宋史紀事本末慶暦の党議(慶厯黨議)
范仲淹が呂夷簡の私的な人事を百官図で批判して饒州に貶され、余靖・尹洙・欧陽修らがこれに連座して「朋党」の名を着せられてから、慶暦の新政とその挫折までを追う。欧陽修は「朋党論」で君子の朋こそ国を興すと説き、石介は「慶暦聖徳詩」で夏竦を大姦と名指した。仲淹の十事、按察使の派遣、磨勘と蔭子の法の厳格化は僥倖を求める者の反発を招き、夏竦が石介の筆跡を偽造した讒言もあって、杜衍・仲淹・富弼・韓琦・欧陽修が相次いで退けられた。景祐元年(1034年)から慶暦五年(1045年)まで、約十年の党議の顛末である。
年表(13件)
- 仁宗
- 景祐元年冬十月1034年范仲淹が召し還され、欧陽修が石介の罷免をめぐって杜衍を責める
- 景祐三年五月・范仲淹の失脚と朋党の議1036年仲淹が百官図で呂夷簡を諷して饒州に貶され、余靖・尹洙・欧陽修も連座する
- 景祐四年~宝元元年(1037-)・蘇舜卿の上疏1038年地震と日食に乗じて葉清臣・蘇舜卿が言路を開くよう説く
- 宝元三年十一月1040年馮士元の獄が広がり、盛度・程琳と孔道輔がともに退けられる
- 康定元年春正月1040年日食に際し富弼の言で越職言事の禁を解き、朝政の欠失を極言させる
- 慶暦三年三月・諫官の増置と欧陽修の朋党論1043年欧陽修らを諫官とし、修が「朋党論」を進めて君子の朋を説く
- 慶暦三年四月・夏竦の罷免と韓琦・范仲淹の登用1043年台諫の論で夏竦の枢密使を奪い、韓琦・范仲淹を枢密副使とする
- 慶暦三年・石介の「慶暦聖徳詩」石介が新政の人事を頌して夏竦を大姦と指し、後の禍の端を開く
- 慶暦三年五月~九月・呂夷簡の退場と慶暦の新政1043年呂夷簡が致仕し、范仲淹が十事を上って新政が始まる
- 慶暦三年十月~十一月・按察使と磨勘・蔭子の法1043年都転運按察使を諸路に出し、磨勘と蔭子の法を厳しく改める
- 慶暦四年・讒言と失脚1044年夏竦が石介の筆跡を偽って廃立の詔草を作り、仲淹が宣撫使として辺に出る
- 慶暦四年八月~十一月1044年富弼も河北に出て杜衍が宰相となり、朋党を戒める詔が重ねて出る
- 慶暦五年正月~三月・杜衍・仲淹・弼の罷免1045年進奏院の宴を口実に杜衍・仲淹・弼が退けられ、韓琦・欧陽修も外に出る
仁宗景祐元年冬十月(1034年)
- 范仲淹を礼部員外郎・天章閣待制・判国子監とし、ほどなく権知開封府とした。仲淹は先に廃后を諫めた事で睦州に貶されていたが、ここに至って召し返された。
- 当時、御史台が石介を主簿に辟したが、まだ着任せぬうちに事を論じて罷免された。館閣校勘の欧陽修は中丞の杜衍に書を送って責め、「主簿は台の中で言事の官ではありません。介は足が台の門の敷居も踏まぬうちに、言事によって罷免された。正直剛明で恐れ憚らぬというべきです。介の才を量れば主簿にとどまらず、まさに御史たり得ます。今、介を斥けて別に挙げるとしても、必ず賢者を択ぶでしょう。そもそも賢者はもとより論ずることを好むもの。言えばまた斥けて別に挙げるのですか。それでは愚昧で臆病な黙り屋を得るまで止まりますまい」と述べた。衍は用いなかった。
景祐三年五月(1036年)・范仲淹の失脚と朋党の議
- 范仲淹は呂夷簡が執政として登用する者の多くがその門下から出ていることを見て、百官図を上進し、その順序を指して「これが順序どおりの昇進、これが順序によらぬ昇進。これが公、これが私です。まして近臣の進退で規格を超えるものは、すべてを宰相に委ねるべきではありません」と述べた。夷簡は不快だった。
- 後日、建都の事を論じたとき、仲淹は「洛陽は険阻で堅固ですが、汴は四方から攻められる地です。太平のときは汴に居り、事あれば必ず洛陽に居るべきです。次第に蓄えを広げ宮室を修繕されたい」と進言した。帝が夷簡に問うと、夷簡は「仲淹は迂遠で名を求め、実がありません」と答えた。
- 仲淹はこれを聞いて四論を作って献じた。第一は帝王の好尚、第二は選賢任能、第三は近名、第四は推委である。おおむね時弊を鋭く批判し、あわせて「漢の成帝は張禹を信じて舅の家を疑わず、それゆえ新莽の禍がありました。臣は今日にも張禹があって陛下の家法を壊すことを恐れます」と述べた。
- 夷簡は仲淹が職を越えて事を論じ、君臣を離間し、朋党を引き用いていると訴えた。仲淹の答弁はいよいよ切実だったので、職を落として知饒州とした。
- 集賢校理の余靖が上言して「仲淹は大臣を譏刺したとして重く譴責されました。もしその言が聖慮に合わなければ、陛下が聴くか聴かぬかの問題であって、罪とすべきではありません。汲黯は朝廷にあって平津侯を詐りが多いとし、張昭は魯粛を粗雑だと論じましたが、漢の皇帝も呉主もそのそしりを重々聞きながら二人とも疑いなく用い、令徳を損ないませんでした。陛下は新政以来、たびたび言事の者を逐われております。天下の口を塞ぐことを恐れます。先の命を改められたい」と述べた。疏が入ると、靖も職を落とされて監筠州酒税とされた。
- 館閣校勘の尹洙が上疏して「仲淹の忠と誠実は日ごろからのものです。臣は彼と師友の誼を兼ねております。すなわち仲淹の党です。今、仲淹が朋党で罪を得た以上、臣は一人だけ免れるわけにまいりません」と述べた。夷簡は怒り、監郢州酒税に斥け、ほどなく唐州に改めた。
- 館閣校勘の欧陽修は司諫の高若訥に書を送って責め、「仲淹は無実で逐われました。あなたは君のために弁じられぬのに、なお面目を保って士大夫に会い、朝廷に出入りしている。もはや人の世に恥という事があるのを知らぬのです」と言った。若訥は怒ってその書を上げ、修は夷陵令に貶された。
- 当時、朝士は宰相を畏れて仲淹を送る者がなかったが、ただ龍図直学士の李紘と集賢校理の王質だけが郊外まで出て餞別した。誰かが質をそしると、質は「希文(仲淹)は賢者だ。その朋党とされるなら幸いというものだ」と言った。
- 館閣校勘の蔡襄は「四賢一不肖詩」を作って仲淹・靖・洙・修を讃え、若訥を譏った。都の人々は互いに書き写し、書物を売る者はこれを商って厚い利を得た。折しも契丹の使者が来て、買って帰り、幽州の館に張り出した。
