宋史紀事本末英宗の擁立(英宗之立)
仁宗に嗣がないまま、宮中で養われた宗室の宗実(のちの英宗)が皇嗣に定まるまでの経緯。范鎮・司馬光・包拯・欧陽修らが繰り返し建儲を請い、韓琦が宰相として決断を促して嘉祐七年に皇子とされ、翌年の仁宗崩御で即位した。即位後は病により曹太后が垂簾したが、両宮の不和を韓琦・欧陽修が調停し、治平元年に撤簾して親政に至るまでの約30年間。
年表(10件)
- 仁宗
- 景祐二年二月1035年宗室の宗実を宮中に引き取り、皇后に育てさせる
- 嘉祐元年五月・范鎮の建儲論1056年范鎮が十九度の章を上げて建儲を請い、知諫院を罷められる
- 嘉祐三年六月・韓琦と包拯1058年韓琦が孔光伝を進めて嗣を択ぶよう説き、包拯も強く請う
- 嘉祐四年十一月1059年宗実の父の汝南王允譲が没し、濮王を追封される
- 嘉祐六年六月~十月・司馬光と皇子の決定1061年帝が宗実の名を挙げて議が定まり、知宗正寺とする
- 嘉祐七年八月~九月・皇子の冊立1062年宗実を皇子に立てて曙の名を賜い、鉅鹿郡公に進封する
- 嘉祐八年二月~四月・仁宗の崩御と英宗の即位1063年仁宗が崩じて曙が即位し、病により曹太后が垂簾する
- 嘉祐八年七月~十二月・両宮の不和1063年韓琦と欧陽修が太后と帝の間を調停し、疑いが解ける
- 英宗
- 治平元年正月・撤簾と親政1064年韓琦の勧めで太后が簾を撤し、帝が親政する
- 治平元年~二年(1064-)・任守忠の追放と人事1065年両宮を離間した任守忠を蘄州に竄し、富弼が罷免される
仁宗景祐二年二月(1035年)
- 宗室の子の宗実を宮中で養った。宗実は太宗の曾孫、商王元份の孫、江寧節度使允譲の子である。帝にはまだ儲嗣がなく、宮中に引き取って皇后に育てさせた。生まれて四年目だった。
嘉祐元年五月(1056年)・范鎮の建儲論
- 知諫院の范鎮を罷めた。先に帝が急病になったとき、宰相の文彦博が儲君を立てるよう請い、帝も許したが、病が癒えて沙汰止みになっていた。
- ここに至って鎮は奮然として「天下の事にこれより大きなものがあろうか」と言い、上疏して次のように述べた。
- 諫官を置くのは宗廟社稷のためです。諫官でありながら宗廟社稷の計をもって陛下に仕えないのは、死を惜しみ利を貪る人であり、臣はそのようにはいたしません。
- 陛下がご不例のとき、海内は不安で為す術を知りませんでした。陛下だけが祖宗の後裔を念とされた。宗社への慮りが至って深く明らかである証しです。
- 昔、太祖はその子を措いて太宗を立てられました。天下の大公です。真宗は周王が薨じて宗室の子を宮中に養われました。天下の大慮です。どうか太祖の心をもって真宗の故事を行い、近い親属のうちもっとも賢い者を抜擢し、その礼と秩を優遇して左右に置き、政事を試みて億兆の人心を繋ぎ止め、聖なる嗣ができたら邸に返されたい。
- 章が上がっても返答はなかった。文彦博は「なぜ名を求めて進もうとする者の真似をするのか」と言った。鎮は書を送って「近ごろ天象に変が現れ、急な兵乱があるはずです。鎮は義として職に死ぬべきで、乱兵の下に死ぬわけにはまいりません。これこそ鎮が死を択ぶ時。どうして名を求め進もうとするという嫌疑を顧みましょうか」と言った。
