宋史演義第九十七回 孤城を援け連ねて二将を喪う/大憝を寵し誤りを十年に貽す (援孤城連喪二將 寵大憝貽誤十年)
忽必烈の内乱平定と襄陽攻略の開始
忽必烈は阿里不哥の反乱を鎮圧し、燕京に遷都して至元と改元。数年後、征南都元帥阿朮と劉整に襄陽攻略を命じた。
榷場開設という失策と襄陽包囲
呂文德は蒙古の贈賄に応じて襄陽外に交易場(榷場)の設置を許可したが、これが蒙古軍の築城拠点となり、弟の呂文煥の警告も聞かず対応を誤った。翌年、蒙古軍は白河口から進軍し襄陽を包囲した。賈似道は戦況を隠蔽し続け、右丞相葉夢鼎も政治介入に憤って辞職した。
蒙古軍の増強と宋軍の敗退
史天澤らが襄陽を厳重に包囲し、援軍の張世傑・夏貴・范文虎も相次いで撃退された。范文虎の臆病な指揮ぶりが特に強調される。
呂文德の死と范文虎の専横
呂文德は失策を悔いつつ病死し、婿の范文虎が要職に就いた。范文虎は賈似道に取り入り、李庭芝の指揮を受けない特権を得て、実戦を怠り遊興に耽った。賈似道自身も蟋蟀賭博に興じ、欽使の来訪すら後回しにするなど朝政を顧みなかった。無実の女官を讒言で死に追いやる事件も起きた。
張貴・張順の決死の救援
李庭芝は張順・張貴の率いる決死隊に襄陽への補給を試みさせ、激戦の末に襄陽入城を果たした(張順は戦死し、遺体が甲冑姿のまま浮流するという奇談が残る)。張貴は再度の脱出・救援要請に及んだが、味方の裏切りにより蒙古軍に捕らえられ落命した。
樊城の陥落と襄陽の孤立
咸淳九年、包囲五年に及んだ襄陽と樊城のうち、樊城がまず陥落し、守将范天順・牛富らが殉節した。賈似道は出陣を渋り、結局朝廷にとどまった。
呂文煥の降伏
砲撃と説得により追い詰められた呂文煥は、蒙古将阿里海涯の誠意ある招降に応じ、ついに襄陽を開城して降伏した。
賈似道の専横と度宗の従属
度宗は賈似道の顔色をうかがい続け、天候の一件で癇癪を起こした賈似道に譲歩したり、女官を処罰したりするなど、朝廷は完全に賈似道の意のままとなった。李庭芝は理不尽な処遇で更迭され、陳弈のような佞臣が要職を占めた。
度宗の崩御
賈似道の母の葬儀に多大な人員動員が行われた後、まもなく度宗が崩御。四歳の子・顯が跡を継ぎ、賈似道の意向で庶兄でなく嫡子が擁立された。
評語
襄陽・樊城の陥落により長江防衛線は破られ、南宋存亡の帰趨が決した。范天順・牛富の戦死も呂文煥の降伏も、その根はすべて賈似道の失政にある。度宗は大きな失徳こそないとされるが、色に溺れ権奸に全てを委ねたことは亡国の一因であり、それ以降の幼帝の時代は論ずるまでもない。