- 御史の韓縝は夷簡の意を迎え、仲淹の朋党を朝堂に掲示して百官が職を越えて事を言うことを戒めるよう請い、これに従った。
- 蘇舜卿が上書して次のように述べた。
- 前代の神聖の君を歴観するに、みな正論を聞くことを好みました。四海は至って遠く、民には隠れた悪もあって偏った見方では照らせないからです。ゆえに愚者や賤者の言をも隔てず択んで用い、しかる後に朝廷に遺漏の政なく、物に遁れる実情がなく、佞臣や邪な謀があっても進み得ませんでした。
- 臣が見るに、近日の詔書は職を越えて事を言うことを戒め、四方に告げました。驚き惑わぬ者はなく、しばしばひそかに議論しております。陛下のご本意ではありますまい。陛下は即位以来たびたび群下に詔して直言を勤めて求め、百僚に転対させ、匭函を置き、直言極諫科を設けられました。今の詔書は先の事と全く異なります。大臣が陛下の聡明を塞ぎ、忠良の口を杜ぐものではありませんか。朝政を損なうばかりでなく、実は自ら覆亡の道を取ることになります。
- そもそも善を納れ賢を進めるのは宰相の事です。君を蔽って自ら任ずる者で、亡ばなかった例はありません。今、諫官も御史もことごとくその門から出て、ただ意を迎えれば美官を得る。多くの士が庭に満ちても口を噤んで語れない。陛下が黙して手を拱いておられて、どうして天下の事をすべてお聞きになれましょうか。
- 先に孔道輔と范仲淹は剛直で屈せず、台諫の位に至りました。他の官に移されても献納を忘れませんでした。この二臣は、口を閉ざして数年もすれば卿・輔の地位が得られると知らなかったわけではありません。陛下の委任の意に背けなかったのです。それがみな中傷に遭って竄謫されました。正臣は気を奪われ、鯁士は舌を噛んで、時の弊を目にしても口では論じられなくなりました。
- 昔、晋侯が叔向に「国家の患いで何が大きいか」と問うと、「大臣が禄に執着して極諫せず、小臣が罪を畏れて敢えて言わず、下情が上に通じないこと。これが患いの大きなものです」と答えました。ゆえに漢の文帝は一女子の説に感じて肉刑を除き、武帝は三老の意を聴いて江充を族滅しました。肉刑は古の法、江充は近臣、女子と三老は愚かで年老いた疎遠な者の極みです。しかし義のあるところ、賤しいからといって忽せにできません。二君はこれに従い、後世は聖と称しました。まして国家が爵位を設けて豪俊を並べる以上、その公忠を責めるべきです。どうして黙従を教えられましょう。賞して諫めさせても言わぬことを恐れるのに、敢えて言った者を罪すれば、誰が献納しようとしましょうか。物情は塞がり主の勢いは孤立して危うくなります。これを思うと驚き痛みます。どうか陛下は徳音を発して先の詔を取りやめ、勤めて採納し、芻蕘にまで及ばれたい。そうすれば常に隆平を守り、近臣を保全できます。
- 取り上げられなかった。
景祐四年~宝元元年(1037-1038年)・蘇舜卿の上疏
- 景祐四年十二月、地震があった。直史館の葉清臣がこれに乗じて上言し、「先ごろ范仲淹と余靖が言事で退けられ、天下の人は舌を噛んで朝政を議さぬこと二年になります。どうか陛下は深く自ら咎め責め、忠直で敢えて言う士を広く招かれたい」と述べた。書が奏されて数日で、仲淹らはみな近い地に移された。
- 宝元元年春正月、直言を求める詔が出た。蘇舜卿が上疏して次のように述べた。
- 臣が聞くに、河東で大地震があって地が裂けて水が湧き、家屋と城の女牆を壊し、民と家畜を殺すこと十万近く、十日を経ても止まないとのこと。臣は思うに、妖と祥の興りはそれぞれ類によって告げるもので、みだりであった例はありません。天と人の応答は古今の鑑で、大いに恐れるべきです。怪しむべきは、朝廷がこの大異を見ながら欠けた政を修めて天の戒めを鎮め民心を安んぜず、黙って何事もない時のようにしていることです。諫官も御史も牘を進めて災害の端を陳べ、主上の心を啓いたとは聞きません。しかし民情は騒然として寄り集まって議論し、みな憂え悸える色があります。
- 臣は言おうとして、また范仲淹が剛直で姦臣に逆らい、言が用いられず身は竄謫されたのを見ました。詔が天下に降って職を越えて事を言うことを許しません。臣は権勢ある者を避けはしませんが、ただ中傷に遭って国に補いがないことを恐れ、自ら悲しみ嘆いて為す術を知りませんでした。やがて孟春の初めに雷霆が突然起こりました。臣が思うに、国家の欠失を衆が敢えて陛下に申し上げぬので、天が丁寧に告げたのです。果たして明詔を大いに発せられ、群臣がみな献言できるようになり、臣は幸いに堪えません。
- ひそかに見るに、陛下は近年ややもすると俳優や賤しい人を近づけ、宴楽は節を越え、賜与は度を過ぎております。宴楽が節を越えれば放蕩となり、賜与が度を過ぎれば奢侈となる。放蕩なら政事に親しまず、奢侈なら用度が足りません。
- 臣が国史を見るに、祖宗は日ごとに朝に臨み、日が傾いてようやく退き、なお後苑の門に座して、申し上げる者があればすぐ召対されました。真宗の末年、病んで初めて一日おきに政務を執られました。今、陛下は年齢まさに盛んで、まことに宵に衣を着け遅く食する、治を求めるべき秋なのに、一日おきに殿に出御される。これが政事に親しまぬことです。
- また府庫は空になり、民に蓄えは少なく、誅斂と徴発はほとんど日を空けません。経費を計れば祖宗の時の二十倍です。これが用度の足りぬことです。政事に親しまず用度が足りぬのは、まことに国の大きな憂いです。
- どうか陛下は己を修めて人を御し、心を洗って物を鑑み、聴断に勤め安逸を捨て、優人や諧謔、近習の些末な人を放って、剛明で鯁直な良士を親しみ近づけ、この災いに因って永い計を思われたい。天下の幸いです。
- そもそも明主は賢を求めることに労し、任用してからは逸します。しかし庭に満ちる士をすべて択ぶ必要はなく、一、二の輔臣と御史・諫官を択べばよいのです。近ごろ王随は吏部侍郎から平章事に抜擢されました。これは非常の任ですが、随は空虚で凡庸、邪で諂い、輔相の器ではありません。石中立は朝廷にあって諧謔を旨とし、世の評判は甚だ軽いのに執政となりました。また張観は御史中丞、高若訥は司諫ですが、二人ともに温和で軟弱、鯁直に敢えて言う気概がありません。いずれも輔臣が引き抜いて据えた者で、慎み黙ってその私を暴かぬようにさせているのです。時に何か言うことがあっても必ずひそかに示し合わせており、傍から見れば甚だ滑稽です。
