宋史紀事本末太祖、建隆以来の諸政(太祖建隆以來諸政)

宋の太祖が建隆から開寶にかけて行った内政諸策をまとめる。学を興して文治を尊び、范質ら三人を輔政に据え、毎年の貢挙を定めた。民田の測量・義倉の設置・植樹の課役で民生を図り、転対の制で言路を開き、窃盗の重刑を改めるなど刑を緩めた。人材登用では推挙連坐と食禄の家の覆試を定め、封樁庫を置いて幽燕回復の資とした。節倹と刑罰への配慮という帝の人となりも記す。建隆元年(960年)から開寶三年(970年)まで。

年表(10件)

建隆元年春正月(960年)

  • 乙卯、使者を分遣して諸州を賑恤した。
  • この月、学(国子監)を視察し、祠宇を修繕して先聖・先賢の像を塑造・描画するよう詔した。帝は自ら孔子と顔回への賛を作って座の端に書き、文臣に残りの賛を分担して作らせ、たびたび自ら視察した。帝はかつて侍臣に「私は武臣にことごとく読書させ、治世の道を知らせたい」と語った。こうして臣民は初めて文学を貴ぶようになった。
  • 帝は輔弼の人材を求め、左右に「私は范質が邸宅のほかに財産を殖やさぬと聞いた。真の宰相である」と言い、この日、范質と王溥・魏仁浦をともに輔政に任じた。旧制では宰臣が殿に上がると座を命じられて大政を議し、人事の案は疏状を出して裁可を得て執行するだけだった。だが范質らは後周の旧臣として遠慮があり、また帝の英明を憚ったので、劄子を用いて面と向かって旨を取り、退いてそれぞれ事項を書き出し、同列が署名して記録することを願い出て、許された。こうして座して論ずる礼は廃れた。
  • 庚寅、貢士の楊礪ら十九人に及第・出身をそれぞれ賜った。以来、毎年、貢挙が行われた。

建隆二年春正月~夏四月(961年)

  • 民の田を測量した。後周の世宗の末年にも官を諸州に遣わして民田を測らせたが、使者の多くが職責にふさわしくなかった。ここに至って帝は侍臣に「田を測るのは小民をいたわるためなのに、民の疲弊はかえってひどくなった。今度は人選を精密にせねばならぬ」と語り、常参官を分遣して諸州に赴かせた。
  • ほどなく州県に民の植樹を課し、長吏が春秋に巡視することを令として定めた。また義倉官を置き、収める二税ごとに一石につき別に一斗を納めさせて貯え、凶作に備えた。
  • 夏四月、郡国に前代の帝王・賢臣の陵墓を守る戸を置くよう詔した。

建隆三年二月(962年)

  • 甲午、今後は百官が五日ごとに内殿で起居し、順番に転対(一人ずつ意見を述べる)して時政の得失を指摘するよう詔した。急を要する事柄は時を問わず上奏を許し、忌諱に触れることを恐れるなと命じた。
  • 己亥、詔して言うには――王者が人の悪事を禁ずるために法令を設けるが、下に臨むには簡素を旨とし、必ず憐憫を努めねばならない。乱離の世には猛をもって糾し、人が恥を知って正しくなれば寛をもって済う。窃盗はもともと大害ではないのに、近年の朝廷は律文より重い制を立てた。これは人を愛する趣旨に大きく反する。今後、窃盗の贓が満五貫(足陌)に達した者を死刑とする。

乾德元年秋七月(963年)

  • 帝が武成王廟に行幸し、両廡を巡って白起の像を指し、「白起は降った者を殺した。武人としてはなはだ不当だ。どうして祭祀を受けてよいものか」と言い、撤去させた。

乾德二年春正月~夏四月(964年)

