宋史紀事本末元祐の更化(元祐更化)
神宗が崩じた元豊八年(1085)から元祐八年(1093)まで、宣仁太后(高氏)の聴政のもとで司馬光・呂公著らが言路を開き、保甲・方田・市易・保馬・免役・青苗など熙寧以来の新法を次々に罷めた経緯。差役の復活をめぐっては蘇軾・范純仁・韓維が異を唱え、畢仲游や常安民は新法党の残存を警告した。呂大防・范純仁が後を継ぎ、蘇轍が調停論を退ける。
年表(7件)
- 神宗
- 元豊八年三月~五月・太皇太后の聴政と言路の開放1085年太后が聴政し、司馬光の言に従って言路を開く
- 元豊八年・新法の改廃1085年司馬光が「母が子を改める」と説き、新法改廃の議が定まる
- 哲宗
- 元祐元年閏二月~三月・蔡確の追放と役法の議1086年蔡確・章惇が去り、免役銭を罷めて差役法を復す
- 元祐元年・畢仲游の書と劉摯の諫言1086年畢仲游が新法党の再起を警告し、劉摯が迎合の風を諫める
- 元祐元年五月~十一月・呂恵卿らの処分と青苗の停止1086年呂恵卿を貶し青苗銭を罷め、九月に司馬光が没する
- 元祐二年~四年(1087-)・呂公著と常安民の警告1089年常安民が小人の勢いを説き、呂公著の死後は呂大防・范純仁が輔政する
- 元祐五年~八年(1090-)・差役の再議と調停論1093年差役の不便が論じられ、蘇轍の上疏で調停の説がやむ
神宗元豊八年三月~五月(1085年)・太皇太后の聴政と言路の開放
- 帝が崩じ、皇太子の煦が即位した。時に十歳。太皇太后の高氏が朝に臨んでともに聴政した。
- 太后は聴政するとただちに京城修築の役夫を解散させ、軍器の製造と禁廷の工技を止め、近侍でとりわけ見苦しい者を出し、中外に苛酷な取り立てをせぬよう戒め、民間の保戸馬の事を寛くした。いずれも中旨から出たもので、宰相の王珪らは与り知らなかった。
- 司馬光は先帝の喪を聞いて入って弔した。光は官を罷めて洛に住むこと十五年、田夫や野老までみな「司馬相公」と呼び、婦人や子供も君実(光)を知っていた。ここに至って弔問に入ると、衛士は光を見てみな手を額に当て、民は道を遮って「公よ、洛に帰らないでくれ。留まって天子を輔け、百姓を活かしてくれ」と叫んだ。行く先々で人が集まって見物したので、光は恐れて急いで帰った。
- 太后が梁惟簡を遣わして光を労い、政をなすのに何を先とすべきか問うた。光は疏を上げて次のように述べた。
- 臣が聞くに、『周易』では天地が交わるのを泰、交わらぬのを否とします。君父は天、臣民は地です。ゆえに君が心を降して訪ね問い、臣が誠を尽くして献替すれば、庶政は治まり邦家は安らぎます。君が耳に逆らう言を憎み、臣が身の便を図れば、下情は塞がり衆心は離叛します。生民以来、治乱がこの道によらなかったことはありません。
- そもそも道は岐路のようなもの、近くで半歩を誤れば遠くで千里を失います。今、陛下は大宝に臨まれたばかり、太皇太后は万機をともに断ぜられる。初めて号令を発するこの時こそ、治乱の分かれ道、安危の分かれるところです。要切なものを先にし、瑣細なものを後にすべきです。
- 臣がひそかに見るに、近年、風俗は頽廃し、士大夫は迎合して身を全うすることを智とし、危言正論を狂とします。それゆえ下情は蔽われて上に通じず、上の恩は塞がって下に達しません。閭閻は愁い苦しんで痛心し眉をひそめても上は知り得ず、明主が憂え勤め、暗いうちに衣を着け遅く食されても、下は訴えるところがありません。みな罪は群臣にあるのに、愚民は無知ゆえ、しばしば怨みを先帝に帰します。
- 臣の愚考では、今日まず行うべきは、明らかに詔書を下して言路を広く開くことに如くはありません。官の有無を問わず、朝政の欠失および民間の疾苦を知る者にはみな封をした状を進めて情を尽くして極言することを許し、あわせて諸路の州軍に頒って榜を出して知らせる。京では鼓院に投じ、主判官に責任をもって時を移さず進上させる。外では州軍に投じ、長吏に責任をもってその日のうちに逓送して奏聞させる。いずれも副本の提出を求めさせず、強引に抑え退けさせてはなりません。群臣に妨げようとする者があれば、その人には必ず姦悪があって人に指摘されるのを畏れ、もっぱら聡明を塞ごうとしているのです。察せずにはおれません。
- 詔して従われた。
- 夏四月甲戌、詔して言うには――先皇帝は御位に臨まれること十九年、政事を建立して天下を潤された。しかし有司の奉行が当を得ず、ほとんど煩わしい騒ぎとなり、あるいは苟且に形だけ整えて実の恵みを宣布できなかった。中外に申し諭し、心を協えて令を奉じ、先帝が元元(民)を恵み安んずる意に称うようにせよ。
