宋史演義第九十二回 中原を図り両軍敗退す/南宋を寇し三路兵を進む (圖中原兩軍敗退 寇南宋三路進兵)
三京回復論と喬行簡の諫言
- 趙范・趙葵は蔡州陥落を機に三京回復を主張したが、多くの廷臣は反対。参政喬行簡は長文の上疏で、内治が未整備であること、民心が朝廷に離れていること、将兵・財政の準備不足を挙げ、拙速な出兵を強く諫めた。
- しかし右丞相鄭清之が趙范・趙葵の案を支持し、理宗も功名心から出兵を決断。全子才らに汴京へ向かわせた。
汴京・洛陽をめぐる攻防と敗退
- 汴京の反乱者崔立は部下の李伯淵に暗殺され、宋軍は無血で入城。趙葵は全子才を急かして潼関・洛陽への進撃を促したが、兵糧不足のまま進軍させることになった。
- 徐敏子は洛陽に入城したが食糧が尽き苦しむ中、蒙古軍の反撃を受ける。後詰の楊誼も奇襲を受けて壊走。史嵩之からの兵糧が届かず、蒙古軍の決河(黄河決壊)による水攻めもあり、宋軍は洛陽・汴京から撤退した。
- 趙范は責任を全子才や実弟趙葵に押し付ける上奏を行い批判を浴びた。趙葵・全子才は降格処分、史嵩之も辞職。蒙古は「盟約違反」を宋に厳しく問い詰め、以後淮河・長江以南は戦乱が絶えなくなった。
孟珙の防備と理宗の後宮事情
- 孟珙は襄陽都統制として鎮北軍を編成し防備を固め、理宗の信任も厚かった。理宗が講和の可否を問うと「武人ゆえ戦を語るべきで和を語るべきでない」と答えた。
- 理宗は真德秀・魏了翁を再び召し用いる。真德秀は『大学衍義』を進呈し敬を説く。この背景には理宗の立后をめぐる経緯があり、楊太后の意向で謝氏(謝深甫の姪孫女)が皇后となり、容色に勝る賈氏は貴妃に留まった逸話が語られる。
- 賈貴妃の弟賈似道は放蕩な生活を送っていたが、京尹史巌之の弁護もあり理宗の信任を得て台頭し始める。閻氏という寵妃も現れ、内侍董宋臣らと結び宮中で権勢を振るう。
真德秀・魏了翁のその後
- 真德秀は間もなく病没(諡文忠)。崔与之が召されるが固辞を貫く一方で、粤東の反乱鎮定など功績を残し、後に清献の諡を賜る。
- 魏了翁は孤立しつつも直言を続けたが、蒙古の三路侵攻(闊端が蜀、忒木䚟らが漢、温不花らが江淮)を受け、鄭清之・喬行簡の推挙で軍事の任に就く。廷臣の反対を押し切って理宗が命じ、了翁は江・淮の軍務を担う。
- しかし了翁が功を立てることを警戒した宋廷は彼を召還し実権を奪う。以後各地を転任させられ、失意のうちに病没(諡文靖)。
蒙古三路侵攻の拡大
- 了翁の死後、趙范の襄陽守備は北軍と南軍の内訌により崩壊(王旻・李伯淵の叛乱、放火・略奪)、蓄積された財貨・軍需が失われた。趙范は罷免され弟の趙葵が淮東を任される。
- 忒木䚟・温不花・闊端の三路が各地を席巻。曹友聞兄弟は戦死し、西蜀の大部分が陥落。文州では知州劉鋭が家族に自尽させたのち自らも命を絶つ壮絶な最期を遂げた。
- 理宗は詔を発して自らを罪した。孟珙らの防戦により端平四年(嘉熙元年)には蒙古軍もやや勢いが鈍る。
評語
- 三京回復の可否そのものより将相の人選が誤りであった。趙范・趙葵に大任は荷が重く、鄭清之も権相に取り入って地位を得ただけで大業を成す器ではなかった。賈・閻の寵妃を退けず、真德秀・魏了翁のような賢者を忌避したことが宋の衰運を決定づけたとする。