宋史紀事本末兵権を収める(收兵權)

宋の太祖が趙普の献策を容れ、五代以来の武人跋扈の根を断つべく兵権と藩鎮の権を中央に収めていく過程を記す。石守信・王審琦らの禁兵統率を杯酒の談笑で解き、王彦超ら藩鎮の節鎮も解いたうえ、文臣を知州に任じ、通判・転運使を置いて行政・司法・財政の権をことごとく朝廷に帰した。あわせて辺境には李漢超・董遵誨ら将を厚遇して配し、西北を安んじた。建隆二年(961年)から乾德年間までを扱う。

年表(7件)

建隆二年閏三月(961年)

  • 慕容延釗を山南東道節度使とした。帝の受禅時、延釗は重兵を率いて真定に屯し、韓令坤は北辺を巡っていたが、帝の使者の意を受けて便宜行事を許され、二人とも従ったので、延釗に殿前都点検、令坤に侍衛指揮使を加えていた。ここに至って延釗は真定から入朝し、令坤も李重進討伐から還り、ともに節度使に転じた。以後、殿前都点検の職は任命されなくなった。

建隆二年秋七月(961年)・杯酒釈兵権

  • 侍衛都指揮使の石守信らの禁兵統率を解いた。石守信・王審琦らはいずれも帝の旧知で、功があって禁衛兵を握っていた。趙普がたびたびこれを問題にしたが、帝は「彼らが私に叛くはずはない。なぜそこまで憂えるのか」と言った。趙普は「臣も叛くとは思いません。ただ彼らはいずれも統御の才ではなく、部下を抑えきれません。軍中に事を起こす者が出れば、その時になって彼ら自身も自由にはなりますまい」と答え、帝は納得した。
  • ある日、帝は趙普と天下のことを論じ、嘆息して「唐末以来数十年、八姓十二君が次々に位を簒い、戦乱が絶えず民は塗炭に苦しんだ。天下の兵を息め、長久の計を立てたいが、どうすればよいか」と問うた。趙普は「節鎮の権が重すぎるのです。少しずつその権を奪えば天下は自ら安んじます」と答え、帝は「もう分かった、それ以上言うな」と言った。
  • ほどなく帝は晩朝の後に石守信らと酒を酌み、左右を退けて「そなたたちがいなければ今日はない。だが天子というのも難儀なもので、節度使の気楽さには及ばない。私は一晩とて安眠したことがない」と言った。理由を問われると「難しい話ではない。この位を欲しがらぬ者があろうか」と答えた。守信らが頓首して「天命はすでに定まりました。誰が異心を抱きましょう」と言うと、帝は「そなたたち自身はそうでも、部下が富貴を望んだらどうする。ある日そなたに黄袍を着せたら、拒もうとしても拒めまい」と言った。
  • 守信らが泣いて謝し、生きる道を示してほしいと願うと、帝は「人生は白駒の隙を過ぐるがごとし。富貴を好むのは、金銭を蓄えて存分に楽しみ、子孫に貧しい思いをさせぬためにすぎない。兵権を手放して大藩に出、良い田宅を求めて子孫の永代の基とし、歌姫舞姫を置いて日々酒宴を楽しみ天寿を全うしてはどうか。そのうえ私はそなたたちと婚姻を結ぼう。君臣互いに疑わず、上下相安んずるのは善いことではないか」と説いた。守信らは「死者を生かし白骨に肉を付けるようなお言葉」と謝した。
  • 翌日、みな病と称して兵権の返上を願い出、帝は許した。守信を天平節度使、高懐德を帰徳節度使、王審琦を忠正節度使、張令鐸を鎮寧節度使、趙彦徽を武信節度使とし、いずれも宿衛を解いて任地に赴かせ、賜与は手厚かった。石守信だけは兼職がそのままだったが、実際には兵権はなかった。
  • その後、帝が天雄節度使の符彦卿に禁兵を統率させようとすると、趙普は「彦卿は名位すでに高い。さらに兵権を委ねてよいものか」と諫めた。帝が「私は彦卿を厚遇している。裏切るはずがない」と言うと、趙普は「では陛下はなぜ周の世宗に背けたのですか」と返した。帝は黙し、この話は沙汰止みとなった。
  • しばらくして王彦超ら諸藩鎮が入朝した。帝は後苑で宴を設け、酒が回ると「そなたたちは国家の宿老で、久しく重要な鎮に臨み職務に忙殺されている。賢者を優遇する私の本意ではない」と語りかけた。彦超は意を察してただちに「臣にはもともと勲労もなく、久しく栄寵を受けてまいりました。今や衰えました。骸骨を乞い、故郷に帰りとうございます」と奏した。ところが安遠節度使の武行德、護国節度使の郭従義、定国節度使の白重賛、保大節度使の楊廷璋は、競って自分の戦功と履歴の苦労を述べ立てた。帝は「それは前代のことだ。論ずるに足りぬ」と言い、翌日みな節鎮を解いて朝請奉仕の身とした。