- 五月丙申、百官に朝政の欠失を言わせ、朝堂に榜を掲げた。
- 当時、大臣に不快な者があり、詔語の中に六事を設けて禁じ抑えようとした。「もしひそかに懐くところがあって分に外れたことを犯し、あるいは機事の重きを煽動し、あるいはすでに行われた令に迎合し、上は朝廷の意をうかがって僥倖で進むことを求め、下は流俗の情を眩惑して虚しい誉れを取ろうとする者は、必ず罰して赦さぬ」というものである。
- 太后が詔の草案を封じて司馬光に示すと、光は「これは諫めを求めるものではなく、諫めを拒むものです。人臣はただ言わぬだけで、言えばこの六事に当たってしまいます」と言った。
- 太府少卿の宋彭年と水部員外郎の王諤がいずれも詔に応じて事を言った。これに乗じて二人を懲らしめ天下の言者を戒めようとする者があり、職掌外のことを言ったとして銅三十斤の罰を科した。光がその事情を詳しく論じ、詔を改めて施行した。そこで封事を上げる者は千を数えた。
- 丙辰、蔡確と韓縝を尚書左右僕射兼門下・中書侍郎、章惇を知枢密院事とした。
- 詔して司馬光を起こして知陳州とした。光が闕を通って入見すると、留めて門下侍郎とした。
元豊八年(1085年)・新法の改廃
- このとき天下の民は首を伸ばし目を拭って新政を見ようとしていたが、議者はなお「三年、父の道を改めず」と言った。光は「先帝の法は、善いものなら百世を経ても変えられません。しかし王安石や呂恵卿の建てた、天下の害となるものを改めるのは、火を救い溺れる者を助けるようにすべきです。まして太皇太后が母として子を改めるのであって、子が父を改めるのではありません」と言った。そこで衆議はやや止んだ。
史論(羅從彦)
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孔子は「三年、父の道を改めず」と言った。これは孝子が喪に居って、父の在世時の道を志に存することであり、必ずしも事を主として言ったものではない。まして危うきを安きに易え、乱れを治に易える時に当たっては、速やかであれば済い、緩ければ間に合わない。改めることこそ孝なのである。天子の孝は天下を保つことにある。光がその理で言わず、「母が子を改めるのであって子が父を改めるのではない」と言って衆議を抑えたのは、失である。その後、紹聖の時に忠良を排し陥れて治を害したのは、光が招いたところでもあろうか。
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程顥を宗正寺丞に召した。当時、朝政は新たになり、賢徳の者が登用された。顥は小官ながらとりわけ時の望みを集めていたので、この召しがあった。折しも顥は病で行けず、まもなく没した。
- 丁亥、中外の臣民に朝政の得失と民間の疾苦を直言することを許すと詔した。
- 秋七月戊戌、呂公著を尚書左丞とした。もともと公著は知揚州から召されて侍読となった。太后が使者を遣わして言いたいことを問うと、公著は「先帝の本意は民力を寛くし省くことを先とされました。ところが建議する者は法を変えて民を侵すことに努め、自分と異なる者を一切、斥け去りました。それゆえ日が久しくなるほど弊は深くなり、法が行われるほど民は困窮しました。まことに中正の士を得て天下の利病を講求し、力を協えて行えば、難しくはありますまい」と言い、そこで十事を上った。天を畏れ、民を愛し、身を修め、学を講じ、賢に任じ、諫めを納れ、斂を薄くし、刑を省き、奢を去り、逸ることなかれ、である。到着してこの任命があった。
- 公著は政府に居ると司馬光と心を同じくして輔政し、先帝の志を推し本づけ、改めようとして暇のなかったもの、改めても尽くせなかったものを一つ一つ実行した。さらに諫員を備え置いて言路を開くことを乞い、民は歓呼し鼓舞して便利だと称えた。
- 詔して保甲法を罷めた。もともと保甲法は京畿および河北・河東・陝西の三路で行われ、都保三千二百六十六、正長・壮丁六十九万一千九百四十五人を置き、年に従来の募兵の銭六十六万一千四百八十三緡を省いたが、民間は徴発に堪えられなかった。
- 先に司馬光が太后に言った――兵が民間から出るのは古の法だとはいえ、古は八百家からわずかに甲士三人・歩卒七十二人を出しただけで、暇な民が甚だ多く、三季は農に務め一季は武を講じ、稼穡を妨げませんでした。両司馬以上はみな賢い士大夫を選んで当て、侵し漁る患いがなく、それゆえ兵と車は睦み合い、動けば功がありました。今は郷村の民を籍に取って二丁につき一を保甲とし、弓弩を授けて戦陣を教えている。農民の半分が兵になったも同然です。