- さらに上言して「陛下は臣の疏を禁中に留めず中書に付されました。大臣に奉行させようとのお考えです。臣は二度、中書に赴きましたが、大臣はみな言い逃れて臣を拒みました。これは陛下が宗廟社稷の計を立てようとされても大臣が望まぬということです。臣がひそかに大臣の避けようとする意を推し量るに、行っても陛下が途中で心変わりされることを恐れているのでしょう。心変わりの禍はせいぜい一死ですが、国本が立たず、万一、天象の告げる急な兵乱が起これば、死んでもなお罪があります。その計は疎かにすぎます。臣の章を大臣に示し、自ら死に場所を択ばせていただきたい」と述べた。聞く者は足を震わせた。
- 兼侍御史知雑事に除されたが、鎮は言が容れられぬからと固辞した。彦博が「今、離間の言がすでに入っており、行うのは甚だ難しい」と諭すと、鎮は「事はその是非を論ずるべきで、難易を問うべきではありません。諸公は今日が先日より難しいと言われるが、後日が今日より難しくないと、どうして分かりましょう」と言った。
- 帝に面と向かって陳べること三度、涙を流した。帝も泣いて「私はそなたの忠を知っている。そなたの言は正しい。あと二、三年待ってくれ」と言った。鎮は前後十九度も章を上げ、命を待つこと百余日、鬚も髪もすっかり白くなった。朝廷はその志を奪えぬと知り、そこで知諫院を罷めて紏察在京刑獄に改めた。
- 当時、并州通判の司馬光もまた建儲を言い、あわせて鎮に死をもって争うよう勧めた。
- 翰林学士の欧陽修が上言して「陛下は御位に臨まれて三十余年、儲宮がまだ立っておりません。これは久しく欠けた典です。漢の文帝が即位すると群臣は太子を立てるよう請いました。群臣は自ら疑わずに敢えて請い、文帝もまた臣に二心ありと疑いませんでした。後唐の明宗はとりわけ人が太子の事を言うのを憎みました。しかし文帝は太子を立てた後、長く国を享け、漢の太宗となりました。明宗は儲嗣を早く定めず、秦王は野心のために大禍に陥り、後唐はついに乱れました。陛下は何を疑って久しく定められぬのですか」と述べた。
- 殿中侍御史の包拯・呂景初・趙抃、知制誥の呉奎・劉敞らもみな上疏して強く請うた。そこで宰輔の文彦博・富弼・王堯臣らも相次いで帝に早く大計を定めるよう勧めたが、いずれも聴かれなかった。
嘉祐三年六月(1058年)・韓琦と包拯
- 韓琦を同平章事とした。当時、群臣はみな建儲を言ったが、帝は曖昧にして決しなかった。琦は宰相となると機を見て「皇嗣は天下の安危の繋がるところです。昔から禍乱の起こるのは、みな策を早く定めなかったからです。陛下はなぜ宗室の賢者を択んで宗廟社稷の計となさらぬのですか」と進言した。帝は「後宮にまもなく産む者がある。しばらく待て」と言った。ほどなくまた女子が生まれた。
- 琦は『漢書』孔光伝を懐に入れて進み、「成帝には嗣がなく、弟の子を立てました。あの中程度の主でさえこうできたのです。まして陛下は。どうか太祖の心をもって心とされたい。そうすればできぬことはありません」と言った。帝は答えなかった。
- 包拯を御史中丞とした。拯は「東宮の位が空いて久しく、天下は憂えております。そもそも万物には根本があり、太子は天下の根本です。根本が立たなければ、これより大きな禍がありましょうか」と言った。帝が「そなたは誰を立てたいのか」と問うと、拯は「臣は才もないのに位を占めております。あらかじめ太子を建てるよう乞うたのは宗廟万世の計のためにすぎません。陛下が臣に誰を立てたいかとお問いになるのは臣を疑っておられるのです。臣は七十歳で子もありません。後の福を求める者ではありません」と答えた。帝は喜んで「おいおい議そう」と言った。
嘉祐四年十一月(1059年)
