宋史紀事本末交州の変(交州之變)

交州が丁氏から黎氏、さらに李氏へと移るなかで宋が二度出兵し、いずれも成功しなかった経緯。太平興国五年に侯仁宝の献策で討伐軍を出したが、仁宝は黎桓の偽降に誘われて敗死し、諸将は処刑された。宋は結局、黎桓・李公蘊と簒奪者を次々に交阯郡王に封じて容認した。熙寧九年には交州が三道から侵入して邕州を屠り、郭逵・趙卨が富良江で破って李乾德の帰順を得たが深入りせず還った。開寶六年(973年)から熙寧九年(1076年)までを扱う。

年表(8件)

太祖開寶六年五月(973年)

  • 交州の丁璉が入貢した。梁の末、交州の土豪の曲承美が中国の乱に乗じて十二州の地を占めたが、南漢が将を送って承美を捕らえ、交州節度を置いた。乾德の初め、節度使の呉昌文が死ぬと、その将の呉処玶らが位を争ったが、驩州刺史の丁部領が処玶らを破って自ら交州の帥となり、大勝王と号し、子の璉を節度使とした。ほどなく璉に位を譲った。南漢が滅ぶと璉は入貢し、璉に静海軍節度使を授けて交阯郡王に封じた。

太宗太平興国五年秋七月(980年)・侯仁宝の献策

  • 交州の丁璉とその父の部領が相次いで死に、璉の弟の璿が行軍府事を権知した。璿はまだ幼く、大将の黎桓が璿を別館に幽閉して代わりにその衆を率いた。
  • 当時、知邕州の侯仁宝は趙普の妹の夫だった。盧多遜は趙普と不和で、仁宝を邕州に出して九年も交代させなかった。仁宝はこのまま嶺外で死ぬのを恐れ、「交州は乱れており、偏師で取れます。駅伝で闕下に参り、直接その状況を申し上げたい」と上言した。帝は喜んで駅で仁宝を召そうとしたが、多遜がすかさず「交州の内乱は天が滅ぼす時です。しかし先に仁宝を召せば謀は必ず漏れ、蛮寇が事前に備えて取りにくくなります。密かに仁宝に計画を立てさせ、兵を出して長駆すれば万全です」と奏し、帝はもっともと考えた。
  • 仁宝を交州水陸転運使とし、孫全興・張濬・崔亮・劉澄・賈湜・王僎をいずれも部署として兵を率いて討たせた。全興・濬・亮は邕州から、澄・湜・僎は廉州から進んだ。
  • 黎桓はこれを聞いて使者を送り、丁璿の名で表を上げて位の継承を求めたが、帝は許さなかった。

太平興国六年三月(981年)・侯仁宝の敗死

  • 交州行営が白藤江口で賊を破り、戦艦二百を得た。ここで知邕州の侯仁宝が兵を率いて先行したが、孫全興らは花歩に兵を留めた。黎桓は偽って降ることで仁宝を誘い出し、仁宝は殺された。
  • 折しも炎暑と瘴気で兵士に死者が多く、転運使の許仲宣が報告したので、詔して軍を還した。劉澄と賈湜を軍中で斬り、全興を召還して獄に下し、ほどなく棄市した。

太平興国八年春(983年)

  • 黎桓が自ら権交州三使留後と称し、使者を送って貢を奉り、あわせて丁璿の譲位の表を上げた。帝は桓に詔して「私はしばらく璿に統帥の名を与え、卿を副の任に置きたい。もし璿に将たる才がなく、幼心のままであれば、代々世襲して長い年月を経ながら、一朝にして節鉞を捨てて士卒と同列に降るのは、道理としても穏当でなく、身の置き所もない。ならば璿の母子を一家挙げて入朝させよ。そうすればただちに制を降して卿に節旄を授ける。この二つの道のうち、いずれかをよく選べ」と伝えた。だが桓は命に従わなかった。

雍熙三年~四年(986-987年)

  • 黎桓を静海軍節度使とした。桓は重ねて表を上げ、正式に節鎮を領することを求めた。朝廷は孫全興の敗戦に懲りて兵を用いたくなかったので、これを許した。丁氏はこれによって滅んだ。
  • 雍熙四年、あらためて桓を交阯郡王に封じた。

