宋史紀事本末紹述(紹述)
元祐八年(1093)に宣仁太后が崩じて哲宗が親政してから元符二年(1099)まで、李清臣・鄧潤甫・楊畏が「紹述」を唱え、章惇が宰相となって熙寧・元豊の法を復した経緯。免役法・市易務が復活し、蔡卞が『神宗実録』を改修し、司馬光・呂公著は追貶され、呂大防・劉摯・蘇轍・蘇軾・范純仁ら元祐の諸臣は嶺南に流されて、訴理局の追及は八百三十家に及んだ。
年表(10件)
- 哲宗
- 元祐八年冬十月・親政と范祖禹の諫言1093年哲宗が親政し、范祖禹が小人の再起を警告する
- 元祐八年十二月・蘇軾の外補1093年蘇軾が知定州として出、三年は動かず観よと上書する
- 元祐八年~紹聖元年(1093-)・楊畏の変節と紹述の開始1094年楊畏が変節して章惇らを薦め、継述の議が起こる
- 紹聖元年三月・集英殿の策問と蘇轍の失脚1094年李清臣の策問が元祐を斥け、諫めた蘇轍が知汝州に落とされる
- 紹聖元年四月・張商英と改元1094年張商英が元祐の大臣を攻め、元祐九年を紹聖元年と改める
- 紹聖元年・章惇の宰相就任1094年章惇が宰相となり、免役法を復して紹述を国是とする
- 紹聖元年七月~十二月・元祐の臣の一斉処分1094年司馬光・呂公著の贈官と諡を追奪し、呂大防らを貶す
- 紹聖二年・常安民の孤忠1095年常安民が蔡京・章惇の姦を論じて貶され、范純仁も知随州に移される
- 紹聖四年・元祐諸臣の嶺南流謫1097年呂大防・劉摯・蘇轍・蘇軾・范純仁らが嶺南に流される
- 元符元年~二年(1098-)・訴理局と最後の追及1099年訴理局を置き、重ねて罪を得た者が八百三十家に及ぶ
哲宗元祐八年冬十月(1093年)・親政と范祖禹の諫言
- 帝が初めて親政した。太后が崩じてから中外は騒然とし、人は様子見をし、位にある者は畏れて敢えて発言しなかった。
- 翰林学士の范祖禹は小人が隙に乗じて政を害することを慮り、上疏して次のように述べた。
- 陛下はまさに庶政を執り群臣を引見されようとしています。今日こそ国家の隆替の本、社稷の安危の機、生民の休戚の端、君子と小人の進退消長の際、天命と人心の去就離合の時です。畏れずにおれましょうか。
- 先后は宗社に大功があり、生霊に大德があり、九年の間、始終一つでした。しかし群小の怨恨もまた少なくありません。必ずや「先帝の政を改め、先帝の臣を逐うた」と言い立てて離間しようとします。察せずにはおれません。
- 先后は天下の人心に因って変じ改められました。その法を改めた以上、法を作った人には罪があって退くべきです。それも衆言に順って逐われたのです。これらはみな上は先帝に負き下は万民に負いた者で、天下が仇として憎み去りたがっていた者です。どうしてその間に憎悪があったでしょうか。
- ただ是非を弁析し、邪説を深く拒み、姦言で聴聞を惑わす者があれば典刑に付し、一人を痛烈に懲らして群れなす邪を警めれば、平穏無事となります。この輩はすでに先帝を誤らせ、さらに陛下を誤らせようとしております。天下の事が、どうして小人にふたたび破壊されるのに堪えられましょうか。
- 当時、蘇軾はちょうど疏を具えて諫めようとしていたが、祖禹の奏を見て「経世の文だ」と言い、そこで名を添えてともに進め、自分の草稿は破棄した。疏は入ったが返答はなかった。
- 折しも旨があって内侍の劉瑗・楽士宣ら十人を復職させることになった。蘇轍は「陛下が政をご覧になって以来、一人の賢臣を訪ねたとも聞かぬうちに、召されたのがまず内侍です。四海は必ず陛下が近習に私したと言いましょう。聴かれてはなりません」と諫めた。侍講の豊稷もこれを言い、知潁州として出た。
- 范祖禹はあらためて対面を請うて次のように述べた。
- 熙寧の初め、王安石と呂恵卿が新法を造り立て、意は祖宗の政を変えることにあり、多く小人を引いて国を誤らせました。勲旧の臣は退けられて用いられず、忠正の士は相次いで遠ざかりました。さらに兵を用いて辺を開き、外夷と怨みを結び、天下は愁い苦しみ、百姓は流亡しました。幸い先帝が覚悟して二人を罷め逐われましたが、引かれた群小はすでに天下に満ち、二度と除けなくなりました。
