宋史紀事本末宣仁太后への誣告(宣仁之誣)
元豊八年(1085)の哲宗立太子をめぐる邢恕・蔡確の策動に始まり、宣仁太后(高氏)が九年の聴政で外戚の私恩を抑え「女中の堯舜」と称された事跡と、その崩後、紹聖から元符にかけて章惇・蔡卞・邢恕・蔡京らが定策の功を捏造し、同文館の獄を起こして宣仁を庶人に廃そうとし、皇太后の諫めで沙汰止みとなるまでを記す。
年表(8件)
- 神宗
- 元豊八年正月~三月・立太子をめぐる暗流1085年邢恕・蔡確が岐王擁立を図るも延安郡王が皇太子に立つ
- 哲宗
- 元祐元年~三年(1086-)・太后の自制1088年太后が文德殿での受冊を辞し、外戚の恩沢を減ずる
- 元祐四年・蔡確の車蓋亭詩1089年車蓋亭詩を誹謗とされ、蔡確が新州に安置される
- 元祐六年十一月・劉摯の失脚1091年邢恕への返書の「休復」の語を咎められ、劉摯が罷められる
- 元祐八年・太皇太后の崩御1093年宣仁太后が崩じ、哲宗が親政を始める
- 紹聖元年~四年(1094-)・蔡確の追復と王珪の追貶1097年蔡確を追復し、邢恕の捏造により王珪を追貶する
- 元符元年三月・同文館の獄1098年文及甫の書を証として獄を起こし、劉摯らの子孫を禁錮する
- 元符元年・宣仁廃位の企て1098年章惇・蔡卞が宣仁廃位を請うが、皇太后の諫めで帝が奏を焼く
神宗元豊八年正月~三月(1085年)・立太子をめぐる暗流
- 春正月戊戌、帝が病んだ。
- 二月癸巳、帝の病が重くなり、三省と枢密院が入見して皇太子を立てること、および皇太后が権りにともに聴政することを請い、許された。
- 三月甲午朔、延安郡王の傭を皇太子に立て、煦の名を賜った。
- 先に岐王の顥と嘉王の頵が日ごとに起居を問うていたが、高太后は垂簾すると二王に軽々しく入らぬよう命じ、しかもひそかに中人の梁惟簡の妻に十歳の子供用の黄袍を一着、作らせて懐に入れて持って来させた。倉卒の即位に密かに備えたのである。
- もともと太子がまだ立てられていなかった頃、職方員外郎の邢恕は蔡確と謀を成し、太后の甥の高公絵・公紀に密かに「主上のご病気は口にすべきでない状態です。延安は幼い。早く定論があるべきです。岐王も嘉王もみな賢王です」と語った。公絵は驚いて「何ということを言うのか。君はわが家に禍をもたらすつもりか」と言った。
- 恕は計が行われぬと知ると、逆に「太后は岐王に意を寄せている」と言い触らし、王珪と表裏をなして確を導いた。珪に入って見舞うことを約束させ、それとなく珪の言質を取ろうとし、知開封府の蔡京に剣を持つ士を外に伏せさせ、珪が少しでも異を唱えれば捕らえて誅そうとした。ところが珪は「主上には自ずと子がおられます」と言い、議は延安を立てることに定まった。恕はいよいよ施しようがなくなった。
- 太子が立てられてからも、なお確とともに定策の功があると自称し、その言葉を朝廷に言い触らした。
- 庚子、皇太后を太皇太后として尊んだ。
- 甲寅、群臣が帝に太皇太后とともに聴政するよう請うた。
- 蔡確は太后に媚びて自らを固めようと考えた。太后の従父の高遵裕が西征で軍規を失った咎で罪に当たっていたので、そこで遵裕の官を復するよう上言した。后は「遵裕の霊武の役で百万が塗炭に苦しんだ。先帝は夜中に報を得て起き上がり、寝台の周りを歩いて夜明けまで眠れなかった。以来、驚き悸えて大故に至った。禍は遵裕から起きたのだ。刑罰を免れただけでも幸いである。先帝の肉もまだ冷えぬうちに、私がどうして私恩を顧みて天下の公議に背けようか」と言った。確は恐れ震えて退いた。
哲宗元祐元年~三年(1086-1088年)・太后の自制