- 三、四年来はさらに三路に都教場を置き、四季を問わず五日に一度、教練させ、特に使者を置いて監司に比して専ら提挙させ、州県は与れません。一丁が教閲すれば一丁が物を運ぶ。五日に一度とはいえ、保正長は的の土盛りや草刈りを名目に教場に集め、賄賂を取れば放し、なければ留め置く。三路の耕耘・収穫・稼穡の事はほとんど廃れております。
- ここに至ってあらためて公私の労苦と騒ぎ、有害無益を力説し、そこで詔して罷めた。
- 十一月丙戌、方田を罷めた。
- 鮮于侁を京東転運使とした。熙寧の末にも侁はこの官を務めた。ここに至って呉居厚が貶されたので、あらためて用いた。司馬光は人に「今また子駿(侁)を転運使とするのはまことに相応しくない。しかし朝廷が東土の弊を救おうとするなら子駿でなければならぬ。この一路の福星だ。百人の子駿を得て天下に配れぬものか」と語った。
- 十二月壬戌、市易法を罷めた。当時、言者は次々に市易の患いが天下に及んでいると論じた。元手はおよそ千二百万緡、利息はおおむね二分で、十五年の間に元利は数倍になるはずだが、今はやっと元本を保っているだけだった。物を買って官に入れ、まだ転売しないうちに利息を計って取り立て、しかも物貨は粗悪で上下が互いに欺き、欠損が日ごとに増え、空しく虚名があるだけだった。
- 監察御史の韓川は「市易は物価を平均すると言いますが、実は貨物を交換して利を取ることを免れません。かりに得るところがあってもすべきではないのに、まして得るところが失うところに及ばぬのですから。速やかにその法を罷められたい」と論じた。そこで詔して市易を罷め、前の提挙市易の光禄卿の呂嘉問の三秩を削って知淮陽軍に貶した。
- 保馬法を罷めた。
哲宗元祐元年閏二月~三月(1086年)・蔡確の追放と役法の議
- 庚寅、右司諫の王覿が上疏して「国家の安危治乱は大臣に繋がっております。今、執政八人のうち半ばが姦邪です。これでは一、二の元老がどうして志を行えましょう」と言い、そこで蔡確・章惇・韓縝・張璪が邪に朋して正を害していることを極論した。章は数十に及んだ。
- 折しも右諫議大夫の孫覚、侍御史の劉摯、右司諫の蘇轍、御史の王巖叟・朱光庭・上官均らが章を連ねて蔡確の罪を論じ、あわせて「確は熙寧・元豊の頃、冤獄と苛政に始終、与っておりました。それが今日になって、そっと人に『当時、確がどうしてこんなことを言えたか』と語っております。その意は名位を盗み固め、かえって曲を先帝に帰そうとするものです。司馬光と呂公著が用いられて煩苛を除くと、確は『みな自分が建白したものだ』と言っております」と言った。そこで公論はいよいよ容れず、太后は斥けるに忍びなかったが、ただ政を罷めて知陳州として出した。
- 司馬光を尚書左僕射兼門下侍郎とした。当時、光はすでに病んでいたが、青苗・免役・将官の法はなお残り、西夏も降っていなかった。光は嘆じて「四つの害が除けねば、私は死んでも目を瞑れぬ」と言い、呂公著に書を送って「光は身を医に付し、家事を子に付しました。ただ国事だけ託すところがありません。今、公に属します」と言った。
- やがて詔して朝参を免じ、輿に乗って三日に一度、省に入ることとしたが、光は「君に見えなければ政務は執れません」として辞退した。詔して子の康に扶けさせて入対させた。遼人はこれを聞いて辺の吏に敕して「中国は司馬を宰相とした。慎んで事を起こして辺の隙を開くな」と言った。
- 辛亥、章惇が罷められた。言者は惇が讒賊で狠戻、上を罔い明を蔽う不忠の罪は蔡確らと同じだと論じた。惇は落ち着かず、確が罷められると論者はいよいよ激しくなった。折しも太后の簾前で司馬光と役法を争弁したが、その言葉が甚だ悖っていたので、太后は怒って知汝州に斥けた。
- 三月、司馬光が免役銭をことごとく罷めて差役法を復し、諸色の役人をみな旧制どおりにすることを請うた。現存する役銭は州県の常平の元手に振り替えることとした。
- そこで詔して役書を修定した。役銭は元の定額および額外の寛剰二分以下だけを基準として著すことを許し、その他はすべて除く。寛剰がもともと二分に及ばぬ場合は従来どおりとした。ほどなく詔して、耆長・戸長・壮丁は従来どおり人を募って役に供させ、保正・甲頭・承帖人はすべて罷めた。
- 侍御史の劉摯は祖宗の差法をあわせ用いることを乞い、監察御史の王巖叟は諸役相助の法を立てることを請い、中書舎人の蘇軾は熙寧の給田募役法を行うことを請うてその五つの利を挙げた。王巖叟は「五利は信じがたく、十の弊がある」と言い、軾の議は取りやめとなった。
