聖が安惇と蹇序辰に命じて駁し正させたのは、もとより当然です。ところが二人は坐して除名されました。これでは訴理が是ということになります。二臣の罪が除かれなければ、両朝への謗りはついに残ります」というものだった。疏が奏されて、帝はいよいよ京に傾いた。

建中靖国元年(1101年)・鄧洵武の「愛莫助之図」

  • もともと鄧綰の子の洵武は起居郎だったが、清議に容れられぬことを恐れ、常に主上に知られる道を図っていた。そこで入対して次のように言った。
  • 陛下は神宗の子であられます。今の宰相の忠彦は韓琦の子です。神宗は新法を行って民を利されましたが、琦はしばしばその非を論じました。今、忠彦は神宗の法を改めております。とすれば忠彦は人臣でありながらなお父の志を紹述できるのに、陛下は天子でありながらかえって先帝を紹述できぬことになります。どうしても志を継ぎ事を述べようとされるなら、蔡京を用いるほかありません。
  • さらに「陛下はまさに先の志を紹述されようとしているのに、群臣に助ける者がありません」と言い、そこで「愛莫助之図」を作って献じた。
  • その図は『史記』の年表の例に倣い、横に七重、左右に分けた。左を元豊、右を元祐とし、宰相・執政・侍従・台諫・郎官・館閣・学校をそれぞれ一重とした。紹述を助け得る者を左に序したが、執政では温益と蔡京の一、二人だけ、その他も三、四人を出ず、趙挺之・范致虚・王能甫・銭遹の類にすぎなかった。右に序したのは、朝廷を挙げての輔相・公卿・百執事がみな入り、すべて政を害し紹述を望まぬ者と指されていた。
  • 帝は取り出して曽布に示したが、左の欄の一つの姓名を掲げ隠していた。布が請うと、帝は「蔡京だ。洵武は『この人を宰相にせねばならぬ。卿とは意見が異なるので除いた』と言うのだ」と言った。布は「洵武がすでに臣と異なる以上、臣がどうして敢えてともに議しましょう」と言った。
  • 翌日、温益に改めて付した。益は欣然として奉行し、蔡京を宰相とすることを請い、あわせて異論の者を籍に取った。こうして善人はみな容れられず、帝は京を宰相とすることに意を決した。そこで洵武を中書舎人・給事中兼侍講に進めた。
  • 礼部尚書の豊稷を罷めた。稷は初め諫官として蔡京を論じて罷めさせ、さらに曽布の姦を陳べた。ここに至って貴幸に逆らったことが積もって罷められた。
  • 十二月、邢恕・呂嘉問・路昌衡・安惇・蹇序辰・蔡卞をあわせて宮観に復し、ほどなく郡を与え、張商英を召して闕に赴かせた。

崇寧元年五月~七月(1102年)・蔡京の宰相就任

  • 五月庚申、韓忠彦が罷められた。左司諫の呉材らが忠彦は神考の法度を変え神考の人材を逐うたと論じ、そこで罷めて知大名府とした。
  • 己卯、陸佃が罷められた。佃は常に元祐の人材を参用しようとし、とりわけ奔走競争を憎み、かつて「人材に大きな差はない。資歴に従って昇進させ、少し緩やかにすれば士は自ら重んずることを知る」と言い、また「今の天下の勢いは、人が大病から癒えかけたようなものだ。薬餌で養い助けてその平安を待つべきである。もし軽々しく改作すれば、これは病人に騎射をさせるようなものだ」と言った。
  • 折しも御史が元祐の余党をさらに懲らすことを請うた。佃が帝に「窮め治めるべきではありません」と言い、そこで詔して「元祐の諸臣はそれぞれすでに秩を削られた。今後は何も問わぬ。言者もみだりに言うな」と言って朝堂に掲げさせた。言者はこれによって「佃の名は党籍にある。窮め治めさせぬのは、自分に及ぶことを恐れているだけだ」と論じ、そこで罷めて知亳州とした。
  • 庚辰、許将と温益を門下・中書侍郎、蔡京と趙挺之を尚書左右丞とした。
  • 京は日ごろ屯田員外郎の孫鼛と親しかった。鼛はかつて「蔡子は貴い人だ。しかし才が徳に勝っている。天下に憂いを遺すのではないか」と言っていた。ここに至って京が「私がもし天子に用いられたら、助けてくれ」と言うと、鼛は「公がまことに祖宗の法を謹んで守り、正論で人主を輔け、節倹を示して百吏に先んじ、しかも口を閉ざして兵を言わなければ、天下の幸いです」と答えた。京は黙した。
  • 閏月壬戌、曽布が罷められた。
  • 布は初め王安石の推薦で用いられ、神宗の時、帝の前で言ったことはみな安石が建言したいことだった。さらに上書して神宗に安石を専任させ、刑罰で天下を脅し制して敢えて言う者がないようにさせようとした。哲宗の親政後、宰相の章惇が紹述に託して私憤を快くしたのを、布は力を尽くして賛した。惇が大獄を興したときも救い解けず、あるいはひそかに突き落とした。惇が逐われて布が右揆を総べると、元祐と紹聖を兼ねて行おうとし、それゆえ蔡京を逐うた。
  • 崇寧の初め、上意の向かうところを知ると、あらためて力を尽くして韓忠彦を排してその政を専らにし、京を引いて自らの助けとした。京は旧恨を懐いて布と大いに食い違った。
  • 折しも布が陳祐甫を戸部侍郎に擬した。祐甫の子の迪は布の愛婿である。京が「布は爵禄でその親しい者に私している」と言うと、布は憤って弁じ、久しく声色ともに厳しくなった。温益が叱って「曽布よ、主上の前でどうして礼を失えようか」と言った。帝は不快となり、殿中侍御史の銭遹がこれを論じ、布は辞任を請い、そこで知潤州として出た。
  • 秋七月戊子、蔡京を尚書右僕射兼中書侍郎とした。制が下った日、延和殿で座を賜り、命じて「神宗が法を創り制を立てられたが、中道で究められなかった。先帝がこれを継がれたが、二度の簾帷の変更に遭って国是は定まらなかった。私は上って父兄の志を述べたい。今、特にそなたを宰相とする。そなたは私に教えてくれ」と言った。京は頓首して謝し、「死を尽くさぬはずがありましょうか」と言った。
  • 己丑、元祐の法を禁じた。
  • 甲午、都省に講議司を置くよう詔した。蔡京は逐臣から起こって一朝、志を得たので、天下は目を拭ってその所為を見ていた。ところが京はひそかに紹述の柄に託して天子を箝制し、熙寧の条例司の故事を用いて都省に講議司を置き、自ら提挙して熙寧・元豊にすでに行われた法度、および神宗が行おうとして暇のなかったものを講議した。その党の呉居厚・王漢之ら十余人を僚属とし、政事の大きなものを取って講議させた。設けるところはみなここから出て、法度はたびたび変わって定まらなくなった。
  • 八月己卯、趙挺之と張商英を尚書左右丞とした。商英は中書舎人だったとき、謝表で元祐の諸賢を遍く罵り、翰林学士として蔡京の拝相の制を草したときは褒美を極めた。それゆえ京が引いたのである。
  • 紹聖の役法を復した。