- 蔡確は大獄を次々に起こし、王韶は熙河を新たに取り、章惇は五溪を開き、沈起は交管を騒がせ、沈括・徐禧・俞充・种諤は西の事を興し、兵民の死傷は二十万を下りません。先帝は朝に臨んで悼み悔い、「朝廷はその咎を負わずにおれぬ」と言われました。さらに呉居厚は京東で鉄冶の法を行い、王子京は福建で茶法を行い、蹇周輔は江西で塩法を行い、李稷と陸師閔は西川で茶法と市易を行い、劉定は河北で保甲を教え、民はみな愁い痛んで嗟き怨み、軒を並べて乱を思いました。幸い陛下と先后が起って救われ、天下の民は倒懸を解かれたようでした。
- ただ、これまで斥け逐われた人が事の変を窺い、みだりに陛下が法度の改修を是とされぬと当て込んでおります。もし左右に至れば必ず姦言を進めます。万一、誤って聴かれてふたたび用いれば、臣は国家がこれから衰えてふたたび振るわなくなることを恐れます。
- また申します。漢は天下を有すること四百年、唐は三百年、その亡びはいずれも宦官によるもので、同じ轍でした。そもそも乱とともに事をなして亡びなかった者はありません。漢は元帝が石顕を任用して政事を委ね、蕭望之と周堪を殺し劉向らを廃し、漢の基業は元帝で壊れました。唐は明皇が高力士に章奏を省決させ、宦官が盛んになり、李林甫も楊国忠もみな力士によって進み、唐の亡びの禍は開元に基づきました。
- 熙寧・元豊の間、李憲・王中正・宋用臣らが用事して兵権を総べ、勢いは震え輝きました。中正は四路を兼ね幹し、口頭の敕で兵を募り、州郡は敢えて背けず、軍は凍え飢えて死亡がもっとも多かった。憲は再挙の策を陳べて永楽の壊滅を招き、用臣は土木の工事を興して休むときがなく、市井の些細な利まで網に取って国のために怨みを集めました。この三人は誅戮を加えても百姓に謝るに足りません。憲はすでに亡いとはいえ、中正と用臣はなお在ります。今、内臣十人を召されましたが、憲と中正の子がみなその中におります。二人が入れば、中正と用臣も必ずふたたび用いられましょう。臣が敢えて極言する所以です。
- 帝は「召した内臣を、私がどうして任用する意があろうか。ただそれぞれ差遣を与えたいだけだ」と言い、祖禹は退いた。
元祐八年十二月(1093年)・蘇軾の外補
- 端明殿侍読学士の蘇軾が外補を乞い、知定州として出た。当時、国事は変わろうとしており、軾は入って辞することができなかった。出発してから上書して次のように述べた。
- 天下の治乱は下情が通ずるか塞がるかから出ます。至治の極みには小民までみな自ら通じられ、大乱に至れば近臣ですら達し得ません。陛下は臨御九年、執政と台諫のほか、群臣と接せられたことがありません。今、聴政の初め、下情を通じ塞がりを除くことを急務とすべきです。臣は日々、帷幄に侍りながら、まさに辺を戍ろうというのに、一度も拝謁できずに参ります。まして疎遠な小臣が自ら通じようとするのは難しい。
- しかし臣は対面を得られなかったからといって愚忠を効さぬわけにはまいりません。古の聖人が事をなそうとするときは、必ずまず暗きに処して明を観、静に処して動を観ました。そうすれば万物の情がことごとく前に陳べられます。陛下は聖智が人に絶し、年齢はまさに盛んです。どうか心を虚しくして理に循い、一切をなさずに、庶事の利害と群臣の邪正を黙って観、三年を期として、その実を得てから物に応じて動かれたい。そうすれば動いた後、天下に恨みはなく、陛下にも悔いはありません。
- これから見れば、陛下の作為はただ早すぎることを憂うべきで、やや遅れることを患えぬのは、すでに明白です。臣は、急いで進み利を好む臣が軽々しく陛下に改変を勧めることを恐れ、それゆえこの説を進めます。どうか陛下は社稷に神を留められますよう。宗廟の福、天下の幸いです。
元祐八年~紹聖元年(1093-1094年)・楊畏の変節と紹述の開始
- 呂大防が山陵使となって国門を出たばかりのとき、楊畏が真っ先に大防に叛き、上疏して「神宗は法を改め制を立てて万世に垂れられました。講求して継述の道を成すことを賜りたい」と言った。
- ただちに召対され、先朝の故臣で召し用いるべき者を問われた。畏はそこで章惇・安燾・呂恵卿・鄧潤甫・王安中・李清臣らを列挙して、その行義にそれぞれ品定めを加え、あわせて神宗が法度を建立した意と王安石の学術の美を述べ、章惇を宰相に召すことを乞うた。帝は深く容れた。
- そこで章惇を資政殿学士、呂恵卿を中大夫に復し、王中正に遥授の団練使を復した。給事の呉安詩は惇の録黄に署名せず、中書舎人の姚勔は恵卿と中正の誥詞を草さなかったが、いずれも聴かれなかった。劉安世は章惇らを用いてはならぬと極諫し、貶されて知成德軍として出た。
