宋史紀事本末学校と科挙の制(學校科舉之制)
慶暦の范仲淹が州県に学を立てて科挙を改めてから、徽宗朝の蔡京が三舎法を天下に及ぼすまで、学校と科挙の制度の変遷。熙寧に王安石が詩賦・明経を罷めて経義に一本化し、太学三舎法と武挙・律学を整え、『三経新義』で学を統一した。元祐には司馬光の十科挙士法や詩賦の復活でこれを緩め、紹聖にふたたび経義に戻り、崇寧には科挙を廃して学校の升貢に一本化した。
年表(11件)
- 仁宗
- 慶暦四年三月・州県の学と科挙新法1044年州県に学を立て、策論を先とする科挙新法を行う
- 慶暦五年三月1045年范仲淹が去って科挙の新法が罷められ、旧法に戻る
- 神宗
- 熙寧四年二月・貢挙法の改正1071年詩賦と明経諸科を罷め、経義と論策で士を試す
- 熙寧四年三月~十月・学官と太学三舎法1071年諸州に学官を置き、太学に外舎・内舎・上舎の三舎法を立てる
- 熙寧六年・学官・律学・武挙1073年律学を置き、武挙の士に初めて策を課す
- 熙寧八年~九年(1075-)1076年王安石の『三経新義』を学官に頒ち、先儒の伝注が廃れる
- 哲宗
- 元祐元年・経明行修科と学制の修定1086年司馬光の請いで経明行修科を立て、程頤らが学制を修定する
- 元祐元年秋七月・十科挙士法1086年司馬光の奏により十科で士を挙げる法を立てる
- 元祐二年~八年(1087-)・詩賦の復活1093年経義と詩賦を二科に分けて士を試し、明法科を罷める
- 紹聖元年~二年(1094-)1095年十科挙士法を罷め、進士はもっぱら経義を習うこととする
- 徽宗
- 崇寧元年~四年(1102-)・蔡京の学制1105年蔡京が辟雍を建てて科挙を罷め、三舎法を天下に行う
仁宗慶暦四年三月(1044年)・州県の学と科挙新法
- 乙亥、天下の州県に学を立て、科挙の新法を行うよう詔した。当時、范仲淹は古に復して学を勧めようとし、たびたび学校を興すことこそ行実の本だと言い、詔して近臣に議させた。
- そこで宋郊らが「教えが学校に本づかず、事が郷里で審らかにされなければ名実を照合できません。有司が声病(韻律の規則)で束ね、学ぶ者が暗誦を専らにすれば人材を尽くせません。衆説を参考にして今に便なるものを択べば、士をみな土着させて学校で教え、しかる後に州県がその履歴と行いを審らかにするに如くはありません。そうすれば学ぶ者は身を修めます。策論を先にすれば文詞の者も治乱に心を留め、程式を簡略にすれば博識の者が存分に力を振るえ、大義を問えば経を執る者が暗誦だけに専らでなくなります」と奏し、帝は従った。
- ここに至って詔して言うには――儒者は天地人の理に通じ、古今治乱の源に明らかである。博いというべきである。ところが学ぶ者はその説を存分に述べられず、有司はまず声病や章句を旨として拘束する。それでは豪傑で奇偉の士がどうして奮い立てようか。士が純明朴茂の美を持ちながら教学養成の法がなく、不肖の者と並び進むなら、懿徳と敏行がどうして現れようか。これが士を取る大きな弊で、学ぶ者自身が患いとしている。人に薄く遇して厚きを責めることはできない。今、私は学を建て善を興して大夫の行いを尊び、制を改め弊を革めて学者の才を尽くさせる。有司は訓導を厳しくし推挙を精しく審らかにして私の意に称え。学ぶ者は徳に進み業を修めて時を失うな。
- あわせて州と県にみな学を立て、本道の使者が部下の官を選んで教授とし、員が足りなければ郷里の宿学で道業ある者から取る。士は学に三百日在籍して初めて秋の試験に参加でき、以前に受験した者は百日でよい。州で受験する者は互いに保証させ、喪を隠す者・刑を犯した者・行いを欠く者・名を冒す者などの禁を設ける。三場は策論を先、次に詩賦とし、通して考えて合否を決め、帖経と墨義を廃する。士で経術に通じ大義に答えたい者には十道を試す。