崇寧元年九月~十二月(1102年)・党人碑

  • 己亥、端礼門に党人の碑を立て、元符の末に上書した人を籍に取り、邪と正に分けて等級を定めて黜陟した。
  • 当時、元祐と元符の末の群賢で貶され竄され死に徙された者はほぼ尽きていたが、蔡京はなお満足せず、そこで食客の强浚明・葉夢得と籍を作った。
  • 宰執では司馬光・文彦博・呂公著・呂公亮・呂大防・劉摯・范純仁・韓忠彦・王珪・梁燾・王巖叟・王存・鄭雍・傅堯兪・趙瞻・韓維・孫固・范百禄・胡宗愈・李清臣・蘇轍・劉奉世・范純礼・安燾・陸佃。
  • かつて待制以上の官に任じた者では蘇軾・范祖禹・王欽臣・姚勔・顧臨・趙君錫・馬黙・王蚡・孔文仲・孔武仲・朱光庭・孫覚・呉安持・銭勰・李之純・趙彦若・趙卨・孫升・李周・劉安世・韓川・呂希純・曽肇・王覿・范純粋・王畏・呂陶・王古・陳次升・豊稷・謝文瓘・鮮于侁・賈易・鄒浩・張舜民。
  • その余の官では程頤・謝良佐・呂希哲・呂希績・晁補之・黄庭堅・畢仲游・常安民・孔平仲・司馬康・呉安詩・張耒・欧陽棐・陳瓘・鄭俠・秦観・徐常・湯馘・杜純・宋保国・劉唐老・黄隠・王鞏・張保源・汪衍・余爽・常立・唐義問・余卞・李格非・商倚・張庭堅・李祉・陳佑・任伯雨・朱光裔・陳郛・蘇嘉・龔夬・欧陽中立・呉儔・呂仲甫・劉当時・馬琮・陳彦・劉昱・魯君貺・韓跋。
  • 内臣では張士良・魯燾・趙約・譚裔・王偁・陳詢・張琳・裴彦臣。武臣では王献可・張巽・李備・胡凡。全部で百二十人。
  • その罪状を挙げて姦党と称し、御書を石に刻んで端礼門に立てることを請うた。
  • 京らはさらに詔を下して、元符の末の日食に際して言を求めたときの章疏、および熙寧・紹聖の政に関する章疏を籍に取り、中書に付して正の上中下三等、邪の上中下三等に定めることを請うた。そこで鍾世美以下四十一人を正等としてみな旌表・抜擢し、范柔中以下五百余人を邪等としてそれぞれ降責した。あわせて降責された人は同じ州に住むことを許さぬと詔した。
  • 冬十月戊寅、蔡卞を知枢密院事とした。
  • 十二月丁丑、邪説と偏った行い、先聖賢の書でないもの、および元祐の学術と政事はあわせて用いてはならぬと詔した。

崇寧二年(1103年)・党人の追及と程頤の弾圧

  • 春正月乙酉、任伯雨ら十二人を遠州に安置した。蔡京と蔡卞は元符の末の台諫が自分たちを論じたことを怨み、みな党の事に陥れ、同じ日に貶し竄した。任伯雨を昌化軍、陳瓘を廉州、龔夬を化州、陳次升を循州、陳師錫を柳州、陳佑を澧州、李深を復州、江公望を南安軍、常安民を温州、張舜民を商州、馬涓を吉州、豊稷を台州とした。
  • もともと蔡京が蜀を帥いたとき、張庭堅がその幕府にいた。京は宰相に入って引いて自らの助けとしようとしたが、庭堅は従わず、京は恨んだ。ここに至って庭堅も象州に編管された。
  • 丁未、蔡京を尚書左僕射兼門下侍郎とした。
  • 三月乙酉、党人の子弟が闕下に来ることを禁ずる詔が出た。ほどなくさらに、元符の末に上書して三舎生に充てられた進士は罷めて帰らせ、元祐の学術で徒を集めて教授する者は監司が察知して必ず罰して赦さぬこととし、元符の上書で邪等の人もまた京師に来てはならぬと詔した。
  • 丁亥、集英殿で進士に策を課した。当時、李階が礼部で第一位に挙げられた。階は李深の子で陳瓘の甥である。安忱が対策して「党人の子である階を南宮の多士の魁とすれば、天下に示すものがありません」と言い、そこで階の出身を奪って忱に及第を賜った。
  • また黄定ら十八人がいずれも上書して邪等に入っていた。帝は臨軒して「そなたたちが私の短所を攻めるのはよい。神宗と哲宗がそなたたちに何を負うたのか」と言い、これもあわせて黜けた。
  • 夏四月丁卯、司馬光・呂公著・呂大防・范純仁・劉摯・范百禄・梁燾・鄭雍・趙瞻・王巖叟の十人の景霊宮の肖像を毀つよう詔した。乙亥、范祖禹の『唐鑑』および三蘇・黄庭堅・秦観の文集を毀つよう詔した。
  • 戊寅、趙挺之を中書侍郎、張商英と呉居厚を尚書左右丞、安惇を同知枢密院事とした。
  • 故の直秘閣の程頤の名を除いた。言者が蔡京の意を迎え、「頤の学術はかなり偏り、日ごろの行いは詭怪で、もっぱら奇異で愚俗の耳目を塞ぎ、近ごろは山に入って書を著し、みだりに朝政に及んでおります」と論じた。詔して頤の出身以来の文字を毀ち、その著した書は監司に厳しく察知させた。
  • 范致虚はさらに「頤は邪説と偏った行いで衆聴を惑わし乱し、尹焞と張繹がその羽翼となっております。河南に下して学徒をことごとく逐われたい」と言った。頤はそこで龍門の南に移り住み、四方の学ぶ者を止めて「聞いたところを尊び、知ったところを行えばよい。私の門に来るには及ばぬ」と言った。
  • 八月戊申、張商英が罷められた。商英は紹聖の時、巧みに媚びて容れられ、ともに紹述を唱えたが、ここに至って蔡京と議論が合わなくなった。執法の石豫、御史の朱紱・余深が京の風旨を奉じて弾劾しようとしたが口実がなく、そこで商英が元祐年間にかつて著した「嘉禾頌」で司馬光を周公に擬え、しかも光を祭った酹の文に功徳を褒め頌える語があることを取り上げて、罰を正すよう請うた。詔して「商英は議論が反覆し、貪り冒して求め、元祐の初めには先烈をそしり罵った。台憲が章を交わしている以上、列に置けようか」として職を落とし、知亳州とし、名は元祐の党籍に入れられた。
  • 当時、蔡京はさらに自ら姦党を書いて大きな碑とし、郡県に頒って監司と長吏の庁にみな石に刻ませた。長安の石工の安民が字を鐫るよう命じられたが、辞して「民は愚かで、もとより碑を立てる意を存じません。ただ司馬相公のような方は海内がその正直を称えております。今これを姦邪というのは、民には刻むに忍びません」と言った。府の官が怒って罪を加えようとすると、民は泣いて「役に就いて敢えて辞するのではありません。ただ石の末に『安民』の二字を鐫ることをお免じください。後世に罪を得ることを恐れます」と言った。聞く者は恥じた。