- 紹聖元年二月丁未、李清臣を中書侍郎、鄧潤甫を尚書右丞とした。潤甫は率先して「武王はよく文王の声を広め、成王はよく文武の道を嗣いだ」と陳べて紹述への道を開き、それでこの命があった。
- 范純仁は、当時、用いられる大臣がみな中(禁中)から出、侍従や台諫も多くが正規の推挙によらぬことから、帝に「陛下が親政された初め、四方が目を拭って観ております。天下の治乱はまことにここに本づきます。舜は皋陶を挙げ、湯は伊尹を挙げ、不仁者は遠ざかりました。かりに古人のようにできずとも、天下の選を極めるべきです」と言ったが、帝は納れなかった。
紹聖元年三月(1094年)・集英殿の策問と蘇轍の失脚
- 集英殿で進士に策を課した。李清臣が策を発して「今、詞賦の選を復したが士は励むことを知らず、常平の官を罷めたが農は富まず、差役か募役かの説が入り乱れて役法が病み、東か北かの論が異なって河の患いが増した。土地を与えて遠人を柔らげたが羌夷の患いは止まず、利を緩めて民に便したが商賈の路は通じない。そもそも可なら因り、否なら革める。ただ当を得ることが貴い。聖人に何の私心があろうか」と述べた。その意は元祐の政を斥けるものである。
- 蘇轍が諫めて次のように述べた。
- 恐れながら策題を拝見しますに、近年の行事を力を尽くして罵り、熙寧・元豊を紹復する意があります。臣が思うに、先帝の施設には百世改められぬものがあり、元祐以来、上下が奉行して失墜させたことはありません。事に失当があるのはどの世にもあります。父が前になし、子が後に救い、前後が相い済う。これこそ聖人の孝です。
- 漢の武帝は外に四夷を事とし内に宮室を興し、財用は尽きました。そこで塩鉄・榷酤・均輸の政を修め、民は命に堪えられず、危うく大乱に至りました。昭帝は霍光を委任して煩苛を罷め去り、漢室はようやく定まりました。光武と顕宗は察を明とし讖で事を決し、上下は恐懼し人は不安を懐きました。章帝はその失を深く鑑み、寛厚愷悌の政に代え、後世これを称えました。
- 本朝では真宗の天書を、章献が臨御されたとき大臣の議を容れて梓宮に蔵められ、仁宗が聴政されてからは口を閉ざして言われませんでした。英宗の濮議は朝廷が数年、騒然としましたが、先帝が沙汰止みにされて安静を得ました。
- そもそも漢の昭帝・章帝の賢、わが仁宗・神宗の聖をもってしても、どうして孝敬に薄く軽々しく変易を事としたでしょうか。陛下がもし軽々しく九年、行ってきた事を変え、幾年も用いられなかった人を抜擢して任じ、私憤を懐いて先帝を口実とすれば、大事は去ります。
- 帝は奏を見て大いに怒り、「どうして漢の武帝を先帝に比べられようか」と言った。轍は殿を下りて罪を待ち、衆は敢えて救わなかった。
- 范純仁がさりげなく「武帝は雄才大略で、史書に貶す詞はありません。轍がこれを先帝に比べたのは謗りではありません。陛下は親政の始めに大臣を進退されるにあたり、奴僕を叱るようになさるべきではありません」と言った。右丞の鄧潤甫が順序を越えて進み出て「先帝の法度は司馬光と蘇轍に壊し尽くされました」と言うと、純仁は「そうではありません。法はもともと弊がなくとも、弊があれば改めるべきです」と言った。帝が「人は秦の始皇や漢の武帝と言っている」と言うと、純仁は「轍の論じたのは事と時であって、人ではありません」と言った。帝の怒りはやや和らいだ。
- 轍は日ごろ純仁と異なることが多かったが、ここに至って服し、「公は仏の境地の人だ」と言った。轍はついに職を落として知汝州となった。
- 進士の対策では、考官が元祐を主とする者を上位に置いたが、礼部侍郎の楊畏が覆考してことごとく下げ、熙寧・元豊を主とする者を前列に置いた。以来、紹述の論が大いに興り、国是はついに変わった。
- 曽布を翰林学士承旨とした。もともと司馬光が布に役法の増損を諭したとき、布は辞して「免役の一事は法令の細部まですべて自分の手から出たものです。急に自ら改め易えるのは、義としてできません」と言い、そこで戸部尚書として知太原府に出た。ここに至って江寧に移り、京を通ったところで留められて承旨に拝された。
紹聖元年四月(1094年)・張商英と改元
- 張商英を右正言とした。帝が即位した当初、新法のうち民に不便なものをやや改めた。商英はそのとき開封推官で、上書して「『三年、父の道を改めざるは孝というべし』と申します。今、先帝の陵の土もまだ乾かぬうちに変更を議して、孝といえましょうか」と言った。