- ゆえに御史と諫官の任は、陛下が自ら択ばれ、執政の門下から出さぬようにしていただきたい。台諫の官がその人を得れば、近臣は過ちを飾れなくなります。これが下を馭する策です。
- 帝はかなりその言を容れて用いた。
- 冬十月丙寅、百官の朋党を戒める詔が出た。范仲淹が潤州に移ってから、讒する者は仲淹が再び用いられることを恐れ、事を捏造して誣告した。それが伝えられて帝は怒り、急ぎ嶺南に置くよう命じた。中外で仲淹を論じ薦める者が多かったので、帝は「先に仲淹を貶したのは、彼が密かに皇太弟の擁立を請うたためで、大臣を誹謗しただけではない。今、これほど薦める者が多いのは、朋党に関わるようだ」と言い、詔を下して戒めた。
- 程琳が帝のために説き解いたので、帝の意はかなり解けた。李若谷もまた「近世は風俗が軽薄で、もっぱら朋党の名で善良な人を汚します。そもそも君子も小人もそれぞれ類があります。今、一様に朋党と名づければ、正しい人が身を立てられなくなりましょう」と言い、帝はこれを容れた。
宝元三年十一月(1040年)
- 盛度と程琳が罷免された。もともと張士遜は琳を憎み、また孔道輔が自分に付かないのを嫌って、あわせて除こうとしていた。折しも開封府の吏の馮士元が汚職で発覚し、知府の鄭戩が徹底的に取り調べたところ、供述が度・琳および天章閣待制の龐籍、直集賢院の呂公綽、太常博士の呂公弼ら十余人に及んだ。
- 士遜は道輔に「主上は程公を厚く顧みておられる。今、小人に誣いられている。主上に会って弁じてはどうか」と言った。道輔は気づかず、入って「琳の罪は軽く、深く追及するに足りません」と言った。帝は道輔が朋党を庇っていると怒り、あわせて出した。
- そこで度は士元に隣家の借りていた官舎を強引に取らせた咎、琳は士元に張遜の旧邸を騙し取らせた咎、籍・公綽・公弼は士元に女を買わせた咎に問われた。度は罷めて知揚州、琳は知潁州、籍らはみな退けられ罰せられ、士元は海島に流された。そして道輔もまた知鄆州として出された。道輔は初めて士遜に売られたと知り、憤って没した。しかし天下はみな彼を遺直として認めた。
康定元年春正月(1040年)
- 丙辰朔、日食があった。富弼が上言して「天変に応ずるには下情を通じさせるに如くはありません」と述べ、帝はもっともとした。そこで職を越えて事を言うことの禁をすべて除き、中外の臣民に朝政の欠失を極言するよう詔した。
慶暦三年三月(1043年)・諫官の増置と欧陽修の朋党論
- 諫官を増置し、欧陽修・王素・蔡襄を知諫院、余靖を右正言とした。
- 襄は言路が開かれたことを喜びつつ、正しい人が長く立ち続けにくいことを慮り、上言して「諫を任ずるのは難しくなく、諫を聴くのが難しい。諫を聴くのは難しくなく、諫を用いるのが難しい。修ら三人は忠誠剛直で必ず言を尽くします。臣は邪な者に不利なので、必ずこれを防ぐ説を作ると恐れます。防ぐ手は三つを出ません。名を好む、進むことを好む、君の過ちを顕わにする、と言うでしょう。どうか陛下はこれを察し、諫を好む名だけあって実のないようにされませんように」と述べた。
- 修は入対のたびに、帝が必ず執政について尋ね、行うべきことを諮問した。多くの改廃があったが、修は善人が必ずしも勝てまいと慮り、たびたび帝のために分けて説いた。
- 范仲淹が饒州に貶されてから、修と尹洙・余靖はみな仲淹を正しいとして逐われ、群邪は彼らを党人と呼んだ。ここに朋党の議が起こった。そこで修は「朋党論」を作って進めた。その要旨は次のとおり。
- 朋党の説は古よりあります。ただ人君がその君子と小人を弁ずることを願うのみです。おおよそ君子と君子は道を同じくして朋となり、小人と小人は利を同じくして朋となる。これは自然の理です。しかし臣は、小人には朋がなく、君子にのみあると考えます。なぜか。
- 小人の好むのは禄と利、貪るのは財貨です。利を同じくする間は暫く党を組んで朋となりますが、それは偽りです。利を見て先を争い、あるいは利が尽きて交わりが疎くなれば、かえって害し合う。兄弟や親戚でさえ保てません。ゆえに小人に朋はなく、暫く朋となるのは偽りだというのです。
- 君子はそうではありません。守るのは道義、行うのは忠信、惜しむのは名節です。これで身を修めれば道を同じくして互いに益し、これで国に仕えれば心を同じくして共に済い、始終一つです。これが君子の朋です。ゆえに人君たる者はただ小人の偽りの朋を退け、君子の真の朋を用いれば、天下は治まります。
- 堯の時、小人の共工・驩兜ら四人が一つの朋、君子の八元・八凱の十六人が一つの朋でした。舜は堯を佐けて四凶という小人の朋を退け、元凱という君子の朋を進め、堯の天下は大いに治まりました。舜自らが天子となって皋陶・夔・稷・契ら二十二人が朝に並び、互いに称え合い譲り合いました。二十二人が一つの朋となり、舜はみな用いて天下も大いに治まりました。
- 『書』に「紂に億万の臣があるが億万の心である。私に三千の臣があるが一つの心である」とあります。紂の時、億万の人がそれぞれ心を異にした。朋を作らなかったといえます。しかし紂は国を亡ぼしました。周の武王の臣三千人は一つの大きな朋となり、周はこれによって興りました。
- 後漢の献帝の時、天下の名士をことごとく捕らえて囚え、党人と呼びました。黄巾の賊が起こって漢室が大いに乱れてから、初めて悔いて党人をすべて解いて釈しましたが、もはや救えませんでした。唐の晩年には次第に朋党の論が起こり、昭宗の時には朝廷の名士をことごとく殺し、あるいは黄河に投じて「この輩は清流だ。濁流に投じてよい」と言い、唐はついに亡びました。