- 汝南王の允譲が没し、濮王を追封した。允譲は天資が渾厚で、内は寛く外は荘重、喜怒を色に表さなかった。知大宗正寺を二十年務め、宗室の子で学を好む者は励まして善に進ませ、教えに従わぬ者は勧め戒め、それでも改まらなければ初めて罪を正した。それゆえみな畏れ服した。没して安懿と諡された。その子の宗実が宮中で育てられていたので、恤みの典が加えられた。
嘉祐六年六月~十月(1061年)・司馬光と皇子の決定
- 司馬光を知諫院とした。光は入対してまず「臣が昔、并州の通判だったとき申し上げた三章について、どうか陛下は果断に力行されたい」と言った。帝は久しく沈思して「宗室を選んで継嗣としたいということではないか。これは忠臣の言だが、人は敢えて及ばぬことだ」と言った。光は「臣はこれを申し上げれば必ず死ぬと思っておりました。陛下がお聞き入れくださるとは思いませんでした」と答えた。帝は「これの何が害になろう。古来みなあることだ」と言った。
- 十月壬辰、宗実を喪から起こして知宗正寺とした。
- もともと帝は三人の王を相次いで失い、至和年間から病を得て殿に出御できなくなり、中外は不安に怯えていた。臣下は争って嗣を立てて根本を固めるよう言い、包拯と范鎮はとりわけ激しかったが、五、六年が積もっても曖昧なまま行われず、言う者も次第に怠っていた。
- 先年、韓琦が宰相になったばかりの頃、機を見て言い、孔光伝を懐に入れて進めても帝は答えなかった。さらに曽公亮・張昇・欧陽修とともに極言した。
- ここに至って司馬光が上疏して「先に臣はあらかじめ太子を建てる説を進め、ただちに行われると思っておりましたが、今は寂として何も聞きません。これは必ず小人が『陛下は年齢まさに盛んなのに、なぜ急にこの不祥の事をなさるのか』と言っているのです。小人には遠慮がなく、ただ倉卒の際に自分と親しい者を担ぎ出そうとするだけです。定策の国老、門生の天子という禍を、言い尽くせましょうか」と述べた。帝は大いに感動して「中書に送れ」と言った。
- 光は韓琦らに会って「諸公が今、議を定めなければ、いずれ禁中から夜半に寸紙が出て『某人を嗣とする』となったとき、天下は誰も違えられません」と言った。琦らは手を拱いて「力を尽くさぬはずがありましょうか」と言った。当時、知江州の呂誨もまた上疏してこれを言った。
- 琦が入対して光と誨の二つの疏を進めて読むと、帝はそこで「私にはその意が久しくある。誰がよいか」と言った。琦は恐れ入って「これは臣らの議すべきことではありません。ご聖択から出るべきです」と答えた。帝は「宮中でかつて二人の子を養った。小さいほうは純朴だが近ごろ聡明でない。大きいほうがよかろう」と言った。琦がその名を請うと、帝は「宗実だ」と言い、琦らはそこで力を尽くして賛成し、議は定まった。
- 宗実は天性が篤い孝行で読書を好み、遊興や無作法をせず、服も乗り物も倹素で儒者のようだった。当時は濮王の喪中だったので、喪から起こして知宗正寺としたのである。
- 琦は「事が行われる以上、途中でやめてはなりません。陛下は疑わずご決断ください。禁中から批答を出していただきたい」と言った。帝は宮人に知られたくないと思い、「中書が行えば足りる」と言った。
- 命が下ると宗実は固辞し、喪を終えることを乞うた。帝がまた琦に問うと、琦は「陛下はその賢を知って択ばれました。今、急に受けようとしないのは、器と識が遠大だからで、それこそ賢たる所以です。どうか強く起こされたい」と答えた。帝は「そのとおりだ」と言い、十八度の章を経てようやく許された。
嘉祐七年八月~九月(1062年)・皇子の冊立
- 八月己卯、宗実を皇子に立て、曙の名を賜った。