- さらにたびたび執政のもとへ赴いて出世を求め、しかも諂いの詞を蘇軾に贈って台に入ることを求めた。呂公著が聞いて不快になり、河東提刑として出した。
- ここに至って召されて右正言となった。商英は久しく外にあって、元祐の大臣が自分を用いなかったことに恨みを積もらせていたので、力を尽くして攻めた。上疏して次のように述べた――神宗の盛徳大業は今古に跨って絶するものです。ところが司馬光・呂公著・劉摯・呂大防は朋輩を援引して敢えて譏議しました。詳定局の建言、中書の勘会、戸部の処理、言官の論列、詞臣の誥命は、すべて指摘し抉り出し、鄙しみ嗤い、内では陛下の羽翼を剪り除き、外では股肱を撃ち逐い、天下の勢いは危うくなりました。今、天日は清明ですが誅賞はまだ正されておりません。禁省に下して前後の章牘を検索し、臣らに付して検討させ、付箋をつけて上げさせ、陛下と大臣が可否を斟酌されたい。
- 商英はさらに司馬光と文彦博が姦邪で国に背いたと論じ、宣仁を呂后・武后になぞらえるまでに至った。
- 全台の御史の趙挺之らはあらためて集まって、蘇軾の草した麻に「民もまた労し止む」の語があることを弾劾し、先帝を誹謗するものだとして、軾を退けて知英州とした。
- 范純仁は諫めて「熙寧の法度はみな恵卿が王安石に附会して建議したもので、先帝の民を愛し治を求められた意に副いませんでした。垂簾の際になって初めて言者の説を用い、特に貶竄を行ったのです。今すでに八年になります。言う者の多くは当時の御史でした。なぜ畏れ避けてただちに忠を尽くさなかったのですか。今になってこの奏があるのは、様子見ではありませんか」と言ったが、帝は聴かなかった。
- 癸丑、白虹が日を貫いた。曽布が上疏して先帝の政事を復し、あわせて改元して天意に順うことを乞い、帝は従って、詔して元祐九年を紹聖元年と改めた。ここに天下は帝の意の向かうところをはっきり知った。
- 翰林院学士の范祖禹を罷めた。当時、帝が章惇を宰相にしようとしたので、祖禹は惇を用いてはならぬと力説し、そこで罷められた。
紹聖元年(1094年)・章惇の宰相就任
- 壬戌、章惇を尚書左僕射兼門下侍郎とした。当時、帝には熙寧・元豊を紹復する志があり、まず惇を起こして宰相とした。かくてもっぱら紹述を国是とし、そこでその党の蔡卞・林希・黄履・来之邵・張商英・周秩・翟思・上官均らを引いて要地に置き言責を任せ、謀を協えて報復した。
- 惇が召されたとき、通判の陳瓘が衆に従って道で謁した。惇は瓘の名を聞いていたので招いて同舟し、当世の務めを尋ねた。瓘はそこで惇に「天子は公を待って政を執らせようとされております。敢えて伺いますが、何を先とされますか」と問うた。惇は「司馬光は姦邪だ。まず弁ずべきである。これより急なものはない」と言った。瓘は「公は誤っておられます。果たしてそうなら天下の望みを失いましょう」と言った。惇は声を励まして「光は纘述に努めず、大いに成緒を改めた。国を誤らせることこれほどで、姦邪でなくて何か」と言った。
- 瓘は「その心を察せずに跡を疑えば、罪がないとはいえません。しかし姦邪と指してふたたび改作すれば、国を誤ることはいよいよ甚だしくなります。今の計は、ただ朋党を消して中道を持することです。それでこそ弊を救えましょう」と言い、さらに「たとえばこの舟は、左に移せば左が重く、右に移せば右が重い。いずれも不可です。熙寧が全部、是とは限らず、元祐が全部、非とは限りません」と言った。惇は不快だった。
- 帝が惇を宰相とすると、范純仁の辞任の求めはいよいよ強く、そこで観文殿大学士として知潁昌府に出た。
- 蔡京を召して戸部尚書とした。
- 林希を中書舎人とした。章惇はかつて「元祐の初め、司馬光が宰相となり蘇軾を用いて制を掌らせた。それゆえ四方を鼓動できた。そういう人を得て用いたい」と言った。ある者が「林希が適任です」と言った。折しも希が成都へ赴く途中で闕を通ったので、惇は書誥を掌らせて元祐の諸臣に毒を振るわせようとし、あわせて執政にすることを約した。希は久しく志を得ておらず、進んで引き受けた。
- 元祐の名臣を貶黜する制はみな希が作り、醜い罵りを極め、「老姦、国を擅にす」の語でひそかに宣仁を斥けるまでになった。読む者で憤り嘆かぬ者はなかった。ある日、制を草し終えて筆を地に投げ、「名節を壊した」と言った。