崇寧三年(1104年)・当十銭と党籍の再定

  • 春正月、当十の大銭を鋳造した。太祖以来、諸路に監を置いて銭を鋳造し、折二・折三・当五があって時に応じて制を立てたが、かつて当十銭を鋳造したことはなかった。ここに至って蔡京は利で上を惑わそうとして、初めて諸路で鋳造し小平銭と併用することを請うた。
  • 当時、四方は太平を承けて府庫は満ち溢れていた。京は「豊亨豫大(豊かで安泰の大いなる世)」の説を唱え、官爵を糞土のように扱ったので、歴朝の蓄えは大方、掃き尽くされた。
  • 蔡攸を秘書郎とした。攸は京の長子で帝に寵があった。ここに至って進士出身を賜り、そこでこの任命があった。
  • 夏四月、講議司を罷めた。詔して諸州の現行の新法の文書は尚書省に直達することを許した。講議司の官属は制置三司条例司の例によって恩を推し、張康国以下、官を遷った者は四十人近くに及んだ。
  • 尚書省はさらに「先朝の法度を追復して以来、およそ千百に及びますが、なお講求が尽くされておらぬことを懼れます。諸路の官司に、まだ復興していないものをそれぞれ具えて報告させたい」と言い、従われた。
  • 蔡京が京西北路に交子の通行を専ら管掌する所を置くことを請い、川峡路に倣って偽造の法を立て、事情を通じて転用した者、および隣人で告げなかった者をみな罪とし、私に交子の紙を作った者は徒刑と配流に処した。やがて諸路にあらためて銭引を用いさせ、新様に準じて印製させた。四川は旧法どおりとし、ただ閩・浙・湖広だけは銭引を行わなかった。趙挺之は、閩が京の郷里なので免れたのだと考えた。
  • 六月壬寅朔、熙寧・元豊の功臣を顕謨閣に図した。
  • 癸酉、辟雍が完成した。詔して「荊国公の王安石は孟軻以来の一人である。孔子に配享し、位次は孟軻とせよ」と言った。吏部尚書の何執中が学殿を開いて都の人に自由に観覧させることを請うた。
  • 戊午、元祐・元符の党人および上書して邪等とされた者を重ねて定め、合わせて一籍として全部で三百九人とし、朝堂に石を刻み、その他は籍から出して今後は二度と弾奏せぬよう詔した。
  • 戸部尚書の劉極は「漢唐が政を失ったのは、みな朋党から始まりました。今日、先日の人を党と指す以上、後日、今日を党としないと、どうして分かりましょう。おおむね人の過悪には自ずと公論があります。なぜことごとく籍に拘って禁錮する必要がありましょうか」と言った。蔡京は大いに不快となり、台臣にそれとなく弾劾させ、知蘄州として出した。
  • 秋七月辛卯、方田法をふたたび行った。
  • 八月、許将が罷められた。将は政府に居ること十年、建言するところがなかった。中丞の朱諤が将の古い謝章の表を集めて文句を分析して謗りだとし、あわせて「将は元祐では元豊の守ったところをことごとく改め、紹聖ではひそかに元祐でなしたところを匿した」と言い、そこで罷めて知河南府とした。諤は蔡京の党である。
  • 九月乙亥、趙挺之と呉居厚を門下・中書侍郎、張康国と鄧洵武を尚書左右丞とした。紹聖年間、蔡京が役法を治めたとき康国を属官に薦め、京が国に当たって党籍を定め紹述したとき、康国はみな密謀に与った。それゆえ京が力を尽くして援引し、福建転運判官から三年たたぬうちに翰林に入って承旨となり、そのまま左丞に拝された。
  • 胡師文を戸部侍郎とした。
  • もともと東南六路の糧穀は江浙から綱を起こして淮甸に至り、真州・揚州・楚州・泗州に及んで七つの倉を置き、軍儲を集め蓄えた。あらためて楚州・泗州から汴綱を置いて上京に搬運し、江淮発運使にこれを統べさせた。それゆえ常に六百万石があって京師に供し、諸倉には常に数年の蓄えがあった。
  • 州郡が凶作を告げれば折って上価で収め、これを額斛といった。本州の年ごとの額を計り、倉の蓄えで京師への輸送に代えることを代発といった。あらためて豊作の年に中程度の値で買い上げた。穀が安ければ官が買うので農を傷めず、飢饉なら民に銭で納めさせるので民は便とした。本銭は年ごとに増え、兵の食は余りがあった。その法はまことに善かった。
  • ところが蔡京が国に当たると余剰の財を求めて奢侈の費用に供しようとし、そこでその姻家の胡師文を発運使とし、買米の元手数百万緡を貢納に充てさせて戸部侍郎に入らせた。以来、後を継ぐ者が真似て、時おり献上があり、元手は尽きた。元手が尽きれば買い増しができず、蓄えは空になって輸送搬送の法は壊れた。