- 司馬光はあらためて言った――免役の法にはその害が五つあります。上等戸は旧来、役に充てられてもとより持ち出しはありましたが、交替で休めました。今は銭を出し、旧来の費用に比べてとりわけ多く、しかも年ごとに休息がありません。下等戸は旧来、役に充てられなかったのに、今は一律に銭を出させます。旧来、差し出されたのはみな土着の良民でしたが、今はみな浮浪の人です。しかも農民は銭を出すのが力を出すより難しく、凶年には荘田や牛具を売って銭を官に納めます。さらに提挙司はひたすら多く役銭を集めて寛剰を積むことを功としております。これが五つの害です。
- 今は直接、敕命を降し、県令・佐に委ねて簿を掲げて差役を定め、自ら役を務めたくない者は適任者を択んで雇わせるに如くはありません。ただ衙前の一役だけがもっとも重く難しい。今、差法を行っても持ち出しが少なければ破産には至りますまい。なおその力で独りでは務まらぬことを憐れむなら、従来どおり官戸・寺観・単丁・女戸で屋産や荘田のある者から、貧富に応じて差をつけて助役銭を出させることを乞います。
- なお役人の利害は四方で一様でないことを慮ります。監司や守令にその可否を審らかにさせ、可なら速やかに行い、まだ究め尽くせなければ、県は五日で措置案を州に上げ、州は一か月で転運司に上げて奏聞させる。朝廷は執政に委ねて審定し、一路ごと一州ごとに敕を作って、曲尽させたい。
- 初め章惇は光の奏の粗略で尽くさぬところを取って駁奏した。呂公著は「惇はもっぱら勝つことを求め、命令の大体を顧みません。近臣を選び差して詳定させていただきたい」と言い、そこで資政殿大学士の韓維および范純仁・呂大防・孫永らが詳定して上申した。
- 蘇軾が光に「差役も免役もそれぞれ利害があります。免役の害は上で銭を集めて下に銭不足の患いを生ずること、差役の害は民が常に官にあって農に専心できず、しかも吏胥がこれに乗じて姦を働くことです。この二つの害の軽重はおおむね同じでしょう」と言った。光が「君はどう思うか」と問うと、軾は「法が前のものを承ければ事は成りやすく、事に段階があれば民は驚きません。三代の法は兵と農が一つでしたが、秦に至って初めて二つに分かれました。唐の中葉に府兵をすべて長征の卒に変え、以来、民は兵を知らず兵は農を知らず、農は穀と帛を出して兵を養い、兵は性命を出して農を衛る。天下はこれを便利としました。聖人が生き返っても変えられません。今の免役の法は実によく似ております。公が急に免役を罷めて差役を行おうとされるのは、ちょうど長征を罷めて民兵を復するようなもの。容易ではありません」と答えたが、光はもっともとしなかった。
- もともと差役は祖宗の世に行われたが、法が久しく弊が多く、編戸が役に充てられても官府に慣れず、吏が虐げて使うので多く破産し、狭い郷の民には休息を得られぬ者もあった。免役は民に戸の高下で銭を出させ、役に服する苦しみをなくした。ただ法を行う者が上の意に循わず、雇役の実費のほかに銭を取りすぎたので、民はそれで病んだ。もし収入を量って支出を定め、民から多く取らなければ善かったのである。
- 光は免役の害を知って利を知らず、一切を差役で代えようとした。軾だけが実を告げたが、光は察しなかった。軾がさらに政事堂で述べると、光は怒りの色を見せた。軾は「昔、韓魏公が陝西の義勇に入れ墨したとき、公は諫官として力を尽くして争われた。韓公は不快でしたが公は顧みなかった。軾はかつて公からその詳細を伺いました。今、宰相となられて軾に言を尽くさせぬのですか」と言い、光は謝した。
- 以来、役人はすべて現在の数を定額とし、ただ衙前だけは坊場・河渡の銭で雇い募り、その他はすべて差役と定め、あわせて官戸・寺観・単丁・女戸への課を罷めた。ほどなく衙前がみな雇い賃を得られるわけではないので、雇募を招募に改めた。
- 范純仁は光に「治道は甚だしいものを除けばよいのです。差役の一事はとりわけよく講じて緩やかに行うべきです。さもなくばいよいよ民の病となります。どうか公は心を虚しくして衆論を招き、必ずしも自分から謀を出そうとされませんように。謀が自分から出れば、諂う者がその隙に乗じて迎合します。かりに議が回りにくければ、まず一路で行ってその結末を観られてはいかがですか」と言った。光は従わず、いよいよ堅く持した。純仁は「これでは人に言わせぬというもの。公に媚びて悦ばれようとするなら、若い頃に安石に合わせて速やかに富貴を得たのと何が違いましょう」と言った。
- 純仁はまた「熙寧の按問自首の法をすでに改められましたが、有司の立てた条文が厳しすぎ、四方の死者は旧来の倍になっております。先王の『失うとも常法によらず』の意ではありません」と言った。純仁は日ごろ光と志を同じくしたが、事に臨んで規正することはおおむねこのようだった。