- 丁卯、章惇が免役法の復活を請うた。差役と雇役の両法について司を置いて講議したが、久しく決しなかった。蔡京は惇に「熙寧の成法を取って施行するだけです。何を講ずる必要がありましょう」と言い、惇はもっともとして雇役が定まった。
- もともと司馬光は熙寧・元豊の政をことごとく革め、雇役を罷めて差役を復したが、これだけは人情に協わなかった。ここに至って京と惇が互いに倚ってこれを口実とし、免役法を復した。識者はいよいよその姦を見た。
- 戊辰、蔡卞を国史修撰とした。元祐年間、史官の范祖禹らが『神宗実録』を修め、王安石の過ちをことごとく書いて先帝の聖を明らかにした。蔡卞は安石の婿である。上疏して「先帝の盛徳大業は卓然として千古の上に出ております。ところが実録の記すところは疑わしく根拠のないものばかりです。重ねて刊定していただきたい」と言い、詔して従われた。卞はそこで安石の甥の防のところから安石の旧作の『日録』を求めて、正史をことごとく改めた。
- 閏月壬申、ふたたび陸師閔らを諸提挙常平官とした。
- 五月、黄履を御史中丞とした。元豊の末、履は中丞で蔡確・章惇・邢恕と結び、惇や確に憎むところがあれば恕に風旨を履に伝えさせ、履がただちに排撃した。当時、これを「四凶」と呼んだ。劉安世に論じられて出されたが、ここに至って惇はあらためて用い、仇怨に報復させた。元祐の旧臣で一人も免れる者がなくなった。
紹聖元年七月~十二月(1094年)・元祐の臣の一斉処分
- 秋七月丁巳、司馬光と呂公著らの贈官と諡を追奪し、呂大防・劉摯・蘇轍・梁燾らの官を貶し、詔して天下に諭した。
- 当時、台諫の黄履・周秩・張商英・上官均・来之邵・翟思・劉拯・井亮采らが章を交わして、司馬光らが先朝の法を変更し道に叛き理に逆らったと論じた。章惇と蔡卞は光と公著の塚を暴いて棺を斫り屍を晒すことを請うた。帝が許将に問うと、将は「これは盛徳の事ではありません」と答え、帝はやめた。
- そこで光と公著の贈官・諡を追奪し、立てられた碑を倒し、王巖叟の贈官を奪い、大防を秘書監、摯を光禄卿、轍を少府監に貶して、あわせて南京に分司した。
- もともと李清臣は宰相を期待して率先して紹述の説を唱え、計をめぐらして蘇轍と范純仁を去らせ、急いで青苗と免役の法を復した。ところが章惇が至ると心中、甚だ不快で、あらためて異を唱えた。惇が司馬光らを貶し、さらに文彦博以下三十人を籍に取ってことごとく嶺表に竄そうとしたとき、清臣は進み出て「先帝の法度を改めたことに過ちがなかったとはいえません。しかしみな累朝の元老です。もし惇の言に従えば、必ず大いに人の耳目を驚かせます」と言った。帝はそこで詔を下して「大臣の朋党について、司馬光以下、それぞれ軽重に応じて罰を議した。天下に布告せよ」と言った。
- もともと朋党の論が起こったとき、帝は「梁燾はいつも中正の論を立てた。その陳べ方も排撃も、みな公議から出ていた。私はみな記憶している」と言い、また「蘇頌は君臣の義を知っている。軽々しく議するな」と言った。それゆえ頌は免れ、燾も提挙舒州霊仙観に謫されるにとどまった。
- 摯は諸子に「主上が章惇を用いた以上、私は罪を得よう。惇が国事を顧みて百姓に怒りを移さず、ただ我々を謫するだけなら、死んでも恨むところはない。ただ意が報復にあって天下をどうするのかを慮る」と語った。
- 八月、広恵倉を罷め、免行銭を復した。
- 冬十月、呂恵卿を知大名府とした。監察御史の常安民は「北都は重鎮です。それを恵卿に除するとは。恵卿は賦性が深く険しく、王安石に背いた者です。その君への仕え方も知れましょう。今、闕を通れば必ず先帝のことを言って泣き、陛下を感動させ、京に留まることを期待するでしょう」と言い、帝は容れた。
- 恵卿が京に至って対面を請うと、帝に会って果たして先帝の事を言って泣いた。帝は正色して答えず、計はついに施されず去った。時の論は快哉と言った。
- 十一月壬子、特に蔡確を観文殿大学士に追復した。
- 十二月、蔡卞が重修した『神宗実録』を進めた。そこで范祖禹および趙彦若・黄庭堅らが誹謗の咎で降官され、永州・豊州・黔州に安置され、卞は翰林学士に遷った。
- もともと礼部侍郎の陸佃が実録の修撰に与り、たびたび祖禹らと争弁して、大要「王安石には是とすべきところが多い」と言った。庭堅は「公の言のようなら佞史です」と言い、佃は「すべて君の意を用いれば謗書ではないか」と言った。ここに至って佃も職を落とされた。言者はさらに呂大防が『神宗実録』を監修したとして、安州に移して住まわせた。
