宋史紀事本末南漢を平定する(平南漢)

宦官の龔澄樞・李託らに政を委ね、苛斂と奢侈に耽った南漢主の劉鋹が、宋に滅ぼされるまでを記す。忠臣の鍾允章・邵廷琄を讒言で殺して国は空洞化し、開寶三年(970年)に潘美・尹崇珂の南征を受けると賀州・昭州・韶州が次々に落ち、象陣も強弩に破れた。翌開寶四年(971年)、府庫を焼いた劉鋹は降伏し、州六十を得て南漢は滅んだ。劉鋹は罪を許されて恩赦侯に封じられた。乾德二年(964年)から開寶四年までを扱う。

年表(5件)

乾德二年春正月(964年)

  • 南漢が潭州を侵したが、防禦使の潘美が撃退した。
  • 当時、南漢主の劉鋹は暗愚で気弱く、政を宦官の龔澄樞と才人の盧瓊に委ね、日々宮人や波斯(ペルシア)の女らと遊び戯れていた。宦官は七千余人に増え、三師三公の位に上る者まであった。宦者の陳延壽が「先帝が陛下に位を伝えられたのは、弟たちをことごとく殺したからです」と説いて諸王の除去を勧め、劉鋹はこれを容れて弟の桂王劉璇興を殺した。これにより上下は怨み、紀綱は大いに乱れた。
  • 内侍監の許彦真がさらに讒言して尚書右丞の鍾允章を殺させ、龔澄樞と並んで用事となり、権を争って折り合わなかった。折しも彦真が先朝の李麗姫と通じたと訴える者があり、澄樞が糾問しようとした。彦真は恐れて子と謀り澄樞を殺そうとしたが、澄樞は人を遣わして彦真の謀反を訴え、彦真は獄に下されて一族もろとも誅された。
  • 南漢主はまた李託を内太師・六軍観軍容使とした。もとより南漢主は李託の長女を貴妃、次女を美人としていたが、ここに至って国政はすべて李託に諮ってから行うよう詔した。

乾德二年九月(964年)

  • 潘美・尹崇珂が兵を率いて南漢の郴州を攻め落とした。
  • 先に南漢の内常侍の邵廷琄が南漢主に「漢は唐末の乱を承けてここに五十余年、幸い中国が多事で戦火が及ばなかったため、無事に驕っている。今や兵は旗鼓を知らず、君主は存亡を知らない。天下の乱は久しい。久しく乱れれば必ず治まる。兵備を整え、宋に使者を送って好を通じられよ」と言ったが、南漢主はぼんやりして意に介さなかった。ここに至って初めて恐れ、廷琄を招討使として洸口に屯させた。
  • 帝は郴州を得たとき、南漢の内侍余延業を捕らえ、その国政を尋ねた。延業は、その主が焼煑・剥剔・刀山・剣樹の刑を作り、罪人を虎と闘わせ象に当たらせたこと、賦斂が繁重で、城に入る邑民は一人一銭を納め、瓊州では米一斗に四、五銭を課したこと、媚川都を置いて課税し、海に五百尺潜って真珠を採らせたこと、宮殿を真珠と玳瑁で飾り、内官の陳延壽が種々の淫らな細工物を作って日に数万金を費やしたこと、宮城の左右に離宮が数十あり、行幸は月余や十日に及び、豪民を課戸として宴と犒いの費用を出させたことを詳しく語った。帝はその奢侈と苛酷に驚き、「私はこの一方の民を救わねばならぬ」と言ったが、当時は蜀の攻略を謀っていたので手が回らなかった。

乾德三年六月(965年)

  • 南漢の招討使邵廷琄は洸口に屯して宋軍に備え、逃亡者を招き集め、士卒を訓練し戦備を修めたので、国人はこれによって少し安んじた。ところが廷琄が謀反を企てるという匿名の書を投じる者があり、南漢主はこれを信じて使者を遣わし廷琄に死を賜った。士卒は軍門に押しかけて使者に廷琄に反状のないことを訴え、取り調べを求めたが許されなかった。そこで洸口に廟を立てて廷琄を祀った。