- 初め差役の復活は五日を期限としたので、同列はその切迫を病んだが、知開封府の蔡京だけは約どおりに畿県の雇役をことごとく改め、一つも違えなかった。政事堂に赴いて光に報告すると、光は喜んで「人ごとに君のように法を奉じてくれれば、行えぬことがあろうか」と言った。
元祐元年(1086年)・畢仲游の書と劉摯の諫言
- 光が政府にあって、王安石と呂恵卿の建てた新法をほぼ削り革めた。ある者が光に「熙寧・元豊の旧臣には狡猾な小人が多い。いずれ父子の義で主上を離間する者があれば禍が起こります」と言った。光は正色して「天がもし宋を祚けるなら、そんなことは決してない」と言った。そこで天下は釈然として「これこそ先帝の本意だ」と言った。
- 衛尉丞の畢仲游が光に書を送って次のように述べた。
- 昔、安石は事業を興す説で先帝を動かし、財の不足を患えました。それゆえ民の財を得られる政はすべて用いた。青苗を散じ、市易を置き、役銭を集め、塩法を変えたのは「事」であり、事業を興そうとして不足を患えたのが「情」です。もしその事業を興そうとする情を杜がずに、ただ散じ集め変え置く法だけを禁じようとすれば、百の説を唱えて百とも行われません。
- 今、青苗を廃し市易を罷め役銭を免じ塩法を去り、およそ利と称して民を傷つけるものを一掃して改められた以上、これまで新法で用事した者は必ず不快でしょう。不快な人は必ず「廃罷や免除は不可だ」と言うだけでなく、必ず不足の情を操り不足の事を言って上意を動かします。石であってもこれを聴かせれば動く。そうなれば廃罷したものはみな復し行われましょう。あらかじめ手を打たずにおれましょうか。
- 今の策としては、大いに天下の会計を挙げ、出入りの数を深く明らかにし、諸路に積んだ銭と粟を一つに地官(戸部)へ帰し、経費が二十年分は支えられるようにする。数年のうちにはさらに今日の十倍になりましょう。天子に天下の財が余っていることをはっきり知らせれば、不足の論は前に陳べられなくなる。しかる後に新法と称されるものを永く罷めて復せなくなります。
- 昔、安石が位に居たとき、中外は彼の人ばかりでした。それゆえその法が行われた。今、先日の弊を救おうとしても、左右・侍従・職司・使者の十のうち七、八は安石の徒です。二、三の旧臣を起こし六、七の君子を用いても、百のうち十数を存するだけ。その勢いでどうしてなし得ましょう。勢いがなし得ぬのに行おうとすれば、青苗は廃されてもまた散じられます。まして廃されていなければなおさら。市易は罷められてもまた置かれます。まして罷められていなければなおさら。役銭も塩法もみな同様です。これで先日の弊を救うのは、人が久しく病んで少し間があったとき、その父子兄弟が顔色を見て喜びながら敢えて祝えぬようなもの。病がなお在るからです。
- 光は書を得て悚然としたが、結局これを慮らなかった。
- 劉摯を御史中丞とした。摯は上疏して「上の好むところは下に必ずそれ以上のものが現れます。朝廷の意が綜覈にあれば下には必ず刻薄の行いがあり、朝廷が寛大に努めれば下には必ず苟簡の事があります。習俗は利を懐き意に迎合して和に趨り、なすところは似ていても、上の意はもともとそうではありません。今、因革の政は本より異なるのに、様子見の俗はなお在ります。昨日、差役を行い始めたとき、監司はすでに迎合して先を争い、利害を較べずに一律に差役を定め、一路が騒動しました。これから見れば、大略この類です。先ごろ数人を黜責したのは、みな非法に絞り取って進もうとし民を害したからです。しかし漫然として事を省かせようとしたのではありません。愚か者は理解せず、枉げを矯めて正に過ぎます。禁じずにおれましょうか」と述べた。
- 壬寅、呂公著を尚書右僕射兼中書侍郎とした。
- 詔して文彦博を起こして平章軍国重事とし、班を宰相の上とした。
元祐元年五月~十一月(1086年)・呂恵卿らの処分と青苗の停止
- 五月丁巳、韓維を門下侍郎とした。神宗が崩じたとき、維は提挙嵩山崇福宮から入って弔した。太后が手詔で労い問うと、維は「人情は貧しければ富を思い、苦しければ楽を思い、困れば休息を思い、鬱すれば通ずることを思います。まことに常に民を利することを本とすれば民は富み、常に民を憂うることを心とすれば民は楽しみます。賦役で人力の堪えぬものを除けば労苦は息み、法禁で人情に便でないものを免ずれば鬱塞は通じます。これを推し広げて誠を尽くして行えば、子孫は陛下の徳を観て、教えずして成りましょう」と答えた。
