宋史演義第七十五回 偽詔を伝え連ねて班師を促す/毒謀を設け冤獄を構成す (傳偽詔連促班師  設毒謀構成冤獄)

兀朮の潰走と岳家軍の北進

兀朮は汴京へ敗走したが、諸将は戦意を失い援兵も集まらない。中原一帯の民や金側の将兵までが岳飛軍に呼応し、降伏を望む者が相次いだ。兀朮は逃亡を図ろうとしたが、名も伝わらない一書生に「権臣が内にいる限り外の大将は功を成せない」と諫められ、思いとどまって汴京にとどまった。

十二道の金牌

岳飛は黄龍府まで攻め入る意気込みだったが、秦檜が和議を進めるため撤兵を促す使者を送る。岳飛は「恢復あと一歩」と抗弁する上奏をしたが、秦檜は張俊・楊沂中を先に呼び戻させたうえ、高宗に「岳飛の孤軍を長く留めるべきでない」と説き、一日で十二道もの金牌(緊急命令の牌)を発して撤退を強制した。岳飛は嘆きながら従い、慕って付き従おうとする百姓のため五日間留まってから南下、漢上の田地を民に与えるよう願い出た。

淮西の戦いと論功行賞

兀朮は岳飛の撤兵に乗じて再び南進し、慶陽・寿春などを奪う。張俊・楊沂中・岳飛・韓世忠・劉錡がそれぞれ出撃し、王徳・楊沂中・劉錡らが柘皋で兀朮の騎兵を長柄斧の陣で打ち破る(拐子馬対策)などして金軍を撃退した。しかし秦檜は勝報を口実に韓世忠・張俊・岳飛を朝廷に呼び戻し、名目上は昇進(枢密使・副使)させつつ実際には兵権を奪った。

張俊の讒言と岳飛孤立

岳飛は最年少で功も抜群だったため諸将に妬まれ、特に張俊が淮西の戦での緩慢を誣告するなど敵意を強めた。韓世忠の部下が謀反を疑われた一件でも岳飛が救いの手紙を送ったため、秦檜はますます岳飛を憎むようになる。さらに兀朮が秘かに秦檜へ「岳飛を殺さねば和議はならぬ」と書き送ったとされ、秦檜は言官に命じて岳飛を弾劾させ、ついに岳飛は枢密副使を罷免された。

張憲への拷問と偽りの自白強要

秦檜は張俊と謀り、岳飛の部下に密告させようとしたが誰も応じない。そこで王貴を脅して協力させ、姦悪な部将王俊にも偽りの告発状を書かせ、「張憲が襄陽に拠って岳飛に兵権を戻そうと謀った」とする筋書きを仕立てた。張俊は張憲を捕らえて拷問し、繰り返し杖刑を加えたが自白は得られなかった。

岳飛父子の下獄と「莫須有」

秦檜は偽の詔と称して岳飛父子を逮捕させる。取調べにあたった何鋳・周三畏は岳飛の背に刻まれた「盡忠報國」の刺青を見て心を動かされたが、秦檜は「これは上意」と押し通した。その後は万俟卨が担当し、拷問を重ねても岳飛は罪を認めず、証拠となる書簡も存在しなかったため秦檜側は御札などを隠匿し、証言をでっち上げて事件を成立させた。多くの忠臣が岳飛の無実を訴えたが、韓世忠が秦檜に罪状を問い質すと、秦檜は「はっきりした証拠はないが、多分あったのだろう(莫須有)」と答えるのみであった。世忠は「その三字でどうして天下を服せられよう」と怒ったが、秦檜は取り合わなかった。世忠は妻梁氏の勧めもあり、以後は兵を退いて隠棲した。

岳飛の死と遺族の運命

紹興十一年末、秦檜は妻王氏の勧めに従い、岳飛の処断を密かに獄吏に命じた。岳飛は三十九歳で獄中に果て、岳雲・張憲も同時に処刑された。獄卒の隗順が遺骸を密かに葬った。岳飛は清廉で私財を持たず、賞は将士に譲り、軍紀は厳格ながら情に厚く、「撼山易、撼岳家軍難」と敵にまで畏れられた将であった。子の岳雲も若くして刑死し、娘の一人は父の冤罪を悲しんで井戸に身を投げた。秦檜は家財を没収させたが多くを得られなかった。後に孝宗の代になって名誉を回復し、改葬された。

評語

岳飛が撤兵に応じたのはやむを得ぬ判断であり、責められるべきではない。ただ秦檜の専横を知りながら、韓世忠のように早く身を引かなかった点は惜しまれる。忠義に厚いが智謀に欠けたところがあり、そのために非業の死を遂げたのは残念である。一方、高宗が岳飛の無実を知りながら秦檜ら奸臣を罰しなかったことこそ、君主として不明であったと言うべきである。