- そもそも前世の主で、人ごとに心を異にして朋を作らせなかったのは紂に及ぶものがなく、善人が朋を作るのを禁絶したのは漢の献帝に及ぶものがなく、清流の朋を誅戮したのは唐の昭宗の世に及ぶものがない。いずれも国を乱し亡ぼしました。互いに称え譲り合って自ら疑わなかったのは舜の二十二臣に及ぶものがなく、舜も疑わずみな用いました。それでも後世が舜を二十二人の朋党に欺かれたと譏らず、聡明の聖と称えるのは、君子と小人を弁じ得たからです。周の武王の世は国中の臣三千人を挙げて一つの朋としました。古来、朋の多く大きいことで周に及ぶものはありません。しかし周がこれによって興ったのは、善人は多くても厭わないからです。興亡治乱の跡は、人君たる者が見て取るべきです。
- 修は事を論ずるのに切実で率直だったので、人は彼を仇のように見た。帝だけがその敢えて言うことを奨め、侍臣を顧みて「欧陽修のような者は、どこから来たのか」と言った。
慶暦三年四月(1043年)・夏竦の罷免と韓琦・范仲淹の登用
- 夏竦を枢密使、韓琦と范仲淹を枢密副使とした。
- 当時、帝は天章閣に出御して公卿を召し、手詔を出して当世の急務を問うた。葉清臣はこれを聞いて時政を極論し、次のように述べた。
- 陛下が奔走競争を息めようとされるなら、これは中書にかかっております。宰相が競争の流れを裁き抑えれば風俗は敦厚となり、人は満足を知ります。宰相が佞険の士を用いれば、栄を貪り進むことを冒し、混濁した波を作ります。先ごろ、職が管庫にありながら日々、時の宰相の門に走った者があります。入っては街談巷議を取って聡明を惑わし、出ては廟謨朝論を盗んで同輩を驚かせる。ある日ことごとく職司に抜擢されて任に酬いられました。近ごろ人士は競ってこの風に倣い、権要の家に出入りする者に「三尸五鬼」の号がある有様。ある者は館職に列し、ある者は省曹に置かれております。
- しかも台諫の官は天子の耳目です。今はそうでなく、ことごとく宰相の肘腋となっております。宰相の憎む者は些細な瑕を捉えて公然と攻撃し、宰相の善しとする者には唱和して先導する。中書の政令が公平でなく賞罰が当を得なくとも、口を噤み舌を結んで敢えて言わない。人主の些細な過ちや宮中の小事には極言して度を過ごし、それを直言と称する。職に就いて一年も経たぬうちに昇進が並外れる。
- 宋禧は御史でありながら、陛下に宮中で犬を飼い棘を設けて守衛とするよう勧めました。朝廷の体を弱め四夷の笑いを取ったのに、叱責されぬばかりか諫官に抜擢されました。王達は二度、湖南・江西の転運使となり、赴く先々で苛虐に百姓を絞り取り、無辜を徒刑や配流にしましたが、宰相の旧知であるために順序を無視して抜擢され、河北へ行くことになりました。これでは奔競を助長するものです。
- 帝は見てうなずいた。
- 乙巳、夏竦が京師に着いたが罷免され、杜衍を枢密使とした。もともと竦が召されたとき、諫官の欧陽修・蔡襄らが次々に上章し、「竦は陝西にあって臆病で力を尽くさず、しかも詐りを挟んで術数を弄び、姦邪で傾険です。陛下は政事に励んでおられるのに、まず詐りを懐く不忠の臣を用いて、どうして治を求められましょう」と論じた。中丞の王拱辰もまた「竦は西の軍を経略して功なく帰りました。今これを二府に置いて、どうして世を励ませましょう」と言い、対面の折に極論した。帝はまだ悟らずに急に立ち上がったが、拱辰は前に進んで裾を引いてその説を終えたので、帝はようやく悟った。
- 折しも竦はすでに国門に着いていたが、言う者の論はいよいよ強く、召見しないよう乞うた。右正言の余靖は「竦はたびたび表を上げて病を称しながら、召命を聞くやただちに駅を継いで馳せてまいりました。もし早く決せねば、竦は必ず面対を強く求め、恩を叙べて泣き、さらに左右に彼のために地歩を作る者があれば、聖聴は惑わされます」と言った。章がたびたび上がり、その日のうちに竦に鎮へ帰るよう詔し、杜衍を枢密使に拝した。竦もまた自ら節を返して越に還ることを請い、知亳州に移された。竦は亳に着いて万言の書を上げて自ら弁じ、そこで判并州に移された。
- 蔡襄が帝に「陛下が竦を罷めて琦と仲淹を用いられ、士大夫は朝で賀し、庶民は路で歌い、酒を飲んで叫び喜ぶ有様です。しかも一人の邪を退け一人の賢を進めることが、どうして天下の軽重に関わりましょう。一人の邪が退けばその類が退き、一人の賢が進めばその類が進む。多くの邪がともに退き多くの賢がともに進めば、海内が泰らかにならぬことがありましょうか。とはいえ臣はひそかに憂えます。天下の勢いは病人のようなものです。陛下はすでに良医を得られました。信任して疑わなければ、病が癒えるだけでなく民を長寿にできます。医が良くとも術を尽くせなければ、病は日ごとに深くなり、和や扁鵲でも効を責められません」と言った。
慶暦三年・石介の「慶暦聖徳詩」
- 国子監直講の石介は学に篤く志が高く、善を楽しみ悪を憎み、名声を喜び、事に遭えば奮って敢えてなした。折しも呂夷簡が宰相を罷め、章得象・晏殊・賈昌朝・韓琦・范仲淹・富弼が同時に執政となり、欧陽修・蔡襄・王素・余靖がみな諫官となった。夏竦は拝命したのちにこれを奪われ、杜衍が代わった。介は大いに喜んで「これこそ盛事だ。歌い頌えるのは私の職。やめられようか」と言い、「慶暦聖徳詩」を作った。