崇寧四年~五年(1105-1106年)・蔡卞と趙挺之、そして罷免

  • 四年春正月、蔡卞が罷められた。卞は心の持ち方が傾き邪で、ひたすら婦翁の王安石の行ったところを至当とした。兄の京が晩く世に出ながら位が自分の上になり、自分が宰相になれなかったので、二府の政事はしばしば合わなかった。ここに至って京が童貫を制置使とすることを請うと、卞は「宦者を用いるべきではありません。必ず辺の計を誤ります」と言った。京は帝の前で卞を罵り、卞は辞任を求め、そこで知河南府として出た。
  • 三月、趙挺之を尚書右僕射兼中書侍郎とし、知慶州の曽孝序を嶺南に竄した。
  • もともと孝序が湖北を察訪して闕を通ったとき、蔡京は孝序が帝に会って舒亶の事を言うことを畏れ、密かに食客を遣わして良い官で釣ったが、孝序は従わなかった。さらに京と講議司の事を論じて「天下の財は通流することを貴びます。民の膏血を取って京師に集めるのは、太平の法ではありますまい」と言った。京は含むところがあり、そこで知慶州として出した。
  • ここに至って京が結糴・俵糴の法を行い、民の財をことごとく括って数に充てた。孝序は上疏して「民力は尽きました。ひとたび逃げ移れば、誰とともに邦を守るのですか」と言った。京はいよいよ怒り、御史の宋聖寵を遣わしてその私事を弾劾させ、家人を追捕したが、鍛え上げても何も得られず、ただ「出師の期日を約して危うく軍期を誤った」と言い、除名して嶺表に竄した。
  • 六月戊子、趙挺之が罷められた。もともと帝は蔡京が独り宰相なので右輔を置くことを謀り、京が力を尽くして挺之を薦め、そこで尚書右僕射に拝された。宰相となると京と権を争い、たびたび京の奸悪を陳べ、あわせて位を去って避けることを請い、そこで罷められた。
  • 五年春正月戊戌、彗星が西方に出、その長さは天を貫いた。甲辰、呉居厚を門下侍郎、劉逵を中書侍郎とした。
  • 乙巳、星の変により殿を避け膳を減らし、詔して直言を求めた。劉逵が元祐党人の碑を砕き、上書して邪籍とされた者への禁を寛くすることを請い、帝は従った。夜半に黄門を朝堂に遣わして石刻を毀たせた。翌日、蔡京はこれを見て声を励まし、「石は毀てても名は滅ぼせぬ」と言った。
  • 丁未、太白が昼に見えた。赦して党人への一切の禁を除き、権りに方田の法および諸州の年ごとの貢と供奉の物を罷め、詔して崇寧以来、左降された者は生死を問わずやや官を復し、徙された者をみな還した。
  • 二月丙寅、蔡京が罷められた。
  • 京は姦を懐き党を植え、威福はその手にあった。紹述の名に託して法制を紛れに改め、群賢を貶し斥け、財利の政を増し修め、奢靡に努めて人主を惑わした。動もすれば『周官』の「ただ王は会せず」を口実とし、前朝で財を惜しみ費を省いた者に触れるたびに必ず陋しいとした。土木の営造に至っては、おおむね前の規模を越えて後の観を侈らせようとした。
  • 当時、天下は久しく平らかで、吏員は冗多で濫れ、節度使は八十余員、留後・観察から遥郡の刺史まで数千員に及び、学士・待制は中外で百五十員。応奉司・御前生活所・営繕所・蘇杭造作局を置き、その名は雑然と出て、おおむね奇巧を競って功とした。花石綱の害はとりわけ甚だしかった。
  • ここに至って彗星が現れたことにより帝はその姦を悟り、およそ設けたものを一切、罷め、京を免じて中太乙宮使としたが京師に留めた。言者は論じてやまなかったが、中丞の呉執中が帝に「大臣を進退させるには体貌を全うすべきです」と言い、帝は京のために詔を下して戒め飭したので、言者はやんだ。
  • 趙挺之を尚書右僕射兼中書侍郎とした。蔡京が罷められると帝は挺之を召見して「京の所為はまったくそなたの言のとおりだった」と言い、あらためて右相に拝した。挺之は劉逵と心を同じくして輔政し、およそ京の行った悖理で民を虐げる事を少しずつ整え正した。しかし挺之は後の患いを慮って、建白するたびにその端を開くだけにして逵にその説を終えさせた。逵もまた自ら功としようとして、情のままに顧みなかった。
  • もともと蔡京が辺事を興して兵を用いること数年に及んだ。ここに至って帝は朝に臨んで大臣に「朝廷は四方と隙を生じてはならぬ。釁の端がひとたび開けば、兵が連なり禍が結ばれ、生民は肝脳を地に塗ることになる。人主が民を愛する意であろうか」と語った。挺之は退いて同列に「主上の志は兵を息めることにある。我々は順って助けるべきだ」と言ったが、当時の執政はみな京の党で、ただ微笑するだけだった。
  • 三月丙申、星の変がすでに消えたとして直言を求めるのをやめる詔が出た。ほどなく方田の諸法および諸州の年ごとの貢と供奉の物を復した。
  • 己未、礼部の進士六百七十人に及第・出身を賜った。当時、蔡嶷は蔡京がまもなく復用されると察し、その対策に「熙寧・元豊の德業は天に配するに足りるが、不幸にも元祐がこれに継ぎ、紹聖の纘述は永く頼るに足りるが、不幸にも靖国がこれに継いだ。陛下は二度、言を求める詔を下し、至言を聞いて実用を収めようとされたのに、元符の末に現れた者は、時の変を幸いとして姦言をほしいままにし、隙に乗じて異意を投じ、先烈を誹り誣うことを疑わず、国是を動揺させることを憚らなかった。まだ至らぬうちに逆らって処し、その源を絶たれたい」と述べた。そこで第一に抜擢し、その対策を天下に頒った。
  • 己未、劉逵が罷められた。当時、蔡京はその党に帝へ「京の法度改定はみな上旨を禀けたもので、私になしたのではありません。今、一切を罷めるのは紹述の意ではありますまい」と進言させた。帝はその説に惑い、ふたたび京を用いる意を抱いたが、群臣はまだ気づかなかった。
  • 鄭居中は鄭妃の父の紳のもとに出入りしてこれを知り、ただちに入見して「陛下が建立されたものはみな学校・礼楽・居養・安済などの法で、下を厚くし民を裕かにするものです。何が天に逆らって天の譴めを招いたというので改張されるのですか」と言った。帝は喜んだ。居中は退いて礼部侍郎の劉正夫に語り、正夫は対面を請うたが、その言は居中と一致した。帝はそこで逵が政を擅にしていると疑った。そこで京の党の御史の余深と石公弼が、逵が専恣で反覆し同列を陵み蔑ろにし邪党を引き用いていると論じ、逵を出して知亳州とした。

