宋史紀事本末太祖、周に代わる(太祖代周)

後周の禁軍を握っていた趙匡胤が、北漢・契丹侵入の報を受けた出征の途上、陳橋駅で将士に黄袍を着せられて擁立され、汴京に還って禅譲を受け宋を建てるまでと、その後の旧臣の抵抗を鎮める過程を記す。昭義節度使の李筠、淮南節度使の李重進が相次いで挙兵したが、いずれも帝の親征によって半年ほどで潰え、焼身して果てた。建隆元年(960年)の即位から、恭帝が房州に移される建隆三年(962年)までを扱う。

年表(4件)

後周顯德六年~宋建隆元年正月(959-960年)・陳橋の兵変

  • 顯德六年十一月、鎮州・定州から北漢が契丹兵を率いて侵入するとの報告が届いた。
  • 建隆元年正月辛丑朔、殿前都点検・検校太尉・帰徳節度使の趙匡胤が迎撃に向かうことになり、殿前副都点検の慕容延釗が前軍を率いて先行した。幼主のもとで人心が定まらず、朝廷内外では密かに匡胤を担ごうという空気があった。都では「出征の日に点検を天子に立てる」との噂が広まり、民は逃げ隠れの算段をしたが、宮中だけは何も知らずに平穏だった。
  • 癸卯、本隊が出発。天文に通じるとされた軍校の苗訓が、太陽の下にもう一つ黒い光を帯びた日輪が重なって揺れる現象を長く眺め、匡胤の側近の楚昭輔に「これは天命だ」と示した。
  • その夜、陳橋駅に宿営した将士が「主上は幼弱で、我々が死力を尽くして敵を破っても誰も知らない。先に点検を天子に立て、それから北征しても遅くない」と語り合った。都押衙の李処耘がこれを匡胤の弟で供奉官都知の匡義と、帰徳掌書記の趙普に伝え、二人は諸将を配置して夜明けを待たせ、牙隊軍使の郭延贇を都へ走らせて殿前都指揮使の石守信と都虞候の王審琦に報せた。二人はもとより匡胤に心を寄せていた。
  • 甲辰の夜明け、将士が匡胤の寝所に押しかけた。匡義と趙普が帳中に入って告げると、酒に酔って寝ていた匡胤は起き上がり、庭には刃を抜いた将校が並んで「諸将に主がない。太尉を皇帝に立てたい」と迫った。返答する間もなく黄袍が着せられ、一同は拝して万歳を唱え、馬に乗せて汴京へ帰った。
  • 匡胤は途中で手綱を引き、「富貴を望んで私を立てたのなら、私の命令に従えるか。さもなくば主にはなれぬ」と言った。将士が下馬して従うと誓ったので、太后と主上を犯さぬこと、公卿を侵さぬこと、市街や府庫を掠奪せぬことを命じ、隊列を整えて進んだ。
  • 乙巳、汴京に入る。先に楚昭輔を遣わして家族を安んじ、客省使の潘美に執政への通告をさせた。早朝の朝議中に変を聞いた范質は王溥の手を握り「あわてて将を出したのは我々の罪だ」と言い、爪が食い込んで血が出るほどだった。侍衛親軍副都指揮使の韓通は宮中から急ぎ帰って兵を集め防ごうとしたが、軍校の王彦昇に追われ、自邸の門を閉める間もなく殺され、妻子も死んだ。