- 九月乙巳朔、皇子の曙を鉅鹿郡公に進封した。宗実が喪を終えると、韓琦は「宗正の命が出たとき、外の人はみな必ず皇子になると知りました。いっそその名を正されたい」と言い、帝は従った。
- 琦が中書に至って翰林学士の王珪を召して詔を草させると、珪は「これは大事です。面と向かって旨を受けねばなりません」と言った。翌日、対面を請うて「海内はこの挙を久しく望んでおります。果たしてご聖意から出たものでしょうか」と問うた。帝は「私の意は決した」と言った。珪は再拝して賀し、初めて退いて詔を草した。欧陽修はこれを聞いて「王珪は真の学士だ」と嘆じた。
- 詔が下ると宗実はまた病と称して固辞し、章を十余度も上げた。記室の周孟陽がその理由を問うと、宗実は「敢えて福を求めて禍を避けるのではない」と言った。孟陽は「今すでにこの形跡があります。かりに固辞して受けず、宦官が別の者を奉ずることになったら、安泰無事でいられましょうか」と言い、宗実は初めて悟った。
- 司馬光が帝に「皇子が計り知れぬ富貴を辞して十日、一月に及ぶのは、人より遥かに賢です。しかし父が召せば『はい』と答えるだけでなく、君命の召しには車を待たずに行くもの。臣子の大義をもって責められたい。必ず入りましょう」と言い、帝は従った。
- 宗実は初めて命を受け、宮に入ろうとするとき、その舎人に「私の家を慎んで守れ。主上に実子ができれば私は帰る」と戒めた。輿に乗って召しに赴いたが、良賤合わせて三十人に満たず、荷物も少なく、ただ書物が数箱あるだけだった。中外は互いに賀した。
嘉祐八年二月~四月(1063年)・仁宗の崩御と英宗の即位
- 春二月癸未、帝が病んだ。丙戌、中書と枢密が福寧殿の西閣で奏事した。
- 三月辛未、帝が福寧殿で崩じた。享年五十四。遺制で皇子が皇帝の位に即き、山陵の制度は倹約に努めることとした。そこで皇后が諸門の鍵をすべて集めて前に置き、夜明けに皇子を召して位を継がせた。皇子は驚いて「曙にはできません」と二度言って走って逃げようとしたが、韓琦らがともに脇を抱えて留めた。
- 夏四月壬申朔、皇子が即位した。三年の諒闇に服そうとして韓琦に冢宰を摂させようとしたが、宰臣が不可としてやめた。
- 乙亥、帝が病んだ。丙子、皇后を皇太后として尊んだ。己卯、詔して皇太后に権りに軍国の事をともに処分するよう請うた。后は内東門の小殿に出御して簾を垂れ、宰臣が日ごとに奏事した。
- 后は性が慈しみ深く倹約で、経史にかなり通じ、しばしばそれを引いて事を決した。中外の章奏は日に数十上がるが、一つ一つ要点を記憶できた。疑わしくて決しかねるものがあれば「公らはさらに議せよ」と言い、自分の意を押し出したことがなかった。曹氏の一族および左右の臣僕には毫髪も融通せず、宮中は粛然としていた。
- 庚子、高氏を皇后に立てた。后は侍中の高瓊の曾孫で、母の曹氏は太后の姉である。それゆえ幼くして宮中で育ち、帝と同年に生まれ、ともに太后に育てられた。仁宗はかつて「いずれ必ず配とすべきだ」と言った。長じて宮を出て濮邸に嫁し、京兆郡君に封ぜられ、三子を生んだ。ここに至って皇后に冊された。
嘉祐八年七月~十二月(1063年)・両宮の不和
- 秋七月、帝の病が癒えた。もともと帝の病が重かったとき、その振る舞いが常軌を逸することがあり、宦官にはとりわけ恩が薄かったので、左右に不快な者が多く、ともに讒言して離間した。かくて両宮の間に隙が生じ、内外は騒然と懼れた。
- 知諫院の呂誨が上書して両宮に大義を開陳した。その言葉は深く切実で、人の言いにくいことを多く述べたが、両宮はなお釈然としなかった。