- 夏四月壬子、判国子監の王拱辰・田況・王洙・余靖らが「漢の太学は二百四十房・千八百室、生徒三万人。唐の学舎も千二百間ありました。今、才を取り士を養う法は盛んですが、国子監はわずか二百楹、制度が狭小で収容できません」と言った。詔して錫慶院を太学とし、内舎生二百人を置いた。
- 五月壬申、帝が太学に赴いて孔子に謁した。故事では粛揖するだけだが、帝は特に再拝し、直講の孫復に五品の服を賜った。
- もともと海陵の人の胡瑗は湖州の教授で、人を教えるのに法があり、科条は細かく完備し、身をもって率先した。盛暑でも必ず公服で堂上に座り、師弟の礼を厳しくしながら、諸生を自分の子弟のように見た。諸生もまた父兄のように信じ愛し、従い学ぶ者は常に数百人に及んだ。当時は詞賦が尚ばれていたが、湖州の学だけは経義斎と治事斎を立てて実学を敦くしていた。ここに至って太学を興すにあたり、詔を湖州に下してその法を取り、令式として定めた。
- 瑗は上書して武学を興すことを請い、その大略に「先年、呉育がすでに武学の興隆を建議しましたが、官がその人でなかったので久しからずして廃れました。今、国子監の直講のうち梅堯臣は『孫子』に注して深義を大いに明らかにし、孫復以下もみな経の趣旨に明らかです。臣もかつて丹州軍事推官を務め、かなり武事を知っております。堯臣らに武学を兼ね掌らせ、毎日『論語』を講じさせて忠孝仁義の道を知らせ、『孫子』『呉子』を講じさせて敵に勝ち防ぐ術を知らせ、武臣の子孫のうち智略ある者二、三百人を選んで教習すれば、一、二十年のうちに必ず成果が出ましょう。臣はすでに『武学規矩』一巻を撰して進呈しております」と述べた。当時の議はこれを難しいとした。
慶暦五年三月(1045年)
- 科挙の新法を罷めた。范仲淹が去ると、執政は新たに定めた科挙の入学予備試験を不都合とし、あわせて「詩賦は声病で考査しやすいが、策論は漠として判じがたい。祖宗以来これを改めたことがなく、しかも人を得ることは多かった」と言った。帝がその議を下すと有司は旧法どおりを請い、そこで詔して先に改めた令をすべて罷めた。
神宗熙寧四年二月(1071年)・貢挙法の改正
- 丁巳、科挙の法を改めた。王安石の議に従い、詩賦および明経の諸科を罷め、もっぱら経義と論策で士を試すこととした。
- 王安石はさらに「孔子が『春秋』を作ったのは、まことに世に垂れ教えを立てる大典で、当時、子游も子夏も一言も加えられませんでした。しかし秦の火で灰燼となって存せず、漢が遺書を求めたとき、一時の儒者が附会して厚い賞を求めたのです。今から見れば、まるで断片だらけの朝廷の報知文のようで、決して仲尼の筆ではありません。『儀礼』もまた同様です。今後、経筵では進講せず、学校では官を設けず、貢挙では士を取らぬようにされたい」と請い、従われた。
- 当時、詔して貢挙を議させると、みな法を変えるのが便利だと言ったが、蘇軾だけが議を上って次のように述べた。
- 人を得る道は人を知ることにあり、人を知る法は実を責めることにあります。君と宰相に人を知る明があり、朝廷に実を責める政があれば、胥吏や下役にも人がないことはなく、今の法によっても余りがあると臣は考えます。君と宰相が人を知らず朝廷が実を責めなければ、公卿・侍従でさえ常に人なきを患えます。まして学校や貢挙においてはなおさら。古の制に復しても足りぬと臣は考えます。
- そもそも時には可否があり、物には興廃があります。三代の聖人が今に生き返っても、その選挙には必ず道がありましょう。どうして必ず学によらねばならぬのですか。しかも慶暦にはたしかに学を立てました。天下は太平を待てると思いましたが、今に至って空名がわずかに残るだけです。