紹聖二年(1095年)・常安民の孤忠
- 冬十月、監察御史の常安民を貶した。
- 当時、蔡京は宦官の裴彦臣と深く結んでいた。安民はそこでこれを論じ、「京は姦をもって衆を惑わすに足り、弁をもって非を飾るに足り、巧をもって人主の視聴を移し奪うに足り、力をもって天下の是非を顛倒するに足ります。内は宦官と結び外は朝士と連なり、一つでも自分に付かなければ元祐に党したと誣い、先帝の法でないと言って、必ず陥れてからやめます。今、朝にある臣の半ば以上が京の党です。陛下は早く覚悟して逐われねばなりません。いずれ羽翼が成就すれば悔いても及びません」と言った。
- 当時、京の姦はなお隠れ、人の多くは測れなかったが、安民だけが真っ先にこれを暴いた。
- さらに「今、大臣が紹述の説をなすのは、みなこの名を借りて私怨に報いるためです。朋附の流れがこれに従って唱和しております。張商英は元祐の時、呂公著に詩を上げて出世を求め、諂いに恥じるところがありませんでしたが、近ごろは司馬光と呂公著の神道碑を毀つことを乞うております。周秩は博士として自ら光の諡を文正と定めましたが、近ごろは棺を斫り屍を鞭打つことを乞うております。陛下はこの輩の言が果たして公論から出たものかを察せられよ」と言った。
- 章疏は前後、数十百に及んだが、ついに回らぬと見て外任を乞い、帝は慰め励ますだけだった。
- ここに至ってふたたび章惇が国を専らにして党を植えていることを論じ、主柄を収めてその権を抑えるよう乞い、反覆曲折して言ってやまなかった。惇は親信の者を遣わして「君はもともと文学で時に聞こえた。なぜ言語を自らの任として人と怨みを結ぶのか。しばらく静かにしていれば左右に置こう」と語らせた。安民は正色して斥け、「お前は時の宰相のために遊説するのか」と言った。惇はいよいよ怒った。
- 安民はさらに曽布の姦を言った。そこで惇と布は結んで排斥し、彼が呂公著に贈った書を取って帝に申し、「漢の霊帝に陛下を比べたもの」とした。帝は怒ったが、安民が弁じ、安燾の救いによって免れた。ここに至って御史の董敦逸が安民は蘇軾兄弟に党していると論じ、そこで滁州監酒税として出された。
- 十一月、安燾が罷められた。当時、章惇は白帖(正式の詔勅によらぬ文書)で元祐の臣僚を貶謫していた。燾が帝に言うと帝は疑った。鄭雍が惇に「王安石が宰相のとき、かつて白帖で事を行いました」と言うと、惇は大いに喜んでその案牘を取って懐に入れ、帝に申した。燾の言は行われなかった。惇は燾の言を怨み、燾が常安民と表裏をなしているとして知鄭州に出した。
- 当時、呂大防らは遠州に竄され住んでいた。折しも明堂の赦にあたり、章惇はあらかじめ「この数十人は終身、移してはならぬ」と言った。范純仁はこれを聞いて憂え憤り、斎戒して上疏して申し開こうとした。親しい者は怒りに触れぬよう勧め、「万一、遠く斥けられれば高齢の身に相応しくありません」と言った。純仁は「事がここに至って一人も敢えて言う者がない。もし上の心が回れば、繋がるところは大きい。そうならなくとも、死んで何の恨みがあろう」と言い、そこで上言して次のように述べた。
- 大防らの犯したところも、心の持ち方が恕を失い、好悪を情に任せ、老氏の『好還』の戒めに違い、孟軻の『爾に反る』の言を忽せにしたことによります。しかし牛李の党の禍は数十年、沈み合って解けませんでした。どうしてなお前の轍を遵うべきでしょうか。今、大防らは年老い病んで水土に慣れず、炎暑の荒れ地は久しく居るべき地ではありません。しかも不測を憂え虞れて、どうして自ら存し得ましょう。
- 臣はかつて大防らとともに事に当たりましたが、多く排斥されました。陛下がご覧になったとおりです。臣が激切に申すのは、ただ聖徳に報いたいからです。先ごろ章惇と呂恵卿は貶謫されても里居を出ませんでした。今、趙彦若はすでに貶所で死にました。どうか陛下は淵衷から断じ、大防らを許して放たれたい。
- 疏が奏されると章惇は大いに怒り、そこで観文殿大学士を落として知随州に移した。
紹聖四年(1097年)・元祐諸臣の嶺南流謫
- 春正月、李清臣が罷められて知河南府となった。
史論(史臣)