- その詩は、慶暦三年三月に皇帝が奮い立って自ら英賢を見出し姦悪を鋤いたことを称え、その大声が六合を震わせ、怪しく妖しいものは滅び去ったと歌う。そして皇帝の言葉として、祖父と父から大業を託されて失墜を恐れ、輔弼に頼るとして、章得象・晏殊は慎重で細やかで長く宰相を務めてきたこと、賈昌朝は儒者として学問が広く経術で政を論じて次官の任にふさわしいこと、范仲淹は誠実さを見抜かれ、太后が勢いに乗った危うい時に小臣ながら危言を吐き、司諫として門の閾を正し、京兆として讒言を退け、夏の叛乱には防ぎ止め、酷暑や大雪の中を士卒と苦楽をともにして欠乏を訴えなかったこと、富弼は遅れて得た人材で私的な謁見をせず、道をもって輔け、その言は深く切実で、堯舜たりえぬなら自らを罰するとまで言い、諫官の一年で疏奏は箱に満ち、侍従の一年で忠を尽くし、契丹が義を忘れて大国を侮り言辞が傲慢だったときも、命を奉じて畏れず怯まず、ついに旧好を回復して民を安んじ、万里の砂漠で生死を一つの節に貫き、その肌は霜に剝かれ風に裂かれ、その心は金を練り鉄を鍛えたようであり、大官の名で労苦に報いようとしても辞して受けず志を奪えなかったこと、仲淹と弼は夔と契のような一対で天が自分に賜ったものであること、杜衍は白髪で二十四年仕え、髪は禿げ歯は欠けても心は一つで、履むところを越えず、枢府の長として兵政に躓きがないこと、韓琦は早くから見知って奇骨があり、器量が大きく些細なものを見るような者ではなく、人となりは素朴で飾らず、大事を託せる、勃(周勃)のように敦厚で、衍の次官として人を知る自分の明を示すものであること、欧陽修と余靖は朝廷で毅然と立ち、言論は磊落で忠誠が際立ち、禄は薄く身は賤しくとも志は怯まず、かつて大官をそしって貶黜され、万里から帰ってなお剛気が折れず、たびたび直言して欠けを補うこと、王素は宰相の子孫として忠を含み潔を履み、かつて御史として幾度も御榻に迫ったこと、蔡襄は小官ながら名は自分の耳に届き、かつて献言して自分の失を箴め、剛を守って純粋であり、修と肩を並べ、ともに諫官として色を正して列に在り、自分の過ちを言って舌を鉗めるなと述べる。
- 続いて、皇帝が聖明で忠と邪を弁別し、俊良を挙げ抜いて妖魃を掃除したこと、衆賢の進むこと茅を抜くがごとく、大姦の去ること距(けづめ)を脱するがごとくであること、上は輔弼に倚って調燮を司らせ、下は諫諍に頼って紀法を維持し、左右は正しい人ばかりで邪孽がなく、太平は十日を出ずして望めると歌う。
- さらに、皇帝は即位して二十二年、神武にして殺さず、その黙は淵のごとく、その動は天のごとく、賞罰の権を失わず、南面して己を恭しくし、姦を退け賢を進める。賢を知るは易からず明でなければ得られず、邪を去るは難く断でなければ克てぬ。明なれば二心なく断なれば惑わぬ。明にして断なるは皇帝の徳である――と歌い、群臣は畏まって足を重ね息を潜め、互いに「ただ正直であれ、邪僻をなすな、皇帝が誅する」と教え合い、諸侯は危懼して玉を落とし舄を失い、互いに「皇帝は神明だ」と告げ合い、四季の朝覲には謹んで臣職を修め、四夷は馬を走らせ鐙を落とし策を遺し、互いに「皇帝は英武だ」と告げ合って兵を解き貢を修め永く属国となる、と結ぶ。最後に、皇帝がひとたび挙げれば群臣は懾れ諸侯は畏れ四夷は服する、臣は皇帝の万千年の寿を願う、と締めくくる。
- 詩に称えられたのはいずれも一時の名臣である。その「大姦」というのは竦を指したものである。詩が出ると孫復はこれを聞いて「介の禍はここから始まった」と言った。范仲淹もまた韓琦に「この鬼怪のような手合いのせいで事が壊れる」と言った。
慶暦三年五月~九月(1043年)・呂夷簡の退場と慶暦の新政
- 五月、呂夷簡が罷免された。陝西転運使の孫沔が上書して次のように述べた。
- 夷簡が国を執って以来、忠言を退け直道を廃してまいりました。使相として許昌に出鎮したとき、王随と陳堯叟を薦めて自分の代わりとしましたが、才は凡庸で重きに堪えず、謀議は合わず、中堂で忿り争って多くの士の笑い者となり、政事は廃れました。また張士遜を台席の首に据えましたが、士遜はもともと遠識に乏しく国事を壊しました。夷簡が賢を進めず社稷の遠図を立てなかったのは、自分より劣る者を引いて自らを固める計であり、陛下に輔相の位は自分でなければ務まらぬと知らせ、また思い出して召し用いられることを期待したのです。
- 陛下は果たして夷簡を大名から召し還して朝政を執らせ、それから三年、一事も改めず、姑息を安泰とし、そしりを避けるのを智としてまいりました。西州の将帥はたびたび敗報を伝え、契丹は飽くことなくこれに乗じて賂を求め、兵は殲され貨は失われ、天下は空になりました。刺史・牧守は十のうち一人も適材を得ず、法令は変わりやすく、士民は怨嗟しております。隆盛の基が突然ここに至りました。
- 今、夷簡は病を理由に退こうとし、陛下は自ら御薬を調え、自ら徳音を書かれ、「卿の疾を朕の身に移せぬのが恨めしい」と仰せられた。四方の義士でその詔語を伝え聞いて涙を流す者がありました。夷簡は中書に二十年、三度も輔相の首に立ち、言うことで聴かれぬものなく、請うことで行われぬものなし。宋になって君の信を得た者は彼一人です。それが何をもって陛下に報いたのか分かりません。天下がみな賢と称するのに陛下が用いぬ者があるのは、左右がそしるからです。みな佞邪と言うのに陛下がご存じない者があるのは、朋党が蔽うからです。
- 近ごろ契丹と盟を復し西夏が塞に帰順して、公卿は喜んで日々和平を望んでおります。これに乗じて紀綱を振るい、廃れたものを修め、賢を選び能に任じ、用を節して兵を養えば、景徳・祥符の風がふたたび今に現れましょう。もし平然と顧みずこれで安泰とするなら、臣は土崩瓦解して救えなくなるのを恐れます。ところが夷簡は四方すでに寧く百度すでに正しいと考え、病に因って黙って去り、一言も上の心を啓き賢と不肖を弁別しようとしない。南山の竹を尽くしてもその罪は書き尽くせません。
- 書が聞こえたが帝は罪しなかった。議者はその率直さを喜んだ。夷簡は書を見て人に「元規(孫沔)の言は薬石だ。ただこれを聞くのが十年遅かったのが恨めしい」と言った。
- ここに至って蔡襄がまた「夷簡は病を得て以来、両府の大臣が笏を持ってその門で事を受けております。権勢に恋々として病んでも止まるを知りません」と言い、そこで夷簡に軍国の大事を同議させぬよう命じた。
- 秋七月丙子、王挙正が罷免された。欧陽修と余靖が「挙正は臆病で黙して事に堪えません。范仲淹には宰相の才があります。挙正を罷めて仲淹を用いられたい」と論じ、帝はもっともとした。挙正は罷めて知許州となった。
- 八月丁未、范仲淹を参知政事とした。仲淹は「執政が諫官の口利きで得られてよいものか」と言って固辞し、韓琦とともに辺境に出ることを願った。陝西宣撫使に命ぜられたが、行かぬうちにあらためて参知政事に除された。