真宗景德三年五月(1006年)

  • 交州の黎桓が死に、子の龍廷が兄の龍鉞を殺して自立した。知広州の凌策らは「桓の諸子が位を争い、衆心は離反しています。本道の兵を出して討たれたい」と言ったが、帝は桓が日ごろ職貢を修めていたので喪に乗じて伐つことを望まず、沿海の安撫使に諭させた。龍廷はふたたび入貢し、後に至忠の名を賜った。

大中祥符三年春(1010年)・李公蘊の簒奪

  • 交州の大校の李公蘊がその主の至忠を弑して自立し、留後となって使者を入貢させた。帝は「黎桓は不義にして地位を得たが、公蘊はその過ちを咎めながら自ら真似た。まことに憎むべきだ。しかし蛮俗を責めても仕方あるまい」と言い、黎桓の先例に倣って公蘊を交阯郡王に封じた。
  • 交州は公蘊以後、代々職貢を修めて絶えなかったが、たびたび辺境を掠め、その王の乾德の代についに大挙して侵入した。神宗の熙寧八年のことである。
  • 当時、朝廷はちょうど開疆を議していた。知桂州の沈起は官を溪洞に入れて土丁を集めて保伍を組ませ、また融州に強引に城砦を置き、千を数える人を殺した。交州の人が抗議したので起を罷め、知州の劉彝を代わりとした。彝は着任すると広南に駐屯する北兵を罷めて槍杖手を分けて戍らせるよう奏し、さらに副将の言を容れて安南は取れると考え、大いに戈船を修造した。交州の人が互市に来ても一切遮断し、その表疏も届かないようにした。ここに至って交州は三道に分かれて侵入した。一つは広府から、一つは欽州から、一つは崑崙関からで、欽州・廉州の二州を連続して落とし、土丁八千人を殺した。報告を受けて沈起は貶されて郢州に安置され、劉彝は除名された。

神宗熙寧九年正月~十月(1076年)・郭逵の南征

  • 春正月、交州の人が邕州を囲んだ。知州の蘇緘は力の限り拒み守ったが、外援が来ず城はついに陥ちた。緘は義として賊の手にかかることを潔しとせず、一家三十六人をみな先に死なせて屍を穴に隠し、そのうえで火を放って焼身した。城中の人は緘の義に感じ、一人として賊に従う者がなかった。そこで交州の人はその民をことごとく屠り、五万八千余口に及んだ。報告を受けて詔し、緘に奉国節度使を贈り、忠勇と諡した。
  • 二月、郭逵を安南招討使とした。当時、交州の人の露布が入手されたが、そこには「中国は青苗・助役の法を行って生民を窮乏させている。今、兵を出すのはこれを救うためだ」とあった。時の宰相は怒り、天章閣待制の趙卨を招討使として兵を率いて討たせた。だが卨は「郭逵は辺事に老練です。彼を使とし、臣はその副に」と言ったので、この任命となった。
  • 冬十月、郭逵が交阯の兵を富良江で破った。もともと逵は長沙に至ると、まず将を遣わして邕州・廉州を回復させ、自らは西に進んで富良江に至った。蛮は精兵を船に乗せて迎え撃ち、官軍は渡れなかった。趙卨は将吏に木を伐らせて攻具を作らせ、投石機の石が雨のように降って蛮の船はみな壊れた。そこで伏兵を設けて撃ち、数千級を斬り、その偽太子の洪真を殺した。李乾德は恐れて使者を軍門に遣わし、表を奉じて帰順した。
  • 当時、官兵八万は暑さを冒して瘴気の地を渡り、死者は半ばを超えていた。富良江はその国から遠くなかったが、逵はあえて渡らず、広源州・門州・思浪州・蘇茂州・桄榔県を得て還った。群臣は祝賀した。詔して広源を順州とし、乾德の罪を赦し、沈起と劉彝の釁を開いた罪を問うて随州・秀州に安置した。

史論(陳邦瞻)

  • 交州は宋の世に二度叛いた。初めは侯仁宝によって、後は沈起によってである。仁宝は死に、起は流された。辺臣が安撫に努めず事を起こすことへの戒めとするに足る。とはいえ、交州のような小者に二度も王師を煩わせながら、ついに成功しなかった。宋の振るわなさは甚だしい。