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哲宗が親政した初め、見識も慮りもまだ定まらなかった。范純仁・呂大防ら諸賢が廷にあって左右で輔け謀り、日々、忠実で正直な言葉を近づけ、邪曲を絶ってその志向を正しくしていれば、元祐の治業はほぼ守れたはずである。ところが清臣は才を恃んで焦って進み、ひそかに権柄を狙い、率先して紹述の説を発して国是を乱した。群がる姦人がこれを嗣ぎ、勢いを決して防げなくなり、ついに縉紳の重い禍となった。
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二月己未、司馬光と呂公著らの官を追貶した。三省は「司馬光らは率先して姦謀をなし、先帝を誹り毀ち、法度を変え易えました。罪悪は至って深い。当時の凶党はすでに死に、あるいは告老していても、わずかに懲責を示すべきです」と言った。そこで司馬光を清遠軍節度副使、呂公著を建武軍節度副使、王巖叟を雷州別駕に追貶し、趙瞻と傅堯兪の贈官と諡を奪い、韓維の到任、および孫固・范百禄・胡宗愈らの遺表の恩を追奪した。ほどなくあらためて光を朱崖軍司戸、公著を昌化軍司戸に追貶した。
- 癸未、呂大防・劉摯・蘇轍・梁燾・范純仁を嶺南に流し、韓維ら三十人の官を貶した。
- 大防が安州に移されたとき、その兄の大忠が涇原から入朝した。帝は大防の安否を訪ね、あわせて「執政は諸人を嶺南に遷そうとしたが、私だけが安陸に処させた。私のために声を寄せて問うてくれ。大防は朴直で人に売られたのだ。二、三年で会えるようになろう」と言った。大忠がその言葉を章惇に漏らすと、惇は取り締まりをいよいよ強めた。
- 折しも侍御史の来之邵が「司馬光は道に叛き理に逆らったのに典刑がまだ正されず、鬼が誅しただけです。ただ劉摯だけが生き残っております。まことに天が陛下に遺したものです」と言った。そこで三省が「呂大防らは臣として不忠、罪は司馬光らと異なりません。先ごろ朝廷は懲責したとはいえ、罰は咎に称わず、生死で罪を異にしては万世に垂れ示せません」と言った。
- そこで大防を舒州、摯を鼎州団練副使、轍を化州、燾を雷州別駕、純仁を武安軍節度副使に貶し、循・新・雷・化・永の五州に安置した。劉奉世は光禄少卿として郴州に住まわせ、ほどなく柳州に安置した。韓維は職を落として致仕させ、あらためて均州に謫して安置した。
- 王覿・韓川・孫升・呂陶・范純礼・趙君錫・馬黙・顧臨・范純粋・孔武仲・王欽臣・呂希哲・呂希純・呂希績・姚緬・呉安詩・秦観の十七人を通・随・峡・衡・蔡・亳・単・饒・均・池・信・和・金・光・衢・連・横などの諸州に住まわせた。王攽は職を落として致仕させ、孔平仲は職を落として知衡州とし、張耒・晁補之・賈易はいずれも監当官とし、朱光庭・孫覚・趙卨・李之純・杜純・李周はいずれも官秩を追奪し、あらためて孔文仲と李周を別駕に追貶した。中書舎人の葉濤が制を担当したが、文は醜い罵りを極め、聞く者は歯噛みした。
- 先に左司諫の張商英が「どうか陛下は元祐の時をお忘れなく。章惇は汝州の時を忘れず、安燾は許昌の時を忘れず、李清臣と曽布は河陽の時を忘れませんように」と上言して怒りを激発させた。これにより諸賢はみな免れなかった。
- 純仁はそのとき病で失明していたが、命を聞いて怡然として道に就いた。ある者が「名を求めている」と言うと、純仁は「七十の年で両目とも失った。万里の旅が望むところであろうか。ただ区々たる君を愛する心に尽くせぬところがあるだけだ。もし名を好むという嫌疑を避ければ、善をなす路がなくなる」と言った。
- 当時、韓維は均州に謫されたが、その子が「維は執政の日、司馬光と合わなかった」と訴えて行くのを免れた。純仁の子も、純仁が光と役法の議が異なったことを理由に免除を願い出ようとした。純仁は「私は君実(光)の推薦で宰相に至った。昔、同じ朝で事を論じて合わなかったのはよいが、お前たちが今日の弁明の材料とするのはならぬ。愧じる心を抱いて生きるより、愧じる心なく死ぬほうがよい」と言い、その子はやめた。
- 純仁は常に子弟に少しでも不平を抱かぬよう戒め、諸子が章惇を怨むのを聞けば必ず怒って止めた。道中、舟が江で覆り、純仁の衣がすべて濡れたときも、諸子を顧みて「これが章惇のせいだとでもいうのか」と言った。
- 甲申、太師致仕の文彦博を太子少保に貶した。先に左司諫の張商英が「彦博は国に背き恩に負き、司馬光に朋附した」と言ったので貶されたのである。