- 帝はまさに太平に意を鋭くしてしばしば当世の事を問うた。仲淹は人に「主上の私を用いること、極まった。だが事には先後がある。久しく積もった弊は一朝一夕に改められない」と語った。帝は再度、手詔を賜り、さらに天章閣を開いて輔臣を召して条ごとに答えさせた。仲淹は退いて十事を上申した。すなわち黜陟を明らかにすること、僥倖を抑えること、貢挙を精密にすること、長官を択ぶこと、公田を均すこと、農桑を厚くすること、武備を修めること、恩信を推すこと、命令を重んずること、徭役を減らすこと。すべて採用され、令として著すべきものはみな詔書として一つ書きで頒下された。
- あらためて富弼を枢密副使としたが、弼はなお固辞した。帝は宰相に「これは朝廷が特に用いるのであって、遼に使いしたためではない」と諭させた。当時、元昊の使者が別れの挨拶に来ており、帝は紫宸殿に至って弼が枢密院の班に着くのを待って座した。弼はやむなく命を受けた。
- 帝は太平の治を輔相に責め、弼に北の事、仲淹に西の事を主管させた。弼は当世の務め十余条と「安辺十三策」を上申した。大略は賢を進め不肖を退け、僥倖を止め、宿弊を除き、監司の不才な者を次第に替えて所轄の吏を淘汰させようとするものだった。こうして小人は不快になり始めた。
- 癸丑、韓琦を陝西宣撫使とした。当時、二府が班を合わせて奏事するとき、琦は必ず言を尽くし、事が中書に属するものでもその実を指摘した。同列に不快な者があったが、帝だけはこれを認めて「韓琦は性が真っ直ぐだ」と言った。琦はかつて先にすべき七事を条陳した。政の本を清くすること、辺の計を念うこと、才賢を抜くこと、河北に備えること、河東を固めること、民心を収めること、洛邑を営むことである。続いてまた弊を救う八事を陳べた。将相を選ぶこと、按察を明らかにすること、財利を豊かにすること、僥倖を遏めること、能吏を進めること、不才を退けること、入官を謹むこと、冗食を去ることである。そして「これらを行えば、そしりが必ず伴います。どうか計を輔臣に委ね、その処置に任せられたい」と述べた。帝は嘉して容れ、そこで陝西の宣撫を命じた。
- 九月戊辰、呂夷簡が太尉として致仕した。
慶暦三年十月~十一月(1043年)・按察使と磨勘・蔭子の法
- 冬十月、張昷之・王素らを都転運按察使とした。先に知諫院の欧陽修が「天下の官吏は多く、朝廷はその賢愚善悪をすべて知る術がありません。按察の法を立て、内外の朝官・三丞・郎官の中から強幹で廉明な者を選んでこれに当て、州県に赴いて官吏をあまねく見させ、その公廉で見るべき者はみな名の下に朱書し、中程度の者は墨書し、年ごとに詳しく報告させたい」と言い、詔してこれに従った。
- 富弼と范仲淹はさらに、中書と枢密が通じて各路の転運按察使を選び、そのうえで使に自ら知州を択ばせ、知州に知県を択ばせ、任に堪えぬ者はみな罷めるよう詔することを請うた。そこで昷之らがまずこの選に当たった。昷之は河北、王素は淮南、沈邈は京東、施昌言は河東、李絢は京西である。
- 仲淹は監司を選ぶにあたり、班簿を取って見て、不才な者を一筆で消していった。弼が「一筆で消すのは容易だ。しかし一家が哭くことになるのをご存じか」と言うと、仲淹は「一家が哭くのと一路が哭くのと、どちらがよいか」と答え、ことごとく罷めた。
- 壬戌、詔して言うには――考課の法は古くからある。祥符の頃、治は昇平に至り、詔の条項はすべて寛大を旨とし、考課の最上には年限の制があり、入官には資格順の格があった。ここに至って辺境の事が起こり、いろいろな事情から、務めに応ずる才を得て素餐の道を欠かぬようにしたい。賞して勧めなければ衆の志は激せず、甄別しなければ人情は奮い立たない。項目を詳しく定めて甲令に著せ。
- そこで磨勘の法を改定した。もともと太祖の旧制では文武の常参官はそれぞれ曹の職務の閑忙で月の限を定め、考課が満ちれば昇進した。名を尋ねて実を責める道ではないとしてこれを罷め、審官院を置いて中外の職事を考課し、交代した京朝官は引見して磨勘し、労績がなければ官秩を進めないこととした。その後、文臣は五年、武臣は七年、贓罪も私罪もなければようやく官秩を進め、贓罪を犯したことがあれば文臣は七年、武臣は十年で、中書と枢密が旨を取ることとした。七階の選人は考第と資歴に過ちがないか労績があれば順に昇進し、これを循資といった。淳化四年に初めて磨勘司を置いたが、恩慶のたびに百僚の多くが順に進むことができた。真宗が即位して初めてこれを罷め、ただ郊祀の恩で勲階・爵邑を加えることを許した。
- ここに至って范仲淹と富弼は、官が多いのは磨勘によって速やかに高位に至り、それゆえ蔭を得る者が多いからだと考え、待制以上は昇進後六年、事故がなければ再び昇進し、過ちがあればさらに年を延ばし、諫議大夫までとした。京朝官は四年で磨勘し、前行の郎中までとし、少卿・監は七十員を限として欠員があれば補い、少卿以上の昇進は旨を聴くこととした。その法は旧法より初めて綿密になった。
- 十一月丁亥、詔して言うには――周の大司楽は学政を掌り、六芸で国子を教えた。それが人材を官とする道であり、おおむね世胄に本づいた。ところが今の蔭法は恩を推すこと広すぎ、遠い一族まで恩沢を蒙り、幼い者が官を授かって、身を立てる道も政に従う方法も知らぬまま仕途に列している。爵を審らかにし民を重んずる所以ではない。令として著せ。
- そこで蔭子の法を改定した。もともと太祖は任子の法を定め、台省の六品、諸司の五品で朝廷に登り、二度の任を経てから請うことができるとした。太宗の即位後、諸州の進奏者に試衘と三班の職を授け、ほどなく特に選人を七等に定め、誕聖節および三年ごとの南郊にはみな一人を奏することを許し、特恩はこれに含めないとした。これにより奏薦の恩は次第に広がった。
- ここに至って范仲淹と富弼が初めてその制を裁減した。選人は郊祀の際に銓試に赴き、受けない者は永久に選に加われないこととし、あわせて聖節の奏蔭の恩を罷めた。長子は年を限らないが、他の子や孫は必ず十五歳を超え、弟や甥は二十歳を超えてはじめて蔭を得られることとした。これにより任子の恩は減った。
