宋史紀事本末瀘州の夷(瀘夷)
神宗の熙寧六年(1073)から元豊四年(1081)まで、宋が西南の瀘州一帯の夷を経略した記事。熊本が十二村の豪族を誅して瀘夷を平らげ、渝州の獠も帰属させて南平軍を置いたが、その後、奇塔特と阿鄂特が叛いて韓存寶が逗留の咎で誅され、代わった林広も深入りしながら奇塔特を捕らえられずに還った。西南の用兵はここに始まる。
年表(5件)
- 神宗
- 熙寧六年五月1073年瀘夷が叛き、熊本を梓夔訪察使として遣わす
- 熙寧七年春正月・瀘夷の平定1074年熊本が豪族百余人を梟首し、柯陰を降して瀘夷を平定する
- 熙寧八年十一月1075年熊本が渝州の獠を破り、銅仏埧を南平軍とする
- 元豊三年五月・韓存寶の経制1080年奇塔特が叛き、韓存寶に瀘夷の経制を詔する
- 元豊四年秋七月・存寶の処刑と林広の遠征1081年存寶が誅され、林広が深入りするも奇塔特を得ず
神宗熙寧六年五月(1073年)
- 瀘夷が叛き、詔して中書検正官の熊本を梓夔訪察使として遣わし、便宜をもって諸夷の事を措置させた。
熙寧七年春正月(1074年)・瀘夷の平定
- 熊本が瀘夷を平らげた。本はかつて通判戎州を務めて夷の中の風俗に習熟しており、任地に至ると「彼らが辺を騒がせられるのは、十二村の豪族が嚮導となっているからにすぎない」と考えた。そこで計をめぐらして百余人を招き寄せ、瀘州で梟首した。その徒は震え上がり、死を賭して自ら贖うことを願った。
- ただ柯陰という一人の酋長だけが来なかった。本は晏州十九姓の衆を合わせ、黔南の義軍と強弩を徴発し、大将の王宣らに率いて進討させた。賊が力を尽くして拒んだので、宣は黄葛の下でこれを破り、逃げるのを追って深く入った。柯陰は窮迫して降を乞い、本は受け入れた。
- 丁口と土田、およびその貴重な宝物と良馬をことごとく籍に取って官に帰し、その酋長の海努勒を知帰徠州とし、その子と弟を蕃部巡検とした。そこで淯井・長寧・烏蛮・羅氏の鬼主など諸夷はみな代々、漢の官となることを願った。
- 本が帰ると帝は労って「そなたは財を傷つけず民を害せず、一朝にして百年の患いを除いた。檄文や奏の詳明さに至っては、近ごろ稀に見る出来である」と言い、集賢殿修撰に抜擢して三品の服を賜った。西南の用兵はここから始まった。
熙寧八年十一月(1075年)
- 熊本が渝州の獠を撃った。渝州の南川の獠の穆敦が叛いたので、詔して本に安撫させた。本は進んで銅仏埧に営してその党を破り、穆敦は溱州の地五百里を挙げて帰属した。四砦九堡を置き、銅仏埧を南平軍とした。本を召し還して知制誥とした。
元豊三年五月(1080年)・韓存寶の経制
- あらためて中州団練使の韓存寶に瀘夷を経制するよう詔した。
- 先に渝州の獠が南川を侵し、その酋長の阿鄂特が海努勒のもとへ奔った。熊本が重賞を懸けて檄を出して斬らせようとしたが、阿鄂特は狡猾で辺の隙を知り尽くしていたので、海努勒は匿って殺さなかった。折しも海努勒が老いて兵を子の奇塔特に属したので、奇塔特はそのまま阿鄂特とともに諸部を侵した。
- 当時、羅苟の夷が叛いて納渓を犯した。提刑の穆珦が「羅苟が端を発したのに誅を加えなければ、烏蛮が様子見をして害は小さくありません」と言い、そこで詔して韓存寶に撃たせた。存寶は奇塔特を召して犄角として五十六村・十三囤を討ち蕩かせ、蛮が降って租賦を承けることを乞うたので兵を罷めた。
- ここに至って奇塔特は歩騎六千を率いて江安の城下に至り、羅苟平定の賞を要求し、数日して引き揚げた。知瀘州の喬叙は梓夔都監の王宣に兵二千で江安を守らせ、あわせて賄賂で奇塔特を招いて納渓で盟を結んだ。蛮は自分を畏れていると考え、いよいよ悖慢になった。
- 盟の五日後、そのまま衆を率いて熟夷の羅箇牟族を囲み、王宣が救援したが一軍は全滅した。事はそこで大きくなり、駅で存寶を召して方略を授け、三将の兵一万八千を統べて東川へ向かわせた。存寶は臆病で敢えて進まず、奇塔特が帰順を申し出て偽って降ると存寶は信じ、そのまま綿州・梓州・遂州・資州の間で兵を休めた。
元豊四年秋七月(1081年)・存寶の処刑と林広の遠征
- 韓存寶は逗留して功がなかった咎で瀘州で誅され、歩軍都虞候の林広を代わりの将とした。
- 当時、奇塔特はまた帰順を申し出たが、帝はその反覆に降る意がないと見て、広に進兵を督させた。広はそこで納江で奇塔特を破り、楽共城を落として二千級を斬った。奇塔特は逃げた。
- 広は兵を率いて深く入った。納江を発するとすぐ茂った竹藪に入り、雨か雪の降らぬ日はなく、兵夫の疾病と死亡は数え切れず、しばしば凍死体を切り分けて食った。「鴉飛不到山」を過ぎて帰徠州に至ったが、ついに奇塔特を得られずに還った。
- 当時、朝廷は安南で功がなかったことに懲り、まさに大挙して夏を伐とうとしていた。それゆえ存寶を誅して諸将に示したのである。