開寶三年九月~十一月(970年)・潘美の南征

  • 劉鋹が兵を出して道州を侵したので、刺史の王継勲が「鋹はほしいままに残暴を働き、たびたび辺境を侵しています。南伐を」と上言した。帝は南唐主に書を送らせて劉鋹に臣を称し、侵した湖南の旧地を返すよう諭させた。だが劉鋹は南唐の使者を囚え、駅伝で南唐主に返書して極めて無礼な言葉を並べた。南唐主がその書を差し出したので、帝は潘美を桂州道行営都部署、尹崇珂を副としてこれを討たせた。
  • 当時、南漢の旧将は讒言で誅殺された者が多く、宗室もほぼ絶え、兵を握るのは宦官数名だけだった。南漢主の劉晟以来、遊宴に耽って城壁や濠は宮館や池沼に改造され、楼船はみな壊れ、兵器も腐っていた。宋軍来襲を聞いて内外は震え上がり、龔澄樞を賀州に走らせて守禦の策を立てさせたが、前鋒が芳林に至ると澄樞は逃げ帰った。
  • 潘美は賀州を囲んだ。南漢の大臣はみな旧将の潘崇徹の起用を請うたが、劉鋹は従わず、伍彦柔に兵を率いて賀州を救わせた。潘美は彦柔の来着を知り、密かに奇兵を南郷の岸に伏せた。彦柔は夜に南郷に泊まって岸に船をつけ、夜明けに弾(弾弓)を挟んで岸に上がり、胡床に腰かけて指揮していたところ、伏兵が突如起こった。彦柔の軍は大混乱し、十中七、八が死んだ。彦柔は捕らえられて斬られ、その首は城中に示された。城はこうして落ちた。
  • 潘美は戦艦を督して、流れに乗って広州へ向かうと号した。南漢主は憂え迫って策が尽き、潘崇徹を都統として三万を率いて賀江に屯させた。だが潘美は昭州へ直進し、崇徹はただ兵を擁して自らを保つのみだった。潘美は勝ちに乗じて昭州を落とし、進んで桂州・連州を抜いた。劉鋹はこれを聞いて左右に「昭・桂・連・賀はもと湖南に属していた。北軍がこれを取ったのだから、それで足りよう。もう南へは来まい」と言った。
  • 十一月、劉鋹は李承渥を都統として十余万を率いさせ、蓮花峰の下に陣を布いた。南漢では象に陣を組ませ、一頭に十数人を乗せてみな武器を持たせ、戦のたびに陣の前に立てて軍威を示していた。潘美は強弩を集めてこれを射ると、象は奔り跳ねて乗り手は落ち、逆に承渥の軍を踏みにじった。軍は大敗し、承渥はかろうじて身一つで逃れた。
  • 潘美は進んで韶州を抜いた。韶州は南漢の北の門である。劉鋹は韶州陥落を聞いて窮し、なす術を知らず、ようやく広州の東の濠を掘らせた。諸将を見渡しても使える者がなく、宮媪の梁鸞真が養子の郭崇岳を推したので、南漢主はこれを招討使とし、大将の植廷曉とともに六万を率いて馬逕に屯して宋軍を防がせた。だが崇岳には謀も勇もなく、日々鬼神に祈るだけだった。