  • 四時参選法を行った。陶穀ら四十七人に、現任の幕職・京官の中から郡守や副佐に堪える者を一人ずつ推挙するよう詔し、任官の日には推挙者の姓名も記させた。誤った推挙で職務に支障が出れば連坐とした。
  • 夏四月丁未、賢良方正直言極諫科の策試を行い、博州判官の頴贄を採った。宋初の取士には三科があり、賢良方正直言極諫、経術優深可為師法、詳閑吏理達于教化である。内外の職官も布衣・草沢の者もみな挙に応じられ、諸州から吏部に送られて論三道の試験を受け、廷試では策一道が課された。制科に応ずる者はこの頴贄から始まった。

乾德三年八月(965年)

  • 封樁庫を置いた。帝は荊湖と西蜀を平定してその金帛を収め、別に内庫を設けて貯え、封樁と号した。年末に用度の余りがあればすべてここに入れ、軍事と飢饉の備えとした。帝はかつて近臣に「後晋の石氏は幽燕を割いて契丹に賄賂した。おかげであの一帯だけが国外に隔てられている。私はこれを甚だ憐れむ。この庫の蓄えが四、五百万に満ちたら使者を送って交渉し、もし土地を返してくれるならこれを対価としよう。応じなければ、絹二十匹で遼人一人の首を買う。彼らの精兵は十万に過ぎぬから、絹二百万匹の出費で敵は尽きる」と語った。

乾德四年三月(966年)

  • 甲辰、翰林学士と常参官に、幕職・州県および京官の中から常参官に堪える者を一人ずつ推挙するよう詔し、不適当なら連坐とした。

開寶元年三月(968年)

  • 初めて貢士の覆試(再試験)を行った。この科では進士合格者十八人が抜擢されたが、陶穀の子の邴が第六位にあった。帝は左右に「穀は子を教えられぬと聞く。邴がどうして及第できようか」と言い、中書に覆試させた。そして詔して言うには――士を選ぶのは私恩を樹てるためではない。世禄の家はもとより素業に励むべきである。聞くところでは徒党を組んで、こっそり吹き込むことが横行しているという。文衡は公器であり、私濫が許されようか。今後、挙人のうち食禄の家に関わる者はすべて中書で覆試させる。

開寶三年秋七月(970年)

  • 己巳、詔して言うには――吏員が多すぎて治めがたく、俸禄が薄くて清廉を求めがたい。冗員を抱えて費用を重ねるより、官を省いて俸を増すほうがよい。諸州県は戸口を基準として員数を減らし、旧俸に月五千を増給する。

太祖の人となり

  • 帝は孝友の性で節倹、質朴で自然に任せ、飾り立てなかった。受禅の当初はかなり微行を好んだ。軽々しく出歩くのを諫める者があると、「帝王が興るのは天命による。周の世宗は諸将のうち面長で大耳の者をみな殺したが、私は終日側にいて害されなかった」と言った。
  • かつて寝殿に座して諸門をすべて開け放たせたところ、まっすぐ見通せて遮るものがなかった。帝は左右に「これは私の心のようなものだ。少しでも曲がったところがあれば、人みなに見えるだろう」と言った。
  • ある日、朝を終えて便殿に座り、長らく不機嫌だった。左右が理由を尋ねると、「天子が容易な務めだと思うか。今朝、勢いに乗って一つ判断を誤った。それで不機嫌なのだ」と言った。
  • 宮中の葦簾の縁は青布を用い、常服は二度も洗い張りして着た。永康公主が刺繍と翡翠の羽根を貼った襦を着ていると、帝は「お前がそれを着れば、みなが真似る」と言って禁じた。公主がある日、輿を黄金で飾るよう勧めると、帝は「私は四海の富を持つのだから、宮殿を金銀で飾ることも力ずくではできる。だが私は天下のために財を守っているのだ。みだりに使ってよいものか」と言った。
  • とくに刑罰に意を用いた。かつて『尚書』の堯典・舜典を読んで「堯舜は四凶を罰するのに追放にとどめた。近代の法網はなぜこうも細かいのか」と嘆じ、そこで折杖法を定めて流・徒・杖・笞の刑を順次軽減した。開寶以来、死罪を犯しても情理がひどく悪質でない者の多くは死を免れた。ただし贓吏の棄市(汚職官吏の処刑)だけは決して許さなかった。