- 今、陛下がどうしても徳行と道芸の士を求め、九年で大成する業を責められるなら、今の理を変え今の俗を易えねばならず、しかも民力を出して宮室を治め、民財を集めて遊士を養い、学を置き師を立て、さらに時おり教えに従わぬ者を選んで遠方に追い払うことになります。いたずらに紛々とするだけで、慶暦の時と何が違いましょう。
- 科挙については、郷里で徳行を挙げて文章を略すべきだという者、専ら策論を取って詩賦を罷めるべきだという者、唐の故事に倣って名望を採り彌封を罷めるべきだという者、経生の帖と墨義を変えて大義を考査すべきだという者があります。これらはみな非です。
- そもそも徳行を興そうとするなら、君たる者が身を修めて物を格し、好悪を審らかにして俗の模範となることにあります。もし科を設け名を立てて取ろうとすれば、天下に挙って偽りをなすことを教えるものです。上が孝で人を取れば、勇ある者は股を割き、臆病な者は墓に庵を結ぶ。上が廉で人を取れば、ぼろ車に痩せ馬、粗衣に粗食と、およそ上の意にかなうことなら何でもするようになります。
- 文章から言えば策論は有用で詩賦は無益ですが、政事から言えば詩賦も論策もひとしく無用です。しかし祖宗以来これを廃さなかったのは、法を設けて士を取るにはこの程度しかないと考えたからです。まして唐から今まで詩賦によって名臣となった者は数え切れません。天下に何の負い目があって、必ず廃そうとするのですか。
- 帝は喜んで「私はもとよりこれを疑っていた。軾の議を得て釈然とした」と言った。
- 後日、王安石が帝に「今、人材が乏しく、しかもその学術が一つでないのは、異論が紛然として道徳を一つにできぬからです。道徳を一つにしようとするなら学校を修めるべきで、学校を修めようとするなら貢挙の法を変えねばなりません。もし進士科の詩賦でも多く人を得ていると言うなら、それは仕途に他の路がないので、その中に賢者がないはずがないからです。科法がすでに善いというなら、まだそうではありません。今、少壮の士がまさに天下の正しい理を講求すべき時に、門を閉ざして詩賦の作り方を学び、官に入っても世事に習熟していない。この科法が人材を敗り壊し、古に及ばぬ有様にしております」と言った。
- やがて中書門下も「古の士を取るのはみな学校に本づき、道徳は上で一つとなり習俗は下で成り、その人材はみな世になすところがありました。今、古制に復そうとしても、段階を踏まぬことが心配です。まず声病と対偶の文を除き、学ぶ者に経術に専心させて、朝廷が学校を興建するのを待ち、しかる後に三代の教育と選挙の法を講求して天下に施せば、ほぼ古に復せましょう」と言った。
- そこで法を改めて詩賦・帖経・墨義を罷め、士はそれぞれ『易』『詩』『書』『周礼』『礼記』の一経を修め、あわせて『論語』『孟子』を兼ねさせた。試験は四場。初めに本経、次に兼経の大義、合わせて十道。次に論一首、次に策三道。礼部試ではさらに二道を増した。中書が大義の書式を撰して頒行した。義を試す者は経に通じて文采があってこそ合格とし、明経の墨義のように大まかに章句を解するだけでは足りぬこととした。
- 殿試はもっぱら策とし、千字以上に限り、五等に分ける。第一等・第二等は進士及第、第三等は進士出身、第四等は同進士出身、第五等は同学究出身を賜る。旧制では進士が謝恩に入るとき銀百両を納めたが、これも罷め、あわせて銭三千を賜って期集の費用とした。
熙寧四年三月~十月(1071年)・学官と太学三舎法
- 三月庚寅、初めて諸州に学官を置き、おおむね田十頃を給して士を養い、あわせて小学教授を置いた。
- 冬十月戊辰、太学生の三舎法を立てた。
- 宋初、国子生は京朝官の七品以上の子孫で蔭に応ずる者が、太学生は八品以下の子孫および庶人の子孫で俊異な者がなり、論・策・経義を進士の法どおりに試された。