- 元祐元年春正月丙辰、神宗の原廟を立てた。太皇太后が詔して言うには――原廟の建立は由来が久しい。先日、神宗皇帝は祠宮を建てるとともに寝殿を建てて祖考を崇め厳かにされた。その孝は至れりというべきである。今、神宗はすでに祔されたので、故事では館御を営んで神霊を奉ずべきである。しかし宮垣の東は民の里に密接しており、開き広げれば煩わしい騒ぎになることを懼れる。縉紳の議を採ろうにも、みな帝と后を合わせて一殿とするというのでは、神宗が祖考を欽み奉じた意に称えられぬと慮る。聞くところでは治隆殿の後ろに園池があり、后殿から推せばもともと未亡人(自分)のために留めてあるという。その地に神宗の原廟を立てよ。私の万歳の後は英宗皇帝に従うべきである。上は神明を寧んじ、中は我が子の志を成し、下は民の心を安んずる。よいことではないか。
- 二年三月、神宗の祥が済むと太皇太后が詔して言うには――祥と禫が終わり、典策も告も具わったが、有司は章献明粛皇后の故事によって、私が文德殿で冊を受けるべきだという。皇帝が孝養の意を尽くして尊崇を極めようとされ、朝廷に損益の文があっても、それぞれ宜しきに従って称うべきである。恐れながら章献明粛皇后は真宗を輔佐し仁宗を擁佑された。その茂業と豊功にこそ隆く格別の礼が相応しい。私は薄徳の身、どうしてその徽音に企てられよう。旧儀に稽えて用いるのは、まことに徳に恥じる。将来、冊を受けるのは崇政殿にとどめよ。
- さらに執政に諭して「母后が朝に臨むのは国家の盛事ではない。文德殿は天子の正牙である。どうして女主の出御すべき所であろうか」と言った。
- 三年八月、邢恕が太后の甥の公絵のために書を作り、太后に高氏を尊び礼遇するよう乞うた。太后は怒って恕を罷めた。
- 十二月甲寅、太皇太后が詔して言うには――官の冗多の患いは由来が久しく、その流弊の極みはまことに今に集まっている。上に久しく閑職に置かれて職を失う吏があれば、下には害を受けて訴えるところのない民がある。ゆえに大臣に命じてその本を考え求めさせた。もし流入の数を裁ち減らさなければ、士を取る源を澄ますことはできない。私は今、この渺たる身から率先して天下に示す。
- 思うに臨御の始め、有司に敕して蔭補の私親に旧来、定めた限りがなかったものを、自ら薄徳ゆえ前人に並ぶことを敢えてせぬとして、すでに詔して家庭の恩は母后の比に従うことにとどめた。今また減らして必ず行うことを示す。そもそも先帝の顧託の深さ、天下の責望の重さを思えば、もし社稷に利があるなら、私は髪膚をも惜しまない。まして、この私的な恩などまことに毫末に等しい。忠義の士はこの誠を知って、それぞれ内を顧みる恩を忘れ、ともに節約の制を成せ。今後、聖節・大礼・生辰のたびに親属が得るべき恩沢はあわせて四分の一を減ずる。皇太后・皇太妃もこれに準ずる。
元祐四年(1089年)・蔡確の車蓋亭詩
- 五月、蔡確を新州に安置した。
- 確は勢いを失って久しく、そこで怨望を懐いていた。安州にいたとき車蓋亭に遊んで詩十章を賦した。知漢陽軍の呉処厚は確と隙があり、そこでその語を解釈して誹謗としたうえ、確が郝処俊が上元年間に高宗が武后に位を伝えようとしたのを諫めた事を用いていることを論じ、東朝(太后)を指斥するものだとして中書に上げた。
- そこで台諫が確の怨謗を上げてその罪を正すことを乞い、詔して確に釈明させた。確の自弁は甚だ詳しかったが、右正言の劉安世らは「確の罪状は明白です。何の釈明を待つ必要がありましょう。これは大臣が彼のために取り繕う地歩を作っているだけです」と言った。そこで確を光禄卿に貶して南京に分司した。