大観元年~四年(1107-1110年)・再相と鄭居中

  • 春正月甲午、蔡京を尚書左僕射兼門下侍郎とした。壬寅、呉居厚が罷められた。壬子、何執中を中書侍郎、鄧洵武と梁子美を尚書左右丞とした。
  • 子美は初め河北転運使で、漕運の会計を傾けて上に奉じ、緡銭三百万を損なって北珠を買って進めるほどだった。これにより諸路の漕臣が真似て、争って余剰を進めた。北珠は女真から出る。子美は遼から買ったが、遼はその利を嗜んで女真を虐げ、海東青を捕らえさせて珠を求めた。女真は深く怨んだが、子美はこれで顕位を得た。
  • 二月己卯、方田をふたたび行った。
  • 三月丁酉、趙挺之が罷められ、何執中と鄧洵武を門下・中書侍郎、梁子美と朱諤を尚書左右丞とした。
  • 鄭居中を同知枢密院事とした。蔡京の再相には居中の力があり、京が薦めた。もともと居中は直学士院で、自ら鄭貴妃の従兄弟だと言った。妃の家は代々、微賤だったので、これを頼りとして重んじた。ところが居中が枢府に入る頃には妃はすでに貴くなっており、居中を頼るところがなくなったので、宦者の黄経臣の計を用いて親族の嫌疑を理由に請い、中太乙宮使に改め授けさせた。居中は不快だった。
  • 蔡京が「枢府は本兵の地です。三省の執政と違い、親族を用いても嫌疑はありません」と言ったが、経臣が沮んだ。そこで居中は京が自分を援けるのに力を尽くさなかったと疑い、怨んだ。
  • 蔡攸を龍図閣学士兼侍読とした。
  • 葉夢得を起居郎とした。当時、蔡京の再相で、これまで立てられて罷められていた法度がふたたび行われた。夢得は上言して「『周官』の太宰は八柄をもって王に詔して群臣を馭します。いわゆる廃置・賞罰は王の事です。太宰は王に詔せても自ら専らにはできません。そもそも事は可か不可かの二つを出ません。可として陛下から出たものなら、今、二度と不可とはできません。今、ただ大臣の進退で可否とするのは、陛下の心中に了然としないところがあるのではありませんか」と述べた。
  • 上は喜んで「近ごろ士の多くは朋比して媒介で進む。そなたの言だけは様子見がない」と言い、そこで起居郎に除した。
  • 当時、用事する者は小才ある者を喜んだ。夢得は「古来、人を用いるには必ずまず賢と能を弁じました。賢とは徳ある者の称、能とは才ある者の称です。ゆえに先王は常に徳を才に勝らせ、才を徳に勝らせませんでした。崇寧以来、内では議論が朝廷と同じ者だけを純正とし、外では法令を推し行って速やかに成す者だけを幹敏としております。器と業が重きに任じ、識と度が遠きを経る者が格別に表彰されたとは聞きません。才を用いることが勝ちすぎることを恐れます。どうか今後は人を用いるのに徳ある者を先とされたい」と言い、上はもっともとした。
  • 九月、侍御史の沈畸を監信州酒税に貶し、御史の蕭服を処州に竄した。
  • 当時、蔡京は劉逵を怨んでいた。折しも蘇州で銭の私鋳の獄が起こると、京は逵の妻の兄の章綖兄弟を陥れようとし、開封尹の李孝寿を遣わして取り調べさせた。株連された者は千余人、無理に自白させたので死者が甚だ多かった。京はなお緩いとして、侍御史の沈畸と御史の蕭服を代わりに遣わした。
  • 畸は蘇州に至るとその日のうちに、証拠のない者七百人を釈放し、嘆じて「天子の耳目の司でありながら、権要に附会して人を殺し、苟くも富貴を求めてよいものか」と言い、そこで実情を調べて平反して報告した。京は大いに怒り、畸を監信州酒税に貶し、服を処州に羈管し、綖はついに海島に竄された。
  • 閏十月、あらためて鄭居中を同知枢密院事とした。居中はすでに蔡京を怨み、そこでひそかに張康国と結んで京を離間した。
  • 都水使者の趙霆が黄河で首が二つある亀を得て瑞として献じた。京は「これは斉の小白のいう『象罔がこれを見て覇となった』というものです」と言った。居中は「首がどうして二つありましょう」と言い、人はみな驚き異としたが、京だけが主張したのは測りがたい、と言った。帝は亀を金明池に棄てるよう命じ、居中が自分を愛しているとして先の命を重ねた。
  • 太廟斎郎の方軫を嶺南に流した。当時、軫は上書して次のように述べた。
  • 蔡京は社稷を睥睨し、内に不道を懐き、もっぱら熙寧・元豊を紹述する説を自らの売り込みの計としております。内は執政・侍従、外は帥臣・監司、その門人・親戚でない者がありません。京は奏請するたびにすべて御筆として発し、人に「これは上意である」と語ります。翌日、行われなければ、また人に「京が実は啓いたのだ」と語ります。善は自分の功とし、過ちは君のせいにする。必ずや陛下に天下の怨みを集めさせてからやめるつもりです。
  • 元符の末、陛下が位を継がれて以来、忠義の士が匭に投書せぬ日はありませんでした。ところが京は邪等に分けて黥し配し編置して仕籍から除きました。誰が陛下のために言おうとしましょう。
  • 京はさらに子の攸に日ごと花石や禽鳥を献じさせ、陛下を愚かにして天下の治乱を知らせぬようにしようとしております。臣は京が必ず叛くと考えます。京を誅されたい。
  • 詔して京に宣示した。京は軫を獄に下すことを請い、ついに嶺南に流した。
  • 十一月壬子朔、日食があった。蔡京は食分が予測に及ばなかったとして群臣を率いて賀を称えた。
  • 二年春正月戊寅、蔡京に太師を加えた。
  • 三年三月壬申、張康国が急死した。康国は初め蔡京に付いて進んだが、枢府にあってから次第に食い違った。当時、帝は京の専横を憎み、ひそかに康国にその姦を阻ませ、あわせて宰相の位を約した。京は康国を忌み、そこで呉執中を中丞に引いた。執中が康国を論じようとすると、康国は先に知り、朝に奏事したとき残って帝に「執中は今日、入対して必ず京のために臣を論じましょう。臣は位を避けたく存じます」と申した。やがて執中が対面して果たしてその事を陳べたので、帝は怒って執中を黜けた。
  • ここに至って康国は早朝に退いて殿廬に趨ったところで発病し、天を仰いで舌を吐き、待漏院に舁き込まれて没した。毒を疑う者もあった。
  • 六月丁丑、蔡京が罷められた。京が国を専らにして日が久しく、中丞の石公弼と殿中侍御史の張克公が京の罪悪を弾劾する章を数十度も上げた。上もまた京に厭き、そこで罷めて太乙宮使とした。
  • もともと上が端王だった頃、大使局に郭天信という者があり、「王は天下を有せられる」と言った。即位して言が験を得たので寵を得た。天文を奏するたびに必ず指摘して京を揺さぶり、密かに「日中に黒子がある」と申した。帝はそのために恐れた。後にたびたび申してやまず、上は初めて京を疑い、それゆえ罷めた。
  • 辛巳、何執中を尚書左僕射兼門下侍郎とした。執中はひたすら謹んで蔡京に仕え、そのまま代わって首相となった。
  • 太学生の陳朝老が闕に赴いて上書し、「陛下は即位以来、五度、宰相を命じられました。韓忠彦の庸懦、曽布の贓汚、趙挺之の蠢愚、蔡京の跋扈、みな天下の堪えられぬものです。今、陛下は蔡京の奸を知って相印を解かれ、天下の人は鼓舞して生き返ったようです。ところが執中を宰相とされ、中外は暗然として失望しております。執中は京のように国を蝕み民を害することは敢えてせずとも、碌々たる常人で、もとより人に過ぎるところがありません。天下の敗壊はここに至り、人の一身にたとえれば臓腑が病んで深い状態です。どうして凡庸な医者に起こせましょう。執中が縁故で攀じ登って二府の位に至っただけでも大いに幸いです。急に体を経め元を賛けさせるのは、蚊に山を負わせるようなもの、その任に勝てぬことが目に見えております」と述べた。疏が奏されたが取り上げられなかった。
  • 十一月己巳、蔡京が楚国公に進んで致仕し、なお『哲宗実録』の修撰を提挙し、朔望に朝することとなった。
  • 石公弼は「蔡京は京師をうろついて去る意がありません。余威が群臣を震わせております。必ず断ずるご決意で後悔を消されたい」と言った。殿中侍御史の洪彦昇は「蔡京は再度、元宰に居り、紹述の名を借りて一切を改変し、先朝の法度を敗り壊し、姦に朋して国を誤らせ、公私を困弊させました。すでに印を上げながら都城に居座り、上は眷顧の恩に憑り、中に跋扈の志を懐いております。早く英断を賜って京から出されたい」と言った。
  • 殿中侍御史の毛注は「京は擅に威福を持し、中外を動揺させ、翰林学士の葉夢得を腹心として党与を交え植えております」と言った。帝はそのために夢得を逐って提挙洞霄宮とし、注を侍御史に遷した。注はあらためて「京は孟翊の妖しい姦書を受け、逆人の張懐素と交わり、凶悪な仲間の林攄を引いて政府に置き、親しい宋喬年を京兆尹とし、その門人が言い触らして、みな『陛下の恩眷は衰えず、まもなくふたたび用いられる』と言っております」と極論した。
  • 太学生の陳朝老もまた京の悪十四事を疏に述べ、遠方に投げ棄てて魑魅を防がせることを乞うたが、いずれも返答はなかった。
  • 四年二月己丑、余深を門下侍郎、張商英を中書侍郎、侯蒙を同知枢密院事とした。蔡京が免ぜられると、商英は峡州から起こされて知杭州となり、闕を通って対面を賜り、そこで「神宗が法度を修め建てられたのは、大害を去り大利を興すことに努められたものです。今、まことに一つ一つ挙げ行えば紹述の美を尽くせます。法にもし弊があれば変えずにおれません。ただその意を失わなければ足ります」と奏し、そのまま留まって政府に居た。
  • 帝がかつてさりげなく蒙に「蔡京はどのような人か」と問うと、蒙は「もし京がその心術を正せば、古の賢相でもこれに加えるものがありましょうか」と答えた。帝は密かに京の所為を伺わせた。京は聞いて含むところがあった。
  • 五月丙辰、彗星が現れたので、詔して侍従の官に欠失を直言し指摘させた。石公弼らはそこで蔡京の罪を極論した。
  • 張克公もまた「蔡京は輔政八年、権は海内を震わせました。賜与を軽んじて国用を蝕み、爵禄に託して私恩を売り、将作を役して自邸を修繕し、漕船を用いて花石を運び、聖寿を祝う名目で塔を修めて臨平の山を壮んにし、田に灌ぐと託言して水を決して興化の讖に符合させ、法に退送の名をつけ、門を朝京と号し、方田は生業に安んずる民を騒がせ、圜土は徙された郡の悪人を集めた」など、不軌不忠の罪を全部で数十事、論じた。
  • 毛注はさらに「京の罪は悪を積んで大きく、天と人がともに譴めております。宰相を罷めて致政してもなお恩を恃み寵を頼んで賜邸に居座り、上天の威怒を招いております。その咎を推し原ねれば、まことに京にあります。京の罪を考えれば、縷々と数え切れません。陛下は党碑を去って自新の路を開かれたのに、京は自分と異なる者を憎んで別に禁防を設けました。陛下は明詔を頒って天下の言を招かれたのに、京は自分を議することを憎んで重く法に置きました。その勢いの震わすところ、中外は憤り憎んでおります。早く国を去らせて天変を消されたい」と論じた。
  • 甲子、蔡京を貶して杭州に出し住まわせた。
  • 六月乙亥、張商英を尚書右僕射兼中書侍郎とした。もともと蔡京が久しく国柄を盗んで中外が怨み憎んでいたので、商英が異を立てられるのを見てあらためて賢と称えた。帝は人望に因って宰相とした。当時、久しく旱で彗星が中天にあったが、商英が命を受けたその夕に彗は見えなくなり、翌日、雨が降った。帝は喜んで「商霖」の二字を大書して賜った。
  • 十二月、張商英が熙寧・元豊の事を編むことを請い、『皇宋政典』と号した。詔して尚書省に局を置いた。商英は「蔡京は紹述を名として、ただ人主を劫し制し士大夫を禁錮しただけである」と考え、それゆえ政典を作ってその妄を斥けた。