- 帝は即位すると儒学に意を留め、天下の郡県にみな学があるので、年ごと月ごとにそれぞれ試験を課し、その芸能を検定して順に舎を昇らせ、最優秀の者を上舎とし、発解と礼部試を免じて特に及第を賜り、そこでもっぱらこれで士を取ることとした。
- また慶暦年間に太学の内舎生二百人を置いたので、帝は次第に九百人まで増した。ここに至って言者が太学は錫慶院の西北の廊を借りていて甚だ狭いと論じたので、錫慶院と朝集院の西廡をすべて用いて講書堂四つを建てた。主判官のほかに直講を増置して十員とし、おおむね二員で一経を共に講じさせ、中書に慎重に選ばせるか主判官に推挙させた。
- 生員を三等に分け、初めて太学に入る者を外舎として定額を七百人とし、外舎から内舎に昇る員を三百、内舎から上舎に昇る員を百とした。それぞれ一経を修め、講ずる官について学び、月ごとにその業を試し、優等の者は順に舎を昇る。上舎は発解と礼部試を免じ、召試して及第を賜る。正・録・学諭は上舎生から充て、経ごとに二員とし、学行が卓越した者は主判・直講がさらに中書に薦めて官に除する。
- その後、八十斎を増置し、一斎三十人、外舎生は二千人に達した。年に一度、内舎生を試補し、隔年に上舎生を試補し、彌封と謄録は貢挙の法どおりとした。
熙寧六年(1073年)・学官・律学・武挙
- 三月己未、諸路に学官を置き、学制を新たにした。有司の立てた約束が煩瑣にすぎたので、劉摯が上疏して「学校は材を育てる首善の地で、教化の出るところ。法を行う場所ではありません。群れ集うので率いて揃えるのに法がなくてはなりませんが、そこには礼義も存します。天下を治める者が人を君子・長者の道で遇すれば、下は必ず君子・長者の行いで上に応じます。もし小人や犬豕として遇すれば、彼らも小人や犬豕として振る舞うでしょう。まして学校の間でこれを行うにおいては。その制を罷められたい」と述べた。
- 丁卯、進士と諸科にあわせて明法を試して官に注することを詔した。
- 乙亥、律学を置いた。詔して「士が官に臨めば法によって事を行う。今、習うところが学ぶところと異なる。律学を置いて教授四員を設け、命官も挙人もみな入学して律令を習えるようにせよ」と言った。
- 九月辛亥、初めて武挙の士に策を課した。先に武挙は秘閣で義と策を試し、殿前司で武芸を試し、さらに殿試ではまた騎射を試し、さらに廷で策を課した。策と武芸がともに優れた者は右班殿直、武芸が次に優れた者は三班奉職、さらに次は借職、末等は三班の差役とした。
- 初め枢密院が武挙の法を修めたとき、策に答えられない者には兵書の墨義に答えさせた。王安石は「武挙で墨義を試すのは、学究が書を暗誦して理を解さぬのと何が違いましょう。事に補いがありません。先王が勇力の士を収めてみな車右に属させたのは、外敵を防ぐ用に備えるためです。暗誦が何の役に立ちましょう」と言い、帝は従った。ここに至って初めて武挙の士に策を課した。
熙寧八年~九年(1075-1076年)
- 八年六月己酉、王安石が訓釈した『詩』『書』『周礼』の三経を上進した。帝は「今、経を談ずる者は人ごとに異なる。どうして道徳を一つにできようか。そなたの著した経義を頒行して学ぶ者を一つに帰させよ」と言い、そこで学官に頒って『三経新義』と号した。一時の学ぶ者はみな伝え習い、有司はもっぱらこれを用いて士を取った。安石はさらに『字説』二十四巻を作り、学ぶ者は争って伝習した。以来、先儒の伝注はことごとく廃れた。
- 九年三月甲戌、自ら進士に策を課し、あわせて律義と断案を試した。
哲宗元祐元年(1086年)・経明行修科と学制の修定