- 台諫は論じてやまず、諫議大夫の范祖禹もまた「確の罪悪は天下が容れません。それをなお列卿の分務として京に留めるのは衆論に適いません」と言った。執政は確を法に置くことを議したが、范純仁と王存は不可として争い、決しなかった。
- 文彦博が確を嶺嶠に貶そうとした。純仁はこれを聞いて呂大防に「この路は乾興以来、荊棘に覆われて七十年近くになる。我々が開けば、自分が免れなくなるのではないか」と言い、大防は二度と言わなかった。
- 六日後、あらためて確を英州別駕に貶し、新州に安置した。純仁はさらに太后に「聖朝は寛厚に努めるべきです。語言や文字の間の曖昧で明らかでない過ちで大臣を竄し誅すべきではありません。今の挙動は将来の法となるべきもの。この事は甚だ端緒を開くべきではありません。しかも重刑で悪を除くのは猛薬で病を治すようなもの、行き過ぎれば損なわずにおれません」と言ったが、聴かれなかった。
- 当時、中丞の李常、中書舎人の彭汝礪、侍御史の盛陶がいずれも「詩で確を罪するのは風俗を厚くする所以ではありません」と言った。常は坐して知鄧州に貶され、彭汝礪は「これは罪を織り上げる始まりです」と言って詞頭を封じ返し、坐して知徐州に貶され、盛陶は「告発の風を助長すべきではありません」と言い、これも坐して知汝州に貶された。
- 確の釈明がまだ上がらぬうちのこと、梁燾が潞州から諫議大夫に召され、河陽を通ったとき、邢恕は確に策立の勲があることを極論した。燾は着任してこれを奏した。太后は三省に諭して「帝は先帝の長子である。子が父の業を継ぐのは分として当然である。確に何の策立の勲があろうか。もし確を後日ふたたび来させれば、上下を欺き罔い、朝廷の害とならぬはずがない。帝が年少で制御しきれぬのを恐れる。ゆえに今、彼が自ら墓穴を掘ったのに乗じてこう処置するのは、社稷のためである」と言った。
- 六月甲辰、范純仁が罷められた。呂大防が「蔡確の党は盛んです。治めずにはおれません」と言うと、純仁は「朋党は弁じがたい。誤って善人にまで及ぶことを恐れます」と言った。司諫の呉安時と正言の劉安世はそこで純仁が確に党していると論じ、純仁もまた力を尽くして政の罷免を求め、知潁昌府として出た。
- 傅堯兪は太后に「蔡確の党のうち、はなはだしい者はもとより逐うべきですが、その他は一切、放置してよろしい。陛下の盛徳をもって何を容れられぬことがありましょう。確の詞がかりに誹謗に渉っていても、蚊や虻が耳元を過ぎるように聴き流し、些細なわだかまりも太和の気を犯さぬようにされたい。事が至れば無心で応ずる。聖人が至誠を養い遐福を御する所以です」と言った。
元祐六年十一月(1091年)・劉摯の失脚
- 乙酉、劉摯が罷められた。摯は呂大防と同位で、国家の大事の多くは大防が決したが、士大夫の進退だけは摯が実権を握っていた。しかし心の持ち方に恕が少なく、悪を去るのに勇んだので、ついに朋党の讒言に奇しくも当てられ、大防と隙を生じた。
- 先に蔡確が貶されたとき、邢恕もまた監永州酒税に謫された。恕が摯に書を送ると、摯はもともと恕と親しかったので、その返書に「永州は佳い所です。まず往って休復を俟たれよ」の語があった。排岸官の茹東済は険しい人物で、摯に求めるところがあって聴かれなかった。その書を見てひそかに写し取り、中丞の鄭雍と殿中侍御史の楊畏に示した。二人はまさに呂大防に付いていたので、その語を注釈して上げ、「休復とは語が『周易』に出ます。『休復を俟つ』とは、他日、太皇太后が子に復して明辟する(政を返す)のを俟つということです」と言った。
