宋史演義第七十三回 藩封を撤し偽主縶を被る/和議を拒み忠諫名を留む (撤藩封偽主被縶  拒和議忠諫留名)

張浚の失脚と趙鼎の再任

張浚は酈瓊の叛乱を自らの咎として辞職を願い出た。高宗が後任に秦檜を問うと、張浚は「秦檜は実は闇愚である」と評し、趙鼎の再任を勧めた。趙鼎は尚書左僕射・兼枢密使に、張浚は観文殿学士に落とされ都督府も廃止された。秦檜は入相を阻まれたことを恨み、言官を使嗾して張浚を弾劾させ、高宗も動かされて張浚を嶺南へ流そうとしたが、趙鼎が「浚の罪は失策に過ぎず、これを死地に落とせば誰も献策しなくなる」と弁護し、張浚は秘書少監・分司西京・永州居住に減じられた。

岳飛の反間の計と劉豫の廃立

張浚失脚後、高宗は岳飛を呼び戻し江州駐屯・淮浙の援軍とした。岳飛は反間の計を用い金に劉豫を廃させようと画策する。金では粘沒喝(沒黏喝)が高慶裔の讒言で蒲盧虎排斥を図ったが実行できず、逆に高慶裔が贓罪で処刑され、粘沒喝も絶食して死んだ。劉豫は外援を失い、藕塘の敗北もあって金からも疎まれ始めていた。岳飛は捕らえた金の間者を偽って齊の使者に仕立て、「劉豫が金の四太子(兀朮)暗殺を約したのにまだ実行していない」との偽の書状を持たせて劉豫のもとへ帰した。金はこれを信じ、劉麟を捕らえ、兀朮が汴京に入って劉豫を捕縛・幽閉し、偽斉を廃して行台尚書省を置いた。劉豫は撻懶に助命を乞うたが冷たく拒まれ、一族は臨潢へ移された。

高宗の和議傾斜と秦檜の台頭

岳飛は韓世忠と共に北伐を上奏したが、高宗はすでに秦檜に籠絡され和議に傾いていた。王倫が金から帰り、梓宮・韋太后の返還と河南の帰還を金が許すと伝えると、高宗は大いに喜び、還都臨安を決めた。張守は建康にとどまるよう諫めたが聞き入れられなかった。趙鼎も秦檜に籠絡され彼を右相に推挙、秦檜は尚書右僕射・兼枢密院使となった。晏敦復は「奸人が入相しては回復の望みはない」と危惧した。秦檜は魏矼を退け吳表臣に金使の接待をさせ、金使は高宗に河南・陝西の返還を伝え、高宗は大いに喜んだ。

和議への反対論と胡銓の上疏

趙鼎は和議は梓宮・母后のためやむを得ぬものと弁明しつつ内心は反対で、参知政事劉大中も同意見であったが、秦檜は蕭振に大中を弾劾させて失脚させ、さらに趙鼎自身も勾濤の讒言で辞職に追い込まれ、紹興知事に転出した。秦檜は高宗と単独で会談を重ね、和議の決定を得た。勾龍如淵の献策で反対派の言官を排除し、孫近を参知政事に据えて意のままにした。金は張通古・蕭哲を招諭使として派遣、国書の受け取り方式(客礼扱い・冊封の語)をめぐり紛糾したが、秦檜は喪に服す形をとって自ら国書を受け取る策で押し切った。曾開は答書の起草を拒み辞職、多数の官僚が連名で和議反対を上奏した。特に胡銓は王倫・秦檜・孫近の斬首を求める激烈な上疏を行い、名文として評判となり金人まで千金でその写しを求めたという。しかし胡銓は秦檜の怒りを買い除名・編管とされ、関係者も処分された。李綱・張浚も和議反対を上奏したが取り上げられず、岳飛も「金は信頼できず、和議は頼みにならない」と上奏し秦檜と決定的に対立した。

和議の成立とその後

紹興九年正月、和議が成立し大赦の詔が布告された。岳飛はなお強く諫めたが聞き入れられず、秦檜との対立は深まった。高宗は岳飛を開府儀同三司に進めた。河南帰還を機に謁陵使が派遣され、士褒・張燾らが陵墓を巡拝、哲宗陵の荒廃を目にした張燾は「和議に頼って国の恥を忘れてはならない」と諫めたが高宗は黙するのみだった。この頃、吳玠が蜀で、李綱が福州で相次いで没した。金はなお要求を強め、王倫を再度派遣したが、王倫はやがて金に捕らえられてしまう。

評語

金が劉豫を立てたのは劉豫への愛情ゆえではなく、南宋を牽制する道具として利用したに過ぎない。劉豫の侵攻がことごとく敗れたため金もこれを見限り廃立に至った。もし岳飛・韓世忠の策を用いて中原へ攻め入り汴京を回復していれば、それは決して難事ではなかったはずである。高宗は忠言を信じず秦檜に従い、金の使者に対してさえ拝礼をいとわぬほどであった。朝廷を挙げて和議への反対で一致する中、秦檜だけが高宗に屈従を勧めた様は、まさに堪えがたきを堪えぬ所業である。胡銓の一疏は奸賊の肝を寒からしめるものであり、聞き入れられず左遷されはしたが、その正気は天地に明らかである。南宋がすぐには滅びなかったのは、この人物とこの上疏があったからにほかならない。読む者はこれによって怯懦を奮い起こし、頑迷を戒めるべきである。