- 夏四月辛亥、司馬光が経明行修科を立てるよう請い、「年ごとに升朝の文臣に委ねてそれぞれ知る者を挙げさせ、天下を励まして士の行いを敦くし、文学だけを取るのではないという意を示されたい。もし挙げた人が名教に違犯すれば必ず挙主を罰して赦さぬこととすれば、自ずとみだりに挙げなくなり、士が郷にあっても家にあっても身を立て己を行うのに欠点を恐れるようになります。いわゆる『言わざるの教え、粛せずして成る』で、学官が日々訓し月々察し、賞を立て告発させるまでもなく、士の行いは自ずと美しくなります」と述べた。
- そこで詔して、今後は科挙のたびに升朝官にそれぞれ経明行修の士一人を挙げさせ、及第の日に甲を昇らせることとし、謁禁の制を罷めた。
- 五月戊辰、程頤らに学制を修定させた。太学は蔡確が大獄を起こして朝士を次々に引き入れて以来、有司がこれに乗じて法禁を作り、煩瑣で厳重となり、博士と諸生は会うことを禁じられ、教諭のしようがなかった。御史中丞の劉摯がこれを言ったので、ここに至って程頤・孫覚・顧臨に太学の長官・次官とともに考詳して条制を修定させた。
- 頤はおおむね「学校は礼義を先とする地です。それを月ごとに争わせるのは教養の道ではありません。試を課に改め、至らぬところがあれば学官が呼んで教え、高下を考定せぬようにされたい」と考え、尊賢堂を置いて天下の道徳の士を招き、解額を削って利による誘いを去り、繁文を省いて任委を専らにし、行検を励まして風教を厚くし、あわせて待賓・吏師の斎を置き、観光の法を立てるなど、数十条を定めた。
元祐元年秋七月(1086年)・十科挙士法
- 癸酉、十科挙士の法を立てた。
- 旧制では銓注に格があり、おおむね法で縛った。法は公平を制することはできても材を択ぶことはできない。それゆえ内外の官にみな薦挙させたが、その後、挙げられる者が多くなって吏を除するのがいよいよ難しくなった。神宗が即位して奏挙を革め、一律に定格によることとし、そこで内外の挙官法をみな罷め、ただ吏部と審官院に選格を参議させた。
- 帝(哲宗)の即位後、左司諫の王巌叟が「辟挙を罷めて選格を用いてから、功の多寡は見られても人の才は見られません。そこでやむを得ず日ごろ信ずる者を用いるようになり、『踏逐申差』という名目が生じました。踏逐は実は薦挙でありながら同罪を負いません。しかも才を選び能を薦めることを踏逐というのは雅名ではありません。まして人に権を委ねながらその知る者を挙げることを許さぬのは、通じた術といえましょうか」と言い、そこで内外の挙官法を復した。
- 司馬光が奏して次のように述べた。
- 政をなすには人を得れば治まります。しかし人の才はこれに長じてあれに短いことがあります。皋陶・夔・稷・契でさえそれぞれ一官を守りました。中程度の人に完備を求められましょうか。ゆえに孔門は四科で士を論じ、漢室は数路で人を得ました。瑕を指して善を掩えば朝廷に用いるべき人はなく、器に随って任ずれば世に棄てるべき士はありません。
- 臣は宰相の位に備わり、職として官を選ぶべきですが、識は短く見は狭い。士に恬淡として退き埋もれる者、孤寒で遺れた者があっても、どうして遍く知れましょう。知識だけを引けば私の嫌いがあり、資歴だけに循えば必ずしもみな才ではありません。位ある達官にそれぞれ知る者を挙げさせるに如くはありません。しかる後に至公に協い、野に遺賢がなくなります。
- 朝廷に十科を設けて士を挙げさせていただきたい。第一に「行義純固にして師表たるべき科」――官の有無を問わず挙げられる。第二に「節操方正にして献納に備うべき科」――官ある人を挙げる。第三に「智勇人に過ぎ将帥に備うべき科」――文武の官ある人を挙げる。第四に「公正聡明にして監司に備うべき科」――知州以上の資歴の者を挙げる。第五に「経術精通にして講読に備うべき科」――官の有無を問わない。第六に「学問該博にして顧問に備うべき科」――経術の科と同じ。第七に「文章典麗にして著述に備うべき科」――経術の科と同じ。第八に「よく獄訟を聴き、公を尽くして実を得る科」――官ある人。第九に「よく財賦を治め公私ともに便なる科」――官ある人。第十に「法令に練習し請讞を断じ得る科」――官ある人。