- ほどなく起こして知陳州とし、召して資政殿大学士兼侍読とし、役法の詳定に当たらせた。四方から差役が民に便だという声が多かったが、維は「これは小人が意を迎えて合わせているのです。すべては信じられません」と言った。司馬光は従えなかった。
- 六月甲辰、呂恵卿を建寧軍節度副使に貶して建州に安置した。中書舎人の蘇軾がその制を草して次のように書いた――恵卿は斗筲の才、穿窬の智で、宰輔に諂い仕えてともに廟堂に昇った。禍を楽しみ功を貪り、兵を好み殺すことを喜び、利を集めることを仁義とし、法律を詩書とした。まず青苗を建て、次に助役・均輸の政を行い、自ら商賈と同じくなり、手実の禍は鶏や豚にまで及んだ。苟くも国を蝕み民を害せることなら、みな腕まくりして先頭に立った。先皇帝は賢を求めること及ばぬがごとく、善に従うこと転がる玉のようであった。初めは帝堯の仁でひとまず伯鯀を試み、最後は孔子の聖で宰予を信ぜられなかった。なお両観の誅を寛くし、三苗の竄をわずかに示すにとどめる。天下は伝誦して快哉と称した。
- 当時、恵卿・章惇・呂嘉問・鄧綰・李定・蒲宗孟・范子淵らはみなすでに外に斥けられていたが、言者は論じてやまなかった。范純仁が太后に「人の過ちを記録するのに、あまり深くすべきではありません」と言い、太后はもっともとした。そこで詔して、前朝に迎合し附会した人は一切、問わず、言者もふたたび弾劾せぬこととした。恵卿の一党はやや安んじた。
- ある者が呂公著に「今、悪を除き尽くさなければ後患を遺します」と言うと、公著は「治道は甚だしいものを除くだけです。文帝・景帝の世には網から舟を呑む魚も漏れました。しかも人材はまことに得がたい。自ら新たにさせるべきで、どうして自ら棄てさせられましょうか」と言った。
- 八月辛卯、詔して常平の旧法を復し、青苗銭を罷めた。
- 司馬光は病で休んでいた。范純仁は国用の不足を理由に、あらためて常平の銭穀を貸し出して利息を取る法を立て、正月に半分を散じるのを額とし、民間の絲と麦が豊熟すれば夏税とともにまずその半分を納めさせ、半分を納めることを願う者は利息を一分にとどめることを請うた。
- 台諫の劉摯・上官均・王覿・蘇轍が次々に章を上げてその非を論じた。光は「先朝が青苗を散じたのはもともと民を利するためで、あわせて情願を取っておりました。後に提挙官が速やかに功を挙げようとして多く散ずることに努めたのです。今、押しつけを禁ずれば害はありません」と言った。
- 中書舎人の蘇軾は録黄に奏して「熙寧の法も押しつけを禁じなかったわけではないのに、その害はここに至りました。民家は収入を量って支出を定め、貧しくとも足りております。もし分外の銭を得れば費用が自ずと広がります。今、情願を許せば、法を設けて民を罔い、一時の不当な出費を快くさせながら、後日の催促の患いを慮らぬことを免れません。良法ではありません」と述べた。
- 折しも台諫の王巖叟・朱光庭・王覿らが次々に章を上げて青苗の廃止を乞うた。光は大いに悟り、病を押して対面を請い、太后は従った。詔して常平の銭穀はただ州県に旧法どおり時に応じて糴糶させ、青苗銭はもはや支給せず、旧債の二分の利息を除き、元の元本は欠けの多少を検分して段階を分け、二税とともに納めさせることとした。
- 九月丙辰朔、司馬光が没した。当時、両宮は己を虚しくして光の政を聴き、光もまた言が行われ計が従われるのを見て、身を社稷に殉じようとし、庶務に親しんで昼夜、休まなかった。賓客はその身体の衰えを見て、諸葛亮の「食少なく事煩わし」を挙げて戒めとしたが、光は「死生は命だ」と言っていよいよ力を尽くした。病が篤くなると諄々と夢の中で語るように呟いたが、みな朝廷と天下の事だった。没してその家から遺表八枚が見つかって上げられたが、いずれも当世の要務だった。太后はそのために慟き、帝とともにその喪に臨み、太師・温国公を贈り、文正と諡した。
- 十一月、呂大防を中書侍郎、劉摯を尚書侍郎とした。
元祐二年~四年(1087-1089年)・呂公著と常安民の警告
- 二年夏四月己丑、文彦博が致仕を乞い、詔して十日に一度、都堂に至って事を議させた。
- 三年夏四月辛巳、呂公著が老いを理由に懇ろに位を辞し、そこで司空・同平章軍国事に拝した。詔して東府の南に邸を建て、北の扉を開いて執政の会議に便にし、三省と枢密院の職はすべて総理でき、一日おきに一度、朝に至って都堂に赴くこととした。その退出も時に拘らせなかった。異例の礼である。
- 当時、熙寧・元豊に用事した臣は去っても、その党が中外に分布して私説を起こして時政を揺さぶった。鴻臚丞の常安民が公著に書を送って次のように述べた。
