宋史演義第八十八回 南朝を寇し孱主軍謀を誤る/東海に拠り降盗節鉞を加う (寇南朝孱主誤軍謀 據東海降盜加節鉞)

真徳秀の対金絶交論

金の宣宗が汴京に遷都した後も歳幣の督促を続けてきたため、宋の朝廷では和戦の議論が分かれた。起居舍人の真徳秀は上疏し、蒙古が金を滅ぼした後は必ず宋にも矛先を向けるとして、今のうちに歳幣を絶ち、人材登用・軍備充実による自立を図るべきだと説いた。寧宗はこれを容れて歳幣を停止した。真徳秀はその後も対金政策について繰り返し諫言したが、寧宗は明確な態度を示さなかった。

金の南侵と趙方の防戦

金の宣宗は側近の勧めに従い宋への侵攻を決断、淮南・襄陽・四川の各方面から兵を出した。宋は趙方・李珏・董居誼らに防衛を命じた。趙方は京湖制置使として二子の范・葵を伴い襄陽に赴き、扈再興・陳祥・孟宗政らを指揮して棗陽を救援、伏兵で金軍を大破した。孟宗政は棗陽に籠城しつつ金軍の猛攻を凌ぎ抜き、金の完顔賛不の大軍を三月にわたり撃退し続けた。四川方面でも王逸・呉政らが金軍を撃退し、蒙古の攻勢と併せて金軍は次第に劣勢となった。寧宗は詔を下し全軍に金討伐を命じた。

四川の内乱平定

四川では制置使の交代や指揮の混乱に乗じて興元の兵、張福・莫簡らが紅巾を掲げて反乱を起こした。宋廷は安丙を興元府知事に再任し、丙は諸軍を集めて反乱軍を茗山に包囲、投降した張福を斬り、莫簡ら千三百余人を誅殺して乱を平定した。

淮西の攻防と李全の台頭

金の太子守緒らが再び南侵し棗陽を包囲すると、趙方は二子と扈再興・許国を派遣して唐州・鄧州を攻めさせ、金軍を撤退させた。淮西方面では金軍が安豊軍・滁州・濠州などを攻めたが、淮東提刑の賈涉が李全兄弟らの忠義軍(山東からの降盗)を各地に配し、李全は金将紇石烈牙吾答らを破って金牌を得た。李全はこの功に乗じて駙馬阿海を討ったと偽り、賈涉の口添えで広州観察使に任じられた(実際には阿海は存命していた)。

棗陽では孟宗政が八十余日にわたり金軍を防ぎ続け、趙范・趙葵・扈再興の援軍到着後に大勝し、金の完顔訛可を敗走させた。以後、金は襄陽・棗陽方面への侵攻を諦めた。趙方はさらに先制攻撃を仕掛けて金の守備を崩し、各地で金軍を圧倒した。

賈涉の失策と李全の増長

功を上げた李全は次第に驕り高ぶり、忠義軍の副将季先を妬んで讒言により謀殺させた。この不正に部下たちが反発し、旧党の石珪を新たな統帥に擁立する事態となったが、賈涉は懐柔策で石珪を漣水忠義軍統轄に任じた。李全はさらに石珪を除こうと画策し、金の降将張林らを取り込んで諸郡を宋に帰順させる功を挙げ、宋朝から保寧節度使・京東河北鎮撫副使に任じられた。賈涉は李全の増長を憂慮しつつも制御できず、丞相史彌遠が独断で節鉞を授けたことに落胆、憂憤のうちに病没した。

趙方・安丙の死と金の衰退

京湖制置使趙方、四川宣撫使安丙が相次いで没した。趙方は十年にわたり襄漢を守り抜いた名将として、また安丙は蜀を鎮めた功臣として、それぞれ手厚く追贈された。金は再び宋への侵攻を試みたが、時全の失策で淮水渡河中に宋軍の奇襲を受け大敗、金主は時全を罰して以後の南侵を断念した。

蒙古の木華黎は太行山南麓から河東・河北へと進撃を続け、金の諸将は次々と降伏・敗走した。金は高琪・穆延盡忠らを誅して人心を得ようとしたが時すでに遅く、宣宗は心労のうちに嘉定十六年臘月に崩じた。在位十一年、絶えず戦乱に見舞われ続けた治世であった。

宣宗の後は太子守緒(哀宗)が即位し、故主を宣宗と追尊した。翌年秋には宋の寧宗も崩じ、後継問題が新たな政変を招くことになる。

評語

金の宣宗の時代は蒙古が勃興し南下を図る時期であり、本来なら宋と和し蒙古に備えるべきであった。しかし高琪・王世安の讒言を容れて宋を攻めたのは、前門の羊を求めて後門の虎を招き入れるようなものであった。この局面で金が盟約を破り宋が北伐したのは、道理は宋にあり曲は金にあった。ただ淮西の降盗の統御においては、賈涉が季先を用いては李全を招き、後に李全を信じて季先を殺すという二重の失策を犯し、降盗の離反と奸謀の増長を招いた。李全に節鉞を与えたことを史彌遠のせいにしたが、彌遠の誤りは明らかとしても、その禍の種を蒔いたのは他ならぬ賈涉自身であった。