- ある日、韓琦と欧陽修が簾の前で奏事したとき、太后は咽び泣いて涙を流し、事情を語った。琦は「これは病ゆえです。病が癒えれば必ずそうではなくなります。子が病んでいるのに、母が容れられぬことがありましょうか」と言った。后の意は解けなかった。
- 修が進み出て「太后は先帝に数十年お仕えになり、仁徳は天下に著れております。昔、温成が寵を受けたときも太后は悠然と処されました。今、母子の間で、かえって容れられぬのですか」と言うと、后の意はやや和らいだ。
- 修はさらに「先帝は在位が久しく、徳沢が人に及んでおりました。それゆえ一朝、晏駕されても天下は嗣君を奉戴して敢えて異を唱える者がありません。今、太后は一婦人、臣らは五、六人の書生にすぎません。先帝の遺意でなければ、天下の誰が聴き従いましょうか」と言った。后は久しく黙した。
- 琦が進んで「臣らは外におります。ご聖躬の調護に万一のことがあれば、太后はその責めを辞せません」と言うと、后は驚いて「何ということを。私の心こそいっそう切なのです」と言った。同列で聞いた者はみな汗を流した。
- 数日後、琦が独り帝に会うと、帝は「太后は私にあまり恩がない」と言った。琦は「古来、聖帝明王は少なくありません。しかし舜だけを大孝と称するのは、その他がみな不孝だったからでしょうか。父母が慈しみ子が孝なのは常のことで言うに足りません。ただ父母が慈しまずとも子が孝を失わぬからこそ称えるのです。ただ陛下の仕え方がまだ至らぬのを恐れます。父母にどうして慈しまぬ者がありましょうか」と答えた。帝は大いに感じ悟った。
- 帝は六月から殿に出御していなかったが、この月の壬子、初めて紫宸殿に出御して百官に会った。琦はそこで乗輿で雨乞いすることを請い、素服を備えて出た。人情は大いに安んじた。
- 冬十月甲午、仁宗を永昭陵に葬った。
- 十二月己巳、経筵を開いた。翰林学士の劉敞が『史記』を進講し、堯が舜に天下を授けたところに至って、手を拱いて「舜は至って卑賤な身でしたが、堯が位を禅り、天地はこれを享け百姓はこれを戴きました。他の道があったのではなく、ただ孝友の徳が上下に光ったからです」と言った。帝は悚然として顔色を改め、太后もこれを聞いて大いに喜び、両宮の疑いは次第に解けた。
英宗治平元年正月(1064年)・撤簾と親政
- 春正月、帝の病が大いに癒えた。韓琦は太后に簾を撤して政を返させようとし、十余の事を取って帝に諮った。帝の裁決はすべて当を得ていた。琦はただちに太后のもとへ行って覆奏し、后は事ごとに善しと言った。
- 琦はそこで后に辞任を申し出た。后は「相公は去ってはなりません。私こそ深宮に居るべきです。毎日ここにいるのは、まことにやむを得ずのことです」と言った。琦は「前代の后には馬后や鄧后のように賢い方もありましたが、権勢を顧み恋うことを免れませんでした。今、太后がただちに政をお返しになれるのは、まことに馬后・鄧后の及ばぬところです。いつ簾を撤されるか、お決めください」と言った。太后はそのまま立ち上がり、琦はただちに簾を撤せと命じた。簾が落ちてもなお御屏の後ろに太后の衣が見えていた。
- 帝が親政し、琦に尚書右僕射を加えた。
史論(呂中)
- 国家の危疑の日に当たって、大臣が事を任せるに足るには二つある。第一は德望、第二は才智である。才智があっても德望でそれを鎮めなければ天下の心を服させるに足りず、德望があっても才智でそれを満たさなければ天下の事を弁ずるに足りない。ゆえに「六尺の孤を託すべく、百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず」というのである。韓魏公(琦)は慶暦・嘉祐の頃から大事を託せる人で、その德望が人心を服させて久しかった。事に処し変に応ずる胸中の才智も、天下を運用するに足りた。これが英宗の始めを正し得た所以であろう。真宗の初めには呂端があり、仁宗の初めには王曾があった。いずれも国家を安んじ社稷を定めた名臣である。
