宋史紀事本末荊湖を平定する(平荆湖)

宋が荊南の高氏と湖南(武平)の周氏を併せ、荊湖の地を平定した経緯を記す。高保融・周行逢が相次いで死んで幼弱な後継者が立ち、張文表の叛乱で周保権が宋に援けを求めたのを機に、太祖は慕容延釗・李処耘を遣わし、討伐の道を借りる形で高継冲を降し、続けて潭州・朗州を落として周保権を捕らえた。さらに辰州の猺人秦再雄を刺史に抜擢して諸蛮を懐柔した。建隆元年(960年)から乾德元年(963年)まで。

年表(4件)

建隆元年六月(960年)

  • 荊南節度使の高保融が死に、弟の保勗が跡を継いだ。保融はもともと事なかれで政務に疎く、国事はすべて母弟の保勗に委ねていた。保融の死後、保勗が軍府を権知して帝に命を請い、節度使を授けられた。

建隆三年冬十月~十二月(962年)

  • 武平節度使の周行逢が死に、子の保権が継いだ。時に十一歳。
  • 十一月、荊南節度使の高保勗が死に、兄の保融の子である継冲が継いだ。
  • 先に周行逢は病が重くなると将校を召し、子の保権を託して「領内の凶悪な者はほぼ誅した。残るは張文表だけだ。私が死ねば文表は必ず乱を起こす。諸君はわが子をよく輔けて領地を失うな。やむを得なければ一族を挙げて朝廷に帰し、虎口に落ちるな」と言い残した。
  • 保権が跡を継ぐと、文表は怒って「私は行逢とともに微賤から起こって功名を立てた。今さら小僧に北面して仕えられようか」と言った。
  • 十二月、保権が永州の守備を交代させる兵を送り、その道が衡陽を通ったのを機に、文表はその兵を駆り立てて潭州を襲った。知留後の廖簡は日頃から文表を侮って備えを設けず、文表の兵が府中に入ったとき、廖簡は宴で酔っており殺された。文表は潭州を占拠し、さらに朗陵を取って周氏を滅ぼそうとした。保権は楊師璠を派して討たせ、あわせて宋に援けを求めた。
  • 先に帝は盧懐忠を荊南に遣わし、「江陵の人心の向背と山川の様子をすべて知りたい」と命じていた。懐忠は帰って「高継冲は兵備こそ整っているが弓を引ける兵は三万に満たず、作柄はよいが民は重い取り立てに苦しんでいる。南は長沙に近く、東は建康に隔たり、西は巴蜀に迫られ、北は朝廷に仕え、日々余裕がない。取るのは易い」と報告した。
  • 周保権の使者が来ると、帝は范質らに「江陵は四分五裂の国だ。今、湖南に出兵する名目で荊渚に道を借り、ついでに平定するのは万全の策である」と語った。

乾德元年春正月~三月(963年)

  • 庚申、慕容延釗を都部署、枢密副使の李処耘を都監とし、十州の兵を率いて継冲に道を借り、張文表を討たせた。到着する前に、楊師璠がすでに平津亭で文表を破り、捕らえて肉を切り裂いて食い、首を朗陵の市に晒していた。
  • 李処耘が襄州に至り、丁德裕を高継冲のもとに遣わして趣旨を伝えた。孫光憲は継冲に「中国は後周の世宗の時からすでに天下統一の志があった。今の宋主は規模が宏遠だ。早く領土を差し出せば禍を免れ、公も富貴を失うまい」と説いた。継冲は叔父の保寅を遣わし、牛と酒を持たせて荊門で宋軍を犒わせた。処耘が手厚くもてなしたと聞いて、継冲は憂いなしと考えた。
  • その夕、延釗は保寅を帳中に招いて宴を張り、その間に処耘は密かに軽騎数千を倍速で先行させた。継冲は保寅の帰りを待つばかりだったところ、突然宋軍到着の報を聞いて慌てて出迎え、江陵の北十五里で処耘に遇った。処耘は継冲に会釈して延釗を待つよう言い、自らは親軍を率いて先に入城した。継冲が戻ったときには宋軍はすでに要衝を分け押さえていた。
  • 継冲は大いに恐れ、領内三州十六県の戸籍を差し出し、客将の王昭済を遣わして表を奉り帝に納めた。帝はこれを受け、王仁贍を荊南都巡検使とし、継冲には荊南節度使を従前どおり授けた。高氏の親族や僚佐にもそれぞれ官を拝し、孫光憲を黄州刺史とした。
  • 三月戊寅、延釗は進んで潭州を落とし、朗州へ向かおうとした。保権の牙将の張従富らは、文表はすでに誅されたのに宋軍が進撃をやめないので襲われるのを恐れ、ともに拒み守った。延釗は到着したが入れず、帝は使者を送って諭したが従わず、澧江で迎撃してきたのでこれを破った。
  • 李処耘は捕虜のうち肥えた者数十人を選んで左右に食わせ、若く壮健な者には黥を入れて先に朗州へ入らせた。黥された者が城中で「捕らわれた者は宋軍に食われた」と語り、聞く者はみな恐れて潰走した。延釗は長駆して城を落とし、張従富を捕らえて殺した。
  • 大将の汪端は保権とその家族を奪って長江南岸の僧寺に隠れたが、処耘が田守奇に渡河させて捕らえ帰った。帝は保権の罪を許して右千牛衛上将軍とした。汪端はなお衆を擁して掠奪したので、宋軍が撃ち殺した。湖南はことごとく平定され、州十四・監一・県六十六を得た。帝は戸部侍郎の呂余慶を潭州の権知とした。

辰州の鎮撫

  • 湖南の辰州は唐では錦・溪・巫・叙の四郡に分かれていたが、唐末に蛮族の酋長が分割して割拠し、それぞれ険阻に拠って自ら固め、時おり出て掠奪した。湖南を平定した帝は、蛮情に通じ地勢に慣れ、沈勇で智謀ある者を得て鎮撫させたいと考えた。
  • 辰州の猺人である秦再雄は武勇に長け奇略があり、蛮族の間で畏れ服されていた。帝は汴京に召してその器量を見極め、刺史に抜擢し、属吏を自ら選ぶことと租賦を与えることを許した。再雄は恩に感じて死をもって報いると誓い、着任すると兵を訓練して三千人を得た。いずれも甲を着けて水を渡り山を越え、猿のように塹を飛び越えられた。さらに親しい部下二十人を選んで諸蛮に遣わし、朝廷が懐柔しようとしていることを伝えさせると、みな風になびくように従い、それぞれ降表を得て報告した。以後、荊湘に辺境の患いはなくなった。