- 甲辰、蘇軾を瓊州別駕に謫授して昌化軍に移して安置し、范祖禹を賓州に移して安置し、劉安世を高州に移して安置した。
- 章惇は呂升卿と董必を遣わして嶺南を察訪させ、流人をことごとく殺そうと議した。帝は「私は祖宗の遺志に遵い、大臣を殺戮したことがない。釈して治めるな」と言い、惇は不快だった。
- そこで中書舎人の蹇序辰が上疏して「朝廷は先日、司馬光らの姦悪を正してその罪罰を明らかにし中外に告げました。ただ典刑を変え乱し、法度を改め廃し、宗廟を訕り讟い、両宮を睥睨した実状は明白ですが、その章疏と案牘は有司に散在しております。もし集めて蔵めなければ、年が久しくなれば必ず失われます。姦臣の言行をことごとく調べ、官を選んで編類し、一人につき一帙とし、二府に置いて天下と後世への大戒を示されたい」と言った。
- 章惇と蔡卞は序辰および直学士院の徐鐸に編類を命ずるよう請うた。司馬光らの一時に施行した文書をすべて拾い集めて附け、細部まで漏らさず、全部で百四十三帙にして上げた。これにより縉紳の士で禍を脱れる者がなくなった。
- 鄒浩は「初めの旨ではただ二等に分け、先帝に言い及んだものと言葉の行き過ぎたものとしただけでした。ところが今、施行されているものは混然として弁じがたい。似ていて分けがたい跡によって典刑の軽重が上下する。これでは陛下の威福の操柄が近臣に下るものです。どうか省察を加え、来事の鑑とされたい」と言った。
- 卞の党の薛昂と林自はさらに司馬光の『資治通鑑』の版木を毀つことを乞うた。太学博士の陳瓘が策士のとき神宗の製した序文を引いて問うたので、昂と自の議は沮まれた。
- 己亥、呂大防が舒州に赴こうとして虔州の信豊で没した。大防は宰相としてそれぞれの能を尽くさせて人を用い、細事に拘らず、天下は富庶に至った。それがついに貶されて死んだので、天下は惜しんだ。帝は聞いて「大防はどうして虔州にいたのか」と言い、帰葬を請うとただちに許した。当時、議者は「元祐の党人を痛烈に貶したのはみな主上の意ではない」と言った。
- 十一月癸酉、劉奉世を柳州に貶して安置し、程頤を涪州に貶した。頤はそのとき田里に放ち帰されていた。帝はある日、輔臣と元祐の政事を語って「程頤はみだりに自ら尊大ぶり、経筵で不遜が多かった」と言った。そこで言者が頤は司馬光と悪を同じくして相い済ったと論じ、そのまま籍を削って涪州に竄した。頤は涪で門人と講学をやめなかった。『周易伝』も涪で著したものである。
- 市易務を復置した。
元符元年~二年(1098-1099年)・訴理局と最後の追及
- 元符元年六月戊寅朔、改元した。甲午、蔡京らが常平・免役の法を上げた。
- 秋七月、范祖禹をふたたび化州に竄して安置し、劉安世を梅州に竄した。
- もともと章惇は范祖禹と劉安世をとりわけ深く怨み、どうしても死地に置こうとした。ここに至って蔡京にそれとなく告げて二人をあわせて陥れた。
- 安世が貶所に至ると、惇はひそかに陳衍を殺させたときの者に命じ、使者を梅州に立ち寄らせて安世に自裁を迫らせた。使者は忍びなくて止めた。惇はさらに土豪を転運判官に抜擢して殺させようとした。判官は意を承けて疾駆し、まもなく到着するというとき、家人は泣き叫んで食事もとれなかったが、安世の飲食と起居は平時どおりだった。夜半に至って、その人は突然、血を吐いて死に、安世は免れた。
- 祖禹はほどなく没した。祖禹は経筵で講を勧め、諫めを論じたものは常に数十万言に及び、治道を開き陳べ、事宜を弁じ釈すること平易明白で、底の底まで見通した。賈誼や陸贄も及ばぬほどだった。
- 二年八月癸酉、章惇らが新たに修めた敕令式を進めた。惇が帝の前で読んだところ、元豊になくて元祐の敕令によって立てたものが時おりあった。帝が「元祐にも取るべきものがあるのか」と問うと、惇らは「その善いものを取りました」と答えた。
- 九月癸卯、御史に三省と枢密院を点検させ、すべて元豊の旧制によらせた。
- 閏月、看詳訴理局を置いた。安惇は「陛下がまだ親政されぬとき、姦臣は訴理所を置き、熙寧・元豊の間に罪を得た者をみな雪ぎ、怨みを先朝に帰し、恩を私室に収めました。公案を取って検討させ、初めに罪を加えた意によって断罪を施行させていただきたい」と言った。蔡卞が章惇に局の設置を勧め、中書舎人の蹇序辰と安惇に検討させた。これにより重ねて罪を得た者は八百三十家に及び、士大夫はときに千里の道を逮捕されて赴いた。天下は怨み憎み、「二蔡二惇」の謡が生じた。