- また章惇の諸子はもともと摯の子と交わっており、摯も時おり彼らと接した。雍と畏は摯が引見し受け入れるのは籠絡の計で、後の福を期待しているのだと言い、あわせて王巖叟・梁燾・劉安世・朱光庭ら三十人はみな摯の死友だと論じた。
- 太后はそこで面と向かって摯に諭し、「言う者はそなたが匪人と通じて後日の地歩を作っていると言う。そなたは一心に王室に仕えるべきである。章惇のような者は、宰相として遇しても必ずしも楽しみはすまい」と言った。摯は恐れ入って退き、章を上げて自ら弁じた。
- 梁燾と王巖叟が果たして上疏して救おうとしたが、太后は「垂簾の初め、摯が奸邪を斥け排したのはまことに忠直であった。ただこの二事はなすべきことではない」と言い、そこで罷めて知鄆州とした。
- 給事中の朱光庭は駁して「摯は忠義から奮い立ち、朝廷は大位に抜擢しました。それを一朝にして疑いで罷めるのでは、天下はその過ちが分かりません」と言った。言者は光庭を党と見なし、これも罷めて知亳州とした。
元祐八年(1093年)・太皇太后の崩御
- 九月戊寅、太皇太后の高氏が崩じた。
- もともと太后が病んだとき、呂大防と范純仁らが見舞うと、太后は「老身は神宗の顧託を受け、官家(帝)とともに殿に出御して聴断してきた。そなたたちは試みに言ってみよ。九年の間に高氏に恩を施したことがあったか。ただ至公のためだけに、一男一女が病んで死のうとしても、みな会えなかった」と言い、言い終えて涙を流した。
- さらに「先帝は往事を追悔して涙を流されるほどであった。この事は官家がよく知っておくべきである。老身が没した後、必ず官家をたぶらかす者が多く出よう。聴いてはならぬ。公らもまた早く退き、官家に別の一群の人を用いさせるがよい」と言い、そこで左右を呼んで社飯を賜り、「来年の社飯の時、老身を思い出してくれ」と言った。
- 太后は聴政して故老と名臣を召し用い、新法の苛政を廃した。かくて宇内はふたたび安んじた。遼主はその臣下に「南朝はことごとく仁宗の政を行っている」と言って辺境で事を起こさぬよう戒めた。朝に臨むこと九年、朝廷は清明、華夏は綏定し、故事を力行して外家の私恩を抑え絶ったので、人は「女中の堯舜」と言った。
- 十二月乙巳、范純仁が政の罷免を乞うたが許されなかった。
- もともと太皇太后が病臥したとき、純仁を召して「そなたの父の仲淹は忠臣というべきである。明粛が垂簾していた時には、ただ明粛に母の道を尽くすよう勧め、明粛が上賓されると、ただ仁宗に子の道を尽くすよう勧めた。そなたもそれに倣うべきである」と言った。純仁は泣いて「忠を尽くさぬはずがありましょうか」と言った。
- 帝が親政すると純仁は位を避けることを乞うた。帝は呂大防に「純仁には時の望みがある。去らせるべきでない。私のために留めてくれ」と言った。ある朝、入覲したとき、帝が「先朝が青苗法を行ったのはどうか」と問うと、純仁は「先帝の民を愛する意はもとより深いものでした。ただ王安石が法を立てるのが行きすぎ、賞罰で激しく促したので、官吏が急き立てて民の害となったのです」と答え、退いて上疏し、その要旨として「青苗は行うべきものではありません。行えば結局、民を騒がすことを免れません」と述べた。
- 当時、小人どもは力を尽くして太后の時の事を排斥していた。純仁は「太后が聖躬を保佑された功烈と誠心は幽明ともに鑑るところです。議者が国是を恤まぬのは、何と薄いことでしょう」と奏し、そこで仁宗が明粛の垂簾の時の事を言うことを禁じた詔書を上げ、「どうか陛下はこれに稽えて行い、薄い俗を戒められたい」と言った。
