宋史紀事本末元豊の官制(元豐官制)

官・職・差遣が分かれて名実が伴わなかった宋初以来の官制を、神宗が唐の六典に倣って改めた経緯。元豊三年に詳定官制局を置いて官名を正して寄禄格を定め、四年に選を吏部の四選に統一し、五年に三省・枢密・六曹の条制を頒った。ただし枢密院は残され、蔡確は三省の長官を置かせぬよう仕向けて実権を握った。

年表(3件)

神宗元豊三年六月~九月(1080年)・官制改革の着手

  • 六月丙午、中書に官制の詳定を詔した。
  • 建国以来、唐の制を承けて三省に専らの職がなく、台・省・寺・監にも定員がなく、おおむね他の官が主判した。三省の長官は朝政に与らず、六曹は本来の職務を扱わず、給事中・中書舎人は本職を領せず、諫議大夫に言責がなく、起居は記注せず、司諫・正言は特旨で供職しなければ諫諍の任にも当たらなかった。官人の授受には「官」「職」「差遣」の別があり、仕える者は台閣に登り禁従に昇ることを顕官として、官の遅速を栄辱とせず、差遣の要職を貴い途として、階・勲・爵・邑の有無を軽重としなかった。議者の多くは名を正すことを請うた。
  • 帝は慨然としてその制を改めようとし、詳定官制局を中書に置き、翰林学士の張璪と枢密副使承旨の張誠一に領させた。
  • 九月乙亥、官名を正した。開府儀同三司をもって中書令・侍中・同平章事に代え、特進をもって左右僕射に代えた。以下、それぞれ名を改めた。
  • 詳定官制所が寄禄格を上げ、詔して施行した。空名を領する者は一切を罷め、これを階に易えて寄禄とした。
  • 議者はさらに枢密院を罷めて兵部に帰そうとしたが、帝は「祖宗は兵権を有司に帰さず、それゆえ専ら官を命じて統べさせ、互いに維ぎ制した。どうして廃せようか」と言い、そこで取りやめた。
  • 帝はかつて執政に「官制が施行される。新旧の人を両方用いたい」と言い、御史大夫を指して「司馬光でなければならぬ」と言った。王珪と蔡確は顔を見合わせて色を失い、珪はひどく憂えて為す術を知らなかった。確は「主上は久しく霊武を収めたいと思っておられる。公が責を担われるなら宰相の位は保てましょう」と言い、珪は喜んで謝した。そこで俞充を慶州の帥に薦め、西夏平定の策を上げさせた。その意は、すでに兵を用いて深く入る以上、必ず光を召さぬだろう、召しても来ぬだろうというものだった。やがて光は果たして召されなかった。

元豊四年秋七月(1081年)・四選の法

  • 己酉、選格を定めるよう詔した。
  • もともと太祖は官を設け職を分けるのに多く五代の制を襲い、やや損益した。仕途に入る道は貢挙・奏蔭・摂署・流外・従軍の五等。吏部の銓はただ州県官と幕職を注擬するだけで、両京の諸司の六品以下の官にはみな選がなかった。文臣の少卿・監以上は中書が主り、京朝官は審官院が主り、武臣の刺史・副率以上と内職は枢密院が主り、使臣は三班院が主った。その後、選を掌る職は四つに分かれ、文選は審官東院と流内銓、武選は審官西院と三班院となった。
  • 帝は即位以来、制度を改めようとしたが、建議の臣は「唐の銓と今の選は大きく異なる。その制を混ぜて用いれば滞りと煩雑の弊がある」と考えた。そこで詔して内外の官司の挙官をすべて罷め、大理卿の崔台符に尚書吏部・審官東西院・三班院とともに選格を議させ、ついに銓注の法を定め、ことごとく選部に帰した。
  • 審官東院を尚書左選、流内銓を侍郎左選、審官西院を尚書右選、三班院を侍郎右選とした。こうして吏部に四選の法ができた。
  • 文臣の寄禄官は朝議大夫から、職事官は大理正以下で、中書省の敕授でない者は尚書左選に帰す。武臣の升朝官は皇城使から、職事官は金吾階衛仗司以下で、枢密院の宣受でない者は尚書右選に帰す。初任から州県の幕職官までは侍郎左選に帰し、借差・監当から供奉官・軍使までは侍郎右選に帰す。
  • 注擬・升移・叙復・蔭補・封贈・酬賞は、それぞれ所属に応じて校勘し、合格すれば団甲して尚書省に上げる。中散大夫・閤門使以上なら選叙の状を列して中書省・枢密院に上げ、裁可を得て告身を給する。
  • 祖宗以来、中書には堂選があり、百司・郡県には奏挙があった。大小の別はあってもいずれも有司に属さなかった。王安石が帝に「中書は庶務を総べます。今、通判までが堂除に該当するので、選はいたずらに滞って精しく択べません。有司に帰すべきです」と言った。帝は「唐の陸贄は『宰相は百官の長を択ぶべきで、百官の長が百官を択ぶ』と言った。今の審官がその人を得ていれば、どうして百官を択べぬことがあろうか」と言って堂選を罷めようとしたが、曽公亮が不可として取りやめになっていた。ここに至って内外の長吏の挙官法を罷めるとともに、堂除もまた廃した。

元豊五年二月(1082年)・三省六曹の制と蔡確

  • 癸丑、三省・枢密・六曹の条制を頒った。
  • 癸酉、王珪を左僕射兼門下侍郎、蔡確を尚書右僕射兼中書侍郎、章惇を門下侍郎、張璪を中書侍郎、蒲宗孟を尚書左丞、王安礼を尚書右丞とした。
  • もともと官制の議はおおむね唐の六典に倣ったもので、事は大小を問わずすべて中書が旨を取り、門下が審覆し、尚書が受けて行う。三省は班を分けて奏事し、あわせて中書に帰す。
  • 確は珪を説いて「公は久しく相位におられます。必ず中書令になられましょう」と言い、珪は信じて疑わなかった。確はそこで帝に「三省の長官は位が高く、令を置くには及びません。ただ左右の僕射に両省の侍郎を分け兼ねさせれば足ります」と言い、帝はもっともとした。
  • それゆえ確は名は次相ながら実は大政を専らにし、珪は左僕射として門下を兼ね、首相ではありながら手を拱いているだけだった。