慶暦四年(1044年)・讒言と失脚
- 夏、帝が執政と朋党の事を論じた折、范仲淹は「方は類をもって聚まり、物は群をもって分かれる、と申します。古来、邪も正も朝廷にあってそれぞれ一つの党をなします。要は主上がこれを鑑別されるかどうかです。まことに君子が相い朋んで善をなすなら、国家に何の害がありましょう。禁ずるには及びません」と答えた。
- 六月壬子、范仲淹を陝西河東宣撫使とした。当時、仲淹は防秋の事が近いことを奏し、「臣の参知政事を罷め、特に辺事を知らせ、安撫の名を帯びさせていただければ、辺事を管掌するに足ります」と願い出たので、この命があった。
- もともと仲淹は呂夷簡に逆らって数年放逐されていたが、陝西で兵を用いる段になり、帝はその士望の集まるところを見て抜擢して辺を護らせた。夷簡が罷免されると召し還して治を託し、中外はその功業を待ち望んだ。仲淹もまた天下を己が任とし、富弼と日夜、太平を興すことを謀った。しかし改革は段階を踏まず、規模が広大だったので、論者は喧しく行いがたいとした。按察使が出て多くを弾劾すると衆心は不快になり、任子の恩は薄く磨勘の法は厳しくなって、僥倖を求める者には不都合となった。かくて誹謗は次第に盛んになり、朋党の論はいよいよ解けなくなった。
- 先に石介は弼に書を送って伊尹・周公の事を行うよう責めていた。夏竦は介が自分を斥けたことを怨み、さらにこれに乗じて弼らを倒そうとし、女奴に密かに介の筆跡を習わせた。久しくして習得すると、「伊周」を「伊霍」に改め、さらに介が弼のために撰した廃立の詔草を偽作した。飛語が上に聞こえ、帝は信じなかったが、弼と仲淹は恐れて朝廷に身の置き所がなく、ともに西北の辺の巡察に出ることを請うたが許されなかった。折しも契丹が夏を伐つと聞き、仲淹は強く赴くことを請い、彼だけが許された。
- 仲淹は陝に赴く途中、鄭州を通った。当時、呂夷簡はすでに老いて鄭に住んでいた。仲淹が訪ねると、夷簡は何事で急に出るのかと問うた。仲淹が「しばらく両路を経略・安撫し、事が終わればすぐ戻ります」と答えると、夷簡は「君のこの行きはまさに危機を踏むもの。二度と朝に入れまい。西の事を経営するなら、朝廷にいたほうが便利だ」と言った。仲淹は驚いた。仲淹が去ると、朝廷で攻撃する者は果たしていよいよ激しくなり、帝の心も疑いを免れなくなった。
史論(羅從彦)
- 小人の権幸は畏るべきものである。仁宗の英明さと治を図る急務にもかかわらず、富弼や范仲淹らが讒間に敗れてその志を果たせなかったのはなぜか。古は人君が政を立て事を立てるとき、君臣が心を同じくし謀を同じくし、明は照らすに足り、仁は守るに足り、勇は断ずるに足り、行うのに急がず、持するのに久しくした。ゆえに小人はその私を差し挟めず、権幸はその成ったものを揺るがせなかった。慶暦の事のように、初めに鋭くして終わりを救えなかったのは、君臣の間になお至らぬところがあったのではないか。
慶暦四年八月~十一月(1044年)
- 八月、富弼を河北宣撫使とした。弼の請いに従ったものである。弼と范仲淹が去ると、石介も落ち着かず、外任を請うて濮州通判となった。
- 九月甲申、杜衍を平章事兼枢密使、賈昌朝を枢密使、陳執中を参知政事とした。衍は僥倖を裁くことに努め、内から降る指示があるたびにおおむね握り潰して実行せず、詔旨が十数通も溜まると帝の前に返した。帝はかつて欧陽修に「外の人は杜衍が内降を封じ返していることを知っているか。朕に求める者があっても、そのたびに衍が承知しないと告げてやめさせることのほうが、封じ返される数より多い」と語った。
- 執中は知青州から召し還されたが、諫官の蔡襄・孫甫らが「執中は陳恕の子ではありますが、剛愎で学がありません。もし政を任せれば天下の不幸です」と争って言った。帝は聴かず、諫官の論が止まぬので、中使に敕を持たせて青州で賜らせた。翌日、諫官が殿に上ると、帝は色を作して迎え、「陳執中を論ずるのではないか。朕はすでに召した」と言い、諫官は敢えて言えなかった。
- 十一月、朋党が互いに暴き合うことを戒め、あわせて按察がほしいままに苛刻に振る舞うこと、文人が言葉をほしいままにして奇矯に振る舞うことを戒める詔が出た。
慶暦五年正月~三月(1045年)・杜衍・仲淹・弼の罷免
- 春正月乙酉、杜衍・范仲淹・富弼が罷免され、賈昌朝を同平章事兼枢密使、宋庠を参知政事、王貽永を枢密使、呉育と龐籍を副使とした。
- 仲淹と弼が出て宣撫するようになると攻撃する者はいよいよ多くなり、二人が朝廷で行ったことも次第に阻まれた。杜衍だけがこれを助けた。衍は賢士を薦め引くことを好み、僥倖を抑えたので、群小はみな怨んだ。
- 衍の婿の蘇舜欽は蘇易簡の子で、文章をよくし、その議論は権貴をやや侵した。当時、進奏院を監していたが、先例に従って神を祀り、伎楽で賓客を楽しませた。集賢校理の王益柔は王曙の子だが、席上で戯れに傲慢な歌を作った。
- 御史中丞の王拱辰はこれを聞き、二人とも仲淹の薦めた者であり、しかも舜欽は衍の婿であるところから、これに乗じて衍と仲淹を倒そうとし、御史の魚周絢と劉元瑜にその事を弾劾させた。拱辰と張方平は状を連ねて益柔の誅を請うた。益柔に事寄せて仲淹に累を及ぼそうとしたのである。賈昌朝がひそかに拱辰らの議を主導した。
- 韓琦が帝に「益柔の狂言など深く咎めるに足りません。方平らはみな陛下の近臣で、国と休戚をともにする者です。今、西の辺で兵を用い、大事は限りないのに、一つも陛下のために論列せず、状を連ねて一人の王益柔を攻める。その意図は明らかです」と言った。帝は感じ悟ってやめ、益柔を監復州酒税に落とし、舜欽を除名するにとどめた。同席していて斥けられた者は十余人、いずれも名の知られた士だった。拱辰は喜んで「私は一網打尽にした」と言った。
- 舜欽は追放されて呉中に寓し、高僧や逸士と吟じ嘯いて自ら適した。衍も人に容れられぬことを知ってたびたび辞任を求めたが許されなかった。