- 韓忠彦もまた帝に「昔、仁宗が政を始めたとき、群臣もまた章献の非を多く言いました。仁宗はその心の持ち方が薄いことを憎み、詔を下して戒め飭されました。陛下が仁祖に法られれば善いことです」と言った。
- 給事中の呂陶もあらためて進み出て「太后は九年、保佑されました。陛下が尊んで報いようとされても、尽くせぬことを恐れるほどです。万一、姦邪不正の人があって『某人をふたたび用いるべきだ、某事をふたたび行うべきだ』と言えば、これこそ治乱安危の機です。察せずにはおれません」と言った。
哲宗紹聖元年~四年(1094-1097年)・蔡確の追復と王珪の追貶
- 紹聖元年三月乙亥、呂大防が罷められた。大防は宣仁の時、懇ろに位を避けることを乞うたが、后は「主上は年少である。公はすぐには去れぬ。しばらく年月を待て。私もいずれ東朝に就く」と言った。后が崩じると大防は山陵使となったが、殿中侍御史の来之邵が時の旨を先取りして真っ先に大防を弾劾し、大防もまた自ら辞任を求め、帝は従った。
- 十一月壬子、特に蔡確を観文殿大学士に追復した。
- 四年冬十月、邢恕を御史中丞とし、王珪を万安軍司戸参軍に追貶した。
- もともと恕は久しく外に斥けられて憤恨を懐き、河陽から間道で鄧州の蔡確を訪ね、太后と王珪の廃立の事を仕上げて、確と自分に定策の功があることを明らかにしようとした。謀は定まったが証左がなかった。折しも司馬光の子の康が闕に赴いて河陽を通ったので、恕は康を騙して確の功を称える手書を書かせた。ほどなく梁燾が諫議として召されて河陽を通ると、恕はあらためて燾に確の功を称え、あわせて康の書を証拠として出した。
- やがて恕は中山を帥いたとき、酒を設けて高遵裕の子の士京を誘い、「公は元祐年間、ひとり先公に恩が推されなかったことをご存じか」と言った。士京が「存じません」と言うと、さらに「兄弟はあるか」と問うた。「兄の士充がおりましたが、すでに死にました」と答えると、恕は「これこそ王珪の言葉を伝えた人物だ。当時、王珪は宰相で岐王を立てようとし、士充を遣わして禁中に言葉を伝えさせたのだ。公はご存じか」と言った。士京が「存じません」と言うと、恕は官爵で釣って「知らぬなどと言ってはならぬ。公のためにこの事をしてやる。ただ人に語るな」と言った。士京は凡庸で暗く、これに従った。
- ここに至って章惇と蔡卞は元祐の諸人に手を下そうとして恕を引いて自らの助けとし、そこで召し還して三度遷して中丞とした。
- 恕はそこで、北斉の婁太后の宮の名が宣訓で、かつて孫の少帝を廃して子の演を立てたことを引き、司馬光が范祖禹に「今、主は少なく国は疑う。宣訓の事はとりわけ慮るべきだ」と語ったと捏造した。さらに王棫に高士京のために奏を作らせ、「父の遵裕は死に臨んで左右を退け、士京に『神宗の彌留の際、王珪が士充を遣わして「皇太后は誰を立てたいのか分からぬ」と問わせた。私は士充を叱って去らせ、事はそれで済んだ』と語った」と言わせた。
- 折しも給事中の葉祖洽もまた「王珪は冊立の時に異論があった」と言った。そこで詔して珪を追貶し、遵裕に奉国軍節度使を贈った。
元符元年三月(1098年)・同文館の獄
- 文及甫を同文館の獄に下した。及甫は文彦博の子である。
- もともと劉摯はかつて及甫を論列し、さらにその父の彦博は三省の長官とすべきでないと論じたので、平章事にとどめられた。彦博が致仕すると、及甫は権侍郎から修撰として外に出た。父母の喪が明けようとしたとき、摯と呂大防がなお国を執っていたので、及甫は京官になれぬことを恐れて邢恕に書を送り、「月が改まれば除服ですが、入朝の計は必ずしも果たせません。当路の者は鷹揚の者への猜忌がいよいよ深く、その徒は実に多い。司馬昭の心は路人も知るところです。しかも粉昆がこれを助け、朋類が入り乱れて立ち、必ずやこの渺たる身を甘心快意の的にしようとしております。寒心すべきことです」と述べた。