  • 匡胤は明徳門から入り、兵を営に帰らせて自分は役所に退いた。将士に連れられた范質らと対面すると涙を流し、「世宗の厚恩を受けながら大軍に迫られてこうなった。天地に恥じる」と述べた。列校の羅彦瓌が剣を抜いて「我々に主がない。今日必ず天子を得る」と叫び、王溥がまず階を下りて拝し、范質もやむなく拝した。
  • 崇元殿での禅譲の儀となったが、日暮れになっても禅位の詔がない。翰林承旨の陶穀が袖から取り出した文をそのまま用いた。匡胤は北面して受け、殿に上って皇帝の位に即いた。周主を鄭王とし、符太后を周太后として西宮に移した。
  • 同じ乙巳の日に大赦し、改元。鎮していた帰徳軍が宋州にあったことから国号を宋とした。使者を諸国・藩鎮に遣わし、官爵を進めた。国運は火徳と定め、赤を尚び、臘は戌の日を用いることとした。
  • 帝は涿郡の人。四代前の趙朓は唐の幽都令、その子の珽は唐の御史中丞、珽の子の敬は涿州刺史、敬の子の弘殷は後周の検校司徒・岳州防禦使。弘殷が杜氏を娶り、洛陽の夾馬営で帝を生んだ。赤い光が家を巡り、異香が一晩消えなかったという。成長すると容貌は雄偉で度量が大きく、非凡と見られた。後周に仕えて東西班行首から累進して殿前都指揮使となり、六年にわたって軍政を握った。世宗の征伐にたびたび従って功を重ね、人望が集まった。世宗はかつて文書袋の中から三尺余りの木片を得たが、そこに「点検作天子」とあった。当時の殿前都点検は張永德で、世宗は匡胤を代わりに任じ、結局これが周に代わる縁となった。華山の隠士陳摶は帝が周に代わったと聞き、「天下はこれで定まる」と言った。ほどなく鎮州から北漢兵が引き揚げたとの報が入った。
  • 戊申、周の馬歩親軍副都指揮の韓通に中書令を追贈し、礼をもって葬ってその忠を顕彰した。韓通を勝手に殺した王彦昇を処罰しようとしたが、建国の初めということで群臣が助命を乞うた。帝はなお怒り、彦昇は生涯節鉞(節度使の地位)を得られなかった。
  • 辛亥、擁立の功を論じ、石守信を侍衛親軍馬歩軍副都指揮使、高懐德を殿前副都点検、張令鐸を馬歩軍都虞候、王審琦を殿前都指揮使、張光翰を馬軍都指揮使、趙彦徽を歩軍都指揮使とし、いずれも節鎮を兼ねさせた。ほかの領軍者も昇爵した。当時、慕容延釗は重兵を率いて真定に、韓令坤は兵を率いて北辺を巡っていたが、帝の使者の意を受けて便宜行事を許され、二人とも従った。延釗を殿前都点検、令坤を侍衛都指揮使に加えた。
  • 乙卯、弟の匡義を殿前都虞候とし、名を光義と改めさせた。趙普を枢密直学士とした。
  • 四親廟を立て、高祖の朓を僖祖文献皇帝、曾祖の珽を順祖恵元皇帝、祖父の敬を翼祖簡恭皇帝とし、その妃はみな皇后とし、父の弘殷を宣祖昭武皇帝とした。四孟月と季冬の五度の享祭、朔望の薦食・薦新、三年に一度の祫、五年に一度の禘(孟夏)を制度として定めた。