- 職事官は尚書から給事中・中書舎人・諫議大夫まで、寄禄官は開府儀同三司から中大夫まで、職は観文殿大学士から待制まで、毎年、十科のうちから三人を挙げ、状を具えて保任し、中書が籍を置いて記録する。いずれ事があって材を要すれば、執政が籍を按じてかつて挙げられた科格を見、事に随って試し、功があればまた籍に記す。内外に官の欠員があれば、かつて試して効のあった者を科に随って授職し、賜る告命には挙げた官の姓名を具える。その人が官に任じて見るべきものがなければ、繆挙の罪に坐する。そうすれば人ごとに挙げるところを重んじ慎み、才を得られます。
- 光はさらに「朝廷の執政はわずか八、九人です。旧交でなければその行いと能を知れません。私を狥う嫌いがあるばかりでなく、取るところが極めて狭い。どうして天下の賢才を尽くせましょう。毀誉を訪ねれば真偽は万端です。遊談の言を聴くより、罪を結んで保挙させるに如くはありません。ゆえに臣は十科を設けて士を挙げることを奏しました。その『公正聡明にして監司に備うべき』については、まことに請託や私心がないとはいえませんが、挙げたとおりでなければ譴責して寛恕せぬこととすれば、みだりに挙げなくなります」と言った。詔して従われた。
元祐二年~八年(1087-1093年)・詩賦の復活
- 二年春正月戊辰、『老子』『列子』を題として士を試さぬよう詔した。当時、科挙は詞賦を罷めてもっぱら王安石の経義を用い、しかも釈氏の説を混ぜていた。士子は一語に至るまで安石の新義でなければ用いられず、学ぶ者は正経を誦さず、ただ安石の書を盗んで出世を求め、精熟した者が上位に及第した。それゆえ科挙はいよいよ弊れた。呂公著が国を執って、初めて主司が『老子』『荘子』を題としてはならず、挙子が申不害・韓非・仏書を学としてはならず、経義は古今の諸儒の説を参用してもっぱら王氏を取ってはならぬと請うた。ほどなくまた王氏の『字説』を引用してはならぬと禁じた。
- 夏四月丁未、呂公著が制科の復活を請うた。詔して「祖宗は六科の選を設け、策三道の要をもって天下の賢俊を網羅された。先皇帝は学校を興し経術を崇めて人材を新たに作り、天下の俗を変えられた。それゆえ科目の設置にまで手が回らなかった。今、天下の士の多くは経術に通じ、学ぶところを知っている。制策の科を復して俗を抜く才を招き、治道に補いとすべきである。そもそも帝王の道は損益して時に趨るもの、必ずしもすべて同じでなくてよい。同じく治に帰すればよいのである。今、賢良方正能直言極諫科を復置し、今年から始める」と言った。
- 四年夏四月戊午、経義と詩賦を二科に分けて士を試し、明法科を罷めた。尚書省が詩賦を復して経義とあわせ行い、経の解釈には先儒の伝注と自説をともに用いることを請い、さらに「旧の明法はもっとも下の科であるのに、今、合格すれば司法に除され、叙名がかえって及第の進士の上になるのは不当です」と言った。
- そこで詔して経義・詩賦の両科を立て、律義の試験を罷めた。詩賦進士は『易』『書』『詩』『周礼』『礼記』『春秋左伝』のうち一経を習うことを聴し、初試は本経の義一道、論・孟の義各一道、次に賦と律詩各一首、次に論一首、最後に子史・時務の策二道、計四場。経義進士は二経を習わねばならず、『詩』『礼記』『周礼』『春秋』を大経、『書』『易』『公羊』『穀梁』『儀礼』を中経とし、二つの大経を習うことは聴すが、二つの中経に偏ることはできない。初試は本経の義三道、『論語』の義一道、『孟子』の義一道、次に論・策、これも四場。