政和元年~二年(1111-1112年)・御筆手詔

  • 政和元年八月乙未、あらためて蔡京を太子太師とした。
  • 丁巳、張商英が罷められた。商英は政をなすのに公平を持し、蔡京の鋳た当十の大銭を当三に改めて泉貨を平らげ、転般倉を復して直達を罷め、塩鈔の法を行って商旅を通じさせ、横暴な取り立てを免じて民力を寛くし、帝に華美と奢侈を節し土木を息め僥倖を抑えるよう勧めた。帝は厳しく憚り、かつて升平楼を修繕したとき、主管者に「丞相の先導の騎が至れば必ず工匠を楼の下に隠せ」と戒めた。当時、商英は忠直と称された。ただし意は広いが才は疎かで、なすべきことをみな先に公席で口にしたので、都合の悪い者はあらかじめ手を打てた。
  • もともと何執中は蔡京とともに宰相で、営み立てるところにはみな与り議した。ここに至って商英が自分の上に出るのを憎み、上と鄭居中とともに日夜、その短所を醸し織り、まず言者にその門下の客の唐庚を論じさせて知恵州に竄した。
  • 当時、方技の郭天信が上に寵があり、商英はこれと往来していた。事が発覚すると、居中はそこで中丞の張克公にそれとなくあわせて論じさせ、そこで政を罷めて知河南府に出た。
  • 冬十月、陳瓘を台州に羈管した。
  • 瓘は蔡京に逆らって郴州に竄されていた。瓘の子の正彙は杭州にあって、京に東宮を動揺させる跡があると訴えた。杭州の守の蔡嶷は正彙を捕らえて京師に送り、ひそかに京に告げて計を立てさせた。事は開封府に下され、あわせて瓘を逮捕して取り調べた。
  • 尹の李孝寿はその妄であることを証言させようと迫った。瓘は「正彙は京がまさに社稷に不利なことをしようとしていると道路で伝え聞いたのです。瓘がどうしてあらかじめ知り得ましょう。知らぬことで父子の恩を忘れ、その妄と指すのは、情として忍びません。私情を挟んでその説に符合させるのは、義としてなしません。京の奸邪は必ず国の禍となります。瓘はもとより諫省で論じました。今日の言葉を待つまでもありません」と言った。
  • 内侍の黄経臣が取り調べに臨んでその言葉を聞き、思わず嘆息して「主上はまさに実を得ようとしておられる。ただ言のとおりに答えればよい」と言った。獄が成って正彙はなお告げたところが実を失ったとして海上に流され、瓘は通州に安置された。
  • 帝は瓘の著した『尊堯集』を取るよう命じた。張商英が先にその集を取って上げようとしたが罷相となった。瓘はそこで表を奏して『尊堯集』を御前で開き拆くことを乞い、あわせて奏牘に意を寓して王安石を宣聖廟に配享すべきでないと述べた。帝はその語が筋道なく、あわせて誹り誣うものだとして台州に羈管した。
  • もともと安石はかつて『日録』八十巻を著した。瓘は安石のこの書が宗廟を誹り訕るものだとした。瓘が廉州に貶されると『合浦尊堯集』を著し、『日録』の誣いの罪を蔡卞に帰した。後にさらに『四明尊堯集』を著し、王氏を痛烈に絶ち、熙寧の用捨と宰臣の本末の緒を発揚し、あわせて自ら過ちを改める心を明らかにした。
  • ここに至って台州に貶されると、何執中は蔡京の意旨を奉行し、罪人の石悈を起こして知台州とし、瓘を必ず死なせようとした。悈は着任すると瓘を捕らえて庭に至らせ、獄具を大々的に並べて死をもって脅そうとした。瓘はその意を察して大声で「今日の事は制旨を蒙ってのことか」と叫んだ。悈は狼狽して、初めて「朝廷が『尊堯集』を取るよう命じただけだ」と告げた。
  • 瓘は「ならばこんなものが何に要るのか。使君は尊堯の名を立てた理由をご存じか。そもそも神考を堯とし主上を舜とするのである。堯を尊ぶことがどうして罪になろう。時の宰相は学術が浅く、人に愚弄されている。君の得るところがどれほどあろうか。それでも公議を畏れず名分を干犯するのか。まして『尊堯集』はすでに進上されている」と言った。悈は恥じて瓘に会釈して退がらせた。窘め辱めること百端に及んだが、ついに害せなかった。執中は怒って悈を罷めた。
  • 瓘は生涯、京兄弟を論じ、みなその心の持ちようを摘み出しその情の慝を露わにした。もっとも忌み恨まれ、それゆえもっとも酷い禍を得た。
  • 二年二月戊子、蔡京にあらためて太師として致仕させ、京師に邸を賜る詔が出た。京は杭州から召し還され、帝は内苑の太清楼で宴した。
  • 夏四月、方田をふたたび行った。
  • 五月乙巳、蔡京に三日に一度、都堂に至って事を議させる詔が出た。京は言者が自分を議することを患い、そこで御筆を作って密かに進め、帝の自筆を乞うて降し、これを「御筆手詔」と称し、違う者は違制の罪に坐させた。事は巨細を問わず必ずこれに託して行い、帝の書に似ていないものまであったが、群下も敢えて言わなかった。これにより貴戚と近臣が争って請求し、中人の楊球に代筆させて「書楊」と号するまでになった。