開寶四年二月~三月(971年)・南漢の滅亡

  • 潘美が南漢の英州・雄州を落とすと、潘崇徹はその衆を率いて降った。潘美が瀧頭に進むと、南漢主は使者を送って和を請い、進軍を緩めるよう求めたが、潘美は許さず馬逕に進み、広州から十里の双女山の下に砦を築いた。
  • 南漢主はこれを聞いて泊船十余隻に金宝と妃嬪を載せ、海に出ようとしたが、出発前に宦者の楽範が衛兵千余とともにその船を盗んで逃げた。南漢主は恐れ、左僕射の蕭漼に表を奉じさせて軍門に降を乞い、潘美はただちに漼を汴京に送らせた。
  • 南漢主は弟の保興に百官を率いて出迎えさせようとしたが、郭崇岳がこれを止めたので、再び防戦の備えをし、保興に国内の兵を率いて戦わせた。植廷曉は崇岳に「北軍は席巻の勢いで、その鋒は当たるべからざるもの。我が軍は数こそ多いが疲れ傷ついた残りだ。今、駆り立てて前進しなければ、座して滅びを受けるだけだ」と言い、自ら前軍を率いて水を背に陣し、崇岳を殿とさせた。宋軍が渡河すると廷曉は力戦したが敗れ、陣中で死んだ。崇岳は自軍の柵に逃げ帰った。
  • 潘美は諸将に「敵は竹木を編んで柵としている。篝火で焼けば必ず混乱する。そこを挟撃するのが万全の策だ」と語り、人夫に二本ずつ松明を持たせて間道から柵に近づけた。日が暮れて万の松明が一斉に燃え上がり、折しも大風が吹いて煙塵が立ちこめ、南漢軍は大敗し、崇岳は乱兵の中で死んだ。
  • 龔澄樞と李託は「北軍が来たのはわが国の珍宝が目当てだ。今すべて焼いて空城を渡せば、長く駐まりはすまい」と謀り、火を放って府庫と宮殿を焼き、一夜でことごとく灰にした。翌日、劉鋹は出て降った。潘美は入城して宗室と官属を捕らえて汴京に送った。宦者百余人が盛装して面会を求めたが、潘美は「この手の者が多すぎたのだ。私は詔を奉じて罪を討つ。まさにこの連中のためだ」と言ってことごとく斬った。あわせて州六十・県二百四十を得た。潘美に山南東道節度使を加えた。
  • 三月丙申、広南で人の男女を買って奴婢とし転売して利を得ることを禁じて解放するよう詔し、南漢の悪政で民に害あるものはすべて報告させて廃止した。
  • 劉鋹が汴京に着くと、帝は呂余慶を遣わして、その反覆と府庫を焼いた罪を問うた。劉鋹は罪を龔澄樞と李託に帰した。翌日、有司は帛で劉鋹と官僚を縛って宗廟社稷に献じた。帝は明徳門に出御し、刑部尚書の盧多遜に詔を宣べて劉鋹を責めさせた。劉鋹は「臣は十六で僭位し、澄樞らはみな先臣以来の旧人で、何事も臣の一存では決められませんでした。国にあっては臣が臣下で、澄樞が国主でした」と言い、地に伏して罪を待った。帝は大理卿の高継申に命じて澄樞と李託を午門の外で斬らせ、劉鋹の罪は許して襲衣・冠帯・器幣・鞍馬を賜り、検校太保・右千牛衛大将軍を授け、恩赦侯に封じた。
  • 劉鋹は体つきが豊かで眉目はまばら、弁が立ち、性は極めて器用だった。かつて真珠を編んで馬鞍を飾り、戯れる龍の形を極めて精妙に作って献じた。帝は左右に「鋹は工巧を好んで性となった。もしそれを治国に向けられたなら、滅亡に至っただろうか」と言った。
  • 劉鋹は在国のとき臣下に毒を盛ることが多かった。ある日、帝の講武池行幸に従い、従官がまだ集まらぬうちに先に着いた劉鋹に杯酒が賜わった。鋹は毒を疑い、泣いて「臣は祖父の基業を承けながら朝廷に逆らい、王師を煩わせました。罪はもとより誅されるべきです。陛下はすでに死を免じてくださいました。大梁の一布衣として太平の盛世を見たく、この酒はいただきかねます」と言った。帝は笑って「私は人の腹中に赤心を推し及ぼしている。そんなことがあるものか」と言い、鋹の酒を取って自ら飲み、別に酌んで鋹に賜った。鋹は大いに恥じて謝した。鋹はのち太宗の太平興国五年に没した。
  • 帝が北漢を伐とうとしたとき、禁中で近臣と宴を張った。劉鋹は進み出て「朝廷の威霊は遠くに及び、四方の僭偽の主は今日みなこの席におります。近く太原を平らげれば劉継元も来るでしょう。臣が真っ先に来朝しましたので、諸国の降王の筆頭として棒を執らせていただきたい」と言い、帝は大いに笑った。