- 仲淹は落ち着かず、政事を罷めることを奏請した。帝はその請いを聴こうとしたが、章得象は「仲淹はもとより虚名があります。今、一度の請いで急に罷めれば、天下は陛下が軽々しく賢臣を退けたと言いましょう。ひとまず不許を賜り、もし直ちに謝表を上げるなら、それは詐りを挟んで君に要求したことになりますから、罷めてよいでしょう」と言った。帝は従った。仲淹は果たして謝表を奉じ、帝はいよいよ得象の言を信じた。
- そこへ富弼が河北から還って国門に近づくと、右正言の銭明逸が得象らの意を迎え、「仲淹と弼は綱紀を改変して国の経を紛擾させました。推薦した者の多くは朋党を挟んでおります」と論じた。陳執中もまた衍が二人を庇っていると讒し、帝は不快になってあわせて退けた。衍は罷めて知兗州、仲淹は知邠州、弼は知鄆州となった。仲淹は病を理由に辺任の解任を求め、知鄧州に改められた。
- 二月辛卯、京朝官の保任叙遷の法を罷め、さらに磨勘と蔭子孫の新法を罷めるよう詔した。
- 三月辛酉、韓琦が罷免された。当時、范仲淹と富弼が罷めて去ったので、琦は上疏して次のように述べた。
- 陛下は杜衍を宰相に用いてわずか百二十日で罷められました。范仲淹は夏人が帰服したばかりなので自ら辺を保つことを乞い、もとより名分もあります。しかし富弼を出されたのは損なうところが甚だ大きい。
- 富弼は大節を奪いがたく、天が忠義を与えた人です。先に契丹が大兵を率いて境に迫ったとき、弼に辺への使いを命じられ、正しい弁論で強敵を屈服させ、ついに和議を回復しました。身を忘れて事を立てたのは古人にも難しいことです。近ごろ李良臣が北から帰順して、北方ではその主以下みな弼を称え羨んでいると詳しく語りました。陛下が二度、弼を枢密副使とされたとき、彼はいずれも自らの功を忘れて辞退して受けませんでした。強いて着任させると、毀誉を顧みず、動もすれば紀綱を振るい整えることを思いました。その志は陛下のために万世の業を立てようというものです。
- 近日、臣僚の多くは攻撃に努め、忠良を陥れて私憤を晴らそうとしています。国家の福ではありません。どうか陛下は久しく察していただきたい。
- 疏が入ったが取り上げられなかった。
- もともと陝西四路総管の鄭戩が静辺砦主の劉滬と著作佐郎の董士廉を遣わして水洛に城を築かせ、秦州・渭州に通じて援兵の道としようとした。知渭州の尹洙は「賊はたびたび塞を犯しますが、必ず兵を一つの道に併せます。五路の帥の戦兵は常に二万に満たないのに、賊の元昊は国を挙げての衆です。わが兵がたびたび賊に苦しめられるのは、まさに城砦が多くて兵の勢いが分かれるからです。今、理由もなく諸羌の田二百里を奪って堡を並べ師を屯すれば、座して秣と糧を消耗させ、わが兵はいよいよ分かれて辺の費用が足りなくなります」と言い、その工事の中止を奏した。
- 折しも戩が罷免されたが、滬らは従来どおり工事を督した。洙は不平に思って張忠を代わりに立てたが、滬は交代を受けなかった。洙はそこで副将の狄青に諭して滬と士廉を械に繋いで吏に下し、水洛の工事を罷めた。戩は論奏をやめず、琦は洙を是としたが、朝議は戩に味方した。結局、洙を知慶州に移し、さらに晋州に移し、滬らを獄から釈して水洛にふたたび城を築いた。琦はそこで外任を請い、知揚州として出た。
- 河東転運使の欧陽修が上疏して次のように述べた。
- 杜衍・范仲淹・韓琦・富弼については、天下がみな用いるに足る賢のあることを知っており、罷めるべき罪があるとは聞きません。
- 古来、小人が讒害するのに、その見識は遠くありません。広く良善を陥れようとすれば朋党と指し、大臣を揺るがそうとすれば専権と誣います。そもそも一人の善人を去らせても衆の善人がなお残っていれば、小人の利にはならない。ことごとく去らせようとしても、善人には過失が少ない。ただ朋党と指せば、ことごとく逐えるからです。古来、大臣が主の知遇を蒙り信任されれば、他の事では揺るがしがたい。ただ専権こそ上の憎むところで、それでこそ倒せるのです。
- そもそも正しい士が朝にあれば群邪が忌み、謀臣が用いられぬのは敵国の福です。ひそかに陛下のために惜しみます。
- 群邪はいよいよ修を忌み、事にこじつけて罪に落とし、知滁州に左遷し、洙を知潞州に移した。
- 当時、諫官の余靖や欧陽修らはすでに相次いで罷めて去っていたが、天下が賢者と目する者を執政は党と指し、みな事に乗じて斥け逐おうとした。董士廉は闕に赴いて上書し、水洛の事で洙を訴えた。詔して御史の劉湜を遣わして取り調べさせたが、他の罪は得られなかった。ただ洙は、部将の孫用が軍校から辺の官に補されたとき、京師で利息付きの銭を借りたが着任しても返せずにいたのを、その才を惜しんで公使銭を借りて返してやったことがあった。取り調べの時には銭はすでに官に納められていたが、結局これに坐して監均州酒税に貶された。
- 六月、石介が没した。介は字を守道といい、兗州奉符の人。進士に及第し、国子直講・太子中允・直集賢院・通判濮州を歴任した。魯の人は徂徠先生と称した。容貌は重厚で気は充実し、学に篤く志は大きく、田畝にあっても天下を忘れず、是を是とし非を非として憚るところがなかった。それゆえ小人が嫉んで、力を合わせて必ず死に追いやろうとした。介は安然として惑わず変わらず、「私の道はもとよりこのようなものだ」と言った。
- 十一月、京東安撫使の富弼を罷めた。当時、滁州の狂人の孔直温が謀叛して誅されたが、その家を捜索して石介の書と孫復に送った書が出た。介はすでに死んでいた。
- 宣徽南院使の夏竦は石介が自分を譏ったことを深く怨み、常に報復しようとしていたので、「介は死んだと偽っている。弼が介を遣わして契丹と結び、兵を起こさせて一路の兵馬を内応させる約束をしたのだ。介の棺を掘り返して確かめられたい」と言った。詔が兗州に下って介の存亡を調べることになった。知兗州の杜衍が官属に話すと衆は敢えて答えなかったが、掌書記の龔鼎臣が一族を挙げて介が確かに死んだことを保証すると申し出、提刑の呂居簡もまた「理由もなく棺を掘り返して、どうして後に示せましょう」と言い、状を具えて上申した。これでようやく免れた。
- そこで弼の安撫使を罷め、孫復を監虔州税に貶し、介の子孫を池州に羈管した。