- よく天下の勢いを観るのは、良医が疾を診るようなものです。安寧無事の時に人に「その後、必ず大きな憂いがある」と言えば、衆は必ず驚き笑います。ただ微を識り機を見る士だけが、その兆しを逆睹できます。ゆえに憂うべきものを憂えず、憂うるに足らぬものを憂える。それが至憂です。
- 今日の天下の勢いは大いに憂うべきです。忠良を登用しても、海内の英才を捜し集めてみな朝に集め小人に勝つことができなければ、端人正士はまだ枕を高くして眠れますまい。ゆえに小人を去るのは難しくなく、小人に勝つのが難しいのです。
- 陳蕃と竇武は心を協え力を同じくして名賢を選び用い、天下は太平を待ち望みましたが、ついに曹節の手にかかって死に、党錮の禍を成しました。張柬之と五王は唐室を中興させ、慶びが万世に流れると思われましたが、武三思がひとたび志を得るや、竄されて滅びました。これらはみな前世にすでに起こった禍です。
- 今、賢を用いるのは孤立した棟に倚るようなもの、士を抜くのは巨石を転がすようなもの。奇特で卓越した才があっても一つとして志を行えません。甚だ嘆かわしい。猛虎が隅を負えば誰も敢えて触れませんが、ついに人に勝たれるのは、人が多く虎が寡ないからです。ゆえに十人で一虎を制すれば人が勝ち、一人で十虎を制すれば虎が勝つ。まして数十人で千の虎を制するとは。今、怨みと憤りはすでに積もり、ひとたび発すればその害は必ず大きい。大いに憂えずにおれましょうか。
- 公著は書を得て黙した。
- 呂大防と范純仁を尚書左右僕射兼門下・中書侍郎とした。大防は朴訥で厚く、剛直で党与を作らず、純仁は博大をもって上の意を開き、忠厚をもって士風を改めることに努めた。二人は心を同じくし力を尽くして王室を輔けた。太后もまた心を傾けて委ねたので、元祐の治は嘉祐と比べられるほど盛んだった。
- 四年二月甲辰、呂公著が没した。太皇太后は輔臣に会って泣き、「邦国の不幸である。司馬相公が亡くなり、呂司空もまた逝った」と言い、久しく痛み憫れんだ。帝もまた悲しみ、その家に赴いて臨奠し、太師・申国公を贈り、正献と諡した。
- 六月甲辰、范純仁が罷められた。
- 冬十月癸丑、帝が邇英殿に出御し、講官が『三朝宝訓』を進講した。
- 当時、呂大防は帝の年齢がいよいよ長じたのを見て、学に進むことを日々の急務とし、講読官に詔して仁宗の邇英御書の解釈を取って上げさせ、座右に置かせた。さらに乾興以来の勧戒とすべき四十一事を摭って上下篇に分け、「仁宗聖学」と題した。
- ここに至って帝は邇英閣に出御し、宰執と講読官を召して『三朝宝訓』を講じさせた。漢の武帝が南山の封域を籍に取って上林苑としたところに至り、仁宗が「山沢の利は衆と共にすべきである。どうしてこんなことをするのか」と言われたくだりがあった。丁度が進んで「臣は陛下にお仕えして二十年、德音を承るたびに憂え勤めることに及ばぬことはありませんでした。これこそ祖宗の家法です」と言った。
- 大防はこれに因って祖宗の家法を推して進み、「三代の後、ただ本朝だけが百二十年、中外に事がありません。これは祖宗の立てた家法がもっとも善いからです。臣はその大略を挙げましょう」と言い、そこで親に事えること、長に事えること、内を治めること、外を待つこと、戚を待つこと、倹を尚ぶこと、身を勤めること、礼を尚ぶこと、寛仁の八法を挙げて進めた。あわせて「己を虚しくして諫めを納れ、畋猟を好まず、玩好を尚ばず、玉器を用いず、珍味を貴ばない。これはみな祖宗の家法で太平を致した所以です。遠く前代に法るまでもなく、ただ家法を行い尽くせば天下を治めるに足ります」と言った。帝は深くもっともとした。
元祐五年~八年(1090-1093年)・差役の再議と調停論
- 五年春正月庚戌、文彦博が罷められた。
- 五月壬申、差役法に不備があれば利害を挙げて報告するよう詔した。
- もともと蘇軾は「差役の法は天下がみな不便だと言っております。昔、雇役のとき中等戸が年にいくら出したか、今日、差役で中等戸が年にいくら費やすか、さらに何年に一度、役に当たるかで較べれば、その数から利害は歴然です。まして農民が官にあれば吏が百通りに食い物にします。人を雇うのに比べれば苦楽は十倍です」と言った。
- 李常もまた「差法は久しく廃れて版籍が明らかでなく、軽重に基準がありません。郷が広く戸の多い所ではやっと交替で休めますが、郷が狭く戸の少ない所では年ごとに役に当たっております。一、二の事に練達した臣僚に詔し、賦を掌る臣とともに差役と雇役の二法のうち便なるものを取って行われたい」と言った。