史論(吕中)

  • 姦臣が御筆の令を創ってから、およそ私意でなそうとすることはみな御筆と称して行い、違う者に刑があった。かくて給事中・舎人は繳返できず、台諫は言えず、紀綱は壊れた。昔、仁宗に権を執るよう勧める者があったとき、上は「天下の事を措置するのに、まさに中から出させたくないのだ」と言われた。この言はまことに万世の法である。

政和二年~宣和二年(1112-1120年)・官名の改定と蔡京の栄華

  • 八月、元祐の制詞を焼いた。
  • 九月、官名を改め定めた。蔡京は意のままに自ら用いて官名を改め置き、元豊の政を継ごうとし、そこでまず開封の守臣を尹・牧と改めた。これにより府は六曹に分かれ、県は六案に分かれ、内侍省の職はすべて機庭(枢密)の号に倣い、六尚局を修め、三衛郎を建てた。
  • そして詔して「太師・太傅・太保は古の三公の官であり、今は三師とされている。古にこの称はなく、三代に依って三公として真の宰相の任とすべきである。司徒・司空は周の六卿の官、太尉は秦の兵を主る官で、いずれも三公ではない。あわせて罷めるべきである。なお三孤を立てて次相の任とする。侍中を左輔、中書令を右弼と改め、尚書左僕射を太宰兼門下侍郎、右僕射を少宰兼中書侍郎とし、尚書令および文武の勲官を罷め、太尉を武階の冠とする」と言った。
  • しかしこのとき員はすでに冗多で濫れ、名もまた混雑した。甚だしきは走馬承受が使華に昇り擁せられ、黄冠の道流までみだりに朝品に列した。元豊の制はここに至って大いに壊れた。
  • 三年春正月癸酉、王安石を舒王、子の雱を臨川伯に追封し、孔子廟廷に従祀させた。
  • 五年秋七月、寝廟の南に明堂を建てる詔が出、蔡京を明堂使とした。局を開いて工を興し、日に一万人を役した。
  • 八月、太子詹事の陳邦光を池州に安置した。もともと蔡京が太子に大食国の琉璃の酒器を献じ、宮庭に並べた。太子は怒って「天子の大臣が道義で訓すことを聞かず、玩好の具を持ってきて私の志を蕩かそうというのか」と言い、左右に砕かせた。京は邦光が実は太子を激したと聞き、言者にそれとなく撃ち逐わせた。
  • 六年夏四月庚寅、蔡京に三日に一度、朝して正しく公相の位に就き、三省の事を総べ治めさせる詔が出た。
  • 五月庚子、鄭居中を少保・太宰、劉正夫を少宰、鄧洵武を知枢密院事とした。当時、蔡京は大いに工役を興して民は生きた心地もなく、法度を変え乱して吏は師とするところがなかった。鄭居中がそのたびに帝に言い、帝もまた京の専横を憎み、そこで居中を太宰に拝して伺察させた。さらに正夫の議論がしばしば京と異なるので少宰に拝した。
  • 七年六月戊午朔、明堂の完成により蔡京を魯国公に進封した。京は二国を辞して拝さず、詔してその親属二人に官を与えた。
  • 八月癸亥、鄭居中が罷められた。居中は蔡京と反りが合わなかったが、ここに至って母の喪で位を去った。京はその起復を懼れ、居中が王珪の婿であることから、蔡確の子の懋に定策の事を重ねて整理させて沮み、そこで確を清源郡王に追封し、御製の文を石に立てて墓前に置き、それを借りて居中を揺さぶろうとしたが、ついに害せなかった。
  • 十二月、侍御史の黄葆光を昭州に竄した。
  • もともと葆光は左司諫となり、着任するとただちに「三省の吏が甚だ多い。元豊の旧制でないものは一切、革め去られたい」と言い、帝はこれを整え正すよう命じた。一時、士の論は揃って賛同した。蔡京はその異を怒り、密かに帝に申して内批を降し、「豊亨豫大の時に当たって衰乱の減省の計をなしている」として符宝郎に移した。
  • 翌年、あらためて侍御史に拝された。ここに至って大旱があり、帝はこれを念とした。葆光は上疏して「蔡京は強悍で自ら専らにし、侈大にして制を過ぎ、君臣の分がありません。鄭居中と余深は曖昧に畏れ避けて天下の責めを担えません。それゆえ災異を招いております」と言った。疏は上がったが返答がなかった。京の権勢は震え輝き、朝廷を挙げて舌を結んでいたが、葆光だけが力を尽くして攻めた。京は懼れて他の事にかこつけ、そこでこの竄があった。