- 両科を通じて高下を定め、解額は中分してそれぞれ半分を占めさせる。専経の者は経義で採否を決し、詩賦を兼ねる者は詩賦で去留を決し、順位の高下は策論で参酌する。詩賦が復活してから、士の多くは郷でこれを習い、専経の者は十のうち二、三もなくなった。
- もともと司馬光は「士を取る道は徳行を先にして文学を後にすべきです。文学について言えば、経学がまた詞章より先です。神宗がもっぱら経義と論策で士を取られたのは、まさに先王の令典を復されたもので、百王が易えぬ法です。ただ王安石が一家の私学で先儒を覆おうとし、天下の師生に講解させたのが不当でした。律令に至っては、官に当たる者が必要とするものです。士たる者がまことに道義を知れば、自ずと法律に暗合します。なぜ明法の一科を置いて刻薄を習わせる必要がありましょう。人材を長育し風俗を敦厚にする所以ではありません」と言っていた。ここに至って明法科を罷めた。
- 六年夏四月乙未、通礼科を復置した。先に開寶年間に郷貢の開元礼を通徳と改め、熙寧年間に一度その科を廃した。ここに至って礼官が意見を述べたので、復置して士を試すこととした。
- 八年三月庚子、御試の挙人に詩・賦・論の三題をふたたび課すよう詔した。中書が御試に祖宗の法を復することを請い、あわせて「士子の多くはすでに詩賦に習い改めております。太学の生員は総勢三千百余人ですが、詩賦を兼ねぬ者はわずか八十二人です」と言い、そこでこの詔が下った。
紹聖元年~二年(1094-1095年)
- 閏四月、十科挙士の法を罷めた。
- 五月甲辰、進士はもっぱら経義を習い、詩賦の学習を罷めるよう詔した。三省が「今、進士は純ら経術を用いますが、詔誥や章表などの文は朝廷の官が日々用いて欠かせぬものです。もしすべて学ばせず試さなければ、どうして文学に博く優れた士を兼ね収められましょう」と上言した。そこで宏詞科を改め置き、年ごとに進士の登科者に詔して受験を請わせた。受験者が多くとも取るのは五人を超えず、詞格がとりわけ優れた者は特に奏して官に命じた。
- 六月、王安石の『字説』を引用する禁を除いた。
- 二年夏四月丁亥、元豊の例により律学博士を置くよう詔した。
- 五月乙巳、蔡卞に国子監の三学および外州の学制を詳定させた。
徽宗崇寧元年~四年(1102-1105年)・蔡京の学制
- 崇寧元年八月甲戌、蔡京が学を興して士を貢することを請うた。県学の生徒を選考して諸州の学に昇らせ、州学の生徒は三年ごとに太学に貢し、考査して三等に分ける。上等は上舎に補し、中等は下舎に補し、下等は内舎に補し、その他は外舎に居らせる。諸州軍の解額はそれぞれ三分の一を貢士に充てる。
- 京はさらに外学の建設を請うた。そこで詔して京城の南門の外に営建し、辟雍の名を賜った。外は円く内は方く、千八百七十二楹の建物とした。太学はもっぱら上舎生と内舎生を置き、外学は外舎生を置く。士は初めて貢されて至ればみな外学に入り、試験を経て上舎・内舎に補されて初めて太学に進める。太学の外舎もまた外学に出て居らせた。こうして上舎は二百人、内舎は六百人、外舎は三千人となった。
- 三年九月、科挙の法を罷めた。当時、辟雍と太学を設けて升貢する士を待つようにしたが、州県はなお科挙で士を貢していた。蔡京がこれを言い、そこで詔して天下の士を取るのはすべて学校の升貢によることとし、州郡の発解およそ礼部で試す法はみな罷めた。ただ毎年、上舎生を試すときは知挙を差して礼部の法どおりとした。
- 四年五月甲寅、詞学兼茂科を立てた。帝は宏詞科では文学の士を招くに足りぬと考え、この科に改め立てた。年ごとに貢士院の試験に付し、合格すれば館職を授けたが、年に五人を超えなかった。
- 三舎法を天下に行った。