史論(胡一桂)

  • 太祖は唐末以来民が塗炭に苦しんだ根源を深く考え、藩鎮を処理し兵権を収める道を心得ていた。杯酒の間の談笑で石守信らの兵権を解き、後苑の宴で王彦超らの節鎮を解いた。こうして宿衛と藩鎮という除きがたい痼疾が、一朝にして解けたのである。

乾德元年春正月(963年)

  • 初めて文臣を知州に任じた。五代の諸侯は強盛で朝廷は制御できず、鎮を移して交代させるたびに近臣を遣わして趣旨を伝え、兵を出して備えてもなお詔に従わぬ者があった。帝の即位当初、異姓王や相印を帯びる者は数十人を下らなかった。ここに至り趙普の策を用い、次第にその権を削った。死去・転任・致仕・他職の遥領などの機会を捉え、みな文臣で代えていった。

乾德元年夏四月(963年)

  • 諸州に通判を置くよう詔した。軍民の政をすべて統べ、事は長官を通さず直接上申でき、長官と対等の礼をとる。大州には二員を置くこともあった。また節鎮の管する支郡はすべて京師に直属させ、自ら奏事できて藩鎮に属さないこととした。ここに節度使の権が初めて軽くなった。
  • 当時、符彦卿が久しく大名に鎮して専恣で法を守らず、属邑がよく治まらなかったため、とくに常参官の中から有能な者を選んで赴任させた。以後これが恒例の制度となった。

乾德三年三月(965年)

  • 初めて諸路に転運使を置いた。唐の天寶以来、藩鎮は重兵を屯し、租税収入をすべて自らの費用に充てて「留使」「留州」と称し、上供する分はごくわずかだった。五代には藩鎮がいよいよ強くなり、部曲に場務(税の徴収機関)を主宰させて厚く取り立てて私腹を肥やし、貢納はわずかだった。帝はもとよりこの弊を知っていた。趙普の進言により、諸州は支度の経費を除く金帛をすべて汴都に送り、留め置くことを禁じた。藩鎮の帥が欠けるたびに文臣に権知させ、所在の場務も管させ、一路の財は転運使に掌らせた。節度使・防禦使・団練使・観察使および刺史は、金穀の帳簿に署名することもできなくなった。こうして財利はすべて中央に帰した。

乾德三年八月(965年)

  • 諸道の兵を選んで禁衛に補充した。先に帝は殿前・侍衛の二司にそれぞれ管下の兵を閲し、驍勇な者を上軍に昇らせていた。ここに至って諸州の長吏に本道の兵から驍勇の者を選んで都下に送らせ、禁旅の欠員に充てた。また強壮な兵を選んで「兵様」(基準となる見本)と定め、諸道に分け送って募兵と訓練を行わせ、精練の域に達したら都に送らせた。さらに更戍法を立て、禁軍を分けて辺城の守備に出し、往来の道中で労苦に慣れさせ、負担を均した。これにより将は兵を私有できず、士卒も驕り怠らなくなった。いずれも趙普の謀である。
  • 帝は宰臣に「五代の諸侯は跋扈し、法を枉げて人を殺す者があっても朝廷は捨て置いて問わなかった。人命は至って重い。藩鎮への姑息な扱いがこれでよいものか」と語り、以後は諸州が死刑を決したら記録を奏上させ、刑部に詳しく再審させることとした。
  • 帝はまた趙普に、文臣で軍事の才ある者を問うた。趙普が左補闕の辛仲甫を挙げると、帝はこれを四川兵馬都監に用い、趙普に「五代の方鎮は残虐で民は禍を受けた。今、私は事務に有能な儒臣百余人を用いて大藩を分治させている。たとえみな貪濁であっても、武臣の十分の一にも及ぶまい」と語った。

史論(吕中)

  • 天下が四分五裂したのは方鎮が土地を専らにしたためであり、干戈が絶えなかったのは兵を専らにしたためであり、民が重い賦役に苦しんだのは利を専らにしたためであり、苛酷な刑法に苦しんだのは殺を専らにしたためであり、朝廷の命令が天下に行われなかったのは方鎮が世襲したためである。太祖と趙普は先を見通して弊の源がここにあると見抜き、文臣を知州に、朝官を知県に、京朝官を財賦の監臨に当て、さらに転運使と通判を置いて、次第にその権を収めた。朝廷は一紙を郡県に下せば、身が腕を、腕が指を使うように意のままとなり、渋滞もなくなって天下の勢いは一つになった。