宣和元年~七年(1119-1125年)・蔡京父子の末路

  • 宣和元年九月、道德院に金の芝が生えた。帝は行幸して観、そのまま蔡京の邸に行幸した。
  • 当時、京の子の儵・攸・翛および攸の子の行はみな大学士で、鞗は帝の娘の茂德帝姫を娶り、家人や下男までみな高官に居り、媵妾は夫人に封ぜられていた。上に侍るたびに常に君臣が相い悦ぶことを口にした。帝は時に軽車や小輦に乗ってしきりにその邸に行幸し、座を命じて觴を伝え、おおむね家人の礼を用いた。京の謝表に「主婦が寿を上げようと請えば、あえて従う。稚子が衣を牽いて挽き留めれば、却けない」とあるのは、実際の事である。
  • 蔡攸に開府儀同三司を加えた。攸は帝に寵があり、進退に時を選ばず、王黼とともに宮中の秘戯に与った。曲宴に侍るときは、攸と黼は短衫と窄袴を着け、青と紅を塗りたくり、倡優や侏儒に混じって、市井の淫らで戯れた冗談を口にし、笑いを取って悦ばせた。攸の妻の宋氏は禁中に出入りし、攸の子の行は殿中監を領し、寵信は父を上回った。
  • 攸はかつて帝に「いわゆる人主は四海を家とし太平を娯しみとすべきです。歳月がどれほどありましょう。どうしていたずらに自ら労苦なさるのですか」と言い、帝は深く容れた。
  • 冬十月甲戌、熙寧・元豊の政事を紹述する書を天下に布告した。
  • 十二月丙申、正字の曹輔を郴州に編管した。
  • 帝は政和以来、微行が多かった。初めは民間もまだ知らなかったが、蔡京の謝表に「軽車小輦、七たび臨幸を賜る」の語があってから、邸報が四方に伝えた。しかし臣僚は阿り順って敢えて言わなかった。
  • 曹輔が上疏して諫めて次のように述べた。
  • 陛下は法宮に居ることを厭い、時に小輦に乗って塵の巷や郊外に出入りし、遊楽を極めてから還られます。道路の言は、初めはなお憚りがありましたが、今は語って常のこととしております。臣は、陛下が宗社を託された重きに当たりながら、安きに耽り危きを忽せにされること、ここに至るとは思いませんでした。
  • そもそも君と民はもともと人によって合します。合すれば腹心、離れれば楚と越です。畔くか服くかの際は須臾にあり、甚だ畏るべきです。昔、仁祖は民を子のように視、憐れんでただ傷つけることを恐れられました。ある日、宮闈がやや緩んだところ、衛士がたちまち禁城を越え、危うく宝瑟に触れるところでした。諺に「盗は主人を憎む」と申します。主人が盗に何を負うたのでしょう。まして今、愚かな民は賦課が日ごとに増すのを見ております。どうして一人一人が分に安んじられましょう。万一、乗輿が戒めのない初めに、一人の不逞の者が禍心を包蔵すれば、神霊が垂れ護られようとも、威を損ない重きを傷つけます。まして臣子として言うに忍びぬことすらあります。戒めずにおれましょうか。
  • どうか陛下は深く居って手を拱き、穹昊の至高の勢いをもって臨み、日月の常ある度をもって行われますよう。お出ましの折は太史が日を択び、有司が道を除き、三衛と百官が前後を固める。もし煩わしさを省き費用を約すというなら、その時に旨を降してやや裁節されればよい。微服に比べればまさりましょう。
  • 帝は疏を得て宰臣に示し、都堂に付して審問させた。余深が「輔は小官である。どうして敢えて大事を論ずるのか」と言うと、輔は「大官が言わぬから小官が言うのです。官に大小はあっても、君を愛する心は一つです」と言った。
  • 王黼は目配せして張邦昌と王安中に「そんな事があったか」と言い、みな「知らぬ」と答えた。輔は「この事は里巷の小民でも知らぬ者がありません。相公が国に当たりながら独りご存じないのですか。これすら知らぬなら、あの宰相が何の役に立ちましょう」と言った。黼は怒って吏に輔から供述を取らせた。輔は筆を執って「区々の心に一つも求めるところはありません。君を愛するだけです」と書き、退いて家で罪を待った。
  • 黼は「輔を重く責めなければ浮言を息められません」と奏し、そこで郴州に編管した。
  • もともと輔は言おうとしたとき、必ず罪を得ると知り、子の紳を呼んで家事を託し、そのうえで戸を閉ざして疏を草した。夕方、悪い鳥が屋根の脊で鳴き、その声は紡ぎ車のようだった。心に禍あることを知りながら恤みなかった。貶されると怡然として道に就いた。
  • 二年六月戊寅、蔡京に致仕を詔した。京は政を専らにして日が久しく、公論はいよいよ与せず、帝もまた厭き薄んじた。子の攸は権勢がすでに父と相い軋み、浮薄な者がさらに離間したので、これにより父子はそれぞれ門戸を立てて仇敵となった。
  • 攸は別に賜邸に住んでいた。ある日、京を訪ねた。京はちょうど客と語っていたが、避けさせた。攸は入るなり急いで立って父の手を握り、脈を診る形をして「大人の脈勢が緩やかです。どこかお加減が悪いのでは」と言った。京が「何もない」と言うと、攸は「禁中にちょうど公事があります」と言ってすぐ辞去した。客がひそかに窺って見て京に問うと、京は「君はこれが分からぬのか。あの子は私を病気ということにして罷めさせたいのだ」と言った。
  • 数日を閲して果たして太師・魯国公として致仕し、なお朔望に朝することとなった。
  • 十一月、王黼を少保・太宰とした。もともと京が致仕すると、黼は表向き人心に順ってそのなしたところをことごとく反し、四方は揃って賢相と称した。ところが太宰に拝されると高きに乗じて邪をなし、子女と玉帛を多く蓄え、自らを奉ずること禁中に擬えるほど僭上で、次第に京の跡を襲った。
  • 六年十一月、王黼が罷められた。黼は元宰の位にありながら、曲宴に陪するたびに自ら俳優や卑賤の役をして笑いを取って悦ばせた。太子は聞いて憎んだ。黼は鄆王楷に寵があるので、ひそかに宗を奪う計を画いたが成らなかった。帝がその邸に行幸して芝を観たとき、黼の邸は梁師成と壁を接して便門を穿って往来していた。帝は初めて彼が師成と結んでいることを悟り、還宮して眷待はたちまち衰えた。
  • 李邦彦は日ごろ黼と折り合わず、ひそかに蔡攸と結んでともにそしった。折しも中丞の何㮚が黼の姦邪と専横の十五事を論じ、そこで詔して黼を致仕させ、その党の胡松年らもみな罷めた。
  • 十二月、詔して蔡京にふたたび三省の事を領させた。王黼が致仕すると朱勔が力を尽くして京の起用を勧め、帝は従った。京はここで四度、国に当たったが、目がかすんで事を治められず、すべて末子の絛に決させた。京の判ずるところはみな絛が代わってなし、京に代わって入って奏事するまでになった。
  • 絛は朝に赴くたびに侍従以下がみな迎えて会釈し、耳打ちして囁き、堂吏数十人が案を抱いて後に従った。これにより姦利をほしいままにし、威柄を弄び盗み、急にその妻の兄の韓梠を戸部侍郎に引き、密謀を醸して朝士を斥け逐い、宣和庫を創って四方の金帛を貢するよう定め、府蔵に蓄えられたものをことごとく括り集めて天子の私財とした。白時中と李邦彦らはただ文書を奉行するだけだった。
  • 七年夏四月、蔡京に致仕を強いた。蔡絛は京に鍾愛されて権を擅にして用事した。兄の攸はこれを嫉み、たびたび帝に絛を殺すよう請うたが、帝は許さなかった。白時中と李邦彦もまた絛を憎み、そこで攸とともに絛の姦私の事を暴いた。帝は怒って竄そうとしたが、京が力を尽くして免除を乞い、そこで勒停して侍養させるにとどめ、韓梠を黄州に安置し、絛の侍読を褫奪し、賜った出身の敕を毀った。これで京を揺さぶろうとしたが、京にはなお去る意がなかった。
  • 帝はそこで童貫に京のところへ行かせ、章を上げて謝事するよう命じた。貫が至ると京は泣いて「主上はなぜ京を数年、容れてくださらぬのか。讒言する者があるのだろう」と言った。貫は「存じません」と言った。京はやむなく章を貫に授けた。帝は詞臣に命じて京に代わって三通の表を作らせて辞任を求めさせ、そこで詔を降して従った。

史論(史臣)

  • 京は天資が凶悪で狡猾、智を弄んで人を御した。人主の前ではもっぱら様子をうかがって位を固める計とし、始終、一つの説を唱えた。すなわち「拘束された俗を越え、四海九州の力を尽くして自らを奉ずべきである」と。帝もその姦を知って、たびたび罷めたびたび起こし、しかも京と合わぬ者を択んで抑えとした。だが京は退けられ免ぜられると聞くたびに、入って哀れみを乞い、匍匐して叩頭し、廉恥もなかった。
  • 燕山の役では、京は攸を送る詩で表向き不可の意を寓し、事が成らなければ自ら言い逃れられるようにした。利を見て義を忘れ、兄弟が参と商のように相容れず、父子が秦と越のようになるに至った。晩年は家を府として進むことを営む輩がその門に集まり、貨を贈り下僕を差し出して良い官を得た。得ることを患う心は至らぬところがなく、根株が絡み合って牢固として脱せず、ついに宗社の禍を招いた。