- いわゆる「司馬昭」とは呂大防が独り国を執ること久しいことを指し、「粉昆」とは、世に駙馬都尉を粉侯といい、韓嘉彦が公主を娶ったので、その兄の忠彦が粉昆となる。恕はこの書を蔡確の弟の碩に示した。
- ここに至って恕は確の子の渭に上書させ、摯らが父を陥れ、ひそかに不軌を図って宗社を危うくしようとしたと訴えさせ、及甫の書を証拠として引かせた。章惇と蔡卞はこれによって摯および梁燾・王巖叟らを殺そうとし、摯に廃立の意があったとして、同文館に獄を置き、蔡京と安惇に合同で処理させ、及甫を逮捕して問わせた。
- 及甫は偽って「父の彦博が摯を司馬昭と称し、粉とは王巖叟が面と向かって申し上げた(面白)ということ、昆とは梁燾の字が況之で、況は兄のような意味です」と言った。京と惇はそこで万端に組み立てて諸人を族罪に陥れようとし、「劉摯らは大逆不道で、死んでもなお責め足りません。治めなければ天下に示せません」と奏した。帝が「元祐の人が果たしてそうなのか」と問うと、京と惇は「まことにその心はありました。ただ反の形がまだ具わらなかっただけです」と答えた。
- 折しも劉摯と梁燾はすでに貶されて死んでいたので、京らの奏は上がっても検証に及ばず、そこで詔して摯と燾の子孫を嶺南に禁錮し、王巖叟と朱光庭の諸子の官職を停めた。
- 蔡京は執政を狙っていたので、獄を治めるのに意を極めて元祐の諸賢を罪に織り上げた。それが成ってから曽布が京を忌み、密かに帝に「蔡卞が丞轄の位に備わっております。京をともに昇らせるべきではありません」と言い、そこで承旨に進むにとどまった。京と布はこれによって隙が生じた。
元符元年(1098年)・宣仁廃位の企て
- 章惇と蔡卞は元祐の諸臣がいつか復活することを恐れ、日夜、邢恕らと謀り、あわせて内侍の郝随と結んで助けとし、宣仁がかつて帝を危うくしようとしたという事を捏造した。すでに王珪を貶し、また同文館の獄を起こし、さらに司馬光・劉摯・梁燾・呂大防らが宣仁の閣を主管する内侍の陳衍と結んで廃立を謀ったと誣告した。
- 当時、衍はすでに罪を得て朱崖に配流されていた。さらに内侍の張士良がかつて衍とともに后の閣を主管していたので、郴州から召し還し、蔡京と安惇に合同で取り調べさせてその説を裏づけようとした。京らは鼎鑊と刀鋸を前に並べて「あったと言えば旧職に戻す。なければ刑に就け」と言った。士良は天を仰いで大いに哭し、「太皇太后は誣いられません。天地神祇は欺けません。刑に就くことを乞います」と言った。京らは鍛え上げても何も得られず、そこで「衍は両宮を隔てて疎んじさせ、随龍の内侍の劉瑗らを外に斥け、人主の腹心と羽翼を剪り除いた。大逆不道である」として死罪を奏した。帝はかなり惑わされた。
- ここに至って惇と卞は自ら詔書を作り、宣仁を廃して庶人とすることを請うた。皇太后はちょうど寝ていたが、これを聞いて急いで起き、帝に「私は日々、崇慶に侍っておりました。天日は上にあります。この話はどこから出たのですか。しかも帝が必ずこのようになさるなら、私とてどうなることか」と言った。帝は感じ悟り、惇と卞の奏を取って燭で焼いた。
- 郝随が探り知って密かに惇と卞に語った。翌日、惇と卞はふたたび状を具えて堅く施行を請うた。帝は怒って「そなたたちは私を英宗の廟に入れたくないのか」と言い、その奏を地に投げつけた。事はこれで沙汰止みとなった。