乾德年間・辺将の配置(965年前後)

  • 帝は方針を定めて宿将の兵柄をことごとく収め、藩鎮の権を削るとともに、将を辺境の守りに配することにとくに意を用い、要領を得た。趙賛を延州に、姚内斌を慶州に、董遵誨を環州に、王彦昇を原州に、馮継業を霊武に置いて西夏に備え、李漢超を関南に、馬仁瑀を瀛州に、韓令坤を常州に、賀惟忠を易州に、何継筠を棣州に置いて北狄を拒ませ、さらに郭進に西山を扼させ、武守琪を晋州に、李謙溥を隰州に、李継勲を昭義に置いて太原(北漢)に備えた。
  • 京師にいるその家族を手厚く撫し、任地の専売の利をすべて与えて自由に交易させ、通過する関税も免じ、驍勇の者を募って手足とすることを許した。軍中の事は便宜に任せ、入朝すれば必ず召して座を与え、飲食を賜り、賜与も格別だった。こうして辺将はみな財に富み、決死の士を養って間諜とし、蕃情を知り尽くした。侵入があれば必ず事前に察知して備え、伏兵で襲って勝つことが多かった。以後数年、西北の憂いがなく、力を尽くして東南の荊湖・川広・呉楚の地を取ることができた。
  • 李漢超が関南にいたとき、その民が「漢超に娘を無理に妾にされ、金を借りて返してもらえない」と訴えた。帝は訴人を召し、「お前の娘は誰に嫁げるのか」と問うと「農家です」と答えた。「漢超が関南に来る前、契丹はどうだったか」と問うと「毎年侵略に苦しみました」、「今もそうか」と問うと「ありません」と答えた。帝は「漢超は私の重臣だ。お前の娘がその妾になるのは、農婦になるよりよいではないか。それに漢超が関南にいなければ、お前の家は財産を保てたか」と責めて帰らせた。そのうえで密かに漢超に「すぐ娘と借金を返せ。今回は許すが二度とするな。入用が足りぬなら、なぜ私に言わぬのか」と諭した。漢超は感泣し、以後いよいよ政治に励んで吏民に愛された。
  • 董遵誨の父の宗本は後漢に仕えて随州刺史だった。帝が微賤の頃、漢東を遊歴して宗本を頼ったが、遵誨は父の威を借りて帝を侮った。ある日、遵誨は「城上に蓋のような紫雲が見え、また高台に登って百尺余りの黒蛇に遇う夢を見た。蛇はやがて龍と化して東北に飛び去り、雷電が伴った。これは何の兆しか」と帝に問うたが、帝は答えなかった。後日、兵を論じて遵誨は理に窮し、衣を払って立ち去った。帝は宗本に別れを告げて去り、以後、紫雲は次第に散ったという。
  • 即位後、帝は遵誨を召して「昔の紫雲と黒龍の話を覚えているか」と諭した。遵誨は恐れ入って再拝した。まもなく部下の兵が遵誨の不法十余件を訴え、遵誨は罪を待って死を請うたが、帝は「私は今、過ちを赦し功を賞そうとしている。旧悪など思うものか」と言った。遵誨の母は幽州にあって離ればなれだったが、帝は辺民に厚く賞を出して母を引き取らせ、さらに手厚く賜与した。ここに至って環州・夏州に近い辺地の通遠軍使に任じた。遵誨は着任すると諸族の酋長を召して朝廷の威徳を諭し、みな喜んで従った。数か月後、また辺境を侵す者があると、遵誨は兵を率いてその地に深く入り、多くを捕らえ斬り、羊馬数万を得て、夷落は鎮まった。

史論(陳邦瞻)

  • 宋の太祖と群臣は五季の「尾大」(末端が強すぎる)の禍に懲り、節帥の兵柄をことごとく収めたうえで征伐を天子から発するようにした。時勢を見抜いて断ずるに巧みな、英主の雄略というべきである。しかしその将の用い方を見れば、猜疑して人に権を与えぬ君主だったとは言えまい。後世の子孫はこの意を深く考えず、ただ杯酒釈兵権のみを美談とした。南渡の後には奸臣がなお前例に託して三大帥の兵を罷め、仇敵と和を結ぶに至った。これは太祖・趙普の謀が誤らせたのだろうか。ただし当時は君主の勢いを強めることに努めて矯正が行き過ぎ、兵も財も京師に集まって藩屏が日々削られたため、君主の勢いは強くとも国の勢いはかえって弱くなった。これもまたその遺害でないとは言えない。