治平元年~二年(1064-1065年)・任守忠の追放と人事
- 丙辰、皇太后の宮に慈寿の名を上った。
- 秋八月、内侍都知の任守忠を蘄州に竄した。もともと章献太后が朝に臨んだとき、守忠は都知の江德明らと通じて請託を取り次ぎ、権と寵が甚だ盛んで、累進して宣政使・入内都知となった。仁宗に儲嗣がなく帝に意を寄せていたとき、守忠は昏弱な者を擁立して大利を得ようと建議した。帝が即位すると、さらに帝の病に乗じて両宮を離間した。
- 知諫院の司馬光は守忠の離間の罪を論じ、国の大賊であるとして都市で斬るよう乞い、呂誨もまた上疏して論じた。帝はその言を容れた。
- 翌日、韓琦は空白の敕一通を出した。欧陽修はすでに署名していたが、趙概は難色を示した。修は「ともかく書かれよ。韓公には必ずお考えがある」と言った。やがて琦は政事堂に座して守忠を召し、庭下に立たせて「汝の罪は死に当たる」と言い、蘄州安置に処し、空白の敕を取って書き入れて与え、その日のうちに押送した。琦の意は、少しでも緩めれば途中で覆されると考えたのである。その一党の史昭錫らもことごとく南方に竄され、中外は快哉を叫んだ。
- 二年二月、三司使の蔡襄を罷めた。帝が濮邸から皇子に立てられたとき、近臣の中に異議を唱えた者があると聞いており、人はそれを襄だと疑った。即位後、帝はたびたび「襄はどのような人か」と問うた。韓琦らが弁解したが帝の意は解けず、襄は罷免を請うて知杭州として出た。
- 秋七月、富弼が罷免された。嘉祐年間、韓琦は弼とともに宰相だったが、中書に疑わしい事があればしばしば枢密と謀った。ところが弼が枢密使になってからは、旨を得て合議すべきものでなければ琦は弼に諮らず、弼は不快だった。
- 太后が政を返したとき、弼は大いに驚いて「私は輔佐の位に備わっている。他の事はもとより与り知れぬとしても、この事だけは韓公がともにできなかったのか」と言った。ある者がこれを琦の咎とすると、琦は「この事は当時、太后の意から出たのだ。どうして衆に公言できようか」と言った。弼はいよいよ不快になった。
- 帝の親政後、弼に戸部尚書を加えたが、弼は辞して「制詞は嘉祐年間にかつて建儲を議したことによる恩を推すものです。これは糸筋ほどの労にすぎません。どうして賞を加えるに足りましょう。仁宗と太后は陛下に天地の恩があるのに、まだ報いるところを聞きません。倒錯というべきです」と言った。二度奏したが聴かれず、そこで受けた。
- ここに至って足の病を理由に強く政務からの解任を求め、章を二十余度も上げた。そこで使相・鄭国公として判揚州となり、まもなく判汝州に移った。
- 文彦博を枢密使とした。彦博が河南から入覲すると、帝は「私が立ったのはそなたの功だ」と言った。彦博は恐れ入って「陛下が大統を継がれたのは先帝のご意志であり、皇太后が賛成された力によります。臣に何の功がありましょう。しかもその時、臣はちょうど外におりました。いずれも韓琦らが聖意を承け顧命を受けたので、臣は与っておりません」と答え、辞退して敢えて受けなかった。帝は「しばらくそなたを西へ煩わすが、すぐ召し還す」と言い、そこで判永興軍に改め、ほどなくこの召しがあった。