建隆元年夏四月~六月(960年)・李筠の挙兵

  • 癸巳、後周の昭義節度使李筠が挙兵した。帝は即位後、使者を送って李筠に中書令を加えたが、潞州に至った使者を李筠は拒もうとし、賓客の諫めで一応受け入れた。だが酒席の途中で後周太祖の画像を壁に掛けて泣き止まず、賓佐は慌てて「酔って常性を失っただけ」と使者に取り繕った。
  • 北漢主の劉鈞はこれを聞いて蠟書を送り、共同の挙兵を持ちかけた。李筠の長子守節は泣いて諫めたが聞き入れられない。帝は自筆の詔で慰撫し、守節を皇城使として召したうえ帰らせ、「私が天子でなかった時はお前が好きにすればよかった。今や天子となったのに、少しは譲れないのか」と伝えさせた。守節が伝えると李筠はついに挙兵し、幕府に檄を作らせて帝の罪を数え、監軍の周光遜らを捕らえて北漢に送り援軍を求めた。また人を遣わして澤州刺史の張福を殺し、その城を占拠した。
  • 従事の閭丘仲卿は「孤軍での挙兵は危うい。河東(北漢)を頼っても力にならない。大梁の兵は精鋭で正面から争いにくい。西に太行を下り懐州・孟州に至り、虎牢を塞ぎ洛邑を押さえて東に向かって天下を争うのが上策だ」と説いたが、李筠は用いなかった。
  • 北漢主は自ら兵を率いて李筠のもとに赴いた。李筠は太平駅で出迎え、「後周太祖の恩を受けた身、死を惜しまない」と述べたが、北漢は後周と世讐であるため北漢主は不快となり、宣徽使の盧賛を監軍に付けた。李筠は北漢兵が弱小なうえ監軍まで来たことを悔い、方針がしばしば食い違った。守節に潞州を守らせ、自らは南下した。北漢主は盧賛と李筠の不和を聞き、平章事の衛融を送って和解させた。
  • 帝は石守信・高懐德・慕容延釗・王全斌に分道して討たせ、「李筠を太行から下らせるな。急ぎ隘路を扼せば必ず破れる」と命じた。守信らは長平で李筠軍を破った。
  • 六月辛未、帝は自ら大軍を率いて出征。山路が険しく石が多いので、帝が馬上に数個の石を背負うと将士が争って石を運び、その日のうちに大道が開けた。守信らと合流して澤州の南で李筠軍を大破し、盧賛を殺した。李筠は澤州に籠もり、帝は自ら督戦して柵で囲んだ。大将の馬全義が決死の兵数十人を率いて城壁をよじ登り、城に入った。李筠は火に飛び込んで死んだ。
  • 捕らえられた衛融は死を求めた。帝が怒って鉄撾で頭を打ち、血が顔を覆っても「臣は死に場所を得た」と叫んだので、帝は「忠臣だ」として釈し、大府卿とした。北漢主は恐れて兵を引き揚げた。帝は潞州に進み、守節が城ごと降った。帝は罪を許して単州団練使とした。

建隆元年秋七月~十一月(960年)・李重進の挙兵

  • 七月、帝は潞州から還り、大梁を東京、洛陽を西京とした。
  • 己未、後周の淮南節度使李重進が揚州で挙兵した。重進は後周太祖の甥で、帝とともに周室に仕えて兵権を分け持ち、常に帝を憚っていた。帝は即位後、重進に中書令を加えて青州に移そうとしたが、重進はいよいよ不安となり異心を抱いた。
  • 李筠の挙兵に際し、重進は腹心の翟守珣を潞州に送って密かに結ぼうとした。守珣はもとより帝を知っており、ひそかに京師に赴いて拝謁した。帝が「重進に鉄券を賜れば信じるか」と問うと、守珣は「重進に帰順の志はない」と答えた。帝は守珣に厚く賜与し、重進を説いて謀を遅らせ、二つの乱が同時に起きて兵力が分散するのを避けよと命じた。守珣は帰って重進に軽挙を諫め、重進はこれを信じた。
  • のち帝が六宅使の陳思誨を遣わして鉄券を賜ると、重進は身支度して思誨とともに汴京に赴こうとしたが、側近に止められて決しかねた。さらに周室の近親である自分は無事では済むまいと考え、思誨を拘束し、城を修め兵を整え、南唐に援けを求めた。南唐主はこれを帝に報告した。
  • 帝は石守信・王審琦・李処耘・宋偓らを分道して討たせ、趙普は帝の親征を勧めた。
  • 冬十月、帝は汴京を発ち、十一月丁未に広陵に至って即日これを抜いた。城が陥ちる直前、左右が陳思誨を殺そうとしたが、重進は「一族もろとも焼け死ぬのに、こんな者を殺して何になる」と言い、一家すべてで焼身した。思誨も死んだ。帝は入城して共謀者数百人を誅し、揚州は平定された。

史論(史臣)

  • 韓通は宋がまだ禅譲を受けていない時点で死んだのだから、その忠義の志は明白である。李筠・李重進を旧史は「叛」と書くが、叛かどうかは簡単には言えない。洛邑のいわゆる「頑民」も殷にとっては忠臣ではなかったか。「三人は唐・晋・漢にも臣従したではないか」と言う者があるが、それなら智氏に報いた豫譲もそうではないか。

建隆三年冬十月(962年)

  • 鄭王宗訓を房州に移した。王はのち開寶六年の春に亡くなり、恭帝と諡された。