- そこで差役の不便を論ずる者が甚だ多くなり、詔して中書舎人の王巖叟、枢密都承旨の韓川、諫議大夫の劉安世にともに検討させて利害を報告させた。
- 蘇轍を御史中丞とした。当時、熙寧・元豊の旧臣は争って邪説を起こして在位の者を揺さぶった。呂大防と劉摯はこれを憂え、少しばかり引き用いて宿怨を平らげようとし、これを「調停」と称した。太后は疑って決しかねた。轍は面と向かってその非を斥け、あらためて上疏して次のように述べた。
- 君子に親しみ小人を遠ざければ主は尊く国は安く、君子を疎んじて小人に任ずれば主は憂え国は危うい。これは理として必然です。小人が外にあるのに、その不快を憂えて内に引き入れ、自ら患いを遺すとは。
- しかも君子と小人の勢いは氷と炭のようなもの。同処すれば必ず争います。ひとたび争えば小人が必ず勝ち、君子が必ず敗れる。なぜか。小人は利を貪り恥を忍ぶので、撃っても去りがたい。君子は身を潔くし義を重んずるので、沮まれれば退くからです。
- 先帝は聡明聖智で、頽廃した俗を憎み、四方に綱紀を立て、三代に比する隆盛を期されました。しかし臣下がその意に順って導けず、諸法を造作して、上は天意に逆らい下は民心を失いました。二聖が民の願うところによってこれを改められ、上下は喜び慰められました。すると先に用事した臣は、朝廷が今、斥け逐わずとも、その勢いとしてもはや留まれません。なお二聖の慈仁で外に宥されたのは、すでに厚遇というべきです。
- ところが議者は衆説に惑って招き入れ、ともに事に当たらせることを「調停」と称しております。この輩がもし返れば、どうしてそれだけで済みましょう。必ず正しい人を戕害し、次第に旧事を復して私憤を晴らします。人臣が禍を被るのは言うに足りません。臣が惜しむのは祖宗の朝廷です。どうか陛下は聖心から断ぜられ、流言に惑わされず、小人をひとたび進めて後に臍を噛む悔いのないようにされたい。天下の幸いです。
- 疏が入ると太后は「轍はわが君臣が邪と正を兼ね用いるのを疑っている。その言は極めて理がある」と言い、諸臣が唱和したので、調停の説はやんだ。
- 六年二月、劉摯を尚書右僕射兼中書侍郎、王巖叟を僉書枢密院事とした。
- 巖叟は言官の職に五年、正しく諫めて隠すところがなかった。僉書枢密に拝されて謝すると、そこで進み出て「太后は聴政以来、諫めを納れ善に従い、人心に合うことに努められました。それゆえ朝廷は清明、天下は安静です。どうかこれを信じて疑わず、守って失われませんように」と言った。
- あらためて帝に進言して「陛下の今日の聖学は、深く邪正を弁ずべきです。正しい人が朝にあれば朝廷は安らかですが、邪な人がひとたび進めば、たちまち不安の兆しが現れます。一人にそれができるのではなく、その類が応ずる者が多いのです。上下が蔽われて気づかぬうちに禍の胎を養ってしまうのです」と言い、さらに「君子と小人を参用すべしと陛下に告げる者があると聞きましたが、本当でしょうか。これは陛下を深く誤らせるものです。古来、君子と小人を参用する理はありません。聖人はただ『君子を内にし小人を外にすれば泰、小人を内にし君子を外にすれば否』と言われただけです。小人がひとたび進めば君子は類を引いて去ります。もし君子と小人が競って進めば、危亡の基です。察せずにはおれません」と言った。
- 十一月乙酉、劉摯が罷められた。
- 七年夏四月丙午、王巖叟が罷められた。
- 六月辛酉、呂大防を右光禄大夫、蘇頌を尚書右僕射兼中書侍郎、蘇轍を門下侍郎、范百禄を中書侍郎、梁燾と鄭雍を尚書左右丞、韓忠彦を知枢密院事、劉奉世を僉書枢密院事とした。
- 八年秋七月丙子、范純仁を召して尚書右僕射兼中書侍郎とした。純仁が入って謝すると、太后は「そなたが必ず王覿と彭汝礪を引き用いると言う者がある。そなたは呂大防と心を一つにすべきである」と言った。純仁は「この二人にはまことに士の望みがあります。臣は最後まで位を保って賢を蔽うようなことはできません。どうかご賢察を」と答えた。
- 純仁が召されようとしたとき、殿中侍御史の楊畏は蘇轍に付いて轍を宰相にしようとし、そこで来之邵とともに上疏して「純仁は暗愚で猥雑です。ふたたび宰相にすべきではありません」と論じたが、返答はなかった。
- 純仁が政務に就くと、呂大防は畏を諫議大夫に引いて自分の助けにしようとした。純仁が「諫官には正しい人を用いるべきです。畏は用いられません」と言うと、大防は「畏がかつて相公を論じたからですか」と言い、轍がすかさず傍らからその弾劾文を誦した。しかし純仁は初めから知らなかったのである。やがてついに畏を礼部侍郎に遷した。